OH江戸ライフ

パクス・トクガワーナ♪
とりあえず江戸時代っぽいものが好きなのです♡

前島密って、そんなにエライ人か? ②

2021-12-16 | 人物
つねにグータラうだうだしているゴマちゃんですが、さすがに最近はちょっとあせりが……。

なにしろ、あんな話やら、こんな話題やら、「つづく」と言いながら中途半端に投げ出しているネタのなんと多いことか 



そんなこんなで、できるだけ片づけておこう企画第一弾は、

もうすっかり忘れられているかもだけど、『日本郵便からクレームきても負けへんで! ヒソカちゃんに断固ダメ出しするぞ!!』 をお送りしたいとぞんじます。

(……やばい、は3年以上前だー 


てなことで、今日の脳内BGMは、まったくゼロのやる気を喚起するために、これにしてみました

ではでは、読者のみなさまには、とりあえず日本郵政がアップしている前島密年譜を開いていただきたいと存じます。


で、日本郵政版前島年譜で目につくのは、無節操なほどいろいろな分野に手を出してる、っちゅーところです。

まず、前島は生後まもなく父を亡くし、母とともに家を出て、母方叔父・相沢文仲(糸魚川藩医)に養われます。
医師の家で育ったことから医学を学びはじめ、他の糸魚川藩士からも医学の古典(って、なに? 中国の医書とか?)や、武士としての基礎教養(茶・書・儒教など)を学んだりします。

12歳になった前島は、オランダ医学(蘭方)を学ぶため江戸に出、一関藩儒都沢徹の塾生になった後、医師・上坂良庵の学僕(師の家等に住み込み、雑用を勤める傍ら学問をする)になります。

さらに翌年には、幕医・長尾全庵の食客になったりと、師または知り合いの家に転がり込み、「食住」面で他人の世話になりながら学問をするのが前島流のようです。

で、ここで注目してほしいのは、安政2年(1855)20歳 ―― 「旗本・設楽弾正の屋敷に移り、設楽の兄岩瀬忠震に接し英語を学ぶ必要性を感じる」 ―― のくだり。

この設楽家は外国奉行・岩瀬忠震の実家で、屋敷は芝・愛宕下西久保(現在の麻布台1丁目7番)にありました。

年譜には、「設楽の兄・岩瀬忠震」と書いてありますが、実際は、忠震は当主・設楽弾正貞晋の叔父にあたります。

これは、実父・温之助が領知関係のトラブルで廃嫡となり、書類上、貞晋は祖父・設楽貞丈の子として届けられたため、他家に養子に出た叔父の岩瀬忠震が兄ということになっているからです。

さて、前島が、設楽家に寄寓したいきさつについては、ヤツの自叙伝に記載があって、

「たまたま、友人・西村某等の紹介斡旋によりて、旗本の士・設楽弾正氏に寓するを得たり。
これ氏は、林大学頭の親戚なれば、同氏の蔵書を借覧するの弁あり。
しかも、幕末の三傑たる岩瀬肥後守を兄とする縁故あれば、この人に接して、教えを受くる利益も有るべしと思惟したる由

しかして、氏に接する僅に二回に過ぎざるも、氏は余に教えていわく、
『およそ国家の志士たる者は、英国の言語を学ばざるべからず。
英語は米国の国語となれるのみならず、広く亜細亜の要地に通用せり。
かつ、英国はもちろん、海軍も盛大にして、文武百芸諸国に冠したり。
和蘭のごときは、萎靡不振。学ぶに足るものなし』と。
余は、その教示によりて、将来の方針を変じ、専ら英語を学ばんと決心せり」


やけに計算高くて、すんごくイヤ~な感じではありませんか!

居候させてもらっている設楽弾正さんに対する感謝の言葉は一切なく、

「こいつは、昌平坂学問所学頭・林大学頭の親戚だから(弾正の祖母は林述斎の娘)、林家の持っている本を借りやすいし、(当時、海防掛目付として、将来を嘱望されていた)岩瀬忠震の弟だからいろいろ教えてもらえる。使える」と、なんの屈託もなく語っています。
 
この数行に、ヤツの卑しい人間性が見え隠れしているのは明白。
「ビンボーだが才ある自分は、他家にパラサイトすることは当然の権利(?)で、とくに感謝するほどのことではない」?
……絶対に友だちになりたくないタイプです 

ちなみに、設楽弾正貞晋は、前島の6歳下で、数え年4つの時に家督を継ぎ、嘉永6年、二十歳の時に、あの難関の学問吟味乙科に合格した秀才です。
決して前島に侮られるような人物ではございませんっ!


そして、次に着目すべきは、慶応2年の「漢字御廃止之儀」を将軍慶喜に提出、という項。
(慶喜の将軍襲職は、同年12/5なのだが……これは、正しい情報なのだろうか?)

この建白については否定的見解もあり、その説によると、前島と同郷の後進でかな文字論者である小西信八が、国字改良論最先覚者として前島を持ち上げるため、時期を偽った可能性があるとか。(真偽未検証)


で、その『漢字御廃止之儀』にいわく、

・国家発展の基礎は教育。国民教育の普及のためには、学習上困難な漢字・漢文を廃止して、かな文字を用い、最終的には公私文章に及ぼすべきこと、口談と筆記を一致させること(口語体の採用、言文一致)などにつき、漢字使用の弊害をあげつらいながら力説。

・米人宣教師C・ウィリアムズからの伝聞を引用し、
「清の国力が衰退しているのは、難解な漢字を使っているからだ。日本においても、国力がふるわず、なおまた日本人の知識が劣っているのは、仮名がありながら、衰退している清と同じ難解な漢字を使用していることに原因がある」と主張。

いうまでもなく、当時の日本は世界一の識字率を誇る文明国で、武士階級は100%、庶民でも、全国平均60%以上、江戸ではおそらく80%以上、地方でも半数ほどの人が読み書きができたといわれています。

また、就学率を見てみると、江戸後期、江戸の就学率は70~86%ほどであったといわれているのに対し、同時代のイギリスでは、大都市でも25%以下、下層階級などはほとんど字が読めなかったようで、1794年に初等教育無料化が実施されたフランスでさえ、10代の就学率は1.4%ほどで当然識字率も、わが国に比べ格段に低かったのです。

こうした事実から、前島の主張はその前提条件自体がまちがっており、いろいろな学問をかじった自負心からか、庶民を見下すような傲慢さ、近視眼的西洋崇拝の傾向が見えます。


では、本日のメインイベント=前島最大の肩書である『近代郵便制度の父』が、いかに欺瞞に満ちたものであったかを検証してみましょう。


明治3年(1870)5月、前島は、租税権正と兼任する形で、駅逓権正となり、太政官に東海道の宿駅を利用した郵便制度創設を建議しますが、その直後の6月24日、郵便制度視察と鉄道建設借款契約締結のため渡英してしまいます。

その郵便事業は、杉浦譲(愛蔵)が後任の駅逓権正となり推進することになりますが、前島のプロフィールには、「6月24日大蔵大丞・上野景範の差添として渡英 イギリスで余暇に郵便事業を学ぶ」とあります。
 (てことは、留学前は決して郵便制度にくわしくはなかったんじゃない? しかも『余暇に』だよ 片手間にじゃないか
  

 
明治4年(1871)1月24日 「書状ヲ出ス人ノ心得」及び「郵便賃銭切手高並代銭表」「郵便規則表」等、郵便に関する一連の太政官布告公布

          3月1日(新暦4月20日)郵便創業 
                新聞低料送達の条文を規則に加える
          (だれが加えたの? 当然『杉浦が』でしょう? だって、ヒソカは日本にいないんだもん。なのに、ヤツのプロフィールに載っているのはなぜ?) 

          3月10日 杉浦、初代駅逓正に

          4月20日 東京~京都~大坂間で現行制度の礎となる郵便制度確立
                東京・京都・大坂に最初の郵便役所創設

          7月29日 杉浦、大蔵省に転任
                後任は、濱口成則(梧陵)

          8月10日 駅逓司が駅逓寮に昇格
                濱口、駅逓頭に昇格

          8月15日 前島 帰国

          8月17日 濱口、和歌山県大参事に転出
            同 日 前島、駅逓頭に就任


つまり、前島は、郵便制度スタートという肝心な時に日本におらず、実務には一切タッチしていなかったのです。

たしかに、制度の概要を考えたのは前島だったかもしれませんが、新制度導入の場合、困難なのは、プランを構想することよりも、既存の飛脚や伝馬等に従事する労働者らの反対を受けつつ、それに抗しながら具体化する実務面であることは言うまでもありません。


では、この杉浦譲という人はどのような人物であったかと言うと、前島と同じ天保6年生まれの元幕臣で、若干十九歳で昌平黌の分校である甲府徽典館の助教授を務めた俊才でした。


『青天を衝け』の杉浦愛蔵(譲) イケメンっ!(☚ コレ大事)


ホンモノはこんな感じ デキる幕臣 杉浦譲さん (見るからに賢そう


前島の場合、初渡航がこの明治3年であったのに対し、杉浦は文久・慶応 ―― まだ、徳川の御代だったころに2度も渡欧しているのです。

前島が聞きかじった伝聞等をもとに書いた建白書の中身など、杉浦にしてみれば実際にその目で見、もしかすると、異国から文を出した折などに郵便を使っていたかもしれません。


第二回遣欧使節 田辺太一・三宅秀・杉浦譲 
(ゴマの持っているゴダール写真集には、この写真は載ってないんだよな……

しかし、杉浦はあまりに有能でありすぎたため、発足まもない新政府にコキ使われ、43歳の若さで病没しています。(現在なら過労死認定まちがいなし!)


前島は、当初こそ杉浦の功績等を認めていたものの、しだいに当時を知る人々が少なくなっていくと、
「(杉浦は)前島案を一言一句増減しないで、本務を執ると約束し、実行した」
と公言するようになり、郵便制度の功労者は自分だけだと主張し、周知浸透を謀ったのです。


しかし、切手の図案のすべて、検査済印(消印)等は杉浦が考えたもので、前島はそこまで考えてはいませんでした。
(後年、前島は、渡欧中の船中で、消印の方法を知り手紙で知らせたと述懐していますが、実際は『検査済』を企画実施したのは杉浦よっ 

また、切手の種類も、前島案では3種類だったのを、杉浦は48文切手を加えた4種類とし、東海道の宿場飛脚業者への説明、折衝、諸問題を解決しながら郵便事業を開業したのです。

杉浦は、官営郵便反対の嘆願を受け、彼らの受け皿となる陸運会社の規則案等を起草。
前島は、新制度導入によって排除される人々のことなど眼中にはありませんでしたが、杉浦は切り捨てられる側に寄り添い、新時代でも活計を立てられるよう尽力しました。
そのとき設立された陸運会社が紆余曲折のすえ、最終的に『日本通運株式会社』となるのです。

ところが、のちに前島は、この設立についても、「自分は直接間接的に関与し、指導誘掖の労を取った」とシレっと記しています。
(厚顔無恥たー、オマエのことじゃい!)



ところが、前島の被害者は杉浦だけではなく、あの有名人もまた、ヤツのおかげでヒドイ目に遭っているのです。

その人の名は、杉浦の後任となった濱口成則(梧陵)。
ヤマサ醤油醸造所を経営する濱口儀兵衛家の当主にして、津波から村人を救った『稲むらの火』のモデルとしても有名なあのお方です。


最大の被害者=濱口梧陵さん(『仁』にも出てきたよ

濱口は、その実務家としての優秀さを買われて、明治元年(1868)、紀州藩に勘定奉行として抜擢されました。

明治4年(1871)5月には、和歌山藩の役人として東京詰めとなり、中央政府との交渉役を担うなかで、岩倉具視・大久保利通ら政府高官の知己を得ます。

そのころ政府では、民部省が解体し、大蔵省が設置されたのですが、これに際し、大久保は人選を進めていた井上馨に7月22日付書簡で、

「和歌山藩の濱口なる人物よろしく、民部の方よろしく、戸簿の方あるいは駅逓の方にてもよろしく」と、濱口を推しまくっております。

これにより、濱口は杉浦の後任の駅逓正となったわけですが、就任からわずか半月あまりで、その職を前島に譲ることになってしまいます。


そのいきさつについては、前島自身の『郵便創業談』で、

「(濱口は)郵便などは飛脚屋の仕事で、東海道の郵便も成績がよければ、飛脚屋に移した方がよい、と言っていた。日本人が通信事業を軽蔑していては駅逓寮の将来が案じられる。
私以外に駅逓頭の適任者はいないと思って、太政官に請願し、翌日任命され、感激し、心力尽くして頑張らねばと肝に銘じた……(後略)」と述べています。

これは、前島側だけの言い分なので、濱口が本当にそう言ったのか、はたまた、前島が濱口の発言を、悪意をもってねじまげて記したのかは不明ですが、その後の顛末を見るに、後者である可能性がきわめて高いように思えます。
(あるいは、実務家の濱口は、「民業圧迫はよくない。企業努力でコスト削減ができるなら、官がやるより、すでにある程度のノウハウを持っている民にやらせたほうがいいのでは?」と提案したのかも)

一方の濱口は、突然の交代劇に困惑し、

「雲の上よりすべり落ち、素顔の通り神仙中の人と相なり」と、知人に書き送っています。

イマイチ意味がわかるようなわからないような……まぁ、「いきなりハシゴを外されて、現実感がない」、といった心境でしょうか。

濱口にとっては、この罷免は青天の霹靂(同じ「青天」でも、エライちがいや)で、駅逓寮から追い出されると同時に、和歌山県大参事に任じられて、地元に戻されることになりました。

翌5年(1872)2月、濱口は官を辞し、その後は再び官職につくことはありませんでした。
(よっぽど、役人の世界にイヤ気が差したんやね 


この人事は、帰国早々、ある程度、制度が整い、軌道に乗りはじめた郵政事業の長官ポストを狙った前島が、顕官にねだって、前任者(濱口)を強引に追い出した、というのが真相のようです(なんてヤツ!)


こうして、まんまと駅逓頭の座を手に入れた前島は、明治35年(1902)6月20日に開催された「万国郵便連合加盟25周年記念祝賀会」の前日(19日)、郵政事業創設に功労ありとして、男爵の爵位を授けられ、特旨により華族に列せられました。
その結果、今につづく『日本近代郵便の父』という念願の称号をもぎ取ったのです。



本日の教訓:

「長生きしたヤツ、そして、ツラの皮の厚いヤツが最後に笑う」



(にしても、日本郵政さん、前島年譜の「1863年(文永3年)ってなんやねん? 文久より400年も前の元号やないか 

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