鯖田豊之の本。


まず一言、うわぁぁぁ。

さて、もうすぐ六十歳になるのに未だに売れ続けている本だ。
前回のもかなり古かったが今回はそれ以上に古い。

さて本の内容だが、食習慣からヨーロッパを理解しようとする物で、なかなかに興味深かった。

いきなり脱線するのだが、ずいぶん前に親戚がヨーロッパ(確かスイスあたり)へ旅行したことがあったが、そのとき食事でパンやご飯が無かったと愚痴を言っていたことを思い出した。
で、この本を読んでみてそもそも主食という概念が無いか希薄らしいと分かった。
日本人が行っても食事で色々と苦労するのはむしろ当然の様な気がした。
そうそう似たような事例として、東郷平八郎がイギリスに留学した時に、やはり食事で苦労して紅茶に浸したパンを大量に食べて満足していたという話をどこかで読んだ気がするのだが、これはどこで読んだのだっただろうか?

さて、この本を読んでみて一番驚いたのは、第一次世界大戦の時、パリでやっていた食糧確保の諸々だろう。
パリを囲む城壁の内側にある森に、山羊やらを連れてきて放し飼いにしたとかなんとか。
著者も書いていたが、とりあえず米だけ確保しておけばなんとかなる日本とはかなり事情が違うことは理解できた。
その土地その土地で事情は違うとは言え、なかなかに衝撃的だった。

そして最後の方に、耕作には適さない土地で家畜を飼育するための社会的な仕組みについて書かれていた。
地域社会全体で取り組まなければならないので、拘束力は日本の比では無いとも書かれていた。
だからこそその反動で、自由と平等を叫んでいるとも書かれていた。
本当かどうか俺に判断する能力は無いが、この本を読む限りにおいて矛盾は感じなかった。

だとするならば、全く構造が違う社会構造なのに同じやり方を持ち込もうとしているヨーロッパ思想は危険なのでは無いかとも思う。
人権とか環境問題とか性別とかとか、その土地や社会構造、風習に会わない物を無理に推し進めてしまえば、どこかでゆがみが出るのは当然。
外国から何か言われたからと言って、それに向かって邁進することは、やはり危険な気がする。
一度立ち止まってゆっくり考えるべきだろう。
この本を読んで改めて確信した。

さて結論。

先週に引き続き、この本は一度は読むべき一冊だと思う。
異文化交流とか主張するならばなおのこと読むべきだ。
血まみれの豚の頭がテーブルの中央に鎮座している食卓で、美味しくご飯を食べられる人たちに無理に会わせるのかどうか、しっかりと考えるためにも。(いやまあ、向こう側も生魚を食う俺達に対しても同じ事を思うのだろうが)
いつぞや読んだキリスト教でアメリカを理解しようとする本でも書いたが、よその国(異文化)とは根本的にわかり合えないのだと理解するために。


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