(新)Nothing happens to me.

科学には人間を理解することが絶対にできない理由がある

機械なんかでは決してないことが明らかな身体を科学が機械と決めつける、嗚呼、あの不幸な瞬間(5/6)【医学がしばしばしばみなさんに理不尽な損害を与えてきた理由part.6】

*短編集「統合失調症と精神医学と差別」の短編NO.52


 では、この、「左手の感覚」がそこから除外された、単なる元素の寄せ集めにすぎないことになった左手を左手機械と名づけることにしましょうか。


 で、いま確認したところを、箇条書きにしてまとめてみると、こうなります。

  • .俺が現に目の当たりにしている「左手の物」の姿と、俺が現に感じている「左手の感覚」とは、ともに、俺の心のなかにある像であることになる。
  • .俺の心の外に実在しているほんとうの左手は、「左手機械」(どの位置を占めているかということと「どんな力をもっているか」ということしか問題にならない、この世の最小の何か  元素  の寄せ集め)であることになる。


 そして科学は、Aの、俺の心のなかにある像であることにした、俺の「左手の物」の姿と俺の「左手の感覚」とを、俺の脳が作り上げた像にすぎないことにします。Bの、俺の心の外に実在している「左手機械」についての情報をもとに、って。


 いま科学が俺の左手を機械であることにする経緯を確認しました。


 左手は機械ではありません。左手とは、ほぼおなじ場所を占めている「左手の物」(の姿)と「左手の感覚」とを合わせたもののことです。機械にはない「感覚」というものがそこに認められます。


 だけど、事のはじめに「絵の存在否定」と「存在の客観化」というふたつの存在改悪作業を立てつづけに為す科学の手にかかると、いま見ましたように、左手は「左手機械」にすぎないことになります。そして、俺の眼前数十センチメートルのところにある「左手の感覚俺の脳が俺の心のなかに作り上げた(感覚)像であるにすぎなくなります(「左手の感覚」のこの見方をと名づけておきます)。心の外に実在している「左手機械」についての情報をもとに、って。


 もちろん、科学のこうした存在改悪は、左手に限定されるものではありません。身体全体に為されます。






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