あるニヒリストの思考

日々の思いを綴る

愛国心の陥穽。(欲動その13)

2024-04-18 15:29:46 | 思想
現在、世界は国という単位で分断されている。人々は、何れかの国という構造体に所属し、国民という自我で生きている。だから、世界中の人々は、皆、愛国心を持っているのである。世界中の人々が、オリンピックやワールドカップで、自国選手や自国チームを応援し、勝つと喜び、負けると悲しのは。、愛国心の成せる業である。日本人が、高校サッカーや高校野球で、郷土チームを応援するのは、郷土愛の成せる業である。国という構造体に所属し、国民という自我を持っているから、自国選手や自国チームを応援し、都道府県という構造体に所属し、都道府県民という自我を持っているから、郷土チームを応援するのである。しかし、愛国心が戦争を引き起こすのである。オリンピックやワールドカップで自国選手や自国チーム負けても、高校サッカーや高校野球で郷土チームが負けても、次回や次年度の大会が待っている。しかし、戦争で亡くなった人は生き返らないのである。「靖国神社で戦死者を祀らなければ誰も戦争に行かない。だから、靖国神社が大切なのだ。」と靖国神社の必要性を訴える必要性を訴える人がいる。しかし、靖国神社に祀っても、戦死者は帰らないのである。それは、敵国においても同じである。戦場では殺すか殺されるかの瀬戸際に立たされ、敵国の人間という理由だけで殺すしかないのである。だから、戦争を起こさないことが必須条件なのである。それでも、戦争が起こるのはなぜか。前線に立たない政治権力者が国の政治を司っているからである。政治権力者の支配欲が戦争を引き起こすのである。政治権力者という自我を持った者の愛国心による支配欲によって戦争が引き起こされ、国民という自我を持った者たちは愛国心によって政治権力者のその判断をやむなしと考えるから、戦場に駆り出され、殺し合いをするのである。国民は愛国心があるからこそ、政治権力者の判断をやむなしと考え、戦争を支持するのである。しかし、人間は人を簡単には殺せない。戦場で、殺さなければ殺されるという状況に追い詰められて、敵国の人間だから殺しても構わないのだと自らに言い訳して引き金を引くのである。殺すか殺されるかの瀬戸際に立たされた者の悲劇・惨劇である。戦争が起これば容易に引き返すことはできないのである。戦争が起こる前にそれを食い止めなければならないのである。戦争を起こす政治家を最高権力者にしてはならないのである。そして、自らの愛国心におぼれてはならないのである。しかし、一般に、愛国心は、純粋に国を愛する気持ちとして崇敬されている。そして、日本では、、愛国心の薄いと思われる人を、反日、売国奴などと呼んで非難するのである。しかし、愛国心を国を愛する気持ちと解釈は表面的である。真実は、他の国の人々に自国の存在を認めてほしい・評価してほしいという自我の欲望であり、自我愛である。愛国心は、国民という自我から発動された欲望、すなわち、自我の欲望なのである。愛国心に限らず、人間は、自我の欲望を満たすことを目的として生きているのである。なぜならば、自我の欲望を満たせば快楽が得られるからである。人間は、自我の欲望が満たされないから、不満を抱くのである。そして、不満を解消するために、時には、残虐な行為を行うのである。愛国心という自我の欲望が満たされないから、その不満を解消するために、時には、戦争という残虐な行為を行うのである。プーチンは、ロシアという構造体の大統領という自我がウクライナという構造体のゼレンスキー大統領に汚されたと思ったから、ロシアという構造体に所属する兵士という自我を使って、ウクライナという構造体を攻めさせ、そこに所属する国民を殺させ、ゼレンスキー大統領を屈服させようとしたのである。だから、国という構造体存在する限り、大統領、国民という自我、愛国心という自我愛が存在するので、大統領という政治権力者に、戦争を起こす権限がある限り、ロシア、ウクライナから戦争がなくなることは無いのである。
しかし、プーチン大統領、ゼレンスキー大統領に限らず、政治権力者は、往々にして、支配欲から来る自我の欲望を満たすために、戦争を行おうとするのである。すなわち、ほとんどの政治権力者は悪党なのである。悪党とは自我の欲望を満たすためには他者の犠牲を厭わない者のことを言うのである。政治権力者としての支配欲から来る自我の欲望を満たすために国民の命を犠牲にして戦争を行う者は悪党以外の何者でもないのである。もちろん、プーチン大統領もゼレンスキー大統領も悪党である。悪党のプーチン大統領を支持して戦場に立つロシア国民も悪党のゼレンスキー大統領の支持して戦場に立つクライナ国民も愛国心を理由に戦争をやむを得ないと思っているのはあまりにも愚かである。前線で死ぬのは国民であり、政治権力者は背後でひたすら命令するだけなのである。プーチン大統領は、ウクライナ国内の親露派の地域と人々を守るためと言って、ウクライナに兵を侵攻させ、自らはロシア国内にとどまっている。ゼレンスキー大統領は、ウクライナの独立を守るためだと言って、全国民に武器を持って戦うように呼びかけ、自らは前線に立つことはない。これまでに、ロシア兵は20万人以上、ウクライナ兵・ウクライナ国民は10慢人以上亡くなっている。現在も、戦争が継続しているのは、多くのロシア国民と多くのウクライナ国民が愛国心を理由に戦争を支持しているからである。日本を含めて、各国の政治権力者が、プーチン大統領の行為を野蛮だとして批判している。確かに、プーチンは悪党である。しかし、ゼレンスキーも悪党である。両とも、支配欲という自我の欲望を満たすために戦争を行っているからである。しかし、プーチン大統領、ゼレンスキー大統領に限らず、政治権力者は、支配欲という自我の欲望を満たすために、戦争を行おうとするのである。思想家の吉本隆明は、「人間の不幸は、わがままに生まれてきながら、他者の強い批判にあうと、わがままを通せず、他者に合わせなければ生きていけないところにある。」と言っている。人間は、生まれつき、わがままに生きたいのである。それがかなえば快楽を得るからである。だから、人間は、他者に批判されなければ、わがままに生きようとするのである。わがままに生きるとは、自我の欲望のままに、行動することである。他者に合わせて生きるとは、他者に批判されないように、他者の目を気にして行動することである。つまり、人間は、本質的に、自我の欲望のままに、自分の思い通りに行動したいのだが、他者の批判が気になるから、他者に合わせて行動するのである。しかし、政治家は、自我の欲望に従って、わがままに生きられると思っているのである。特に、政治家の頂点である大統領や首相は、権力を発揮すれば、国民を思い通りに、自我の欲望のままに支配することができると思い込んでいるのである。だから、プーチン大統領もゼレンスキー大統領も、政治権力者としての支配欲という自我の欲望を満たすために国民の命を犠牲にして戦争を行っているのである。政治権力者の自我の欲望の主体は支配欲だから、それを放置すれば、いともたやすく戦争を起こし、いともたやすく国民に殺人を行わせ、かつ、死に追いやるのである。国民が止めなければ、政治権力者の支配欲という自我の欲望は、果てしなく広がるのである。しかし、多くのロシア国民と多くのウクライナ国民は、いまだに、愛国心を理由に戦争を支持しているかやむを得ないものとして諦めている。だから、プーチン大統領もゼレンスキー大統領も、迷い無く、自我の欲望を満たすために戦争を継続するのである。ニーチェに「権力への意志」という思想がある。その意志とは、他者からの好評価・高評価を糧にしていっそう強く生きようという人間に備わっている意志である。それは、他者の視線を自らのものとして、他者に自らの存在を見せつけようという意志である。そこには、現状に留まり、反省しようという意志は存在しない。永遠に現在を乗り越えようとする。そこには、「政治権力者は英雄的行動を繰り返して権力の向上を続けている間、大衆は力強い権力者に憧れ続ける」と考えが基礎にある。だから国民が、が愛国心に支配され、政治権力者を崇拝すれば、政治権力者はいっそう増長し、自省することはないのである。ニーチェは「大衆は馬鹿だ」とも言ったが、まさにその通りである。国民は、全ての政治家は国民に支持されて権力を握ると、もしくは、全ての政治家は権力を握った後に国民に支持されると、必ず、堕落することに気が付いていないのである。なぜならば、人間を知らないからである。だから、英雄を待望するのである。のである。しかし、人間には、誰しも、支配欲があり、政治権力を握り、国民が期待すると、自分は何をやっても許されると思い、支配欲を発揮して、自我の欲望のままに行動しようと思うのである。国民が、それを批判しない限り、政治権力者は、自我の欲望のままに、わがままな行動をするのである。国民が、プーチン大統領、ゼレンスキー大統領を支持するから、彼らは国民の命を犠牲にしてまで戦争をするのである。



国民に自民党支持者が多いのは中国敵視において一致しているからである。(提言12)

2024-04-12 14:05:45 | 思想
太平洋戦争は、中国侵略がきっかけに起こった。アメリカが日本に満州国の放棄を要求したから、日本はアメリカに宣戦布告したのである。現在の自民党の国会議員の大半は、中国侵略を推進した政治家の二世、三世だから、自らの祖父、父の考えを受け継いで、中国を敵視しているのである。国民の大半は、中国侵略を熱狂的に支持してきた者たちの子孫だから、自らの祖父、父の考えを受け継いで、中国を敵視しているのである。中国敵視において一致しているから、国民に自民党支持者が多いのである。中国敵視において、アメリカと日本は一致しているから、日本はアメリカの下僕になっているのである。








自分とは自我と自己の関係である。(自我から自己へ20)

2024-04-11 15:27:33 | 思想
デンマークの哲学者キルケゴールは、『死に至る病』で、「人間は精神である。しかし、精神とは何か。精神とは自己である。しかし、自己とは何か。自己とはひとつの関係、その関係それ自身に関係する関係である。あるいは、その関係において、その関係がそれ自身に関係すること、そのことである。自己とは関係それ自身ではなくして、関係がそれ自身に関係するということなのである。」と記している。「人間は精神である」とは人間は考える動物であるということである。「精神とは自己である」とは自分で考えるということと自分について考えるということという二つのこと意味している。「自己とはひとつの関係である」とあるが、なぜ、考えると言わず、「関係する」と表現したのか。それは、自分自身について考えているからであり、自分自身について考えることによって自分が変わっていくからである。「自己とはひとつの関係。その関係それ自身に関係する関係である」とは人間は、永遠に、現在の自分のあり方が正しいか、自分についての考えが正しいかを繰り返して追究して、変化していることを意味しているのである。現在の自分が現在の自分について考えて新しい自分ができる。その新しくできた自分がその新しい自分に考えてもっと新しい自分ができる。そのもっと新しくできた自分がそのもっと新しい自分に考えてもっと新しい自分ができる。その繰り返しで人間は成長していくというのである。思考する主体の自分と思考の対象者としての自分が対立するのである。そうすることによって新しい自分が生まれてくるのである。ヘーゲルの弁証法である。人間は、既に自分として存在しているが、常に、自分自身を問題にし、自分自身に関わりつつ存在している。このような動きの中で変化している。この動きそのものが自分であり、固定した自分は存在しない。しかし、このように考えていくと、自分は自分自身との会話、関係でとじられてしまう。そこで、後に、熱心なクリスチャンであるキルケドールは、人間は神によって措定されているのだから、自分自身と関係することは神に関係することにつながると説く。そこにおいて、人間は絶望から救われるのである。しかし、ニーチェの言う「神が死んだ」時代に生きている人間には、神は救いの手を差し伸べない。人間は、自我を持つと同時に、常に、自我のあり方を問題にし、自我に関わりつつ、自己を追い求めていくしかないのである。自分とは、自我と自己の関わりなのである。人間は自我を持つと同時に自我の欲望に動かされて行動するようになる。深層心理が自我の欲望を生み出して人間を動かしているのである。深層心理とは人間の無意識の精神活動である。すなわち、人間は、無意識の思考によって動かされているのである。しかし、人間は、時として、自我の欲望を意識して思考して、自らのあり方を問うことがある。人間の自らを意識しての精神活動を表層心理と言う。しかし、人間が表層心理で自我の欲望を意識して思考して自らのあり方を問うことだけでは自己になれない。人間は主体的に自我の欲望を問うことによって自己になるのである。それでは、自我とは何か、自我とは、ある構造体の中で、他者からある役割を担ったあるポジションを与えられ、そのポジションを自他共に認めた、自らのあり方である。構造体とは、人間の組織・集合体である。人間は、常に、構造体に所属し、自我として生きているのである。構造体には、家族、国、学校、会社、店、電車、仲間、カップル、夫婦、人間、男性、女性などがある。家族という構造体では、父・母・息子・娘などの自我があり、国という構造体では、総理大臣・国会議員・官僚・国民などという自我があり、学校という構造体では、校長・教諭・生徒などの自我があり、会社という構造体では、社長・課長・社員などの自我があり、店という構造体では、店長・店員・客などの自我があり、電車という構造体では、運転手・車掌・乗客などの自我があり、仲間という構造体では、友人という自我があり、カップルという構造体では恋人という自我があり、夫婦という構造体では、夫・妻という自我があり、人間という構造体では、男性・女性という自我があり、男性という構造体では、老人・中年男性・若い男性・少年・幼児などの自我があり、女性という構造体では、老女・中年女性・若い女性・少女・幼女などの自我がある。しかし、人間は、常に、構造体に所属し、他者と関わり、他人を意識しながら、自我として生きているが、決して、自らを意識して思考して行動しているわけではない。深層心理が、心境の下で、自我を主体に立てて、欲動に基づいて快楽を求めて思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間を動かしているのである。他者とは構造体内の人々であり、他人とは構造体外の人々である。人間は、自我の欲望に動かされて行動するが、それは、漠然とした欲望ではなく、感情と行動の指令が合体したものなのである。深層心理が思考して感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間を動かそうとするのである。深層心理が生み出した感情が動力となり、深層心理が生み出した行動の指令通りに、人間を動かそうとするのである。次に、深層心理は心境の下に思考するが、心境とは何か。心境は、感情と同じく、深層心理の情態を表している。情態とは、人間の心の状態を意味している。人間は、心境や感情という情態によって、現在の自我の状態の良し悪しを判断する。つまり、情態の良し悪しが人間の現在の自我の状態の良し悪しを決定するのである。すなわち、爽快などの快い心境の情態の時には、自我が良い状態にあるということを意味し、深層心理は現在の状態を維持しようと思考する。深層心理は、同じことを繰り返すというルーティーンの生活を維持しようと思考する。逆に、陰鬱などの不快な心境の情態の時には、悪い状態にあるということを意味する。心境は深層心理を覆っている情態であり、感情は深層心理が生み出した情態である。心境は、爽快、憂鬱など、深層心理に比較的長期に滞在する。感情は、喜怒哀楽、感動など、深層心理が行動の指令ととに瞬間的に生み出し、人間を行動の指令通りに動かす力になる。深層心理は、常に、ある心境の下にあり、時として、心境を打ち破って、行動の指令とともに感情を生み出す。つまり、心境が人間にルーティーンの生活を送らせ、感情がルーティーンの生活を打ち破る行動を人間に起こさせるのである。感情も、心境と同じく情態だが、そのあり方は異なっている。深層心理が、喜び楽しみなどの快い感情を生み出した時には、自我が良い状態にあるということを意味し、怒りや哀しみなどの不快な感情を生み出した時には、自我が悪い状態にあるということを意味する。自我が褒められた時は、深層心理は喜びの感情と拍手喝采せよなどの行動の指令という自我の欲望を生み出し、他者に共感を求めるように人間を動かそうとする。自我が傷付けられた時には、深層心理は怒りの感情と他者に暴力を加えよなどの行動の指令通りという自我の欲望を生み出し、他者を下位に落とすことによって下位に落とされた自我を回復させるように人間を動かそうとする。自我がかなわない壁にぶつかったとき、深層心理は哀しみの感情と泣くなどの行動の指令を自我の欲望を生み出し、他者に慰めてもらうように人間を動かそうとする。自我が希望を持てたと説き、深層心理は楽しみの感情と現在の自我の状態を維持しろなどの行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間を未来に向かって歩めるようにを動かそうとする。しかし、感情は、深層心理によって、自我の欲望として、行動の指令とともに生み出され、人間を動かす力になっているから、人間が行動の指令通りに行動すれば、その感情は消えていくのである。だから、オーストリア生まれの哲学者のウィトゲンシュタインは、「苦しんでいる人間は、苦しみが消滅すれば、苦しみの原因が何であるかわからなくても構わない。苦しみが消滅すれば、問題が解決されようがされまいが構わないのである。」と言うのである。人間にとって、現在の心境や感情が絶対的なものであり、特に、苦しんでいる人間は、苦しいという心境や感情から逃れることができれば、それで良く、必ずしも、苦悩の原因となっている問題を解決する必要は無いのである。なぜならば、深層心理が思考するのは、自我になっている人間を動かし、苦しみの心境や感情から苦しみを取り除くことが最大の目標であるからである。つまり、深層心理にとって、何よりも、自らの心境や感情という情態が大切なのである。深層心理は、常に、心境という情態に覆われていて、時として、心境を打ち破り行動の指令とともに感情という情態を生み出す。常に、心境や感情という情態にあるから、人間は表層心理で自分を意識する時は、常に、ある心境の情態にある自分やある感情の情態にある自分として意識するのである。人間は心境や感情を意識しようと思って意識するのではなく、ある心境やある感情が常に深層心理にあるから、人間は自分を意識する時には、常に、ある心境の情態にある自分やある感情の情態にある自分として意識するのである。つまり、心境や感情の存在が、自分がこの世に存在していることの証になっているのである。すなわち、人間は、ある心境の情態にある自分やある感情の情態にある自分に気付くことによって、自分の存在に気付くのである。つまり、自分が意識する心境や感情が自分に存在していることが、人間にとって、自分がこの世に存在していることの証なのである。人間は、一人でいてふとした時、他者や他人に面した時、他者や他人を意識した時、他者や他人の視線にあったり他者や他人の視線を感じた時、深層心理が感情と行動の指令という自我の欲望を生み出して人間を動かそうとしている時などに、何かを考えている自分、何かをしている自分、何かの状態にある自分を意識するのである。そして、同時に、自分の深層心理を覆っている心境や深層心理が生み出した感情にも気付くのである。人間は、どのような状態にあろうと、常に、心境や感情が深層心理に存在するのである。つまり、心境や感情こそ、自分がこの世に存在していることの証なのである。フランスの哲学者のデカルトは、「我思う、故に、我あり。」と言い、「私はあらゆる存在を疑うことができる。しかし、疑うことができるのは私が存在しているからである。だから、私はこの世に確実に存在していると言うことができるのである。」と主張する。そして、確実に存在している私は、理性を働かせて、演繹法によって、いろいろな物やことの存在まで、すなわち、真理を証明することができると主張する。しかし、デカルトの論理は危うい。なぜならば、もしも、デカルトの言うように、悪魔が人間をだまして、実際には存在していないものを存在しているように思わせ、誤謬を真理のように思わせることができるのならば、人間が疑っている行為も実際は存在せず、疑っているように悪魔にだまされているかもしれないからである。また、そもそも、人間は、自分やいろいろな物やことががそこに存在していることを前提にして、活動をしているのであるから、自分の存在やいろいろな物やことの存在を疑うことは意味をなさないのである。さらに、デカルトが何を疑っても、疑うこと自体、その存在を前提にして論理を展開しているのだから、論理の展開の結果、その存在は疑わしいという結論が出たとしても、その存在が消滅することは無いのである。つまり、人間は、論理的に、自分やいろいろな物やことの存在が証明できるから、自分や物やことが存在していると言えるのではなく、証明できるできないに関わらず、既に、存在を前提にして活動しているのである。特に、人間は、心境や感情によって、直接、自分の存在を感じ取っているのである。それは、無意識の確信である。つまり、深層心理の確信である。だから、深層心理は常に確信を持って自我の欲望を生み出すことができるのである。デカルトが、表層心理で、自分や物やことの存在を疑う前に、深層心理は既にこれらの存在を確信して、思考しているのである。また、人間は、深層心理が感情と行動の指令という自我の欲望を生み出した時だけでなく、平穏な日常生活を送っている時にも、突然、自我を意識し、表層心理で思考する時がある。人間は、他者の視線を感じた時、他者がそばにいる時、他者に会った時、他者に見られている時に、自我の心境とともに自我の状態と自我を取り巻く状況を意識して、表層心理で思考するのである。なぜ、人間は、他者の存在を感じた時、自我の心境とととに自我の状態と自我を取り巻く状況を意識するのか。それは、自我にとって、他者の存在は脅威であり、自我の存在を危うくさせる可能性があるからである。人間は、常に、他者に対して、警戒心を怠らないのである。人間は、一人でいても、無我夢中で行動していても、突然、自我の存在、すなわち、自我の状態と自我を取り巻く状況を意識することもあるのも、それも、また、突然、他者の存在に脅威を感じ、自我の存在に危うさを感じたからである。しかし、人間は、表層心理で、すなわち、自らを意識して自らの意志によって、心境も感情も変えることはできないのである。なぜならば、心境も感情も、深層心理の範疇だからである。人間は、表層心理で、自ら意識して、直接的に、嫌な心境や嫌な感情を変えることができないから、何かをすることによって間接的に変えようとするのである。それが気分転換である。酒を飲んだり、音楽を聴いたり、スイーツを食べたり、カラオケに行ったり、長電話をしたりすることによって、気分転換、すなわち、心境をや感情を変えようとするのである。次に、深層心理は自我を主体に立てて思考するが、それは何を意味するか。それは、深層心理が自我を中心に据えて自我の行動について考えるということである。つまり、人間は、自らが主体となって、思考し行動していないのである。だから、人間は、そのままでは、自己として存在していると言えないのである。自己とは、人間が表層心理で常に正義に基づいて思考して行動するあり方だからである。自己とは、人間が、正義に基づいて、自ら意識して考え、意識して決断し、その結果を意志として行動する生き方なのである。だから、人間が、表層心理で正義に基づいて思考して、その結果を意志として行動しているのであれば、自己として存在していると言えるのであるが、深層心理が思考して生み出した自我の欲望に動かされている限り、自己として存在していると言えないのである。自己として存在していないということは、自由な存在でもなく、主体的なあり方もしていず、主体性も有していないということを意味するのである。そもそも、自我とは、構造体という他者から与えられたものであるから、人間は、よほどの覚悟がない限り、他者の思惑を無視して主体的に自らの行動を思考し行動することはできないのである。他者の思惑を無視して行動すれば、構造体から追放され、自我を失う虞があるからである。だから、ほとんどの人は、深層心理が生み出した自我の欲望のままに行動し、正義に基づく主体的な思考・行動はできず、自己として存在していないのである。次に、深層心理は欲動に基づいて思考して自我の欲望を生み出して人間を動かしているが、欲動とは何か。欲動とは、深層心理に内在している四つの欲望の集合体である。欲動の第一の欲望が自我を確保・存続・発展させたいという保身欲である。欲動の第二の欲望が自我が他者に認められたいという承認欲である。欲動の第三の欲望が自我で他者・物・現象などの対象をを支配したいという支配望である。欲動の第四の欲望が自我と他者の心の交流を図りたいという共感欲である。深層心理は自我の状態を欲動にかなったものにすれば快楽が得られるので、欲動に基づいて思考して自我の欲望を生み出し、人間を動かそうとするのである。それを、フロイトは快感原則と呼んだ。欲動には、道徳観や社会規約を守るという欲望は存在しない。だから、深層心理は、道徳観や社会規約に縛られず、その時その場での快楽を求めて、欲動に基づいて思考し、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、自我である人間を動かしているのである。人間が、毎日、同じ構造体で、同じ他者に会い、同じ自我を持って、同じようなことをして、ルーティーンの生活をしていけるのは、欲動の第一の欲望である保身欲によるものである。深層心理が自我を確保・存続・発展させたいという保身欲に基づいて思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間をルーティーンの生活をするように動かしているからである。しかし、時には、自我が傷つけられ、ルーティーンの生活が破られそうになる時がある。それは、往々にして、他者から、侮辱されたりなどして、自我が他者に認められたいという欲動の第二の欲望である承認欲が阻害されたからである。そのような時、深層心理は、怒りの感情と相手を殴れなどの過激な行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間を動かそうとする。深層心理は、怒りの感情で人間を動かし、暴力などの過激な行動を行わせ、承認欲を阻害した相手をおとしめることによって、自らの自我を高めようとするのである。しかし、そのような時には、まず、超自我が、ルーティーンの生活を守るために、怒りの感情を抑圧し、殴れなどの過激な行動の指令などの行動の指令を抑圧しようとする。深層心理には、自我を確保・存続・発展させたいという保身欲から発した超自我という機能が存在するのである。超自我は、毎日同じようなことを繰り返すように、ルーティーンから外れた自我の欲望を抑圧しようとするのである。しかし、深層心理が生み出した感情が強過ぎる場合、超自我は、深層心理が生み出した行動の指令を抑圧できないのである。そして、もしも、超自我の機能が過激な行動を抑圧できなかったならば、表層心理で思考することになる。人間は、表層心理で、自らを意識して、深層心理が生み出した行動の指令について許可するか抑圧するかを思考することになる。人間の表層心理での思考は、瞬間的に思考する深層心理と異なり、結論を出すのに、基本的に、長時間掛かる。なぜならば、表層心理での思考は、現実的な利得を求めて、深層心理が生み出した感情の下で、深層心理が生み出した行動の指令を受け入れるか拒否するかを審議することだからである。現実的な利得を求めるとは、道徳観や社会規約を考慮し、長期的な展望に立って、自我に現実的な利益をもたらそうという欲望である。それを、フロイトは現実原則と呼んだ。人間は、表層心理で、深層心理が生み出した感情の下で、現実的な利得を求めて、深層心理が生み出した行動の指令通りに行動したならば、後に、自我がどうなるかという、他者の評価を気にして、将来のことを考え、行動の指令の諾否を審議するのである。この場合、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した怒りの感情の下で、現実的な利得を求めて、侮辱した相手を殴ったりしたならば、後に、他者や他人の評価を気にして、将来のことを考え、深層心理が生み出した侮辱しろ・殴れなどの行動の指令を、意志によって、抑圧しようと考えるのである。しかし、深層心理が生み出した怒りの感情が強過ぎると、超自我も表層心理の意志による抑圧も、深層心理が生み出した殴れという行動の指令を抑圧できず、侮辱した相手を殴ってしまうのである。それが、所謂、感情的な行動であり、自我に悲劇、他者に惨劇をもたらすのである。また、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した行動の指令を拒否する結論を出し、意志によって、行動の指令を抑圧できたとしても、今度は、表層心理で、深層心理が生み出した怒りの感情の下で、深層心理が納得するような代替の行動を考え出さなければならないのである。そうしないと、怒りを生み出した心の傷は癒えないのである、しかし、代替の行動をすぐには考え出せるはずも無く、自己嫌悪や自信喪失に陥りながら、長期にわたって、苦悩の中での思考がが続くのである。また、高校生・会社員が嫌々ながらも高校・会社という構造体に通学・通勤するのは、生徒・会社員という自我を失いたくないからである。退学者・失業者が苦悩するのは、学校・会社という構造体から追放され、生徒・会社員という自我を失ったからである。裁判官が総理大臣に迎合した判決を下し高級官僚が公文書改竄までして総理大臣に迎合するのも裁判官という自我を守ろうという保身欲からである。学校でいじめ自殺事件があると、校長や担任教諭は自殺した生徒よりも自分たちの自我を守ろうという保身欲から事件を隠蔽するのである。いじめた子の親は親という自我を守ろうという保身欲から自殺の原因をいじめられた子とその家庭に求めるのである。自殺した子も、仲間という構造体から追放されて友人という自我を失いたくないという保身欲からいじめの事実を隠し続け、自殺にまで追い詰められたのである。さらに、深層心理は、自我の確保・存続・発展だけでなく、構造体の存続・発展のためにも、自我の欲望を生み出している。なぜならば、人間は、この世で、社会生活を送るためには、何らかの構造体に所属し、何らかの自我を得る必要があるからである。言い換えれば、人間は、何らかの構造体に所属し、何らかの自我を持していなければ、この世に生きていけないから、現在所属している構造体、現在持している自我に執着するのである。それは、一つの自我が消滅すれば、新しい自我を獲得しなければならず、一つの構造体が消滅すれば、新しい構造体に所属しなければならないが、新しい自我の獲得にも新しい構造体の所属にも、何の保証も無く、不安だからである。自我あっての人間であり、自我なくして人間は存在できないのである。だから、人間にとって、構造体のために自我が存在するのではない。自我のために構造体が存在するのである。現在、世界中の人々は、皆、国という構造体に所属し、国民という自我を持っている。だから、世界中の人々には、皆、愛国心がある。愛国心があるからこそ、自国の動向が気になり、自国の評価が気になるのである。愛国心があるからこそ、オリンピックやワールドカップが楽しめるのである。しかし、愛国心があるからこそ、戦争を引き起こし、敵国の人間という理由だけで殺すことができるのである。愛国心と言えども、単に、自我の欲望に過ぎないからである。一般に、愛国心とは、国を愛する気持ちと説明されている。しかし、それは、表面的な意味である。真実は、他の国の人々に自国の存在を認めてほしい・評価してほしいという自我の欲望である。人間は、自我の欲望を満たすことによって快楽を得ているのである。自我の欲望が満たされないから、不満を抱くのである。そして、不満を解消するために、時には、戦争という残虐な行為を行うのである。しかし、人間は、愛国心、すなわち、自我の欲望を、自ら、意識して生み出しているわけではなく、無意識のうちに、深層心理が愛国心という自我の欲望を生み出しているのである。つまり、世界中の人々は、皆、自らが意識して生み出していないが、自らの深層心理が生み出した自我の欲望に動かされて生きているのである。だから、国という構造体、国民という自我が存在する限り、人類には、戦争が無くなることはないのである。さて、人間は、常に、他者の思いを推し量りながら生きている。それは、深層心理に、他者に自我を認めてもらいたいという欲動の第二の欲望の承認欲があるからである。承認欲が満たされれば、深層心理がつまり人間が快楽が得られるのである。だから、人間は、他者から褒められたい、好かれたい、存在を認められたいという思いで生き、行動しているのである。だから、人間はすなわち深層心理は、自我が他者から見られていることを意識し、他者の視線の内実を思考するのである。人間は、他者がそばにいたり他者に会ったりすると、深層心理が、まず、その人から好評価・高評価を得たいという思いで、自分がどのように思われているかを探ろうとするのである。フランスの心理学者のラカンの「人は他者の欲望を欲望する。」(人間は、いつの間にか、無意識のうちに、他者のまねをしてしまう。人間は、常に、他者から評価されたいと思っている。人間は、常に、他者の期待に応えたいと思っている。)という言葉は、端的に、承認欲の現象を表しているのである。つまり、人間が自我に対する他者の視線が気になるのは、承認欲の作用によるのである。つまり、人間は、主体的に自らの評価ができないのである。人間は、無意識のうちに、他者の欲望を取り入れているのである。だから、人間は、他者の評価の虜、他者の意向の虜なのである。人間は、他者の評価を気にして判断し、他者の意向を取り入れて判断しているのである。つまり、他者の欲望を欲望しているのである。だから、人間の苦悩の多くは、自我が他者に認められない苦悩であり、それは、深層心理に内在する欲動から発した承認欲の作用によって起こるのである。さて、欲動の第三の欲望は支配欲であるが、それは自我で他者・物・現象などの対象を支配したいという欲望である。まず、他者という対象に対する支配欲であるが、それは、自我が他者を支配したい、他者のリーダーになりたいという欲望である。この欲望を満たすために、人間は、力を発揮したい、支配したいという思いで、他者に接している。自我が、他者を支配すること、他者を思うように動かすこと、他者たちのリーダーとなることがかなえられれば、喜び・満足感が得られるのである。教師が校長になろうとするのは、深層心理が、学校という構造体の中で、教師・教頭・生徒という他者を校長という自我で支配したいという欲望があるからである。自分の思い通りに学校を運営できれば楽しいからである。会社員が社長になろうとするのも、深層心理が、会社という構造体の中で、会社員という他者を社長という自我で支配したいという欲望があるからである。自分の思い通りに会社を運営できれば楽しいからである。次に、物という対象の支配欲であるが、それは、自我の目的のために物を利用することである。山の樹木を伐採すること、物から金属を取り出すこと、いずれもこの欲望による。物を利用できれば、物を支配するという快楽を得られるのである。次に、現象という対象の対自化であるが、それは、自我の志向性で、現象を捉えることである。人間を現象としてみること、世界情勢を語ること、日本の政治の動向を語ること、いずれもこの欲望による。現象を捉えることができれば満足感が得られるのである。さらに、支配欲が強まると、深層心理には、有の無化と無の有化という作用が生まれる。有の無化とは、深層心理が、自我を苦しめる他者・物・事柄という対象がこの世に存在している時、無意識のうちに、深層心理がこの世に存在していないように思い込むことである。犯罪者の深層心理は、自らの犯罪に正視するのは辛いから、犯罪を起こしていないと思い込むのである。無の有化とは、深層心理が、自我の志向性に合った、他者・物・事柄という対象がこの世に実際には存在しない時、無意識のうちに、深層心理がこの世に存在しているように創造することである。深層心理は、自我の存在の保証に神が必要だから、実際にはこの世に存在しない神を創造したのである。いじめっ子の親の深層心理は、親という自我を傷付けられるのが辛いからいじめの原因をいじめられた子やその家族に求めるのである。有の無化、無の有化によって、深層心理は、自我を正当化し、心に安定感を得ようとしているのである。最後は、自我と他者の心の交流を図りたいという欲動の第四の欲望である共感でがある。深層心理は、自我が他者と理解し合う・愛し合う・協力し合えば快楽が得られるので、自我の状態がそのようにしようと、自我である人間を動かそうとする。自我と他者が共感化できれば、自分の存在を高め、自分の存在を確かなものにすることができるのである。愛し合うという現象は、互いに、相手に身を差しだしつつ、相手の愛を独占することを許し合うことである。若者が恋人を作ろうとするのは、カップルという構造体を形成し、恋人という自我を認め合うことができれば、そこに喜びが生じるからである。恋人いう自我と恋人いう自我が共感すれば、そこに、愛し合っているという喜びが生じるのである。しかし、恋愛関係にあっても、相手から突然別れを告げられることがある。別れを告げられた者は、誰しも、とっさに対応できない。今まで、相手に身を差し出していた自分には、屈辱感だけが残る。屈辱感は、恋人という自我が相手に認めてもらいたいという承認欲が阻害されたことから起こるのである。相手から別れを告げられると、誰しも、未練が残る。相手から別れを告げられて、「これまで交際してくれてありがとう。」などとは、誰一人として言えないのである。深層心理は、カップルや夫婦という構造体が破壊され、恋人や夫・妻という自我を失うことの辛さから、暫くは、相手を忘れることができず、相手を恨むのである。その中から、ストーカーになる者が現れるのである。深層心理が人間にストーカーになることを指示したのは、屈辱感を払うためである。もちろん、ルーティーンの生活を守ろうとする超自我や表層心理の現実原則の思考で、ストーカー行為を抑圧しようとする。しかし、屈辱感が強過ぎると、抑圧できないのである。つまり、ストーカーになる理由は、カップルという構造体が破壊され、恋人という自我を確保・存続・発展させたいという保身欲が阻害されたことの辛さだけでなく、恋人という自我を相手に認めてもらえないという諸運良くを阻害された辛さもあるのである。また、中学生や高校生が、仲間という構造体で、いじめや万引きをするのは、友人という自我と友人という他者の共感欲が生まれ、そこに、連帯感の喜びを感じるからのである。さらに、敵や周囲の者と対峙するための「呉越同舟」(共通の敵がいたならば、仲が悪い者同士も仲良くすること)という現象も、自我と他者の共感欲が生み出したものである。一般に、二人が仲が悪いのは、互いに相手を対自化し、できればイニシアチブを取りたいが、それができず、それでありながら、相手の言う通りにはならないと徹底的に相手を拒否しているから起こる現象である。そのような状態の時に、共通の敵が現れたから、二人は協力して、立ち向かうのである。それが、「呉越同舟」である。協力するということは、互いに、相手に身を委ね、相手の意見を聞き、二人で共通の敵に立ち向かうのである。中学校や高校の運動会・体育祭・球技大会で「クラスが一つになる」というのも、自我と他者の共感欲のなせる現象であり、「呉越同舟」である。他クラスという共通の敵がいるから、一時的に、クラスがまとまるのである。クラスがまとまるのは、何よりも、他クラスを倒して皆で喜びを得るということに価値があるからである。しかし、運動会・体育祭・球技大会が終われば、互いにイニシアチブを取りたいという支配欲から、仲の悪い状態に戻るのである。このように、人間は、自我の動物であるから、深層心理が生み出した感情と行動の指令という自我の欲望に動かされているのである。そして、深層心理が自我の欲望として過激な感情とルーティーンのを逸脱するような行動の指令を生み出した時、超自我で抑圧できなければ、人間は、表層心理で、現実的な利得を求めて、表層心理で、過激な感情の下で、ルーティーンのを逸脱するような行動の指令を受け入れるか拒否するかについて思考するのである。しかし、人間は、これ以外に、表層心理で思考する時があるのである。それは、他者の視線を感じた時、他者がそばにいる時、他者に会った時、他者に見られている時などである。人間は、他者の存在を感じた時、自我の存在を意識するのである。自我の存在を意識するとは、自我の行動や思考を意識することである。そして、自我の存在を意識すると同時に、思考が始まるのである。それが、表層心理での思考である。それでは、なぜ、人間は、他者の存在を感じた時、自我の存在を意識し、自我の行動や思考を意識するのか。それは、他者の存在に脅威を感じ、自我の存在に危うさを感じたからである。さらに、無我夢中で行動していて、突然、自我の存在を意識することもある。無我夢中の行動とは、無意識の行動であり、表層心理で、意識して思考することなく、深層心理が、思考して、生み出した感情と行動の指令という自我の欲望のままに行う行動である。そのように行動している時も、突然、自我の存在を意識することがあるのである。それも、また、突然、他者の存在に脅威を感じ、自我の存在に危うさを感じたからである。つまり、人間は、他者の存在に脅威を感じ、自我の存在に危うさを感じた時、表層心理で、自我の存在を意識して、現実的な利得を求める志向性から、思考するのである。ニーチェは「意志は意志できない」と言う。同じように、人間は、思考も意志できないのである。深層心理の思考が人間の意志によって行われないように、表層心理の思考も人間の意志によって行われないのである。人間が自我の存在を意識すると同時に、表層心理での思考が始まるのである。しかし、人間が自らの存在を意識して、表層心理で思考して行動しても、主体的に生きているとは言えないのである。すなわち、自己として存在していると言えないのである。なぜならば、表層心理での思考は、現実原則によるすなわち現実的な自我の利得を追い求める思考だからである。もちろん、深層心理の快感原則によるすなわち欲動の四つの欲望を満たして快楽を得ようして生み出した自我の欲望による行動も主体的な行動ではない。すなわち、自己としての行動ではない。自己とは、正義、良心に基づいて主体的に生きている人間を意味しているが、人間は、自我から自己へとを勝ち取らなければ、主体的に生きることはできないのである。自我を正義、良心に基づいて生きて、人間は、初めて、主体的に生きている、自己として生きていると言えるのである。人間は主体的に生きることに憧れているから、主体的に生きていると錯覚しているに過ぎないのである。多くの人は、自我を自己だと思い込み、自らは自己として生きていると思い込んでいるのである。しかし、自己として存在するとは、自我を、正義、良心に基づいて、主体的に、意識して、思考して、行動することだからである。人間の表層心理での思考を理性と言う。つまり、人間が自己として存在するとは、正義、良心に基づいて、主体的に表層心理で思考して、すなわち、理性で思考して、自らの意志で行動を決めて、それに基づいて、行動することなのである。しかし、人間は、表層心理で、意識して思考して、すなわち、理性で思考して、主体的に自らの行動を決定するということは容易にはできないのである。現実原則による思考に陥りやすいからである。だから、たいていの人は自己として存在していないのである。人間が自己として存在しにくいのは、自我を動かすのは、快感原則の深層心理であり、それを反省するのは現実原則による表層心理の思考だからである。。自我は、構造体という集団・組織の中で、他者から与えられるから、深層心理は、他者の思惑を気にして、自我が構造体から放逐されないように思考するのである。人間は、表層心理で、他者の思惑を気にしないで、主体的に思考し、行動すれば、他者から白い眼で見られ、その構造体から追放される可能性、時には殺される可能性あるから、主体的に自らの行動を思考することはできないのである。構造体から追放される覚悟、殺される覚悟がある人だけが主体的に自らの行動を思考し、自己として存在できるのである。






戦争を拒否できるか。(提言11)

2024-04-04 16:49:19 | 思想
誰が殺し合いすることを望むだろうか。誰が戦場に立つことを望むだろうか。それでも、戦争が起こるのはなぜか。それは、政治指導者が戦場に立たないからである。政治指導者は、例外なく、自らは殺し合いに参加せず、安全地帯で命令している。だから、政治権力者に戦争を起こす権威を与えている限り、戦争はなくならないのである。人間は、誰しも、政治権力を握ると傲慢になり、自我の欲望のためには人の命も犠牲にするようになるのである。それでは、自我とは何か。そして、自我の欲望とは何か。自我とは、人間が、構造体の中で、役割を担ったあるポジションを与えられ、そのポジションを自他共に認めた、自らのあり方である。構造体とは、人間の組織・集合体である。人間は、常に、構造体に所属して、自我として生きているのである。構造体には、国、家族、学校、会社、店、電車、仲間、カップル、夫婦などがある。国という構造体では、大統領・首相・国会議員・官僚・国民などの自我があり、家族という構造体では、父・母・息子・娘などの自我があり、学校という構造体では、校長・教諭・生徒などの自我があり、会社という構造体では、社長・課長・社員などの自我があり、コンビニという構造体では、店長・店員・客などの自我があり、電車という構造体では、運転手・車掌・客などの自我があり、仲間という構造体では、友人という自我があり、カップルという構造体では恋人という自我があり、夫婦という構造体では夫と妻という自我がある。だから、ある人は、日本という構造体では国民という自我を持ち、家族という構造体では母という自我を持ち、学校という構造体では教諭という自我を持ち、コンビニという構造体では客という自我を持ち、電車という構造体では乗客という自我を持ち、夫婦という構造体では妻という自我で行動しているのである。また、ある人は、日本という構造体では国民という自我を持ち、家族という構造体では父という自我を持ち、会社という構造体では課長という自我を持ち、コンビニという構造体では客という自我を持ち、電車という構造体では乗客という自我を持ち、夫婦という構造体では夫という自我で行動しているのである。だから、息子が母だと思っている人は、確かに、家族という構造体では母という自我で行動しているが、他の構造体では、教諭、客、乗客、妻などの自我で行動しているのである。同様に、息子が父だと思っている人は、確かに、家族という構造体では父という自我で行動しているが、他の構造体では、課長、客、乗客、夫などの自我で行動しているのである。だから、人間は、「あなたは何。」と尋ねられると、所属している構造体ごとに、自我の答え方が異なるのである。人間は、所属する構造体によって異なった自我になり、各構造体は独立していているから、一つの自我から全体像を割り出すことはできないのである。だから、息子は母、父の全体像がわからないのである。家族という構造体で、母、父という他者の自我を持った者しか知ることはできないのである。それでも、彼にとって優しい母、厳しい父ならば、他の構造体でも、他者に対して、優しく、厳しく接していると思い込んでいるのである。しかし、人間は常に構造体に所属して自我として生きているが、主体的に思考して行動しているわけではない。深層心理が、自我を主体に立てて、欲動に基づいて快楽を求めて思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間を動かしているのである。深層心理とは無意識の精神活動である。つまり、人間は深層心理という無意識の思考によって動かされているのである。だから、息子、娘にとっては単なる父である人が、政治家になり、権力を握ると戦争を引き起こすのである。政治家も国という構造体の自我でしかなく、その人が夫婦という構造体では夫、家族という構造体では父という自我を持つのである。だから、大統領や首相などの政治権力者として横暴な人が、夫婦という構造体では妻に馬鹿にされ、家族という構造体で、息子からはだらしない父、娘から不潔な父として遇されていることは往々にしてあるのである。深層心理は自我の状態を欲動にかなったものにすれば快楽が得られるので、欲動に基づいて思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、人間を動かしているのである。それを、フロイトは快感原則と呼んだ。欲動とは、深層心理に内在している保身欲、承認欲、支配欲、共感欲という四つの欲望の集合体である。保身欲とは自我を確保・存続・発展させたいという欲望である。承認欲とは自我が他者に認められたいという欲望である。支配欲とは自我で他者・物・現象などの対象をを支配したいという欲望である。共感欲自我と他者の心の交流を図りたいという欲望である。欲動には、道徳観や社会規約を守るという欲望は存在しない。道徳観や社会規約を守るという志向性は表層心理に存在する。だから、深層心理は、道徳観や社会規約に縛られず、自我を主体に立てて、その時その場での快楽を求めて、欲動に基づいて思考し、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、自我である人間を動かしているのである。人間は自らのみならず他者や他人のの全体像がわからないのである。他者とは同じ構造体に所属している人々であり、他人とは別の構造体に所属している人々である。人間は、その構造体における自らの自我と他者の自我しか理解できないのである。他者の一部しか知ることができないのに、そこから全体像を推し量っているのである。しかし、人間は、幾つもの自我、幾つもの顔を持っているからである。人間の自我は、その人が所属している構造体の数だけ存在し、その数だけ、顔があるのである。そして、その顔に応じて、深層心理が自我の欲望を生み出して、その人を動かしているのである。
政治権力者も、自我の欲望に動かされて、戦争を引き起こすのである。ロシアのプーチン大統が自らの敵対勢力を暗殺するのは、ソ連時代に、KGB (ソ連国家保安委員会)職員として働き、保身欲によって、命令に従い、国家に反逆する者は官民を問わず暗殺することに慣れているからである。さらに、支配欲によって、国家主義的な領土拡大に快楽を覚え、Nato寄りの政策を採るウクライナに怒りを覚えて、軍隊を侵攻させたのである。ハマスは領土を奪ったイスラエルを常に憎み、パレスチナ人の承認欲からイスラエルに侵攻したのである。イスラエル政府にとってハマスは目の上の瘤であり、常につぶそうと考えていたから、ハマスに侵攻を機に、支配欲によって、破壊を考え、徹底的に攻撃しているのである。ロシア、ウクライナの兵士や国民、イスラエル、ハマスの兵士は、軍隊、国という構造体に属しているから、保身欲のために戦っているのである。しかし、戦争は政治の敗北である。戦勝国も敗戦国である。戦争は自然に起こらない。戦争は自我の欲望に駆られた政治権力者に引き起こされるが、右翼政党が支持し、右翼マスコミが煽り、大衆右翼が台頭するから、国民がやむを得ないと思うようになり、継続するのである。そして、多くの者が命を失うのである。もちろん、人間は、誰しも、一人では戦争を始めない。一人で戦争を始めれば、無勢の上に、必ず、自分が先頭に立ち、死ぬからである。だから、人間は、政治権力者になって、初めて、戦争を始めるのである。後方で指示するだけで、死ぬ可能性がほとんど無いからである。さらに、勝利すれば、英雄となり、敗北しても、ほとんど死ぬことは無いからである。万一、死ぬとしても、名も無き国民の後である。右翼も、一人では戦わない。恐いからである。だから、国民全体を巻き込むのである。国民全体を巻き込んで、自分が政治権力者と同じく指導者のつもりでいるのである。もちろん、実質的な指導者は政治権力者である。しかし、右翼は政治権力者に身も心も託すことによって、自分が指導者になった気でいるのである。しかし、戦争はゲームではない。戦争は、人間の自我の欲望をむき出しにさせ、戦場では、監視し裁く第三者がいないから、虐殺、拷問、レイプなどの残虐な行動が多発するのである。今や、戦争の目的は資源確保、食糧確保、領土確保・拡充ではない。もはや、経済闘争では無い。戦争の目的は、勝利して、支配欲や承認欲に基づく自我の欲望を満たして快楽を得ようとなのである。だから、なかなか勝利が得られない時、殺されることの不安、いらだちから、敵国の兵士や国民に対して、レイプ、拷問、虐殺を行うのである。レイプ、拷問、虐殺を行うことによって、支配欲を満たして快楽を得、不安、いらだちから一時的に解放されようとするのである。現在、世界中の人間が、国に所属し、国民という自我を持っているから、常に、政治権力者に篭絡され、愛国心に突き動かされて、戦場に赴く可能性があるのである。しかし、ほとんどの人は、この世に、自分として存在していると思っているのである。しかし、人間には、自分という独自のあり方は存在しないのである。常に、ある構造体に所属し、構造体から与えられた自我として存在するのである。ところが、多くの人は、構造体の中で他者から与えられた自我を自分だと思い込んで存在しているのである。他者や他人に対しても、その人の自我を本来のその人の姿だと思い込んでいるのである。しかも、人間は、深層心理が自我を主体に立てて思考して生み出した自我の欲望に動かされているのに、主体的に思考して行動していると思い込んでいるのである。しかし、人間は、生きるためには、他者から与えられたとは言え、自我が必要なのである.。なぜならば、人間とは社会的な存在者であり、社会生活を営むために構造体とは自我が不可欠だからである。人間は、他者との関係性との中で何者かになり、人間として存在することができるのである。他者との関係性を絶って、一人で生きることはできないのである。構造体で自我として他者と関わりながら生きるしかないのである。その関わりの中で、事件が起きるのである。政治権力者は国という構造体で国民という関わりの中で生きているのである。だから、国民の政治権力者に対する批判能力が優れていたならば戦争は起こらないが、国民が愚かならば自分たちが望まない戦争に駆り出されて殺し合うことになるのである。政治権力者は、愚かな国民を見くびり、自我の欲望に任せて戦争を起こすのである。ところが、国民は戦争は政治の延長であるということばを信じているのである。戦争が起こったならば、国を守るために、家族を守るために戦おうと思っているのである。しかし、戦争は、戦勝国も敗戦国も敗戦国である。戦争は政治権力者の自我の欲望の延長なのである。ニーチェは大衆は馬鹿だと言ったのは19世紀である。大衆はいつまで馬鹿なのであろうか。戦争になっても、日本人は戦場に赴く義務はない。日本国憲法には、自衛権しか規定が無いからだ、たとえ、集団的自衛権と言い、アメリカに追随した戦争でも、日本人には戦場に赴く必要は義務はないのである。しかし、おそらく、自民党、公明党、日本維新の会、立憲国民党は、国民に、積極的に参加することを呼びかけるだろうが、それに従う義務もない。民主主義とは国民の判断に政治をゆだねるということだからだ。日本国憲法が現と存在しているのに、戦争の可否を国民投票してもいないのに、なぜ戦争に参加する義務があるのか。たとえ、日本国憲法が右翼勢力によって変えられても、国民投票で戦争賛成票が過半数を超えても、戦争に参加するいわれはない。自分の命まで、政治家にゆだねてはいないからである。それでも、これらの政党の議員以外にも、産経新聞、読売新聞、フジテレビ、日本テレビ、週刊新潮などのマスコミ、ネット右翼、大衆右翼が、国民に戦争に積極的に参加するように煽るだろう。ドイツの哲学者のアドルノは「現代の理性は方向を誤り、第二次世界大戦、アウシュビッツの悲劇を生み出した。」と述べた。理性が、第二次世界大戦を引き起こし、ヒットラー率いるナチス党によるユダヤ人大虐殺の引き起こしたと言うのである。理性とは、人間の自らを意識しての思考である。人間の自らを意識しての精神活動を表層心理と言う。すなわち、理性とは、人間の表層心理での思考である。しかし、第二次世界大戦、ユダヤ人の大虐殺は、理性が生み出したものではなく、自我の欲望によって引き起こされたのである。ヒットラーの自我の欲望が第二次世界大戦を引き起こし、ユダヤ人の大虐殺を行うように人間を仕向けたのである。理性は自我の欲望を抑圧しきれないどころか、それに積極的に従ったのである。自我の欲望を満たすことに理性が寄与したのである。爆撃機、戦車、原子爆弾の発明、ユダヤ人の計画的な殺戮計画そして実行、広島長崎への核攻撃は、理性が積極的に自我の欲望に協力したことを示している。現在も続いているウクライナ戦争は、西欧寄りの政策をとるウクライナにロシアの大統領のプーチン大統領が兵を向けたのが発端である。ロシアを嫌っているゼレンスキー大統領はそれに真っ向から対抗した。数多くのロシア兵、ウクライナ兵、ウクライナ国民へが亡くなっても、まだ戦闘が続いている。プーチンのロシアの大統領としての自我の欲望、ゼレンスキーのウクライナの大統領としての自我の欲望が、無益であるばかりか残酷な戦争を継続させているのである。ハマスとイスラエルとの戦争も、イスラム教とユダヤ教、アラブ人とユダヤ人との自我の欲望の戦いである。20世紀から21世紀にかけて起きたミャンマーの国軍によるクーデター、ナイジェリアのボコ・ハラムによる学校襲撃、中国共産党による民主主義者弾圧、ジェノサイド、ロシアのプーチン大統領によるウクライナ侵攻、北朝鮮の金正恩による殺戮も、自我の欲望によって起こされたものである。岸田文雄内閣総理大臣が、軍備増強をしたのも、戦争の際には、自衛隊員、そうて、国民を兵士として、自ら指揮を執ることを夢見ているからである。戦争で指揮を執ることができれば、総理大臣としての自我の欲望が満たされるのである。しかし、戦争や殺人だけでなく、人間の全ての行動は自我の欲望によって引き起こされるのである。すなわち、人間は、常に、深層心理が生み出す感情と行動の指令という自我の欲望に動かされて行動しているのである。理性は自我の欲望を抑圧できないばかりか、時には、自我の欲望に協力するのである。なぜならば、理性で思考しても、それは行動する力を持っていないからである。理性は感情を生み出せず、理性で行動しても快楽が得られないのである。だから、人間世界には、飽きもせず、戦争や殺人が繰り返されるのである。だから、戦争は政治の延長ではなく、政治権力者の自我の欲望の延長なのである。人間は自我の欲望を満たすために生きているのである。なぜ、人間は自我の欲望を満たそうとするのか。それは、自我の欲望を満たせば快楽が得られ、それを満たさない間ば不愉快だからである。しかし、人間は自らを意識して思考して自我の欲望を生み出しているのではない。すなわち、人間は表層心理で思考して自我の欲望を生み出していないのである。自我の欲望は深層心理という心の奥底から湧き上がってくるから、人間は自我の欲望にとらわれて生きるしかないのである。しかも、自我の欲望は漠然とした欲望ではないからである。自我の欲望は感情と行動の指令から成り立っているのである。すなわち、深層心理が自らが生み出した感情の力で、自らが生み出した行動の指令通りに人間を動かしているのである。例えば、人間は人を殴るのは、深層心理が自らが生み出した怒りの感情の力で、自らが生み出した殴れという行動の指令通りに人間を動かしたからである。つまり、深層心理が思考して感情と行動の指令という自我の欲望を生み出して、人間を動かしているのである。戦争もまた自我の欲望の産物である。戦争は、政治権力者の深層心理が怒りの感情と戦争を仕掛けろという自我の欲望を生み出し、政治権力者を動かしたから、起こるのである。現代日本も、戦前の日本と同じように、死を覚悟しなければ、戦争反対、軍備拡張反対を唱えられない時代になりつつあるのである。政治は、大衆の意見によって変化し、大衆の考えが変わらない限り、自民党・公明党政治は変わらず、日本は軍備拡張そして戦争へと突き進んでしまうのである。ニーチェが言うように「大衆は馬鹿だ」から、自ら思考しようとせず、政治権力者や右翼マスコミや周囲の大衆右翼から与えられた因循姑息の政治意識から離れようとしない。それは、ラカンの「人は他者の欲望を欲望する。」(人間は、他者の思いに自らの思いを同化させようとする。人間は、他者から評価されたいと思う。人間は、他者の期待に応えたいと思う。)と言うように、大衆は、政治権力者、右翼政党、右翼マスコミ、大衆右翼いう他者の欲望を欲望するからである。70年安保闘争、全共闘の内ゲバ事件、連合赤軍の仲間に対する粛清事件などの悲劇・惨劇は、学生たちの大衆の政治意識を変えることはできないといういらだちから起こったのである。確かに、自分がどのように言動しようと、大衆の大半の政治意識は変わらない。しかし、それでも、言動し続けるのである。これが実存的な生き方であり、自分がこの世に生きている証を示すのである。インド建国の父と言われているガンジーは、「あなたがすることのほとんどは無意味であるが、それでも、しなくてはならない。世界を変えるためではなく、世界によって、自分が変えられないようにするために。」と言う。至言である。自分にできることは、政治権力者、右翼勢力、そして、大衆に、自分が変えられないために思考し、発言し、行動することしか無いのである。戦前、幸徳秋水、大杉栄、小林多喜二は、常に、国家権力の監視を受けながら、死を覚悟しつつ、戦争反対を唱えた。そして、国家権力によって、不当に逮捕され、虐殺された。平沼騏一郎は、1910年の大逆事件で検事を務め、冤罪で、幸徳秋水以下12名を死刑台に送り込んだ、世紀の大犯罪者である。その国家主義思想は、右翼団体の国本社を主宰するまでに至った。1939年1月から8月まで、平沼騏一郎内閣を組閣し、国民精神総動員体制の強化と精神的復古主義を唱えた。また、1945年1月から4月まで、枢密院議長として、降伏反対の姿勢で終戦工作をした。平沼赳夫のの養父が、平沼騏一郎である。平沼赳夫は、郵政民営化関連法案に反対して自民党を飛び出したが、安保法案に賛成すると菅官房長官に表明し、復党を許された。また、「慰安婦は売春婦だ」と言って、物議をかもした。甘粕正彦は、1923年9月16日、東京麹町憲兵分隊長の時、関東大震災の混乱に乗じて、無政府主義者の大杉栄、妻で婦人運動家の伊藤野枝、甥の6歳の橘宗一を連行し、絞殺した。軍法会議で懲役10年の刑を受けたが、3年後、釈放された。1930年、中国に渡り、1931年の満州事件以後、軍の謀略・工作活動に携わり、満州国建設に関わり、満州映画協会理事長を歴任した。1945年8月20日、敗戦の報を受けて、満州でピストル自殺した。安倍源基は、東京帝大法学部法律学科卒業であるが、戦前の特高部長時代、小林多喜二など、数十人を拷問死させている。戦前の旧東大法学部卒の特高の幹部だった安倍源基は、部下を指揮して、小林多喜二を初めとして、数十人の共産主義者や自由主義者を拷問で殺している。戦後、従三位勲一等に叙位・叙勲された。戦後の日本は、アメリカ(GHQ)が作成した日本国憲法によって、民主国家として、出発した。しかし、国民の大半は、戦前と同じく、国家主義者である。民主主義者を標榜しているが、本質的には、国家主義者である。戦後も、戦前と同じく、国民の大半は、国家主義者なのでである。それは、戦後の政治的な大事件が右翼によって引き起こされ、長期首相であった国家主義者の亡き安倍晋三が、どれだけ悪事を働いても、国民から高い支持を受けていることからも理解できる。戦後、右翼によって引き起こされた政治的事件を挙げてみよう。一つ目の例は嶋中事件である。深沢七郎の小説『風流夢譚』」が雑誌『中央公論』に掲載され、右翼が「皇室に対する冒瀆で、人権侵害である。」として中央公論社に抗議をしていたが、大日本愛国党の少年は、1961年2月1日、同社社長宅に侵入し、応接に出た同社長夫人をナイフで刺して重傷を負わせ、制止しようとした同家の家事手伝いの女性を刺殺した。二つ目の例は浅沼事件である。日本社会党委員長の浅沼稲次郎が、1960年10月12日午後3時頃、東京日比谷公会堂で演説中、少年に刺殺された。彼は、一時、赤尾敏が総裁である大日本愛国党に入党していた。「日本の赤化は間近い。」という危機感を抱き、容共的人物の殺害を考え、街頭ポスターで演説会を知り、犯行に及んだのである。後に、少年鑑別所の単独室で、壁に『七生報国』『天皇陛下万歳』と書き残して、自殺した。大江健三郎は、この事件に触発されて、「政治少年死す」という小説を書き、17歳の少年が類似した事件を起こし、自殺するまでを描いた。第2部を発表したところ、出版社及び著者に右翼から脅迫が行われ、第2部は、初出誌以外に収録されていない。戦前戦後を通じて、体制批判をする者は、政治権力者、官僚、右翼マスコミ、大衆右翼によって弾圧を受け、逮捕され、拷問され、あまつさえ命まで狙われてきたのである。明治から現代に至るまで、無数の者が弾圧され、命を奪われたのである。深層心理が生み出す自我の欲望に正直な幼稚な人間は、他者の命まで奪うのである。体制批判をする者は、自我の欲望に正直な幼稚な政治権力者、官僚、右翼マスコミ、大衆右翼によって弾圧を受け、逮捕され、拷問され、命を奪われてきたのである。それでも、体制批判をし、戦争反対したのはなぜか。実存的に思考し、主体的に行動できたからである。しかし、一般に、人間は、毎日同じようなことを繰り返すというルーティーンの生活をしている。深層心理に内在する、欲動の自我を確保・存続・発展させたいという保身欲が、毎日同じことを繰り返すルーティーンの生活を可能にしているのである。人間の毎日の生活がルーティーンになっているのは、欲動の保身欲からから発した深層心理が思考して生み出した自我の欲望のままに、表層心理で意識することなく、無意識に行動しているからである。また、日常生活がルーティーンになるのは、人間は、深層心理の思考のままに行動して良く、表層心理で意識して思考することが起こっていないことを意味しているのである。人間は、表層心理で意識して思考することが無ければ楽だから、毎日同じこと繰り返すルーティーンの生活を望むのである。だから、人間は、本質的に保守的なのである。ニーチェは、「永劫回帰」という言葉で、森羅万象は永遠に同じことを繰り返すという思想を唱えたが、それは、人間の生活にも当てはまるのである。しかし、人間は、誰しも、朝起きると、学校・職場に行くことを考えて不快になることがある。不快になったのは、表層心理での思考の結果ではなく、深層心理が思考して生み出したのである。表層心理での思考からは感情は生まれないのである。無意識のうちに、深層心理が思考して、学校・職場に行くと、同級生にいじめられたり上司に馬鹿にされたりして、承認欲が阻害され、自我が傷付けられるから、不快な感情と不登校・不出勤という行動の指令を生み出し、生徒・社員を動かそうとするのである。しかし、たいていの場合、無意識のうちに、超自我という機能が、不快な気持ちを抑圧し、登校・出勤する。それは、深層心理での思考と超自我という機能が働いたからである。超自我も、また、深層心理に内在し、欲動の保身欲から発したルーティーンの生活を守ろうとする機能である。もしも、深層心理が生み出した不快な感情が強すぎて、超自我の抑圧が功を奏さなかったならば、人間は、表層心理で、思考することになる。表層心理での思考は、長く時間が掛かる。それは、深層心理は快楽を求める思考だから、瞬間的に行われるが、表層心理での思考は、現実原則に基づくからである。現実原則は、フロイトの用語であり、自我に現実的な利得をもたらそうという欲望である。人間が、表層心理で、自らを意識して思考する時は、自我に現実的な利得をもたらそうという志向性で思考するのである。人間は、表層心理で、道徳観や社会規約を考慮し、長期的な展望に立って、自我に現実的な利得をもたらそうと思考するのである。道徳観や社会規約を考慮せずに行動すると、後に、他者から顰蹙を買う可能性があるからである。しかし、人間は、表層心理独自で思考することは無い。人間は、表層心理で、常に、深層心理が生み出した感情の下で、深層心理が生み出した行動の指令を受け入れるか拒否するかを審議するのである。人間は、表層心理で、深層心理が生み出した感情の下で、自我に現実的な利得をもたらそうという欲望に従って、深層心理が生み出した行動の指令通りに行動したならば、後に、自我がどうなるかという自我の将来のことを考え、深層心理が生み出した行動の指令を受け入れるか拒否するかについて思考するのである。もしも、超自我が、深層心理が生み出した学校・職場に行くなという行動の指令を抑圧できなかったなかったならば、人間は、表層心理で、思考することになるのである。人間は、表層心理で、深層心理が生み出した不快な感情の下で、自我に現実的な利得をもたらそうという欲望に従って、学校・職場に行かなかったならば、後に、自我がどうなるかという、他者の評価を気にして、将来のことを考え、深層心理が生み出した学校・職場に行くなという行動の指令をついて受け入れるか拒否するかについて思考するのである。そして、たいていの場合、深層心理が生み出した学校・職場に行くなという行動の指令を拒否する結論を出し、意志によって、学校・職場に行こうとするのである。しかし、深層心理が生み出した不快な感情が強過ぎると、超自我も表層心理の意志も、深層心理が生み出した学校・職場に行くなという行動の指令を抑圧できないのである。そして、深層心理が生み出した行動の指令のままに、学校・職場に行かないのである。その後、人間は、自宅で、表層心理で、この不快な感情と学校・職場に行くなという行動の指令から逃れるためにはどうしたら良いかと思考するのである。なぜならば、学校・職場に行かないことは、自我に現実的な利得をもたらさないからである。そして、たいていの場合、良い方法が思い浮かばず、苦悩するのである。また、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した学校・職場に行くなという行動の指令を拒否する結論を出し、意志によって、行動の指令を抑圧でき、学校・職場に行くことができたとしても、今度は、表層心理で、深層心理が生み出した不快な感情の下で、深層心理が納得するような代替の行動を考え出さなければならないのである。なぜならば、すぐには不快な感情は消えることがないからである、しかし、代替の行動をすぐには考え出せるはずも無く、不快な感情のままに、毎日、学校・職場に行くのである。そして、ルーティーンの生活に紛れて不快な感情は消えていけば良いが、不快な感情が積み重なると、その不快な感情から逃れるために、深層心理が自らに鬱病などの精神疾患をもたらすことがあるのである。深層心理は、鬱病などの精神疾患に罹患して、現実から逃れようとするのである。また、深層心理は、欲動の保身欲に応じて、自我の確保・存続・発展だけでなく、構造体の存続・発展のためにも、自我の欲望を生み出している。なぜならば、人間は、この世で、社会生活を送るためには、何らかの構造体に所属し、何らかの自我を得る必要があるからである。言い換えれば、人間は、何らかの構造体に所属し、何らかの自我を持していなければ、この世に生きていけないから、現在所属している構造体、現在持している自我に執着するのである。それは、一つの自我が消滅すれば、新しい自我を獲得しなければならず、一つの構造体が消滅すれば、新しい構造体に所属しなければならないが、新しい自我の獲得にも新しい構造体の所属にも、何の保証も無く、不安だからである。自我あっての人間であり、自我なくして人間は存在できないのである。だから、人間にとって、構造体のために自我が存在するのではない。自我のために構造体が存在するのである。しかし、実存に生きる者は、常に、掛け替えのない自己を守るためには、構造体から追放され、自我を失うこと、最悪の場合、命を失うことを覚悟しておかなければならない。もちろん、実存に生きる者は、構造体・自我に頓着していてはいけないのである。現代日本人のほとんどが、構造体・自我に頓着するあまり、忖度という言い訳の言葉を使って、不正を犯し、不正に荷担しているのである。現代日本人も、他国の人々と同じく、自己の意志で行動せず、自我の欲望によって動かされているのである。人間には、本質的に、自分の意志は存在しないのである。平穏な日常生活も残虐な犯罪も、自我の欲望がもたらしているのである。だから、他者や他人の犯罪に対しては正義感から怒りを覚える人が同じような犯罪を行ってしまうのである。他者や他人の犯罪に対する怒りも自らが為した犯罪も自我の欲望から発されているのである。だから、自らの思想で、自我の欲望をコントロールできない限り、誰しも、犯罪を行う可能性があるのである。すなわち、自らの正義に基づく志向性で思考し行動しない限り、誰しも、犯罪を行う可能性があるのである。実存しているとは、自己として存在し、正義という志向性で、自我の現況を対象化して思考して、行動することなのである。そもそも、人間には自分そのものは存在せず、人間はさまざまな構造体に所属しさまざまな自我を持って行動しているということは、ほとんどの人は、自己としても存在していないということを意味するのである。自己として存在するとは、主体的に思考して、行動することである。自己として存在するとは、自我のあり方を、自らの良心・正義感に基づいて、意識して、思考して、その結果を意志として、行動することである。自己とは、主体的に生きている人間を意味しているが、人間は、自我の欲望にとらわれた自我から自らの良心・正義感に基づく自己へとを転換させなければ、主体的に生きることはできないのである。自我を主体的に生きて、初めて、自己となるのである。しかし、ほとんどの人は、自我の欲望と自らの良心・正義感が対立した場合、自我の欲望を選択するから、主体的に生きることができず、自己として生きることができないのである。なぜならば、自己として生きようとして、自らの良心・正義感に基づいて行動すれば、構造体から追放され、自我を奪われ、時には、命を奪われる危険があるからである。しかし、そのような危険があっても、自らの思想に殉じた生き方をし、自己として生きている人だけが、実存し、戦争を拒否できるのである。







人間の精神の動きについて。(欲動その12)

2024-03-25 17:30:11 | 思想
人間は苦痛があるから考えるのである。苦痛は自我が異常な状態にあることを示している。苦痛には肉体的なものと精神的なものがあり、肉体的な苦痛は肉体的に異状があることを、精神的な苦痛は精神的に異状があることを示しているのである。だから、苦痛は単なる感覚ではない。苦痛は人間をして肉体的な異状や精神的な異状の除去を考えるように強制するのである。苦痛があるからこそ、人間は、肉体的な異状や精神的な異状の原因を考え、苦痛から解放される方法を考えるのである。苦痛がある間、人間は肉体的な異状や精神的な異状を改善する方法を考え続けるのである。さて、考えるという精神的な行動と同じような精神的な行動に思うがある。しかし、考えるは思うと同じではない。考えるということは、自我に差し迫ってくる事象を苦痛に感じ、その苦痛から解放されるための方法を考えている状態である。思うということは、自らの欲望がかなった状態にある自我を思い描いている状態である。だから、思うということの対象の中には、自我に差し迫ってくるような事象は存在せず、期待通りの事象が存在する。それ故に、考えるということには常に苦痛の中で行うが、思うということには常に快楽の中で行うのである。思想という言葉があるが、思考と異なり、思も想も同じ意味である。思想は思うことであり、懸想は異性に思いを掛けることであり、想像は良いことを思い浮かべることであり、理想は自分が期待通りのすばらしい状態にあることを思い描くことであり、空想は現実にはあり得ないすばらしいことをいろいろと思いめぐらすことである。だから、考える対象は苦痛の現実であるが、思う対象は空想、理想の対象なのである。人間にとってありのままの対象は存在せず、考える苦痛の対象になっているか思う喜びの対象になっているかなのである。さて、言うまでもなく、誰しも、快楽を歓迎し、苦痛を忌避する。それでも、苦痛があるのはなぜか。それは、深層肉体と深層心理が苦痛を生み出し、意志の及ばないところで生み出しているからである。深層肉体とは人間の無意識の肉体の活動であり、深層心理とは人間の無意識の精神の活動である。もちろん、肉体的な苦痛は深層肉体が生み出し、精神的な苦痛は深層心理が生み出している。深層肉体は欲求が阻害された時、苦痛を生み出すのである。欲求とは、深層肉体に内在し、ひたすら生きようという深層肉体を動かす意志である。深層心理は欲望が阻害されたから苦痛を生み出したのである。欲動とは、深層心理に内在し、深層心理の思考を動かす、四つの欲望である。欲動の第一の欲望が自我を確保・存続・発展させたいという保身欲である。欲動の第二の欲望が自我が他者に認められたいという承認欲である。欲動の第三の欲望が自我で他者・物・現象という対象をを支配したいという支配欲である。欲動の第四の欲望が自我と他者の心の交流を図りたいという共感欲である。深層心理は欲動の四つの欲望のいずれかが阻害された時、苦痛を生み出すのである。苦痛は、深層肉体・深層心理という無意識によって生み出されるから、人間はその誕生を阻止できないのである。苦痛は人間に苦しみをもたらすから、人間はその除去の方法を表層心理で考えるのである。表層心理とは、人間の自らを意識しての精神の活動である。すなわち、苦痛が起こると、人間は自らの状態を意識して、その除去の方法を考えるのである。しかし、深層肉体、深層心理は、苦痛をして、肉体の異状、精神の異状を人間に、知らせ、その対処を求めるだけでなく、自らもその治癒に励むのである。だから、人間は苦痛に耐え続ければ、ほとんどの異状は治癒し、苦痛がなくなるのである。苦痛のの消滅が治癒の証なのである。しかし、人間には、たいていの苦痛に耐えきれず、それが永遠に続くように思われるので、表層心理で、自らの状態を意識して、その除去の方法を考えるのである。そして、苦痛が収まれば、再び、人間はルーティーンという毎日同じことを繰り返す生活を始めるのである。つまり、肉体的にしろ精神的にしろ、苦痛が無ければ、人間はルーティーンという毎日同じことを繰り返す生活を維持し、苦痛が起こると、ルーティーンという平穏な生活が打ち破られ、人間は表層心理でその除去の方法を考えるのである。例えば、指に苦痛が走る時がある。それはルーティーンの生活が打ち破られたことを意味する。すると、人間は、その指を見つめ、怪我していことに気づき、苦痛のの原因とそれから解放される方策を考えるのである。人間は、料理をしている時、誤って、包丁で指を切る時がある。指に痛みが走ったから、指を見つめ、出血し、怪我したことに気付き、表層心理で、傷の治療を考えるのである。指に痛みが無ければ、指を見つめることもなく、そのままの調子で包丁を使い続ける。しかし、表層心理で思考して、治療しなくても、深層肉体は、血小板が血液を固めて傷口を塞ぎ、白血球が細菌を殺し、怪我をした個所に向かう。そうして、暫くすると、損傷した個所は復元するのである。しかし、指の苦痛は非日常的なことだから、苦痛があると、表層心理で、指の傷をみつめ、それを意識して、応急手当を考えるのである。逆に言えば、苦痛が無いことは、人間にとって、異常な状態では無いことを意味しているのである。もちろん、苦痛は肉体だけではなく、精神にも起こる。例えば、人間は、他者に侮辱されて、心に痛みを感じることがある。自我が下位に落とされ、心が傷付いたから、痛みを感じたのである。傷付くと同時に心に痛みが生じるのである。深層心理が他者の言葉を侮辱と捉え、自我が他者に認められたいという欲動の第二の欲望である承認欲が阻害されたから、傷付き、苦痛を覚えたのである。そのような時、深層心理は、自我の欲望として、怒りという感情と殴れなどの行動の指令を生み出し、人間を動かそうとする。深層心理は、心を傷つけた他者を殴るなどの復讐をすることによって他者の自我を貶め、貶められた自らの自我を復位させようとするのである。深層心理は、常に、思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、感情を動力として、行動の指令通りに人間を動かそうとしているのである。感情の最も強いものは怒りである。深層心理が怒りという感情と殴れという行動の指令を生み出せば、怒りという強い感情は強い動力となり、自我となっている人間に殴ることを強く促すのである。しかし、そのような時、まず、無意識のうちに、超自我が、深層心理が生み出した殴れという行動の指令を抑圧しようとする。超自我とは、深層心理に内在する欲動の凱一の欲望である自我を確保・存続・発展させたいという保身欲から発したルーティーンの生活を守ろうとする機能である。しかし、深層心理が生み出した怒りの感情が強すぎる場合、深層が生み出した殴れという行動の指令を、超自我は抑圧できないのである。そのような場合、すなわち、超自我の抑圧が功を奏さなかったならば、人間は、表層心理で、自らを意識して思考して、行動しようとする。人間が、表層心理で自我の状態を意識して思考するのは、深層心理がルーティーンの生活を打ち破ろうとする怒りの感情を生み出し、超自我が行動の指令を抑圧できなかったからである。人間は、表層心理で思考して、現実的な利得を求めて、深層心理が生み出した行動の指令を受け入れるか拒否するかを審議する。表層心理の現実的な利得を求めて思考するあり方を、フロイトは現実原則と呼んだ。現実原則からすれば、当然のごとく、殴れという行動の指令は抑圧する結論になる。抑圧する理由は二つある。一つは、殴った後、他者から、どのような復讐を受けるかわからないからである。もう一つは、殴った後、構造体という他者の集団から顰蹙を買い、社会という他人の集団から非難され罰せられる可能性が高いからである。他者とは構造体内の人々であり、他人とは構造体外の人々である。しかし、深層心理が生み出した怒りの感情が強過ぎると、超自我の抑圧の機能も表層心理での思考による抑圧の意志も、深層心理が生み出した殴れという行動の指令を抑圧できないのである。そして、他者を殴り、構造体から顰蹙を買い、社会から非難や処罰を受けるのである。このように、肉体的な苦痛や精神的な苦痛があれば、人間は、表層心理で、自らの状態を意識して思考し、肉体的にも精神的にも苦痛が無ければ、人間は、無意識のうちに、ルーティーンの生活を続けるのである。それでは、人間の日常生活の精神はどのような状態にあるか。深層心理が、常に、心境の下で、自我を主体に立てて、欲動に基づいて快楽を求めて思考して、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、自我である人間を動かそうとしているのである。それでは、自我とは何か。自我とは、ある構造体の中で、あるポジションを得て、それを自分だとして、行動するあり方である。構造体とは、人間の組織・集合体である。人間は、常に、構造体に所属して、自我として生きているのである。構造体には、学校、会社、店舗、施設、市役所、夫婦、家族、仲間、カップルなどがある。学校という構造体には生徒・教諭・校長などの自我、会社という構造体には社員・課長・社長などの自我、店舗という構造体には客・店員・店長などの自我、施設という構造体には所員・所長などの自我、市役所という構造体には職員・助役・市長などの自我、夫婦という構造体には夫・妻という自我、家族という構造体には父・母・息子・娘などの自我、仲間という構造体には友人という自我、カップルという構造体には恋人いう自我がある。人間は、自我を持って、初めて、動物から離れ、人間として暮らしていけるのである。自我を持つ前の人間は、深層肉体の生きようという欲求を満足させるためだけに生きているのである。次に、心境とは何か。心境とは、感情と共に、深層心理の情態である。心境は、気分とも表現される。深層心理は、常に、心境の下にある。心境はルーティンの生活を維持しようとし、感情はそれを打ち破ろうとする。感情が湧き上がれば、その時は、心境が消える。心境と感情は並び立たないのである。心境は、爽快、陰鬱など、長期に持続する情態であり、感情は、喜怒哀楽など、瞬間的に湧き上がる情態である。感情は、深層心理によって、行動の指令と同時に生み出され、行動の指令を行う動力になる。深層心理が爽快という心境にある時は、現状に充実感を抱いているという状態を意味し、深層心理は新しく自我の欲望を生み出さず、自我に、ルーティーンの行動を繰り返させようとする。深層心理が陰鬱という心境にある時は、現状に不満を抱き続けているという状態を意味し、深層心理は現状を改革するために、どのような自我の欲望を生み出せば良いかと思考し続ける。深層心理が喜びという感情を生み出した時は、現状に大いに満足しているということであり、深層心理が喜びという感情とともに生み出した行動の指令は、現状を維持しようとするものになる。深層心理が怒りという感情を生み出した時は、現状に大いに不満を抱いているということであり、深層心理が怒りという感情ととみに生み出した行動の指令は、現状を改革・破壊しようとするものになる。深層心理が哀しみという感情を生み出した時は、現状に不満を抱いているがどうしようもないと諦めているということであり、深層心理が哀しみという感情ととみに生み出した行動の指令は、現状には触れないものになっているのである。深層心理が楽しみという感情を生み出した時は、将来に希望を抱いているということであり、深層心理が楽しみという感情とともに生み出した行動の指令は、現状を維持しようとするものになる。深層心理が、常に、心境や感情という情態が覆われているからこそ、人間は、表層心理で、自分の存在を意識する時は、常に、ある心境やある感情という情態にある自分としても意識するのである。心境や感情という情態こそが自らが存在していることを指し示すのである。しかし、心境も感情も、意志に左右されないのである。心境は、深層心理に存在しているから、人間は、表層心理の意志ではそれも変えることはできないのである。感情も、深層心理によって生み出されるから、人間は、表層心理の意志ではそれを変えることはできないのである。しかし、心境は変わる時がある。それは、まず、深層心理が自らの心境に飽きた時に、心境が、自然と、変化するのである。気分転換が上手だと言われる人は、表層心理で、意志によって、気分を、すなわち、心境を変えたのではなく、深層心理が自らの心境に飽きやすく、心境が、自然と、変化したのである。さらに、深層心理がある感情を生み出した時、一時的に、深層心理の状態は、感情に覆われ、心境は消滅する。その後、感情が収まり、心境は回復するが、その時、心境は、変化する。だから、人間は、自ら意識して、自らの意志によって、心境も感情も、生み出すこともできず、変えることもできないのである。心境がおのずから変化し、感情がおのずから収まるのを待つしかないのである。それでも、人間は、嫌な心境を、表層心理の意志で意識して変えようとする。それが気分転換である。何かをすることによって、心境を変えようとするのである。つまり、人間は、表層心理で、意識して、気分転換、すなわち、心境の転換を行う時には、直接に、心境に働き掛けることができから、何かをすることによって、心境を変えようとするのである。酒を飲んだり、音楽を聴いたり、スイーツを食べたり、カラオケに行ったり、長電話をしたりすることによって、気分転換、すなわち、心境を変えようとするのである。それほどまでに、心境は人間を大きく動かすのである。オーストリア生まれの哲学者ウィトゲンシュタインは「苦しんでいる人間は、苦しみが消えれば、それで良い。苦しみの原因が何であるかわからなくても構わない。苦しみが消えたということが、問題が解決されたということを意味するのである。」と言う。苦しんでいる人間は、苦しみの心境から逃れることができれば、それで良く、必ずしも、苦悩の原因となっている問題を解決する必要は無いのである。人間は、苦しいから、その苦しみの心境から逃れるために、苦しみをもたらしている原因や理由を調べ、それを除去する方法を考えるのである。苦しみの心境が消滅すれば、途端に、思考は停止するのである。たとえ、苦しみをもたらしている原因や理由を調べ上げ、それを問題化して、解決する途上であっても、苦しみの心境が消滅すれば、途端に、思考は停止するのである。つまり、苦痛が存在しているか否かが問題が存在しているか否かを示しているのである。苦痛があるからこそ、人間は考えるのである。楽しい時に、誰が、考えるだろうか。楽しい時は、考えているるのではなく、思っているのである。次に、欲動であるが、先に述べたように、欲動とは、深層心理に内在し、深層心理の思考を動かす、四つの欲望である。四つの欲望とは、自我を確保・存続・発展させたいという保身欲、自我が他者に認められたいという承認欲、自我で他者・物・現象という対象をを支配したいという支配欲、自我と他者の心の交流を図りたいという共感欲である。深層心理は、自我の状態が欲動の四つの欲望のいずれかにかなったものであれば、快楽を得ることができるから、欲動の四つの欲望に基づいて思考し、感情と行動の指令という自我の欲望を生み出し、自我になっている人間を動かすのである。欲動には、道徳観や社会規約を守ろうという欲望は存在しない。だから、深層心理は、道徳観や社会規約に縛られず、その時その場でひたすら快楽を求めて、思考するのである。それを、フロイトは快感原則と呼んだ。人間が、道徳観や社会規約を意識するのは、表層心理で思考する時である。さて、欲動の第一の欲望は自我を確保・存続・発展させたいという保身欲である。深層心理は自我う保身化して、がルーティンの生活を維持しつつ自我を発展させようとしているのである。欲からである。人間が、結婚、入学、入社を祝福するのは、夫(妻)、生徒、社員という自我を確保したいという保身欲からである。人間が、離婚、退学、退社を忌避するのは、夫(妻)、生徒、社員という自我を失うのを恐れているからである。人間が、会社などの構造体で昇進を喜ぶのは、自我を発展させたいという保身欲が満たされたからである。また、深層心理は、自我の確保・存続・発展だけでなく、構造体の存続・発展のためにも、自我の欲望を生み出している。なぜならば、人間は、この世で、社会生活を送るためには、何らかの構造体に所属し、何らかの自我を得る必要があるからである。言い換えれば、人間は、何らかの構造体に所属し、何らかの自我を持していなければ、この世に生きていけないから、現在所属している構造体、現在持している自我に執着するのである。それは、一つの自我が消滅すれば、新しい自我を獲得しなければならず、一つの構造体が消滅すれば、新しい構造体に所属しなければならないが、新しい自我の獲得にも新しい構造体の所属にも、何の保証も無く、不安だからである。また、自我あっての人間であり、自我なくして人間は存在できないのである。だから、人間にとって、構造体のために自我が存在するのではない。自我のために構造体が存在するのである。だから、構造体の存続を自我の存続のように喜び、構造体の発展を自我の発展のように喜ぶのである。また、高校サッカーや高校野球で郷土チームを応援するのもオリンピックやワールドカップで自国選手や自国チームを応援するのも、郷土愛からだとか愛国心からだとか言われているが、郷土愛や愛国心は保身欲から生まれているのである。そして、郷土愛や愛国心は承認欲、支配欲、共感欲を誘発するのである。郷土チーム、自国選手、自国チームが勝利すれば、自我が承認されたように嬉しく、自我が相手チーム、相手選手を支配したように嬉しいのである。さらに、郷土チーム、自国選手、自国チームとともに戦っているような共感欲もわいてくるのである。しかし、郷土愛、愛国心があるからこそ、戦争を引き起こし、敵国の人間という理由だけで殺すことができるのである。郷土愛、愛国心と言えども、それが発揮されるのは自我の欲望だからである。人間は、自我の欲望を満たせば快楽を得ることができ、自我の欲望が満たすことができなければ不満を抱くのである。そして、不満を解消するために、戦場では、日常では起こさない残虐な行為を犯すのである。戦場で、新たな自我の欲望が生まれてくるからである。だから、郷土、国という構造体が存在する限り、郷土愛、愛国心という自我愛が存在し、人類は、戦争を引き起こし、戦場において残虐な行為を犯し続けるのである。次に、欲動の第二の欲望が、自我が他者に認められたいという承認欲である。深層心理は、自我が他者に認められると、喜び・満足感という快楽を得られるのである。深層心理は、自我を対他化して、その欲望を満たそうとする。自我の対他化とは、他者から評価認められたいという思いで自分がどのようにみられているかを探ることである。人間は、誰しも、常に、他者から認めてほしい、評価してほしい、好きになってほしい、愛してほしい、信頼してほしいという思いで、他者の気持ちを探っているのである。フランスの心理学者のラカンは「人は他者の欲望を欲望する」と言う。この言葉は「人間は、他者のまねをする。人間は、他者から評価されたいと思う。人間は、他者の期待に応えたいと思う。」という意味である。この言葉は、自我が他者に認められたいという深層心理の欲望、すなわち、自我の対他化の作用を端的に言い表している。つまり、人間は、主体的に自らの評価ができないのである。人間は、無意識のうちに、他者の欲望を取り入れているのである。だから、人間は、他者の評価の虜、他者の意向の虜なのである。他者の評価を気にして判断し、他者の意向を取り入れて判断しているのである。つまり、他者の欲望を欲望して、それを主体的な判断だと思い込んでいるのである。だから、会社でいつも優しく接してくる上司、高校でいつもほめてくれる教師の期待に応えようとして、営業、勉強に励もうと思うのである。しかし、会社でいつも𠮟りつける上司、学校で怒ってくる教師がいると、承認欲を傷付けられた深層心理は、怒りの感情と上司や教師を殴れという行動の指令という自我の欲望を生み出し、会社員や高校生を動かそうとする。しかし、深層心理には、超自我という機能もあり、それが働き、日常生活のルーティーンから外れた行動の指令を抑圧しようとするのである。超自我が抑圧できなかった場合、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した感情の下で、道徳観や社会的規約を考慮し、現実原則の下で、長期的な展望に立って、深層心理が生み出した行動の指令について、許諾するか拒否するか、意識して思考するのである。人間の表層心理での思考が理性であり、人間の表層心理での思考の結果が意志である。会社員や高校生は、表層心理で、深層心理が生み出した怒りの感情の下で、現実原則に基づいて、相手を殴ったならば、後に、自我に不利益がもたらされるということを、他者の評価を気にして、将来のことを考えて、結論し、深層心理が生み出した上司や教師を殴れという行動の指令を抑圧しようと考える。しかし、深層心理が生み出した怒りの感情が強過ぎると、超自我も表層心理の意志による抑圧も、深層心理が生み出した相手を殴れという行動の指令を抑圧できないのである。そして、深層心理が生み出した行動の指令のままに、上司や教師を殴ってしまうのである。それが、所謂、感情的な行動であり、自我に悲劇、他者に惨劇をもたらすのである。また、たとえ、人間は、表層心理で、深層心理が生み出した行動の指令を拒否する結論を出し、意志によって、行動の指令を抑圧できたとしても、今度は、表層心理で、深層心理が生み出した怒りの感情の下で、深層心理が納得するような代替の行動を考え出さなければならないのである。そうしないと、怒りを生み出した心の傷は癒えないのである、しかし、代替の行動をすぐには考え出せるはずも無く、自己嫌悪や自信喪失に陥りながら、長期にわたって、苦悩の中での思考がが続くのである。次に、欲動の第三の欲望が、自我で他者・物・現象(こと)などの対象を支配したいという支配欲である。深層心理が、自我で他者・物・現象という対象を支配することによって、快楽を得ようとするのである。深層心理が自らの志向性(観点・視点)で他者・物・現象を捉えることを対象の対自化と言う。つまり、対象の対自化とは、対象を志向性で自我の支配下に置くことなのである。対象の対自化とは、「人間は、無意識のうちに、深層心理が、他者という対象を支配しようとする。人間は、無意識のうちに、深層心理が、物という対象を、自我の志向性で利用しようとする。人間は、無意識のうちに、深層心理が、現象という対象を、自我の志向性で捉えようとする。」という意味である。まず、他者という対象の対自化であるが、それは、自我が他者を支配すること、他者のリーダーとなることである。つまり、他者の対自化とは、自分の目標を達成するために、他者の狙いや目標や目的などの思いを探りながら、他者に接することである。簡潔に言えば、力を発揮したい、支配したいという思いで、他者に接することである。自我が、他者を支配すること、他者を思うように動かすこと、他者たちのリーダーとなることがかなえられれば、喜び・満足感が得られるのである。他者たちのイニシアチブを取り、牛耳ることができれば、快楽を得られるのある。教師が校長になろうとするのは、深層心理が、学校という構造体の中で、教師・教頭・生徒という他者を校長という自我で対自化し、支配したいという欲望があるからである。自分の思い通りに学校を運営できれば楽しいからである。会社員が社長になろうとするのも、深層心理が、会社という構造体の中で、会社員という他者を社長という自我で対自化し、支配したいという欲望があるからである。自分の思い通りに会社を運営できれば楽しいからである。さらに、わがままも、他者を対自化することによって起こる行動である。わがままを通すことができれば快楽を得られるのである。次に、物という対象の対自化であるが、それは、自我の目的のために、物を利用することである。山の樹木を伐採すること、鉱物から金属を取り出すこと、いずれもこの欲望による。物を利用できれば、物を支配するという快楽を得られるのである。最後に、現象という対象の対自化であるが、それは、自我の志向性で、現象を捉えることである。人間を現象としてみること、世界情勢を語ること、日本の政治の動向を語ること、いずれもこの欲望による。現象を捉えることができれば快楽を得られるのである。さらに、対象の対自化が強まると、深層心理には、有の無化と無の有化という機能が生まれる。有の無化とは、人間は、自我を苦しめる他者・物・事柄という対象がこの世に存在していると、無意識のうちに、深層心理が、この世に存在していないように思い込むことである。犯罪者の深層心理は、自らの犯罪に正視するのは辛いから、犯罪を起こしていないと思い込むのである。借金をしている者の中には、返済するのが嫌だから、深層心理が、借金していることを忘れてしまうのである。無の有化という機能は、深層心理は、自我の志向性に合った、他者・物・事柄という対象がこの世に実際には存在しなければ、無意識のうちに、深層心理が、この世に存在しているように創造するという意味である。人間は、自らの存在を保証する絶対的なものが必要だったから、深層心理は、実際にはこの世に存在しない神を創造したのである。いじめっ子の親は親という自我を傷付けられるのが辛いからいじめの原因をいじめられた子やその家族に求めるのである。ストーカーは、相手の心から自分に対する愛情が消えたのを認めることが辛いから、相手の心に自分に対する愛情がまだ残っていると思い込み、その心を呼び覚ませようとして、付きまとうのである。有の無化、無の有化、いずれも、深層心理が自我を正当化して心に安定感を得ようとするために行うのである。最後に、欲動の第四の欲望が自我と他者の心の交流を図りたいという共感欲である。それは、自我と他者の共感化という作用として現れる。自我と他者の共感化は、深層心理が、自我が他者を理解し合う・愛し合う・協力し合うことによって、快楽を得ようとすることである。つまり、自我と他者の共感化とは、自分の存在を高め、自分の存在を確かなものにするために、他者と心を交流したり、愛し合ったりすることなのである。それがかなえられれば、喜び・満足感が得られるからである。愛し合うという現象は、互いに、相手に身を差しだし、相手に対他化されることを許し合うことである。若者が恋人を作ろうとするのは、カップルという構造体を形成し、恋人という自我を認め合うことができれば、そこに喜びが生じるからである。しかし、恋愛関係にあっても、相手から突然別れを告げられることがある。別れを告げられた者は、誰しも、とっさに対応できない。今まで、相手に身を差し出していた自分には、屈辱感だけが残る。屈辱感は、欲動の第二の欲望である自我が他者に認められたいという承認欲が失われたことから起こるのである。相手から別れを告げられると、誰しも、ストーカー的な心情に陥る。相手から別れを告げられて、「これまで交際してくれてありがとう。」などとは、誰一人として言えないのである。深層心理は、カップルや夫婦という構造体が破壊され、恋人や夫・妻という自我を失うことが辛いから、暫くは、相手を忘れることができず、相手を恨むのである。その中から、ストーカーになる者が現れるのである。深層心理は、ストーカーになることを指示したのは、屈辱感を払うという理由であり、表層心理で、抑圧しようとしても、ストーカーになってしまったのは、それほど屈辱感が強かったのである。ストーカーになる理由は、カップルという構造体が破壊され、恋人という自我を確保・存続・発展させたいという保身欲がかなわなくなったことの辛さだけでなく、恋人としての自我を相手に認めてほしいという承認欲がかなわなくなったことの辛さもあるのである。また、中学生や高校生が、仲間という構造体で、いじめや万引きをするのは、友人という自我と友人という他者が共感化し、そこに、連帯感の喜びを感じるのである。さらに、敵や周囲の者と対峙するための「呉越同舟」(共通の敵がいたならば、仲が悪い者同士も仲良くすること)という現象も、自我と他者の共感化の欲望である。一般に、二人が仲が悪いのは、互いに相手を対自化し、できればイニシアチブを取りたいという支配欲から起こるがが、それができず、それでありながら、相手の言う通りにはならないと徹底的に対他化を拒否しているから起こる現象である。そのような状態の時に、共通の敵という共通の対自化の対象者が現れたから、二人は協力して、立ち向かうのである。それが、「呉越同舟」である。協力するということは、互いに自らを相手に対他化し、相手に身を委ね、相手の意見を聞き、二人で対自化した共通の敵に立ち向かうのである。中学校や高校の運動会・体育祭・球技大会で「クラスが一つになる」というのも、自我と他者の共感化の現象であり、「呉越同舟」である。他クラスという共通に対自化した敵がいるから、一時的に、クラスがまとまるのである。自民党や右翼が、中国・韓国・北朝鮮という敵対国を作って、大衆を踊らせ、大衆の支持を集めたのである。「呉越同舟」を利用した狡猾な行動である。