足元を見るべし | 無精庵徒然草

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無聊をかこつ生活に憧れてるので、タイトルが無聊庵にしたい…けど、当面は従前通り「無精庵徒然草」とします。なんでも日記サイトです。08年、富山に帰郷。富山情報が増える…はず。

 ← ガストン・バシュラール 著『空間の詩学』(岩村 行雄 訳 ちくま学芸文庫) 「(前略)詩的イメージの根源の価値を明らかにするために、詩的イメージとイメージを創造する意識の行為を結合する、新たなる想像力の現象学を提唱する。バシュラール詩学の頂点をなす最晩年の書。」

 

 ガストン・バシュラール 著の『空間の詩学』を24日に読了。三度目なのだが、今回は通読するのがこれが最後だろうと、二週間を費やして「物質的想像力の概念を導入して詩論の新しい地平を切りひらいてきたバシュラール」の世界をゆっくりじっくり味わった。235個に渡る原注訳注も余さず。訳者によるあとがき等も目を通した。それでも、内容を理解できたかと云うと怪しい。ひたすらその詩文、詩的イメージの論理展開に身を、感性をゆだねるしかない。そう、ル・クレジオではないが、物質的恍惚を玩味するしかないのだ。バタイユの『宗教の理論』を読んで、以下のように呟いたことがある:

 高校時代の終わりだったか、J・M・G・ル・クレジオの『物質的恍惚』を読んだことがあった。小生には何が書いてあるか、さっぱり分からなかった。
 もしかしたら、このタイトルに魅了されていただけなのかもしれない。どんな詩よりも小生を詩的に啓発し瞑想を誘発してくれた。
 その本の中に、「すべてはリズムである。美を理解すること、それは自分固有のリズムを自然のリズムと一致させるのに成功することである」という一節がある。小生は、断固、誤読したものだ。美とは死であり、自分固有のリズムを自然のリズムに一致させるには、そも、死しかありえないではないか、と。
 不毛と無意味との塊。それが我が人生なのだとしたら、消尽と蕩尽以外にこの世に何があるだろうか。
 そんなささやかな空想に一時期でも耽らせてくれたバタイユに感謝なのである。

 どちらにしても、バタイユもル・クレジオもバシュラールも、誤読するに限る。

 

 関連拙稿:「ル・クレジオ…物質的恍惚!」「物質的恍惚の世界を描く!」「物質的恍惚/物質の復権は叶わないとしても」「真冬の月と物質的恍惚と」「文庫版「物質的恍惚」を入手したのは

 以下、既に消滅してしまったホームページ中の拙稿から、一部を転記する:

 バシュラールには何か、形そのままに残したい守りたい至福の時空間=真理 があるように感じられる。その至福の次元を実現させるものは詩に他ならない と彼は考えている。

 その詩とは、単なるイメージ(我々が思う、ただのイメージに過ぎないとい う時のイメージ)ではなく、物質としての詩的イメージの世界なのだ。バシュ ラールの言葉を借りれば、詩的想像力、さらには物質的想像力によって実現さ れる現実の時空なのである。
 そう、バシュラールは、詩的空間を単なる言葉の上の蜃気楼とは思っていな い。机や椅子や家や木々や石や焔と同じく、極めて人間的な想像空間に現出し た物質の一つの様相なのである。

 言葉は単に言葉に終わるものではないのだ。人間にとって言葉はナイフが心 臓を抉りえるように、心を抉りえる可能性に満ちた手段であり、まさに武器で あり、こころの現実に実際に存在する物質なのである。

 しかし、その物質は、手に触れないで遠くから見守る限りはそこに厳然とし てある。にもかかわらず言葉で、その浮遊する時空間から抽出しようとすると、 本来持っている命も形さえも崩れ去り失われてしまう。

 詩の言葉は、誤解されやすい。イメージの空間で漂うだけの、非現実のもの だと見なされやすいのである。言葉の創出する蜃気楼空間に須臾(しゅゆ)在 る蜻蛉(かげろう)に過ぎないと、見なされやすいのである。
 小生は学生時代からン十年を経て、少しは社会経験も積んだし、それなりの 生活苦もある。そんな小生が今になって改めて詩を見直している。サイトを巡 って、詩人さんの部屋を覗いたりしている。それは何故だろうか。
                     (中略)
 アールブリュットの作家として有名なのは、J・デュビュッフェなどがいるが、 小生は上掲の展覧会で、心の一番生(なま)な姿が現れているような気がした のである。そこに示されている世界は、多くは凡俗なる小生には歪んだ異常な 世界のように映ってしまうが、しかし、にもかかわらず、魂がそこには確かに あった。呻き、もがき、曲がりくねり…、そう、決して直線的には魂が現れて はいないのだが、しかし、魂が訴えかけていることだけは断言できる。

 彼らの魂は、大地の下にあって顔を覗かせようとしている。しかし、運悪く、 やっと日の目を見ようとしたら大地には岩が彼らの芽吹きを阻んでいたのであ る。それでも魂は諦めない。必死な思いで岩の下を這い、岩に亀裂を生じさせ、 なんとか日の光を浴びようとしているのだ。
 小生が生の芸術と呼ぶのは、そうした切実な魂の叫びなのである。その表現 なのだ。表現の形が少々歪んでいたって構いはしないのだ。

 その何とか顔に、魂の上に圧し掛かる岩を跳ね除けようとする試みのエネル ギーが物質的想像力と小生は勝手に思っている。魂は心有るものには、間違い なく現実にあるものと映る。木や石や机のように、人間にとって魂は、心は現 実にある。物質(と称されるもの)以上に切なく、しみじみと(目にはさやか に見えねども)そこに厳然としてあるものなのだ。

 そうした時空間は、ひたすらに心を密やかにひめやかに息を潜めて見つめな いと見えないし、まして実現するのは難しい。バシュラールも強調しているよ うに、いわゆる科学的方法では、いかにしても見出せないし検証も不可能な世 界でもあるのだ。

 ちょっとバシュラールから離れてしまったけれど、バシュラールが家や貝殻 や巣や片隅を偏愛するのも、あるいは小宇宙の中に潜む大宇宙を強調するのも、 誰もが見過ごしがちな、誰もが忘れがちな時空間は、実はそこにある、かって あったし、けれど今はないものではなく、現に今もそこにあることを、ありつ つあることを誰よりも知っているからに違いない。

 

 ← 加藤 陽子著『歴史の本棚』(毎日新聞出版) 「日本近現代史の泰斗、東京大学教授の加藤陽子氏は「本読みの名手」でもある。「この人の書評は面白い」「読書の幅が広がる」など、高い評価を得ている。単なる本の内容紹介にとどまらず、世の中の動きや世界の情勢に読者の目を向けさせ、考えるきっかけを作ってくれる、非常に示唆に富む書評だ。」

 

 加藤 陽子著の『歴史の本棚』(毎日新聞出版)を23日読了した。書店で見出し、即手にした。正直、中を捲ることなく。加藤陽子の素養を知りたくて。中身は違った。彼女の専門分野である日本近現代史に軸を置いた文献を扱っている。大半が吾輩には今後も手にしえない書かもしれない。

 ただ、数年前に読んだことのある大西巨人著の大作『神聖喜劇』の書評は、本書の性格を再認識させてもらった。他、勉強になることばかり。

 

 ここでは、目次だけ示しておく:

Ⅰ 国家 国家の役割~個人のために国家は何をなすべきか
Ⅱ 天皇 天皇という「孤独」~戦後史からひもとく天皇の役割
Ⅲ 戦争 戦争の教訓~人は過去から何を学び取ったのか
Ⅳ 歴史 歴史を読む~不透明な時代を生き抜くヒントを探す
Ⅴ 人物と文化 作品に宿る魂~創作者たちが遺した足跡をたどる

 

 ← 武田 泰淳 著『評論集 滅亡について 他三十篇』( 川西 政明 編  岩波文庫) 「武田泰淳(一九一二―七六)は,一兵士として中国へ渡り,上海で敗戦を迎えた.その時の屈折した心境を日本と中国の違いに着目して綴った評論「滅亡について」(一九四八)は,泰淳の出発点であるとともに,戦後文学がうんだ記念碑的作品である.(中略)その文学論・作家論の精髄三一篇を収録」

 

 武田泰淳 著の『評論集 滅亡について 他三十篇』(岩波文庫)を21日に読了。少なくとも2016年1月以来の再読である。

 アメリカ追随というか従属して恥じない日本。ウクライナ情勢について大本営発表のような報道をどのマスコミも当たり前な風にやっている。これは危ない。戦争で一方だけが悪かったという事例があるのかどうか知らない。が、ウクライナ侵攻にはロシアなりの言い分があるはず。アメリカやEU側、その走狗であるウクライナ大統領の言い分ばかり垂れ流して、軍事予算を今の倍にしようと企んでいる。

 アメリカの都合以外に何があるのか。中国を敵視して日本に何のメリットがあるのか。別にロシアに味方するということではなく、もっと視野を広めるべしと思う。中国については、15年戦争を知る世代が少なくなり、戦争の悲惨の現実を伝える人も消えつつある。

 中国やアジアの古今を、つまりは足元を見るべし。本書に限らず、加藤陽子の本や、倉沢 愛子著の『増補 女が学者になるとき: インドネシア研究奮闘記』 (岩波現代文庫 )を読み始めたのも、その一環である。