映画「世の中にたえて桜のなかりせば」の

南雲先生しかり・・・・

 

 

 映画「わたしはダフネ」の

ダフネ・・・とお父さんしかり・・・・

 

 

 

 

 

ドラマ「厨房のありす」の

 

八重森宅しかり・・・・

 

 

 

 

KOKONNOちょこっと

 

 

🔳安心/安全(ここちよい)な空間(コミュニケーション)

 

 

 

 

 

このことについてあなたはどんな風にとらえているだろうか???

 

 

映画「わたしがダフネ」のダフネらしさが許されている

親子関係にある空間。

 

ドラマ厨房のありすがありすらしくいられて・・・

ありすらしさが許されている…空間・・・

八重森宅や三ッ沢宅や・・・・

 

 

映画「世の中にたえて桜のなかりせば」の

南雲先生・・・・

彼女らしさが許されている空間は???

はたして????

彼女の部屋と訪れてくれる生徒の吉岡咲との間。

 

 

どうだろうか??・

あなたらしく振舞えたり・・・・

あなたということを許されている関係・・・・

コミュニケーションは・・・・

どんな状況を与えてくれているだろうか???

 

例えばそれは・・・病や他のことが起こったとき

それは変わってしまうのだろうか???

 

 

オープンダイアローグなどでも・・・

精神的苦悩の状況とは反応だと捉えている。

 

例えば映画「世の中にたえて桜のなかりせば」の

南雲先生が職業の場所に訪れなくなったのは・・・

そこに空間や場をあたえられなくなったから。

そして彼女は何とかしようと部屋に引きこもりそれ以上

悪クナラナイヨウニ反応している。

(もしかしたらそのまま学校で業務していたら・・・さらに生徒からの暴力や無視などはエスカレートする可能性もある(これは私の解釈だけれども笑)。)

 

私たちは

まるで鏡の鏡かのように

相手の反応を反射的に理解して反応している。

 

バブチン流にいったら人間は無反応ほどひどい事はないという。

 

 

どうだろうか???

ドラマ「厨房のありす」への

お店に訪れるひとたちやお父さんや一緒に住むことになった 倖生君、そして学生時代から守ってきたありすの理解者でもある(お互いにであるけれど笑)和紗さん。

 

彼らはありすとのコミュニケーションを関係をどんな風に与えあっているだろうか???

ASDという診断名を与えてそこから見ているだろうか???

 

映画「わたしはダフネ」の父ルイジと母マリアは

知的障がいという視点からダフネを観ているだろうか??

この映画を観た人にはわかるかもしれないけれども・・・

一般的な普通のひとよりももしかしたら賢くって笑。

実際に私よりもしっかりしているなって思ってしまう笑。

 

 

例えば・・あなたは好きな場所に旅行をするとき・・・

そこは多分心地よいだろう場所を選んだり・・・好きな場所(安心する・・癒される)とか??

そんな関係(自然とかその場所とのつながりとか?)

そことのつながり…を求めて選んで向かうのではないだろうか??

もしくは、日常を遮断して・・・というように・・・・

リフレッシュしたいと考えたり・・・・

 

 

私達には程よい関係・・かかわり・・・というものは

とても大切で大事なのではないかとわたしは考えています。

 

程よくそこそこでもお互いによい関係・・・・

一番考えたいのは・・・・

そこに居てもいいという赦されている状況だと

私は考えています。

 

今の状況や社会が基準値としているような

基準に該当していないとそこにはいられない?!・・・

そんな関係や空間で・・・私たちはこころや精神を育てること育むこと心地よいと感じることができるというのだろうか???

 

 

例えば・・・現状の不満て・・・

そこに何かしら改善してほしいことや何かこうなったら・・・もしくはもうこれ以上はっていう感情が

そこに表現されているとしたら・・・

 

私たちはその愚痴を言うだけで文句を言うだけで
上記を改善するような知恵の出しあいや
お互いに生み出そうと努力することを怠って・・・
創り出そうとはしないことが最も良いと考えているのだろうか??
 
 
そこそこでもいいから・・・
失敗が許されている安心なコミュニケーション。
 
だれもが不完全であるのだから
不完全を許されている関係や
いまから未来へ成長が許されるようなコミュニケーション
 
ひとりでは到底無理なのだから・・・・
いがみあってばかりいないで・・・
お互いが求めている方向に能力活性化可能な能力開発へ笑
 
ひとも自然も一人や一つでは到底この世界を維持することなんで難しいのだから笑。