20代の頃にセミナーで知り合った方と

何度かお付き合いさせていただけた頃、

その方がこんなことを言っていたことをいまでも思い出すことがある。

 

 

「音楽を聴かなくなったら・・・・年を取った証拠」

 

 

当時は…そんなことはないと思っていた。

当然のように、あの頃の歌を聞いていた・・・。

 

 

しかし、

もう数年前から・・・自然に・音楽のある日常から遠のいた。そして去年の半ばからさらに・・・・

 

 

ちょうど昔よく聞いていた歌(反抗期)にあった

ジェーズム・ディーンの○○を観ても・・・のように
 

 

 

あんなに聞いていた…音楽も・・・
自分からあまり聞かなくなり・・・
あれだけお世話になった歌手の歌も・・・・
 
いまこんなことを書いていても・・・
あれだけあこがれていたジェームズ・ディーンさえも・・・
 
 
今日朝起きてから
布団の中で
こんなことを考えていた・・・
 
 
日本人であって日本語で・・・
もしかしらら???
特に現代のような状況の時は・・・
この言葉は好まない人は少ないんじゃないかと・・・
そしてその言葉について考えてみると・・・
 
この言葉の特性について不思議な気持ちになっていった。
簡単に安易に言葉には力があるとかそんなことで結論づけたくもなく・・・
そのことばことばにも多分私たちのように持ち味のようなものがあるはず・・・・だ。
 
 
多分その言葉とその状況によって伝わり方も意味合いも
それを与える側も与えられた側にもそれぞれ違った意味合いで影響を与えるのだろ受けれど・・・・
 
 
そんなことをいろいろと考えながら・・・
いまの私的には・・・・
こんな言葉はたぶん・・・だれも好まないって人は少ないんじゃないかと思った。
 
そして、私は言語学者でもなく、言葉の起源を研究しているものでもないので…その道をたどることはしないけれど・・・
 
 
そんなことを考えながらも・・・
ふっと思うことがあった。
もし
その言葉は・・・誰の周りにも(いつでも、いつも)存在するんだけれども・・・
その言葉が寄り添っていた(どんなときでも)としたら・・・・
 
 
どんなことが起こっているんだろう・か??
その言葉も多分いろんなもの(例えば尊重やら、ねぎらいやら)と協働しているからそこ
 
 
 
多分これを読んでくれた人たちも
多分この言葉をあまり毛嫌いしないでくれたらうれしい。
 
 

🔳ありがとう(ね)。

 

こちらについては多分・・・

その時の状況によっては・・・・・・・

 

🔳(ねぇ)大丈夫(よ)

 
 
 
 
料理人の三国さんの著書を読んだからなのか?
その影響もあり・・レシピに意識が向いている。
 
そう考えると・・・・
最近は、からっぽなことばを普通に使って伝えていることってあるよね。・・・
それよりもからっぽよりもちょっとだけでもそこにちゃんと
気持ちを伝えて
普通に語り掛けてほしい。
 
 
その発話者のよさが聞かれないから・・・・・
 
 
布団の中で考えていたこと・・・
タイプを打ちながらいま考えていること・・・
 
 
 
 
これらによってあったらいいなってことって???
 
 
 
 
この言葉も前後につながる言葉によって
ニュアンスも異なってしまうけれど・・・
 
 
 
そんなことを考えている頃って・・・・
もしかしたらそれらが少なくなっているからなのかなぁ?って思ってしまうけれども・・・・
 
無理に、
無理して増やさないで
自然に少しずつ増えていって
当たり前になっているにはどうしたらいいだろうか??
 
 
 
そこに一番簡単なことを思い出して・・・
まずは実験で
自分に自分で一日のお礼をやねぎらいを含めて
語り掛けてみよう。
 
不安な時、恐怖な時…困ったとき
嬉しい時、楽しい時、
いろんなことがあったとき・・・・
ふっとこの言葉で語り掛けてみようと。
 
 
どんなオルタナティブが語り掛けてくれるんだろうか??
どんな感じで感じていられたりするんだろうか???