大阪東教会礼拝説教ブログ

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ペトロの手紙Ⅱ第1章5~11節

2021-11-07 17:52:35 | ペトロの手紙Ⅱ

2021年11月7日大阪東教会主日礼拝説教「たしかな天国」吉浦玲子 

 私自身はまだお授けした経験がありませんが、世の中には、地上の命があとわずかとなった時に病床で洗礼をお受けになる人がいます。かなり切迫した状況での緊急洗礼になることもあります。ある先生は、教会員から自分の高齢となった叔父のところへ訪問してほしいと頼まれ訪問されました。その叔父さんはクリスチャンではなく教会にも来たことのない方です。ご高齢で外出がままならず、クリスチャンの姪が、病で余命いくばくもない叔父さんにせめて一度でも牧師から聖書の話を聞いて欲しいと願って牧師に頼んだのです。牧師は、その会ったことのない叔父さん方に行くとき、ふと感じるところがあって、洗礼式の準備をしていったそうです。はたして、訪問をすると、叔父さんはすでにキリスト教のことはご自身でさまざまに勉強をなさっていて、イエス様を信じたいという思いをお持ちでした。牧師は、その場で、十字架のこと、救いのことをお話しし、信仰を確認して、病床洗礼を授けたそうです。その後、叔父さんは、さらにお体が衰弱され、教会に通うことはできず、天に召されました。この世で礼拝に出席することはかなわず、言ってみれば自分の葬儀が教会での初めての礼拝であったともいえます。 

 

 ところで、「天国泥棒」という言葉があるそうです。病床洗礼、緊急洗礼を含め、かなりご高齢になって、クリスチャンになった人のことを言うようです。ちっと人聞きの悪い言葉です。でもおそらくけっして批判する言葉ではなく、称賛や羨ましさを含んだ言葉だと思います。これはイエス様が十字架におかかりになった時、同時に十字架にかけられていた二人の強盗のうち一人が、十字架の上で、イエス様に救われたというエピソードから来ています。その強盗はイエス様と共に十字架にかけられながら、群衆にののしられながらも自分の罵る人々のために祈られるイエス様のお姿を見て、ああこの方は神から来られたお方だと感じたのです。そしてイエス様に向かって「あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と願いました。それに対して主イエスは「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」とお答えになりました。楽園とは、かつてアダムとエバが罪に陥る前にいたようなところ、罪のない世界です。つまりあなたは罪赦されてすでに私と一緒にいると主イエスはおっしゃったのです。実際のところろ、十字架にかかっていた罪人は政治犯であるとも、強盗であるとも言われています。政治犯であれ強盗であれ、十字架にかけられるということはかなりの重い罪を犯したのです。自分の思いのためなら人の命すらどうでもいいというような生き方をしてきた人間です。強盗とも言われることから、この人は生きている時は他の人かいろんなものを盗んで来て、死ぬ直前に、今度は天国まで盗んだということで「天国泥棒」とジョークのように言われるのです。神から離れて、神をも恐れず生きて来たくせに、最後の最後に天国行きの切符を手に入れた、実際のところ、十字架にかけられていた強盗は別に天国を泥棒したわけではありません。十字架の上の主イエスのお姿を見て、初めて、彼は自らのこれまでの罪を知ったのです。「あなたの国へ入れてください」などとはけっして願うことのできない自分の罪の深さを知ったのです。ですからせめての思いで「思い出してください」と願ったのです。そこに彼のまことの悔い改めがあり、その悔い改めとキリストへの信仰告白ゆえ、主イエスに彼を赦されました。 

 

 ここにいる私たちは、そしてまたネットなどで、礼拝を捧げておられる方は、今日、イエス・キリストと出会って、命を終えられるわけではありません。洗礼によって罪赦され、御国への約束をいただき、なお、時間の長短はあれ、人生の日々を生きていきます。 

 「こうして、わたしたちの主、救い主イエス・キリストの永遠の御国に確かに入ることができるようになります。」こうペトロは今日お読みした聖書の最後で語っています。「こうして」とあるように、私たちには、洗礼を受けてから、御国に入るまでそれぞれに時間の経過があります。そして「こうして」、ということで御国に入ります。ところで、「御国に確かに入ることが<できるようになります。>」というからには、入ることができない場合があるように思えます。また、<できるようになるため>の条件があるように思います。この手紙は各地のクリスチャンに送られたものです。洗礼を受け、信仰生活を行っている人々です。ということは、私たちも含めて、なんらかの条件に合わなければ御国に入れないのでしょうか?ペトロの語ることをしっかり守らないと御国の入口で追い返されるのでしょうか? 

 

 それは実はわからないことなのです。私たちはたしかに御国の約束を受けました。それはたしかな約束です。前にもお話ししましたが、ある先生は、すでに私たちは御国行き、天国行きの電車に乗って、その御国の駅にすでに電車は着いている、あとはその扉が開くのを待つだけだ、今はその天国の駅で電車の扉が開くのを待っている状態だとおっしゃいました。つまりこれから、天国駅までの切符を買ったり、運賃をチャージしたりするのではないのです。しかし、扉の開閉の権利はあくまでも神がお持ちです。神の権利を人間が侵すことはできません。悔い改めて洗礼を受けて、いまや天国の駅に着いている、今か今かと扉が開かれるのを期待をもって私たちは待っています。しかし神のなさることに対して、私たちは100%こうされるとは断定はできないのです。100%扉が開くとも、100%扉が開かないとも断定はできないのです。それは私たちが決めることではないのです。私たちが立派なクリスチャンとして生きて来たから当然扉が開かれるわけではないです。私たちの側の意思や努力によって扉が開かれるのではないのです。私たちに扉をこじ開ける権利はありません。 

 

 しかし、同時に私たちは聞くのです。「今日、あなたは私と一緒に楽園にいる」という言葉を。今日、私たちはすでにキリストと一緒にいるのです。礼拝においてキリストとお会いしているのです。キリストと一緒にいる私たちの前にある扉が開かないことがあるでしょうか?十字架の上の強盗は、そこで深い教理を学んだわけでも、困っている人を助けたわけでも、教会のために奉仕をしたわけではないのです。ただ悔い改めて、キリストの隣にいたのです。いた、といっても自分の意思でいたわけではなく、散々ひどいことをして生きて来て、たまたま死の間際にキリストの横にいただけです。 

 ペトロは語ります。「だから、あなたがたは、力を尽くして信仰には徳を、徳には知識を、知識には自制を、自制には忍耐を、忍耐には信心を、信心には兄弟愛を、兄弟愛には愛を増し加えなさい」 

 強盗は死ぬまでキリストの側にいました。冒頭お話しした病床洗礼を受けられた方は、その後、礼拝には出席できませんでしたが、ベッドの上で聖書を読み、讃美歌を聞きマタイ受難曲を聞き、キリストと共に静かに召されるまでの時を過ごされました。 

 一方、私たちにはまだしばらくの間、この世で生きる時間があります。罪に満ちたこの世界で生きていきます。誘惑があり、試練があります。何より厄介なのは、罪から離れられない自分自身でしょう。その日々にあって、私たちは、いつもキリストと一緒にいるでしょうか?キリストを忘れ、キリストから離れてはいないでしょうか? 

 ペトロは、「力を尽くして信仰には徳を、、」以下の言葉を、天国の扉をこじ開けるための手段として語ったわけではありません。これをやらなければ、天国の扉は開かないと言っているのではないのです。 

 

 そもそも、徳、知識、自制、忍耐、信心といった項目は当時の社会通念のなかで、ごく一般的な倫理項目でありました。ペトロはそのような一般的な倫理項目を守りなさい、そうしたら天国の扉が開かれます、と言っているのではないのです。一見、ごく一般的な倫理項目に見えるすべてが、信仰を源にして発するのだと言っているのです。人間が人間の力で徳を積むのではないのです。ましてや徳を積めば天国に入れるということではないのです。信仰があれば、それは主イエスと共に居れば、ということですが、主イエスと共にいるとき、私たちはおのずと徳のある生き方をすることができるのです。イエス様と一緒にありながら、不道徳な生き方はできないのです。いや実際のところ、キリストのことを忘れて、悪いことはしてしまうかもしれません。しかし、少なくとも、少しずつ、私たちは不徳な生き方から離れることができるようになるのです。知識とはキリストへの知識です。当時、はびこっていた異端のグノーシス主義者のような排他的な、自分だけが救われるというような人を選別するような知識ではありません。まことに神が愛であることを知る知識です。自制は、信仰が独りよがりになって、熱狂主義に陥らないように、感情や行いに節度を持つことであり、それはおのずと忍耐を生み出すことになります。信心という言葉は敬虔さ、へりくだる心といえます。徳を積んで、自制や忍耐をして、だんだんと人間はえらくなるのではありません。むしろ、どんどん、神の前に謙遜な者と変えられていきます。そしてキリストにある兄弟姉妹の愛に生きるようになります。私自身、とにかく自分が救われたかったのです。そして洗礼を受けました。教会の交わりというのは、洗礼を受けた当初は少し面倒くさいと思っていました。しかし、少しずつ、キリストと共に歩みながら、共にキリストにつながっている兄弟姉妹との交わりの大事さが分かってきました。交わりとは共に祈るということです。祈りのない交わりはありませんし、交わりのない祈りはありません。共に祈ることが兄弟愛に生きるということです。そしてそこに愛を増し加えるのです。兄弟姉妹が愛し合うとき、それはおのずとさらに広がるのです。教会という枠をこえて愛は広がっていくのです。その愛の広がりが伝道という形になるのです。 

 

 ある牧師は、この信仰、徳、知識、自制、忍耐、信心、兄弟愛、愛は、八つのハーモニーだと語られました。八つの音色が響く美しい賛美なのだと語られました。聖歌隊のように8つの違う音程の歌声を響かせる賛美なのです。その美しい賛美をしながら、私たちは御国の扉が開くのを待つのです。私は思うのです。その聖歌隊の指揮者は聖霊なのです。ちなみに今日はウィーンフィルが大阪で公演をするようです。優れた指揮者は演奏者の最高のパフォーマンスを引き出すと言われます。もちろんウィーンフィルともなれば、個々の楽団員のスキルも世界最高峰ですが、素晴らしい指揮者は、それぞれの演奏者自身が想像もできないすばらしい音色を引き出すのだと、演奏者が語っているのを聞いたことがあります。私たちも聖霊によって、神の御前に良き響きを響かせます。 

 そしてまたこの8つの項目は、信仰に始まり、愛に終わります。私たちの信仰は愛へと向かっていきます。その愛は、豊かな実を結ばせてくださるのです。そしてまた、その愛とは、イエス・キリストをより深く知ることに他なりません。8つの項目の中に知識がありました。キリストへの知識です。その知識は、愛へと向かっていくとき、知識としての理解を越えて、人格的な深いキリストとの交わりとなります。キリストを知るということは、知識がやがて愛によってキリストとの深い交わりに至ることを示します。今日もキリストと共にあって、神への心からなる賛美を捧げます。生涯をかけて、キリストと深い交わりを求めます。その私たちの前に、御国の扉は開かれるのです。 



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