極論を言えば、世の中のあらゆる問題は、人の認知が、いや評価が相対的であることが原因なのだと思う。
機会平等と結果平等。現実問題として、どちらも実現はされていないのだけれど、どちらを目指しているのもわからなくなっているのではないかと、僕は思う。
みんな違ってみんな良い。それがベストな在り方なのだろうけど、序列をつけようとすると途端にそれが成り立たなくなる。
ゲームはチートすると途端につまらなくなるように、何かを成し遂げると言うのは、所与の前提から得られた格差に対して価値を認める、人類?人間?の価値判断傾向が、平等を難くしているようにも思う。
舞の海が小さい身体で大きな相手を翻弄するところに価値があったし、そこには巨漢こそ相撲には有利であると言う通念が前提にあって、相撲のルールにおいて勝ちとされる状況へ遠いところから至るところに価値があるとされていたのではないかと思うのだ。
要するに、人は差が無いと価値を認められない。
平等であることは、機会という点においては、そうであって欲しいと願うけれど、結果においては平等であることで、努力とか、自身のアイデンティティとかを否定されちゃうんだよな。
善のイデアなんて無いんだ。
たぶんそれが、すべての悪の根源。
これメモね。
今さ、プライドコードとかって言う、朝日新聞のポッドキャストを聴いていてね、思ったんだけど、要するに、資本主義と民主主義との相性の悪さと言うか、そんなものを感じた。
もっと身につまされる感情として、最近好きになった人は、男性としても、人としても好きだった。
でも、僕の男性性と世間知的な平等性?それを強く感じたのだ。