たましいが恵まれ、健康でありますように!
Ⅲヨハネ2節
説教者:清水 吉雄牧師
聖書が語る本物のキリスト教信仰には二つの要素があります。
一つ目は、みことばです。
「この律法の書を、あなたの口から離さず、昼も夜もそれ口ずさまなければならない。そのうちにしるされているすべてのことを守り行うためである。そうすれば、あなたのすることで繁栄し、また栄えることができるからである。(ヨシュア1:8)」
このみことばからもわかるように、信仰は自分の好みや考えによるのではなく、みことばの基礎の上にあるものです。昼も夜も口ずさみ、みことばに忠実に従うことに祝福と繁栄が約束されています。
二つ目は、聖霊による新生です。
「イエスは答えて言われた。『まことに、まことに、あなたに告げます。人は新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。』(ヨハネ3:3)」
「だれでも、キリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。(Ⅱコリント5:17)」
「私はキリストともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。(ガラテヤ2:20)」
これらのみことばからもわかるように、救いは聖霊による新生であり、新生とは価値観の転換です。自分の好みや考えなどといった古い肉の自分に引きずられていないでしょうか。
「愛する者よ。あなたが、たましいに幸いを得ているように、すべての点でも幸いを得、また健康であるように祈ります。(Ⅲヨハネ2節)」
私たちはみことばによってたましいが祝され、経済面、人間関係、健康などあらゆる点で幸いを得ることができます。この幸いは人間のちからでは到底得ることができないものです。
謙遜と祝福
箴言27:2
この律法の書を、あなたの口から離さず、昼も夜もそれを口ずさまなければならない。そのうちにしるされているすべてのことを守り行うためである。そうすれば、あなたのすることで繁栄し、また栄えることができるからである。(ヨシュア記1:8)
あなたがたは、この契約のことばを守り、行いなさい。あなたがたのすることがみな、栄えるためである。(申命記29:9)
忠実にみことばを守り行う信仰生活には祝福が約束されています。
自分の口でではなく、ほかの者にあなたをほめさせよ。自分のくちびるではなく、よそのひとによって。(箴言27:2)
自分を守るために、自分で自分を評価することは肉の原則に基づくものです。自分の思いを第一とする“高慢”を聖書は罪であるとしています。自分の思いよりも主のみおしえを第一とする“謙遜”は、みことばを忠実に守り行うことに繋がり、最終的に神様からの祝福に繋がります。
謙遜とは自己卑下ではなく、神様の御前に、自分のすべてをさらけ出して、へりくだることです。天地を創造されたすべてに優る神様を、自分より優れた方として認めることです。
人間は神様のご計画の全貌を理解することはできません。それでも私たちが神様のみことばに聞き従い精一杯仕えること、と同時に神様に信頼し委ねることを望んでおられます。信仰生活は決して怠惰であってはいけません。
神様の御前にへりくだり、神様のみことばに忠実に歩んでまいりましょう!
信仰と家族
申命記24:5
人が新妻をめとったときは、その者をいくさに出してはならない。これに何の義務をも負わせてはならない。彼は一年の間、自分の家のために自由に身になって、めとった妻を喜ばせなければならない。(申命記24:5)
申命記は、出エジプト後に世代が代わったイスラエルの民に、モーセを通して再度語られたみことばです。申命記4:5のみことばから、これから入るカナンの地において「神に民としてふさわしく生きる」ことについて語られていることがわかります。
神様は、荒野では雲の柱・火の柱におられ、毎日マナを降らせ、イスラエルの民の目に見えるかたちでともにおられました。しかしカナンに入るとそれらはなくなりました。目に見えなくなった神様が、確かにともにおられることを信じて生きることを要求されたのです。
また先住民がいるカナンに入ったことで、敵と戦う必要が生じました。カナン人に対してイスラエル人は、兵の数においても、武器の性能においても、経験においても劣っていました。勝敗は神様の御手にあり、神様に拠り頼むことが唯一の武器であったと言えます。
「いくさに出さないように」とは兵の数に信頼を置く必要はなく、家系が途絶えないようにされた神様の配慮です。「義務を負わせてはならない」とは生活に必要な労働を除き、社会的な責任を負わせるなという意味です。神様は各家庭を顧みて、社会システムを構築されました。
「妻を喜ばせなければならない」とは、妻が神様と深く交わることを喜びとするように夫は手助けをしなくてはならないという意味です。神様は家庭で信仰が受け継がれ、家族的な交わりの中で神様との交わりが深められることを願っておられます。
聖書のみことばは、信仰によってそれを「行う」時に、いのちの源として私たちの益となります。自分の家族が神様とより深く交わることができるために、何ができるのかを考え取り組んでまいりましょう。
御霊による自由
Ⅱコリント3:17
当時のコリントは、経済的に繁栄していたものの、道徳観は廃れ、堕落した都市として有名でした。そのような堕落した人々にも神様はみことばを与えられます。みことばに感動しクリスチャンとなったコリントの人々でしたが、堕落した環境と、昔の生き方が足を引っ張り、無数にある律法を守り行うことができず、挫折を繰り返す中で徐々に神様から離れていきました。
そのようなコリント人へ、パウロは手紙を通して「クリスチャンとしての歩み」、「神様中心の生活」について告げています。
罪に定める務めに栄光があるなら、義とする務めには、なおさら、栄光があふれるのです。(Ⅱコリント3:9)
罪に定める務めとは、「律法」を表しています。律法は神様のみこころを教える教師としての役割がありますが、すべての人は律法によって罪あるものとされます。しかしイエス・キリストの十字架の贖いにより、私たちはイエス様を信じることで、義(=正しい)とされました。
主は御霊です。そして、主の御霊のあるとこには自由があります。(Ⅱコリント3:17)
聖書が教える「自由」とは、「思い通りにすること」ではなく、「罪とその先にある死からの自由」を意味します。キリストを信じる信仰によって義とされた私たちは、キリストに目を向け、キリストのうちにいる時、はじめて自由になるのです。
神様が義としてくださるにもかかわらず、自分を罪に定めようとする、他人の、あるいは自らの評価や、批判の声が心を支配してはいないでしょうか。主の御霊による自由とはその思いから守られることです。
今月も、主の御声に耳を傾け、喜んで仕えて参りましょう。