「人権」と「思いやり」は違う…日本の教育が教えない重要な視点「道徳」で「差別」に挑んではならない 



「多様性の尊重」

なんて綺麗事言うけど結局

カテゴリ分けして

そのカテゴリがどんどん細分化されて

壁が増えてくだけ

って風潮に成り下がってはいないか!?


今 世界は 透明な自由を

海に沈めたような 無数のAquarium


青い幻想を 泳ぎ彷徨う指の先が

見えない壁に ぶつかるまで 忘れていた


On my way 見上げる

空はいつでも 繋がってると

JASRAC管理楽曲の歌詞掲載が可能になりました 

(コブクロの小渕健太郎さんのLyricですが最高すぎます
小渕さんは布袋さんの最高のファン?理解者?後輩?親友?の一人だと思います)

「〇〇だからあれは駄目です」

「ここに居てはいけません、

あっちがあなたの場所!」

ってうっせぇわ!


やれ発達障害だHSPだ、
LGBTQ+
違う立場の人を
理解することはとても大切。
でも…
結局排除や区別(実態は差別)の理由
なってしまっていないか?
という事例が散見されます…。

果ては当事者同士、

別カテの当事者叩きや

細かいグループの細分化・いがみ合い……


すこしくらい

違っても同じ人間じゃないか?


発達障害、自閉症スペクトラムに関しては

わたしは

早期発見、早期療育

当事者、ひいては周囲の人、社会の利益・幸福に繋がる

と考えていますし今もそう思いますが

早く見分けてババ抜きしよう!

という使われ方をされかねない

懸念があります。


「コミュニケーションコストが低いことが社会人としてのマナーです」
これもね…
横文字にしてもっともらしく言ってるけど
「阿吽の呼吸」「察し」
の言い換えでは?
(日本人の「阿吽の呼吸」「察し」
言い換えると
他人にコミュニケーションコストかけさせない
これは自戒に使うのであれば、素晴らしい考えですが
人に言った時点で圧力、押し付けになると思います)

違うことは不快なこと?
めんどうなこと?
というのが既によくわからない…。
何故かというと
わたしは最初からわけもわからず
精神構造?の違う人の群れに生まれたから。

「ASDから見た定型発達者様は

定型発達者様から見たASDにそっくりだ」

と言われますがあれマジです!

  • こだわりが強い
  • どう説明しても聞く耳を持たない
  • こちらの立場を考慮しない
  • 前触れなく急に癇癪を起こす

↑これ見て「ムッ💢」とする

定型発達者様が殆どだと想像しますが

定型発達者様の非難や批判をしたいのではなく、

そのくらい認知?感覚?が異なるということです…


定型発達者様がASDの置かれた状況を想像するならば

ひとり、99人のアスペさんの群れに放たれたことをご想像頂ければ

だいたいそんな感じです。

わたしはこれを、

「定型発達者様が悪い」とも

逆に

「アスペルガーは社会の害悪だ」とも捉えていません。

歩み寄りも大切だし、勉強になる。

見方の違いもときに

面白い化学変化を起こすかもしれません。


個人的には、

定型発達者様にありがちな

謎こだわりが大好き♡♡♡

目的ココなのにソコにこだわるの!?

(たぶんわたしも

定型発達者様から見たら「そこにこだわる!?」でしょうが…)

みたいな時、愛おしいのです。

「美」とはそういうものですよね…

と感じています。


白鳥の群れ(CC0 パブリックドメイン画像)
定型発達者様…
特に麗しの定型発達女子様✨は
わたしにとって
永遠に届かない白鳥の群れみたい。
(外見ももちろんそうですが中身が何より!
少し話をしても感覚も違うし
ペース/スピード感も全然違うのですもの!)

全然話し違いますが

最近私生活でとても困っていることがあり

障害者支援とは?

子供支援って何?

どこにあるの?

と思います。


支援を求めず、

結果、事件や事故となければ

求めないのが悪い!

孤立するやつが悪い!

きちんと助けを求めるべき!

といわれますし、

探したり求めても

それはそれでまるで悪者/加害者/図々しい奴のように非難されたり

たらい回し押し付け合い。


自助?

したわ!やってるよ!


公助?

無い。

というか有るらしいのだがどう辿り着くんだ?

ワイIQ118だが

あちこち歩き回って

「あそこに相談しろ」

あそこ「ここじゃない、あっちに相談しろ」

交渉して

書類揃えて

(IQ118というのはドヤってるのではなく

そもそも「平均より上」程度でドヤる人が居たらそいつは恥ずかしい人だし

知能というのは多くは遺伝、あと環境要因が大きく本人の手柄ではないのでドヤる人は愚かだ、IQ130でも愚かだ

言いたいのは、

このくらいのIQと20年超の社会人経験のある海千山千の障害者ですら、

必要な支援

それもワガママや不要な贅沢を言ってるのではなくガチで危険に対する保護的な最低限の短期間の支援

になかなか辿り着かんぞ!!

この調子なら

年若いママさんとか、

わたしより困難を抱えている方は

更に酷い目にあっているか

あきらめて黙って我慢して

事が起きたら責任は当事者行き、

「なぜそうなる前に助けを求めないのか!?」

の非難の大合唱では!?)


あとは結局共助しろってことなのだろうが

共助が好きになれない。

共助はASDにはハードル高いし、

(障害者ネットワークとか、〇〇友。わたしには無理だった

夫に子供のこと頼むのすら抵抗ある

職場に正当に休暇申請するのすら心苦しい)

共助って結局

弱者→弱者のしわ寄せの温床で好きになれない。

「共」なのだから

できることは積極的に支援して、

できないことや困難は助けてもらえばいいだけなのですが

なかなかそうはいきませんよね…。


あのね、

「〇〇を託児所代わりにするな!」

ってお叱りはよくあるし、

わたし自身福祉職として

「〇〇を託児所代わりにしないで!

それは第一に危険だし、

お子様の身体的精神的ご負担高い!

ヤメテー(> <)」

と思うことたまにあります。

しかしそれだけ託児所不足だということです。