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”大文字焼き”からの続きです。
大文字焼きからの景色、曇りですが、いいですね
また鬱蒼とした道つづく。
やっと開けた。 右に行くと頂上。
てっぺん 924m
御嶽大神さま、他石仏が祀られています。
誰もいません。
眺望はありません。
ゆで卵、お菓子とか食べて少し休憩。
戻ります。
帰りは日が出てきたから、道、少し明るい。
朝ごはんも食べてなくお腹減ったから、強羅駅で、お店を探すが、混んでて、唯一空いてるここにはいって、チャーハン、ナポリタン、ノンアルビール等を食す。
お店の人が忍者のかっこしてて、「~でござるぅ」と話す
戦国大名はそれぞれ忍びを使っていて、小田原北条氏に閊えたのが”風魔”です。
<風魔一党の活躍:甲斐武田軍との戦>
天正9年(1581)に武田勝頼は、大軍を率いて、北条の伊豆領へ攻め入り、武田軍は、黄瀬川を隔てて駿河三枚橋から浮島ヶ原に、北条軍は三島と伊豆初音ヶ原に布陣した。
この時風魔一党は、約200名を四隊に分け、雨の夜も、晴れの夜も、風の夜も、黄瀬川の激流を巧みに渡り、武田の陣に夜襲をかけたと云われている。
はじめの二、三度は、馬に藁人形を乗せて武田の陣に追い込み、また藁人形かと思ったとき、本当に夜討ちをかける。敵の馬を盗んでいくときは、馬の横腹に貼り付き、馬上に人が居ない状態で疾駆させる。鎧、武器、食糧、手当たり次第に掠奪し、あちこちに放火し、敵中にまぎれこんで鬨(とき)の声をあげて混乱させる。
このようなことをされて武田軍は夜も落ち着いて眠ることができず、ついには同士討ちをしたり、主人と家臣が切り合ったり、子が親の首をとったりするようになってしまったという。
また、引き上げる風魔に混じって尾行した武田の武士は、「立ちすぐり居すぐり」(一斉に立ち、また一斉にしゃがむ)という敵味方識別法にかかって、簡単に正体を見破られてしまったという。「怨めしの 風魔が忍びや。 あら辛の 乱波が夜討や」と武田軍は詠じて嘆いたと云われている。
以上、HPより抜粋。
有名な伊賀、甲賀。
信長、秀吉の雑賀衆、根来衆。
上杉謙信の軒猿(のきざる)。
毛利の座頭衆(ざとうしゅう)や世鬼一族(せきいちぞく)複数の忍者集団。
などなど、忍びは、当時、蔑まれ下に見られてたそうですが、諜報、調略、攪乱、陰の仕事に力を発揮、各大名にとってたいへん重要でした。
強羅駅からまたスィッチバック登山鉄道で、箱根湯本駅へ、着いたらすぐ北千住駅直通が待っており、慌てて乗る。 この電車滅多に無い、グッドタイミング
見ていただきありがとう、終わりです
施設の子供達、施設出身の若者達が充実した人生を送れるように願い、彼らをサポートしてる方々にも福が来るようにね