ことばとからだのつながりについて
つい先日のことですが。
今年の夏、渋谷に新しくできたライブハウス、shibuya SANKAKUさんで行われたトーク&ライブイベント「小林拓馬 Vision-Box」に、トークゲストとして呼んでいただき。
15分くらい、テレビ番組のようなひな壇トークを楽しむ機会がありました。
わたしの書籍でもご紹介している、ミュージシャンでありイベントプロデューサーの田畑さんのお誘いです。いつもありがとうございます!
わたしの他には3人のミュージシャンゲストがいて、全員最初から最後までひな壇に座っています。
それぞれ小林さんとトークをしてから2~3曲、オリジナルの歌を歌っていくわけですね。
わたしはその気持ちのいい曲をミュージシャンの背中越し(みんなひな壇にいる状態で歌うので)に聴きながら、さてこの流れでどんなことを話そうか?と考えていました。
ふと、会場に来ていた人やそれぞれ違った音楽を紡ぐミュージシャンの方々を眺めたとき、まず1つ、「それぞれの感覚の違い」については話そう、と思いました。
聴こえることばと、理解することば
たとえば3人のミュージシャン「Aさん・Bさん・Cさん」の演奏は、「旋律や演奏の速さ」などが違う、ということはすぐに分かるわけです。
それで、その「旋律や演奏」の好き嫌いによって、曲やアーティストの好き嫌いが決まる、と。
私はずっと、なんとなくそう思っていました。
でもここ数年、このブログにも書いたような「相手の特性を事前に頭の中で想像したうえでコミュニケーションを設計する」ことを要所要所でやってきてから、それ以外にも要素があるかもなーと感じるようになったんです。
それは、
そもそもその音楽が「どう聴こえているか」自体、人によって違うんだろうな、ということ。
このときの「どう聴こえているか」は、その音楽を聴いたときに心が動くかどうか、まで含めて使っています。
たとえばある歌が流れてきたとき、音程と一緒に歌詞の内容がスッと頭に入る人とそうでない人(たとえばわたし。歌を聴いていてもよほど注意を働かせないと、歌詞は聴こえていても内容が取れません)では、同時に処理する情報量も質も違ってきます。
そうすると自然、その音楽に心が動くかどうかも違ってくるはずです。
わたしは音楽論にはまったく触れたことがないので、このあたりのことは何か理論になっているのかも分かりませんが、おそらくはそういうこともあるだろう、と思うわけです。
だからファン同士ケンカをすることはないし、それぞれの聴こえ方をただ尊重すればいいよね、と。
そんなことを話せば、まあ場はつながるだろうなぁ、となんとなく考えていました。
ふぅ、とりあえずこれで話すネタが決まったので一安心!
そしてまたボーっとライブを聴いている中で。
もう一つのテーマ、そしてこれはわたしの中で、ずっと向かい合うことを先延ばしにしているテーマが、ぼんやりと浮かび上がってくる上がってきてしまいました。
そういえば、こっちのテーマはこのところ急に、わたしの意識の中に浮かび上がることが多かったです。
たとえば先日、テレビで「千と千尋の神隠し」の主題歌「いつも何度でも」を木村弓さんが歌っているところが偶然録画されていたことがありました。
もちろん、この曲がとても素晴らしいということは分かっていました。
ただこのとき初めて、歌詞を字幕で読みながら聴いたんですね。
そうするとわたしの場合、ただ聞き流しているときよりも歌詞の「意味」が入ってきて、ものすごく鳥肌が立ちました。
(音楽を聴いて鳥肌が立つ人と立たない人がいる、という研究とどう関係があるか具体的には分かりませんが)
(またそもそも、自分がある歌を聴いて鳥肌が立っている、ということ自体に「気がつける」ようになったのも最近ですが)
「この曲の歌詞って、こんなに自分に影響を持てる力があるのか」
とても不思議でした。
同じ曲を聴いているのに、なぜこの歌詞の意味が入ってきたときは、からだの反応が違うんだろう?
こんなに人に影響を持てるような詩が書ける人は、どんな感性の持ち主なんだろう?
その数日後には、この歌詞を書いた覚和歌子さんの詩集「ゼロになるからだ」を手にしていました。
はじめて買う詩集です。
「感じる」ことばのメカニズム
…実はまだしっかり読み込めていないんですが。
人を感動させる詩のようなものを表現できる、つまり自分の感情をことばに乗せることができるという能力は、どうすれば発達するのか?
「ことば」の本質はどういうことで、どうすれば使い方が上達するのか?
そもそも「ことば」の使い方が「上達する」、ということは何を指すのか?
こうした「ことば」の秘密について。
言語の先行研究は膨大な量になって奥が深いのであえて避けてきたんですが、そろそろ、少しずつ向き合わないといけない時期なのかもしれません。
ちなみにASDのある人の社会的な適応力は、言語力と有意に関連があるという研究もあります。
わたしは概念の操作力、つまり目に見えない状況の想像力が言語力に依存するから、とだけ思っていましたが、言語力が実行機能系の各能力にも影響していそうなことを踏まえると、どうもそう単純ではなさそうです。
(論文名などは、このブログのトップページにリンクしているわたしの論文を参照ください)
有名な心理学者 ヴィゴツキーは、著書の「思考と言語」の中で、記憶や概念、思考などの高次精神活動は言語や記号によって支えられている、と言っているそうです。
ある文章を読んで、単語や文の意味が理解できる。
もちろんこうしたメカニズムの研究や理解も重要です。
でも、もっと奥深いところの。
ことばとからだは脳の中でどのようにつながっているのか、というあたりの理解も含めて、これから学びを進めていきたいと思います。
そうですね、たとえばまずはこのあたりの本から。
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