韓流時代小説　月の姫【前編】～王を導く娘～

　（第五話）

　　本作は、「復讐から始まる恋は哀しく」の姉妹編。

前作で淑媛ユン氏を一途に慕った幼い王子燕海君が見目麗しい美青年に成長して再登場します。
今回は、この燕海君が主人公です。

廃妃ユン氏の悲劇から14年後、新たな復讐劇の幕が上がるー。
哀しみの王宮に、再び血の嵐が吹き荒れるのか？

 

　登場人物　崔明華（貞哲王后）

　　　　　　　　（恒娥）チェ・ミョンファ。またの名をハンア。町の観相師、18歳。あらゆる相談に乗る

　　　　　　　　　が恋愛相談だけは大の苦手なので、断っている。理由は、まだ自分自身が恋をしたことも

　　　　　　　　　なく、奥手だから。

 

　　　　　　　　燕海君　　24歳の国王。後宮女官たちの憧れの的だが、既に16人もの妃がいる。

　　　　　　　　前王成祖の甥（異母妹の息子）。廃妃ユン氏（ユン・ソファ）を幼時から一途に慕い、大王大　　　　　　

　　　　　　　　妃（前作では大妃）を憎んでいる。臣下たちからは「女好きの馬鹿王」とひそかに呼ばれる。　　　　

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　☆本作には観相が登場しますが、すべてはフィクションであり、観相学とは関係のないものです。本当の観相学とはすべて無関係ですので、ご理解お願いします。

　大王大妃が笑いながら言う。
「その眼だ。そなたの眼、迷いながらも結局は、己の思うがままの道を突き進んでゆく意思の強い眼は、亡くなられたソジン世子さまの妃として入内したばかり頃の自分を思い出すのだ」
　大王大妃が遠い瞳になった。
「当たり前だが、私も元から年寄りであったわけではない。初めて王宮に上がった砌は十四歳、今のそなたよりも更に幼かった。考えてもみるが良い、十四の西も東も判らぬ小娘が生き馬の目を抜く後宮にいきなり放り込まれたのだ、幾ら実家の威勢があるからとはいえ、語るに耐えぬ辛き想いもした。そんな中で、無知な小娘が生き抜くには、非情になるしかなかった」
　だがな、と大王大妃は首を振った。
「最初から私も平然と誰にでも刃を振り下ろしていたわけではない。自らが振り下ろした刃の先で迸る血飛沫から眼を背け、それでも刃を振るい続けた。誰かの血で我が手が染まる度に、自分が身体の芯まで毒々しい血の色に汚れる気がした。心の中でもう一人の自分が言うのだ」
ー本当にこれで良いのか？　罪なき者を犠牲にしてまで権力を得たいのか？
「それでも、私は止めなかった。止まれば、今度は自分が誰かの刃の錆びになると判っていたからだ。やらなければ、やられる。それが後宮という場所だからな。刃をふるい続ける中に、いつしかもう一人の自分の声も聞こえなくなった」
　大王大妃がひっそりと笑う。
「気がつけば、もう取り返しがつかなくなっていた。人を殺すことを躊躇っていた十四歳のときに立っていた場所から、あまりにも遠くに自分はいた」
　唐突に大王大妃が言った。
「私は息子を殺してはおらぬ」
　明華はハッと大王大妃を見た。大王大妃はゆったりとした笑みを浮かべている。
「流石の私も我が腹を痛めし息子を手に掛けることだけはしておらぬ。朝廷では、いまだに私が前王を殺害したと本気で信じている臣下どもも多いようだ。彼らの期待を裏切って申し訳ないが、誓って手を下してはいない」
　明華は声が上ずらないように努め、問うた。
「それでは、何ゆえ、前王さまは」
　今、十四年前の真実が白日の下に晒されようとしている。
　大王大妃が手を下していないというなら、一体、成祖は何故、死んだのか？　公表されている通り、持病の悪化で亡くなったのか。
「真相を知りたいか？」
　問われ、明華は頷いた。
　大王大妃ははるかなまなざしのまま、呟くように言った。
「前王は自害されたのだ」
　その視線は明華の背後を見つめているけれど、実際には何も映ってはいないだろう。いや、この瞬間、彼女は在りし日の息子を見ているのかもしれない。
「ーっ」
　明華は愕きのあまり、呼吸が止まりそうになった。よもや成祖が自ら生命を絶っていたとは！
　そういえばと改めて思い出す。大王大妃との初対面は三年前だった。あのときはまだ、大王大妃は権力の権化のような怖ろしい女だったが、どういうわけか、明華は大王大妃に気に入られた。
　気を許したせいか、大王大妃はこれまで自分が手に掛けた者たちの名をペラペラと喋ったのだ。むろん、その筆頭は息子の心を奪った憎き淑媛ユン氏（廃妃ユン氏）であった。しかし、犠牲者となった大勢の者たちの中に、確かに大妃が殺害したと噂される息子成祖の名はなかったのだ。
　あのときも、明華は意外に思ったものだ。
　愕きを隠せず言う。
「先王殿下はご自害されたーと？」
　大王大妃が頷いた。
「ああ、ある日、息子は自分の胸を刃で貫いて死んでいた。内官が気づいたときにはもう手遅れだった。私が駆けつけたときにはもう事切れておっての。親不孝な子だ。母親に看取らせもしないで、たった一人で逝ってしまった」
　大王大妃の声が震えた。
「さりながら、 それが私に与えられた罰なのだ。我が権力を握るために、私は息子を傀儡にした。あの子は私に頼み事などしたことがなかった。短い生涯でただの一度きり息子が懇願した廃妃の助命さえ、私は切り捨てたのだからな」
　過ぎし日、成祖は涙ながらに大王大妃に頼んだという。
ーこれよりは後、けして母上には逆らいませんから、どうか淑媛の生命だけは助けて下さい。
　と。
「廃妃を処刑してから、あの子の心は壊れていった。元々、脆い傷つきやすい子だとは知っていたのに、私は手をこまねいて見ていたのだ。気がつけば、息子は愛する女を失った絶望と孤独の底で追い詰められ、行き場を失って生命を絶っていたというわけだ」
　大王大妃は自らのほっそりとした手をひろげ、まじまじと見た。
「ついには、私は我が子の血でこの手を濡らしていた。たった一人の子の死に目にさえ会えなかったのも、まさしく天罰であろうよ」
　あまりに壮絶であり、哀しい顛末だ。明華はやっとの想いで言う。
「自害あそばされたなら、大王大妃さまのせいではありません」
「直接手を下してはおらぬが、この手で我が息子を殺したのも同然ではないか」
　明華は頬をつたい落ちる涙をそっと手のひらで拭った。今の大王大妃が以前とはまるで別人のように穏やかで善良になったせいか、余計に大王大妃本人から語られた壮絶な過去には胸をつかれた。
　それから、大王大妃は前王が亡くなった前後について、訥々と語った。明華はただ黙って話に耳を傾ける。
　大王大妃の声がしんみりと響いた。
「そなたは、この年寄りの罪の告白に泣いてくれるのか」
「傷つかれたのは先王さまだけではないと思います」
　確かに大王大妃が重ねてきた所業は、許されるものではなかった。廃妃ユン氏を初め、彼女の権力欲の犠牲になった罪無き人々からすれば堪ったものではなかろう。
　けれども、とどのつまり、彼女は最後の最後で、大切な息子を失った。しかも、息子は母に対抗するかのように自ら生命を絶ったのだ。遺書などは一切なかったというから、真実は判らない。成祖が大王大妃に見せつけようとして自害したのかは謎だ。