ぎりぎりになってしまい申し訳ありません。

久坂と文の祝言の日に思いっきり
「あれだけ不細工な女はイヤダとゆうておおたのにのお」という高杉。
そこに「不細工がどうしたんじゃ?」と絡んでくる藩の実権も握れて調子にのる周布。
周布って人は、お酒での失敗が実際多かったみたいですよ。
その話はまた後日。

ところで最後のシーン。
いよいよ風雲急を告げる原因ともなった人物「井伊直弼」登場。

小学校の頃にワタシは「マンガで覚える歴史人物事典」の本をもっていました。
ワタシにとって、それを読んでいる時間が一番安心出来る時間でして
それはもう真面目に真面目に読んだものです。

当時、幕末での勝者は「絶対善」だし
敗者は「絶対悪」として教科書や参考書、
それに準ずる↑のような教育系マンガには描かれていました。

ですから井伊直弼という人間に対しては
「非情で血も涙もない人間」というダークなイメージを長い間もっていました><

新選組を学んで会津を学んで・・とやっていくうちに
「会津藩主松平容保は、井伊直弼のもとで働いていた」という事を知り
それをきっかけに長い時間をかけて調べていったら
悪どころか、対徳川に対し非常に厚い忠義心を持った人だという事が分かりました。


井伊直弼は井伊直中の14男で妾腹の子として産まれます。
この時代、その時点で直弼の人生終わりなんです。
というのは大名の子供は、長男だと世継ぎとして扱われますが
それ以外の子は「養子に行く」それが無理な時は跡継ぎのスペアで
「一生部屋住みとして厄介者扱い」されるのです。しかも14番目のスペア。

彼は彦根城の道を、はさんだところにある薄暗く苔が生えそうな感じの建物で
(ちなみに豪華な彦根城の庭の横にあるから逆に落ち着きというかホッコリ感がして私は好きだ)
腹心の長野主膳と世俗の話をしたり
恋人も連れ込んじゃったりして「部屋住みの厄介者」として暮らしていました。

ただ、この直弼の場合それでムザムザと堕ちたり腐ったりする人ではなかった!
それこそ主膳と共に茶道、居合(本も書くほどの腕前)、剣、禅、能、歌道に打ち込み
文化人としても道を究めるまさに「人物」。

世の中をよそに見つつも埋れ木の埋もれてをらむ心なき身は 
                                   直弼
埋もれて生きる運命だけど俺は埋もれない、生きぬいてやる!

自分の暮らしている、その妙に趣がある家に「埋木舎」となづけ、
こんなものと言い聞かせながらも今流で言えば「自分磨き」をしながらそれなりに暮らしていたのだ。
(ちなみに35万石でも彼が貰う録は子供の小遣い程度。遊郭にあがるような遊びは無理!)

ところが時代は直弼をそうノンビリにはさせなかった。

直弼32歳の時、藩主直亮の跡継ぎが急死。
兄たちは全員養子に出されていて後継者がいなくなり
その4年後直弼は、彦根35万石の大名へと一大抜擢されることになった。

ここで井伊家について少し話します。
井伊家は、徳川恩顧の譜代大名。
その譜代の中でも筆頭にあたるのが井伊家です。
「井伊の赤備え」といえば戦場では常に先鋒部隊であったように
平和な世になって政治の時代になっても重要な立場は変わらず
譜代でも筆頭譜代として江戸城内でブイブイ言わせていました。

直弼が大名になり江戸城で働くようになってから
やってきたのがペリー率いる黒船。

泰平の世は一気に不安定な状態へ落ちてゆきます。
元々直弼は、このころ一般的な考えであった攘夷思想を抱いていました。
しかし老中阿部正弘、次の水野忠邦の下で働いてゆくうち
「今は国を守りようがない。むしろ開いて国力を養ってから再度戦うべきだ」
という考え方に変わってゆきます。
一口で「攘夷」と言っても人によって色んな攘夷思想があるわけで
●いきなり大使館を襲うような過激な攘夷もあれば、
●一度国を開き諸外国と対等にわたりあえる力を付けてから実行する攘夷もある。

直弼は開国派と言われていますが、直弼は後者の最たる例であると私は思います。

出る杭は打たれると言いますが、これにケチをつける人が出てきます。
それが水戸藩主徳川斉昭。
御三家の水戸
(※水戸藩とは・・・①御三家だが将軍後継者にはなれない。②ずっと江戸ずみ。 ③「副将軍」として将軍に対し意見できる特別な藩。)
ですから
海防の必要性を強く訴え、大砲作ったり
藩主自ら海防の練習を行ったりした。
それがあまりにも行き過ぎて幕府から謹慎を命ぜられるくらい過激な攘夷論者(前者)。

喰えないおっさんっていますよね、そんな感じで思ってもらったらいいです。

だから直弼の攘夷は、斉昭にとっては甘いとしか思えないので
いまこそ戦を!とばかりに迫ってくるのですが
結局直弼が意見を通して「日米和親条約」締結となるのです。

「日米和親条約」自体はアメリカとお付き合いしましょう。
そのための領事館を作りましょう。というものであって
今の感覚だとなんら問題はないのですが
「異国と付き合う」事が当時は一大問題だったのです。
というのは今までは鎖国のお陰で異国の脅威から逃げられたのに
鎖国をとけばイギリス、清国間のアヘン戦争の二の舞になるのでは
という危惧感から恐怖心を抱くなというのも無理な話で・・・。

それを江戸留学中の吉田稔麿が手紙に書いて
松陰たちが読んでビックリ!で前回は終わったと思います。

直弼の事をもうちょっとだけ書いておきますね。
次がタブン「日米修好通商条約締結」だと思うので・・・

直弼は実はもう一つ江戸城をにぎわしてる大きな問題を抱えていました。
13代徳川家定(篤姫の旦那)は身体が弱くて子供がいなかったために
14代将軍継承者問題が起こったのです。

候補一人目が紀州藩徳川慶福。
候補二人目が一橋家一橋慶喜。

一橋と言ってますが、この慶喜はあの斉昭の子供。
前述したとおり水戸藩からは、将軍候補を擁立することが出来ません。

8代の暴れん坊将軍(吉宗)のときに御三卿というシステムを作って
将軍に世継ぎが無い場合は
「紀伊藩、尾張藩、そこに田安家、清水家、一橋家を加えた
二藩、三家から将軍職を置くことができる」という事にしたのです。

そこを斉昭は、上手く利用して自分の子供を一橋にやり
将軍職にし、斉昭は後見人として政権を掌握できると考えたのかもしれません。

ただこの斉昭、傲慢ゆえに大奥で嫌われてしまうという大失態!
(大奥を手中に収めないと政治が動かせないくらい大奥の存在は強かったんです。女恐るべし)

ここをうまく立ち回ったのが直弼。
直弼は、ここで斉昭が擁立した「慶喜」に対して「慶福」を擁立。

当時、江戸城内は黒船の件で非常に不安定な状態にあるわけで
まずその不安定さをなくすことが急務であり
大奥でわざわざ評判の悪い斉昭の息子をたてるよりも
家康からの規則である御三家からの擁立をすることによって
政権の安定を図りました!
※後の世で慶喜は「なぜか」家康の再来とまで言われる人になりますが当時は才能未知数状態。

そして問題の「日米修好通商条約」締結へと話が進み
安政の大獄が始まり松陰は武蔵の野辺へとゆくのです。