怒りにしても、苦しみにしても、恐れにしても、私たちは、自分でしか生きたことがないから、人と自分のそれを比べることは簡単ではありません。
「恐い」という言葉に「皆、そうだよ」という言葉が返ってくることはよくあります。
けれど、生を楽しむことが出来なくなってしまうほどの強い恐れもあります。
そして、激しい怒りや悲しみを抱えている人もいて、本人がそのエネルギーを正当化してしまっているとしたら、いたましい事件さえ起こりえるのではないでしょうか。
今だったら強迫性障害と診断されていたのでしょう中高時代、駅のホームに立つと、自分が誰かを線路に突き落としてしてしまうのではないかという強迫観念が強まってしまうときがありました。
もちろん、そんなことは絶対にしたくないわけですから、強迫観念と突き落としてしまったらという恐怖がともに高まった状態はかなりきつかったです。
ホームの一番端の鉄柵を汗をかいた両手で握りしめているあの時の自分を思い返してみると、膨れ上がった大きなエネルギーに後ろから押されているような、覆いかぶされているような感覚を覚えます。
命の危機が迫り交感神経系統の活動が高まっていくのに逃げることも戦うこともできない。
放出できないエネルギーがピークに達したとき、背側迷走神経が働き凍り付きやシャットダウンが起きる。
危険が去っても動物のようにブルブルと身体を震わせ残余エネルギーを放出できない人間はトラウマ症状に苦しめられることとなる。
このように書かれた本に出会えたとき、恐れやネガティブな感情が異常に強かった理由がようやくわかったと嬉しかったです。
けれど、何年にもわたって、私の中で暴れてはいつの間にか消えていくを繰り返していた激しい思考と感情の全てが、幼児期の斜視の手術で生じたものだとは思えません。
私は、命あるものは、目に見える肉体と目に見えないエネルギー体からできていると思っています。
そして、なんらかの理由でその繋がりに問題が生じてしまったとき、思考や感情のエネルギーが過剰に膨らんでしまう場合もあるように思うのです。
目に見えないエネルギー体は、層になっていると書かれていることが多いのですが、今回は思考と感情をまとめて「心」と言わせて頂くこともありますのでご了承下さい。
以前、松尾みどりさんの講演会で、15歳の時に交通事故にあい体から抜け出てしまった時のお話を伺いました。
その中で、特に印象に残ったのは、体から抜け出たとき、そこには痛みや苦しみや感情が一切なかったけれども、横たわっている自分の制服が破れ下着が見えているのを眺めていたとき、突然吸い込まれるように肉体に戻り、痛みとともに「恥ずかしい」という強烈な感情が沸いてきたという箇所でした。
あの時の講演会の動画は公開されていないようなので、少しニュアンスが違いますが他の会の動画を貼らせて頂きます。上記の事故については、7分40秒頃から話されていますのでお時間がありましたら聞いてみてください。
みどりさんのように、生死に関わるショッキングな出来事があって肉体から抜け出してしまったとしても、再びしっかり体と繋がり、駆け巡る痛みや感情を泣き叫んだり親しい人に受け止めてもらったりしながら放出することが出来たなら、トラウマの犠牲になることはないのでしょう。
けれど、事件によって、あるいはその前から、肉体とエネルギー体の繋がりに何らかの問題が生じていたため、痛みや感情を感じきれない場合もあるように思うのです。
長い期間、心身の苦痛に耐え続けなくてはいけないとき、それは恩恵なのかもしれません。
けれど、その状態が長く続くと危機的状況が過ぎても簡単には元に戻れなくなってしまいます。
そして、体と心の繋がりが弱い状態で日々を送るうちに、体に充分巡らないエネルギーが思考に流れ、感じきり放出できない感情とともに膨れ上がってしまうこともあるように思うのです。
また、そのエネルギーから影響を受けずに一生を送り続けることも難しいように感じます。
どの動画の中だったか、まきろんさんが、
からだは感情の拡張器
と、仰っていたように思うのですが、私の場合は、身体感覚が低下した状態で、限界を超えたように感情が噴出してくるようになってしまいました。
よく言われるように感情が浮上してくるのは出ていくときだから。
私も、のた打ち回る日々の後で、思い込みも一つ消えて清々しい朝を迎えるという体験を繰り返しました。
感情と付き合い思い込みを手放していくのも大切なプロセス。
でも、同時に心と体の繋がりを回復していかなければ、自分以外の感情や思考を拾ってしまい、そのプロセスが延々続いてしまうなんていうこともあるように思うのです。
肉体と目に見えない体との繋がりを回復していくためには?
また、私の推測ですが、後半で、書いていきたいと思います。
に続きます
10月30日 昭和記念公園