武弘・Takehiroの部屋

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魏志倭人伝・・・「長里」か「短里」か決めてくれ!

2024年03月06日 15時01分51秒 | 歴史

1) 日本の古代史に関する書物を読んでいくうちに、いちばん苛立ってくるのは、古代中国の文献に出てくる『距離の問題』である。 我々日本人にとって最も興味深い「三国志・魏志倭人伝」では、3世紀に魏王朝が治めていた朝鮮半島の帯方郡から倭(日本)の邪馬壹国(やまいちこく)までの距離が1万2千余里となっているが、肝心の「里」の長さがどのくらいか明示されていない。
そこで、いくつかの本を読んでいくと、驚くなかれ、一里の距離の規定がまったく違うのである。まったく違うと言うのは、5倍から6倍も差があるからである。 ある本では、1里は434メートルになっているかとおもえば、他の本ではそれが77メートルになっているのだ。
434メートルと77メートルでは5~6倍も違う! これでは、帯方郡から邪馬壹国までの1万2千余里という道のりは、途方もない差異が生じてくるのだ。 しかし、こういう「長里」と「短里」が古代史の書物の中に入り乱れて出てくる。これでは、読者はただただ混乱してしまうばかりだ。

 私が読んだ古田武彦氏の著書「『邪馬台国』はなかった」では、後漢が滅んで魏が建国されると、1里の長さは周王朝時代の77メートル程度(短里)に復帰したとなっている。それを基にして邪馬壹国の所在地を推論していくと、九州北部に限定されるから極めて理解しやすい。
ところが、1里を434メートルなどの「長里」にすると、邪馬壹国は日本列島を越えて太平洋のはるか彼方に存在することになってしまう。これではまずいので、魏志倭人伝に出てくる距離・1万2千余里は大いに誇張されたものだという学説(?)が登場してくるのだ。しかし、倭人伝を書いた陳寿という歴史家が、著述内容を誇張したという証明や根拠は何もない。
だから私は、古田氏が明らかにしたように、魏志倭人伝を含む三国志では陳寿が「短里」を使って記述したものと信じているが、今なお「長里」をもって説明しようとする者が後を絶たない。それはそうだろう。「邪馬台国」なるものが近畿地方にあったと考えようとすれば、「長里」でなければそこに届かないからだ!

2) 古田武彦氏は「『邪馬台国』はなかった」の中で、三国志全体の記述内容から1里の長さが「短里」であることを見事に証明した。したがって私も、魏志倭人伝に出てくる距離は全て「短里」だと確信しているが、どうして未だに「長里」にこだわっている者がいるのだろうか。私にはまったく理解できない。
古田氏はその著書で、秦や漢、唐などの時代は「長里」を使っていたが、周や魏、西晋の王朝では「短里」を使用していたことを明らかにしている。前にも言ったように、長里と短里では途方もない差が出てくるのだ。したがって、三国志に記されている距離の単位はどちらなのか、この際、我々公衆の前で徹底的に解明してもらいたい。そうしなければ、論証の基本となる「距離」が不明のまま推移するから、何を論じても混乱が増すばかりである。 
真実を究明するためには、あらゆる先入観や思い込み、予断を排除しなければならない。この文は著者(陳寿)が誇張したものだとか、書き間違えたものだとか、自分の都合のよいように勝手に解釈してはならない。あくまでも原文に忠実でなければならない。その上に立って、真実を科学的に客観的に究明していくことが肝要である。

 古田武彦氏以外の学者たちは、どうして魏志倭人伝を「三国志」全体を視野に入れて解析しなかったのだろうか。 ここで古田氏の著述内容を詳しく説明するスペースはないが、距離の問題も文章の表現方法も何もかも、三国志全体の中から検証していくのが常道ではないか。魏志倭人伝は三国志「東夷伝」の中の一部なのだから。
倭人伝だけをあれやこれやと分析しているから、全体との整合性や論理性が見えてこない。“木を見て森を見ず”とはこのことだ。 その点、古田氏は三国志全体の記述を視野に入れて検証しているから、極めて実証的で納得のいく学説となっている。氏の「『邪馬台国』はなかった」や「失われた九州王朝」などを読んでもらいたい。
話しが古田氏の著作のことに逸れてしまったが、他に諸々の問題があるにしても、「魏志倭人伝」を解読するためには何と言ってもまず「距離」の問題が存在する。1里はどのくらいなのか、「長里」なのか「短里」なのか? その答えを確定しない限り、邪馬壹国の所在(いわゆる「邪馬台国論争」)は解明されない。 読者諸氏におかれても、この問題の解明にぜひ関心を持っていただきたい。(2008年1月11日)


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5 コメント

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倭人伝は短里法陸里 (通りすがり)
2016-04-02 01:59:47
最近購入した「神さまは渡来人」という本に、陸里62m、海里87mと紹介されています。
すごいのは、邪馬台国東遷は加耶本国が参戦したもので、それに張政が深く関与しているために陳寿はそのことを抹殺して倭人伝を書いていると暴いています。
自費出版本ですが、学者でさえ見抜けなかったことです。
邪馬壹国は邪馬臺国 (通りすがりの帰り道)
2016-04-02 07:10:04
ヤマトの語源は伽耶(加耶)が建国の地に好んで使ったカラ語の「カムト」で、カムトがヤマトになったそうです。
カムはカミ(神)に通じるので、聖地という意味かもしれません。
ですから、「やまいっこく」では違います。倭人伝が書かれているころは減筆文字が使われている可能性があり、壹は臺(台)とした方がいいようです。
古代史 (矢嶋武弘)
2016-04-02 11:02:02
ご意見、ご指摘ありがとうございます。
今は古代史に関心がないので、また改めて調べたいと思います。
Unknown (AS)
2021-10-16 12:09:15
帯方郡から狗邪韓国まで7000里とあり、長里では海岸線を進むとロシアまでいきますし、短里でないと比定地の候補が絞られている狗邪韓国にすらつけないです。
壱岐対馬間も1000里ですが約70kmで短里だとほぼ一致しますが、長里だと壱岐対馬間は434kmになります。
少なくとも、狗邪韓国はロシアやフィリピンにあったと言う説は見たことありませんし、対馬や一支国(壱岐)まではどの説も異論はほぼないので、ここまでは短里と考えるのが妥当で、ここからいきなり長里に変えるのは無理があります。

狗邪韓国がロシアで、釜山から九州までは約200kmですがロシアから末盧国まで3000里、1200kmかけて日本海を航海したって主張されるなら合理性も妥当性も皆無ですが、長里に一貫性あっていいなと思います。
長里と短里 (矢嶋武弘)
2021-10-16 14:46:53
ご意見、ご指摘をありがとうございます。
長里か短里かについては まだはっきりしないので、引き続き いろいろな学説を勉強したいと思います。ありがとうございました。

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