大阪東教会礼拝説教ブログ

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ペトロの手紙Ⅱ第1章16~21節「そこに明りはある」

2021-11-21 16:32:06 | ペトロの手紙Ⅱ

2021年11月21日大阪東教会主日礼拝説教「明りはそこにある」吉浦玲子 

 次週からアドベントが始まります。クリスマス前の4週がアドベントです。待降節、クリスマスを待ち望む季節です。教会の暦はこのアドベントから始まります。長老教会ではあまり教会暦ということを言いませんが、教会の一年はアドベントから始まるのです。ですから、今週はまさに教会が新しい年に向かっていく時であり、心を新たにして信仰生活を整えるべき時です。私自身は、アドベントから聖書通読を新たに始めたいと思って、この時期、遅れていた予定を取り戻すべく焦って大量に聖書を読んだりすることもあります。しかし、そういう形だけのことではなく、私たちがほんとうに今このときに覚えなければいけないことは、キリストを中心にしっかりと立つということです。そのキリストはどなたなのかということを繰り返しわきまえねばなりません。 

 ペトロは「わたしたちの主イエス・キリストの力に満ちた来臨」と語っています。「力に満ちた来臨」は原文では端的に「力と来臨」となっています。まさにキリストは2000年前にこの地上に来臨されました。そしてキリストは力だったのです。みなさんにとって、キリストは力に満ちてお越しになられたでしょうか?それは力そのものだった。そして皆さんのところへもキリストは来られた、力に満ちて、力そのもののお方として来られました。 

 旧約聖書の時代、モーセに率いられてエジプトを脱出したイスラエルの民は、シナイ山で神の顕現を目の当たりにします。それは全山が煙に包まれ、煙は炉の煙のように立ち上がり山全体が激しく震えた、という恐ろしい場面でした。まさに神の来臨のすさまじい力を思い知らされたのです。旧約の時代の神のイメージというのは、シナイ山での顕現に象徴されるように力と威厳に満ちたものですが、新約の時代では、「やさしいイエス様」というイメージになるかと思います。もちろん旧約と新約で神様が違うということはありません。神の愛と憐れみも、また力と威厳も、旧約であれ新約であれ変わりません。ただ、人間の繰り返される罪にもかかわらず、人間の救いのために来臨された主イエスのイメージが「やさしいイエス様」のイメージが強くなるのは、ある意味、間違っていないのです。 

 しかし、私たちは忘れてはならないのです。キリストは神そのもののお方であり、力そのもののお方であることを。ペトロはそれを巧みな作り話を用いて知らせたわけではありませんと語ります。そして「わたしたちはキリストの威光を目撃したのです」と言います。ここは原文では、わたしたちはキリストの威光の目撃者だと語っているのです。確かに彼は目撃者でした。 

 何を目撃したかというと、福音書の中に語られています主イエスが山の上でお姿が変わられた、いわゆる「山上での変容」でした。ペトロとヤコブとヨハネが主イエスと共に山に登ると、主イエスのお姿が光り輝くお姿に変わり、さらにそこにはモーセとエリヤまで現れたという出来事です。もともと福音書の中で主イエスの外見的な様子は語られていません。たとえば、主イエスに先立って現れた洗礼者ヨハネはらくだの毛衣をきて革の帯を締めていたと書かれています。当時としては際立った特徴的な外見をしていたのです。しかし、主イエスの関してはそのようなことは書かれていません。つまり、特徴的な外見はおそらくなかったということです。しかし、山の上でお姿が変わった時、「顔は太陽のように輝き、服までが光のように白くなった」と描かれています。ある意味、主イエスが神らしいお姿をなさっていたのは福音書中ではこの場面だけであると言えます。十字架の場面でも、さらには復活の場面ですら、外見的な輝かしさ、特徴は伝えられていないのです。 

 しかしまた、逆に言いますと、作り話ではないとペトロは語りますが、ある意味、山上の変容の場面は、その話が他の主イエスのエピソードと比べ、主イエスのお姿に際立った違いがあるだけに、また旧約の時代の有名人が登場することとあいまって、ある意味、作り話めいて感じられる場面であるとも思います。もちろん福音書には主イエスによってなされたたくさんの奇跡の話はあります。水をぶどう酒に変えたり、病を癒したり、嵐を静めたりという場面はあります。しかしそれは、そこにいる苦しんでいる人間、悲しんでいる人間への救いや助けのための奇跡でした。もちろんそこには、実際のところ、たいへんな神の力と威光があるわけですが、山全体が轟くような神の威厳の現れということとは少しイメージが異なります。 

 しかし、ペトロが山上の変容をここで語っていることにはもちろん意味があります。それは、今日の聖書箇所には直接語られていませんが、先ほど申し上げましたように、この場面にはモーセとエリヤが出て来るのです。モーセは旧約聖書における律法を象徴し、エリヤは預言を象徴します。この場面で、モーセとエリヤの姿はやがてかき消え、主イエスだけが残られます。つまり旧約の「預言と律法」の時代から、主イエスの時代へと大きく時代が変わったことが山上の変容の場面では語られているのです。そしてペトロ自身、今日の聖書箇所で、主イエスの来臨は聖書の預言の言葉の成就であることを語っています。2000年前、突然、主イエスがお越しになったのではない、旧約の時代からの神の救いの歴史の中でお越しになったのだとペトロは語っています。シナイ山でモーセの前に顕現された神、あるいはホレブで預言者エリヤに語りかけられた神と断絶した神ではない神として、力に満ちた神としてキリストはお越しになったのだと語られているのです。 

 そしてまたモーセやエリヤは人間ですが、キリストは神から来られた神、子なる神です。「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声をペトロはたしかにきいたのだと語ります。つまり神が律法や預言を通してではなく、救い主である主イエスご自身が私たちと出会ってくださる時代がやってきたことが語られています。恐ろしく轟く山ではなく、私たちの日常の日々に共にいてくださる神として来られたことが語られています。しかしだからといって、神は神であり、誉れと栄光に満ちておられる方なのです。私たちはそのことを忘れてはならないのです。これからクリスマスに向け、飼い葉桶に眠るかわいらしい赤ん坊のイエス様、天使と星に満ちたメルヘンのような降誕の物語が街にあふれます。それは人間が受け取りやすいイメージとして流通しているのです。しかし、私たちは、神を神として拝せねばなりません。ここにいる私たちはもちろんメルヘンチックなクリスマスを求めてはいないかもしれません。しかし心のどこかに、神を誉れと栄光に満ちたお方、力あるお方としてではなく、自分にとって心地の良い、受け取りやすい神としてイメージしていないかということは考えねばなりません。それは神を偶像化していることでもあります。もちろん、逆に怖い神、悪いことをしたらばちを当てられる神、自分の言動をひとつひとつ査定されるような神として考えることも間違っています。 

 「~ねばなりません」とか「間違っています」というように、少し強い口調で語っていますが、これは、私たちの希望がここにかかっているから申し上げています。信仰の喜びがここにかかっていると申し上げてもいいかもしれません。「夜が明け、明けの明星があなたがたの心の中に昇るときまで、暗い所に輝くともし火として、どうかこの預言の言葉に留意をしていてください」そうペトロは語っています。夜が明け、明けの明星が昇るというのはキリストの再臨のときです。この世界の救いが完成する時です。しかし、すでにキリストはこの世界に来られ、ともし火をわたしたちの心に灯されました。私たちはたしかに暗い所に今置かれています。不条理や不公平に満ちた世界に生きています。ことにコロナの状況も分からない中、すっきりと心晴れやかになりにくい毎日です。しかし、たしかに私たちはともし火を灯されています。 

 むかし、信徒であったころ、8キロほど離れた教会まで自転車で通っていました。神崎川の川沿いの自転車道を走っていってたのです。ある冬の日曜日、前日、夜に雪が降っていたので積もっていないか心配したのですが、屋根には少し雪が残っていましたが、道路は全く大丈夫だったので自転車でいつものように礼拝に向かいました。しかし、地上の道から神崎川の自転車道に降りてびっくりしました。自転車道は雪がいちめんに積もっていたのです。川沿いは冷えて、雪が溶けていなかったのです。これは自転車で行くのは無理だと感じました。しかし今から別ルートでいくと遅刻してしまうとも思いました。見ると、足もとから一筋に幅10センチほどの雪が溶けた部分がありました。その部分は雪もなく凍ってもいませんでした。それがずっと教会方面に向かって続いている感じです。それが途中で途切れていたら積もっている雪の中立ち往生してしまうことになりますが、えいやっと思い切って、その10センチほどの幅のところをずっと走って行きました。その雪の溶けたところは、教会に近くの地上へののぼり口のところまでありました。そこから先はありませんでした。その時は無邪気に教会までの道を神様が整えてくださったのだと感じました。実際のところはたまたま誰かが、雪の中を先にバイクかなんかで走って行かれた跡かもしれません。しかし、ちょうど、私が走るその区間だけ、雪の溶けた部分があったことは忘れられません。それは出エジプトの民が目の当たりにした山がとどろく神の威光とはスケールが違うことかもしれません。海が割れるような奇跡でもありません。しかし、私はまっしろな一面の雪の中に一筋雪のない部分があった、その一筋のなかに神の力を今でも感じます。凍える川沿いの道に、そこだけまさにともし火が灯されたような思いで思い起こします。 

 「何よりもまず心得てほしいのは、聖書の預言は何一つ、自分勝手に解釈すべきではないということです。」とペトロは語ります。しかし私たちはどうしても自分勝手に、自分が理解できる範囲で神をとらえてしまいます。やさしいやさしいイエス様であったり、怖い神様であったりします。山上の変容の場面で、ペトロは、主イエスとモーセとエリヤのために三つの小屋を作ろうと言いました。三人のそこにいてほしいと願ったのです。これは人間が人間の都合のよいところに神にいてほしいという思いの表れでもありました。神は人間の都合のよい場所に住まわれたり、人間の勝手なイメージに合わせて存在させているわけではありません。 

 「なぜなら、預言は、決して人間の意思に基づいて語られたのではなく、人々が聖霊に導かれて神からの言葉を語ったものだからです」とペトロは語ります。神のなさることは人間の意思や思いをはるかに超えていることです。人間の願いをはるかに超えた祝福を与えられるのが神です。昨日の青年会でイザヤ書の40章を黙想しました。「慰めよ、わたしの民を慰めよと/あなたたちの神は言われる。/エルサレムの心に語りかけ/彼女に呼びかけよ/苦役の時は今や満ち、彼女の咎は償われた、と。/罪のすべてに倍する報いを/主の御手から受けた」という有名な聖句です。救いの到来の預言です。罪に罪を重ねてきたイスラエルの罪が償われ、それまでの罪に倍する報い、つまり祝福が与えられるという預言です。これは神に背いた罪のためにイスラエルが滅びバビロンに捕囚となっていた民への解放の預言でありました。そしてまた同時に、やがて来られるキリストによる罪からの解放の預言でした。ある未信徒の青年が「それまでの罪に倍する報い」が赦しや祝福であることに驚いていました。たしかにそうです。罪の報いとして罰や苦しみが与えられるならば理屈として合います。しかし、そうではない。罪の報いが赦しであり祝福なのです。しかも罪と同量ではなく、倍もくださる、そこに神の人間の理屈では考えられないご計画があります。人間が考えるやさしさやおもいやりといったものをはるかに超える報いを神はくださる、それこそが私たちの希望の源であり光です。そこに救いがあり慰めがあります。 

 教会のフェンスや建物などに先週より電飾を灯していただきました。大阪の街の華やかな電飾に比べたらささやかなものですが、近隣の方には喜んでいただけているようです。日の暮れの早いこの季節、仕事帰りの方々に神がともしてくださるともし火を少しでも感じていただけたらと思います。私たちの心にはすでにともし火が灯されています。アドベントはそのともし火をこの世界に掲げる季節です。 

 

 

 

 



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