汝は予の言うことのみを行ない、汝の欲する所にいるがよい! | ★織田信長の夢★ 鳴かぬなら 鳴ける世つくろう ほととぎす

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□■汝は予の言うことのみを行い、汝の欲する所にいるがよい!■□


1569年(永禄12年)               信長   36歳


今日紹介する記事は、ブログ記事「岐阜城を見せるのを恥ずかしがる信長」の後の話であり、「信長とルイス・フロイスのファッションショー ~in岐阜城~」へと続いていく。


簡単にあらすじを書くと、ルイスは、信長から都での布教や滞在許可の朱印状を貰ったものの、キリシタン達を毛嫌いする日乗上人(信長の命で朝廷との交渉などをしている僧)の妨害に合う。

日乗上人は、天皇から「キリシタンを殺してもよい」という許可を貰い、それをダシにルイスやルイスを保護する和田惟政を脅しに掛かってきていた。

信長はその頃、岐阜城に戻ってきてしまっていたので、身の危険を感じたルイスと修道士のロレンソは信長に保護を求めるべく、岐阜に赴いた。

そこで、信長から岐阜城の山麓の屋敷を案内され、歓迎される。


そして今日紹介する部分では、信長が内裏と足利義昭にもルイス達を庇護することをお願いする書状を書いてくれた。

この時、信長はルイスと場に居合わせた都の貴人に向かって信長らしい一言を言い放っている。

「いっさいは予の力のもとにあるが故、内裏も公方様も意に介するに及ばず、汝は予の言うことのみを行ない、汝の欲する所にいるがよい」

この時点で信長は、「天下は自分が動かしている」という自負があることが感じられる。


また、ルイスとロレンソが帰ろうと信長に挨拶すると、信長は彼らを引き留め、「翌朝、山の上の城を見せたいので、帰還を延ばすように」と命じ、「信長とルイス・フロイスのファッションショー ~in岐阜城~」へと話は続いていく。

信長の自分のお城自慢は岐阜城時代辺りから始まるようだ。(笑)


以下、その一節を紹介していく。


①翻訳文

「1569年7月12日付、ルイス・フロイス師が都より、豊後のベルショール・デ・フィゲイレド師に宛てた書簡」


私がこのキリシタンを美濃から都へ出発させた翌日、藤吉郎殿と称する件の貴人が私の問題を解決するため国主のもとに行き、公方様(※足利義昭のこと)が我らを庇護するため私がロレンソと一緒に作成しておいた四、五行の覚書を彼に届けた。

彼は、覚書は短く、己れの意に適わないと言うと、さっそく、秘書を呼び寄せた。

秘書は彼の面前に跪いて、内裏と公方様に私を庇護することを請う、遙かに長い書状をしたためた。
藤吉郎殿はこの書状に国主の印を付して私に与え、彼自らは和田殿と日乗上人にそれぞれ書状をしたため、国主が私に対して示した深い愛情と好意を説いて、私を大いに庇護していることを伝えた。

彼はそのまま時をおかずに戦さに戻ったので、私は柴田殿の家に行き、書状について国主の手に接吻(して感謝)し、別れの挨拶をするため、殿下に会わせてくれるよう請うた。

柴田殿は自邸において再び我らを和田殿に劣らぬもてなしをもって迎えた後、国主のもとに赴き、私は再度彼と語らった。
彼は都の多数の貴人の前で、「いっさいは予の力のもとにあるが故、内裏と公方様も意に介するに及ばず、汝は予の言うことのみを行ない、汝の欲する所にいるがよい」と言い、私はいつ帰るのかと尋ねた。

(私の問題は)すでに殿下により決裁されたので翌朝(出発する)と言うと、これに対して私の帰還はいとも急なことだと答え、翌朝、私に城を見せたいので帰還を二日延ばすようにと言った。

すぐさま彼は重立った貴人の一人を呼び、翌朝、私と都の貴人七、八名を十分に饗応し、食事が終わったら柴田殿が私を城の上に案内すべきことを伝え、公家の日野殿の一子(日野輝資)には、彼(信長)の代わりに私と午餐を共にするように言った。

私は尊師に事実を申し上げるが、信長の高貴な人々や、都および諸国から用務のため政庁に来ていた数多の貴人は驚嘆し、私とロレンソに対して、信長が私に種々の恩恵を授けるというような、かくも尋常ならざることが何に起因するのか判らず頭が混乱すると述べた。

(後略)

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参考文献

・『十六・七世紀イエズス会日本報告集 第Ⅲ期 第3巻』  松田毅一 監訳、同朋舎、1998年
※この中の、「一五六九年七月一二日付、ルイス・フロイス師が都より、豊後のベルショール・デ・フィゲイレド師に宛てた書簡」に収録されています。

 

 

 

 

 


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