(新)Nothing happens to me.

科学には人間を理解することが絶対にできない理由がある

みなさんは当たり前のように知っているが、科学は全然知らない「存在は客観的ではない」という事実(8/10)【医学がしばしばしばみなさんに理不尽な損害を与えてきた理由part.4】

*短編集「統合失調症と精神医学と差別」の短編NO.50


◆存在の本質は「どこに位置を占めているか」に

 電柱は実際、一瞬一瞬答えるものです、「他のものたちと共に在るにあたってどのようにあるか」という問いに。先ほど、俺が近寄っていくと、電柱がその姿を刻一刻と大きく、かつ、くっきりさせていくことを実際に確認もしました。ではここで、ちょっと極端な想像をしてみてくれますか。俺がその電柱を、近くのビルの上層階から斜め下に見下ろしているものと想定してみてくれますか。


 そして、その電柱の姿を比べてみてくれますか。路上に立って50メートル離れたところから見ていたときに俺が目の当たりにしていたその電柱の姿と。


 どうですか。それらふたつの姿は明らかに異なりますね?


 言ってみれば、ビル上層階から見下ろしている、前者の場合の姿は、頭デッカチで、いっぽう後者の場合は、手にとった爪楊枝を横から見ているときのような姿ですね?


 このように、ビル上層階から斜め下に見下ろしている場合と、地上に立って50メートル離れたところから見ているときとでは、その電柱の姿はかなり異なります。にもかかわらず、科学は「存在の客観化」という作業をし、その電柱を、答えることのないものであることにするわけです、「他のものたちと共に在るにあたってどのようにあるか」という問いに。すると、電柱は、俺がどこでどんなふうにしていようがそんなことには無応答で変わることがないということになります。


 しかし、いま確認しましたように、それらふたつの場合で、電柱の姿は現に異なります。いっぽうは、先ほど言いましたように、「頭デッカチの姿」で、もういっぽうは「爪楊枝を横から見たような姿」です。そこで科学は、それらふたつの姿のあいだに認められる違いという違いをそれらふたつの姿それぞれからとり除くことにします。「電柱にはほんとうは属していない性質」であるということにして。つまり、実は「俺の心のなかにある主観的要素」にすぎない、ということにして。


 すると、そのとり除き作業の結果、どちらの姿も互いにまったく違いがないということになりますね。よって、電柱は、俺の身体が、近くのビルの上層階にあるか、それとも地上で50メートル離れたところにあるかといったことに無応答だということにできますね。


 でも、そうして、それらふたつの姿(「頭デッカチの姿」と「爪楊枝を横から見たような姿」)からそれぞれとり除かれる、それらふたつの姿のあいだに認められる違いとは一体何なのでしょうか?






7/10に戻る←) (8/10) (→9/10へ進む







*今回の最初の記事(1/10)はこちら。


*前回の短編(短編NO.49)はこちら。


*これのpart.1はこちら(今回はpart.4)。


*このシリーズ(全61短編を予定)の記事一覧はこちら。