追悼コービー・ブライアント
マイケル・ジョーダンが『弟』について語ったこと
Los Angels Timesの記事より拙訳 (何か訳違いなどあればお知らせください)
「おはようございます」と言おうとしましたが、お昼を過ぎてますね。
本日お話しする機会を設けていただいた、バネッサとブライアント家の皆さまに感謝いたします。
私はジジや、コービーが我々みなに与えてくれた贈り物───
彼がバスケットボール選手として、ビジネスマンとして、作家として、父親として成し遂げた事
───を称えるため、この場にいられることを嬉しく思います。
バスケットボールの試合や人生において、そして親として、彼はタンクを空っぽにして、すべてを出し尽くしました。
もしかしてみなさんは驚かれるかもしれませんが、コービーと私はとても親しい友人同士でした。
コービーは私の大好きな友人で、彼はまるで私の弟みたいでした。
人々はいつも彼と私を比較した話をしたがりましたが、私はコービーについての話だけをしたかったのです。
私たちには誰しも兄弟姉妹がいます。
理由は何であれ、いつも何でもかんでもまとわりついて来ようとする小さな弟や妹がいますよね。
言うなれば、うざったかったあれです。
でも、長い期間を経て、そのわずらわしさは愛情となりました。
というのもそれは、彼らがまさに今踏み出そうとしているこれからの人生について、どんな些細な物事をも知りたいという欲求や問いかけを、兄や姉として憧れを抱いているあなた方に対して彼らがしているだけだからなのです。
彼はよく私に電話やメールをしてきました。
11時半や午前2時半、午前3時にポストアップの足の動きや、時にはトレーニングの話などをしてくるのです。
最初それはうざったいものでしたが、それはある種の情熱に変わりました。
この青年は、あなた方が絶対に知り得ないような情熱を持っていたのです。
そういうところが、情熱の素晴らしいところです。
もしあなたに何かとても好きなモノがあって、それに対して強い情熱を持っていたとします。
そしてそれを理解しようとしたり、例えばアイスクリームやコークや、ハンバーガーとか、なにかあなたが大好きなモノなどを手に入れようとすれば、極端なことをもしてしまうでしょう。
もし歩かなければならないとしたら、歩いてそれを取りに行くでしょう。
もし誰かにお願いしなければならないとしたら、そうやってそれを手に入れるでしょう。
彼は私がやっていたプレイ方法、または彼がやろうとしていたプレイ方法について、「とても真剣に考えている人物」になることで、私を鼓舞してくれました。
彼は私にとって、そういう存在でした。
彼はできる限り最高のバスケットボール選手になりたがっていました。
そして彼を知るにつれ、私はできるだけ最高の兄になろうと思いました。
しかしそうなるためには、深夜の電話やバカげた質問など、イライラすることを我慢しなければなりません。
コービー・ブライアントを知るにつれ、ただよりよい人間、より良い選手になろうとしていた彼を、私は誇りに思うようになりました。
ビジネスの話もしました。家族の話も、私たちは何でも話をしました。
彼はただよりよい人間になりたかっただけなのです。
ほら、彼にやられたよ。
また新しい『クライング・ミーム*』を目にしなくちゃならなくなった。
妻に言ったんです。今日泣くつもりはないってね。
なぜなら今後3~4年もまたそれを見なくちゃならなくなるから。
(*注:アメリカではSNSなどで「クライング・ジョーダン」という、泣いているジョーダンの顔をコラージュした画像が、よくファンなどの間で面白おかしく使われている)
これこそコービー・ブライアントが私にやることなんですよ。
バネッサや彼の友だちはみな同じことを言うでしょうね、きっと。
たとえ自分が人をイラつかせる嫌な奴になってでも、直接その人に影響を及ぼす方法を彼はよく知っているんです。
でもその人の最高な部分を引き出してくれる、そんな彼のやり方には愛を感じます。
彼は私にそういうことをしてきたのです。
数か月前の事でしたが、彼がこんなメールを送ってきました。
「娘に(バスケの)動き方を教えようとしてるんだけど、自分がその頃どう考えて、どういう風にやっていたかを覚えてないんだ。
それで聞きたいんだけど、子どもの頃、動き方を習得しようとしてた時、どんな風に考えてた?」
で、私は聞いたんです。
「で、(彼女は)何歳なんだ?」
「12歳だ」
で、私はこう返しました。
「12歳の時、自分は野球をやろうと思ってたよ」
で、その返信がこうでした。
「クソワロタ」
これが午前2時のことなんです。
私たちはバスケットボールの事に関して何でも話すことができましたが、人生についても何でも話すことができました。
人生において我々が成長する時、ああいった話ができる友達を持てるということはめったにないでしょう。
それこそ対戦相手とあんなことを話すなど、もっとまれでしょう。
1999年か2000年にフィル・ジャクソンに会いに行きました。
フィルがここLAにいた時かはわかりません。
で、私が入っていった時に、コービーがそこに座っていました。
私はスーツ姿だったんですが、最初にコービーが言ったのは、
「シューズ持って来た?」
だったんです。
いや、バスケしようとなんて思ってなかったから。
でも彼が自分の試合のクオリティを高めたり、向上させたりすることができると思った相手と競争したり、対戦したいというその姿勢───
私がこの青年を大好きなのは、そういうところなんです。
絶対的なバスケへの愛情。
彼が私を見かけた時はどこであれ、それは挑戦になるのでした。
私は彼の情熱を尊敬しています。
あんなふうに毎日向上しようと努力している人を見かけることなどあまりないでしょう。
それもスポーツだけじゃなくて、親としても、夫としてもなのです。
私は彼が成し遂げた事や、彼がバネッサや子どもたちと分かち合っていたことについて、とても感銘を受けました。
私には30歳になる娘がいます。
おじいさんになりました。
そして私にはふたりの双子がいます。
6歳です。
家に帰って、その女の子たちのお父さんとなり、ハグをして、私たち両親にもたらしてくれる彼女らの愛情や笑顔を見ることがいつも待ちきれないでいます。
ここでこうしてこの光景を見ることで、彼が本当に愛した人たちに対してどう接していたのかを、彼が私に教えてくれたような気がします。
このことがコービー・ブライアントから、我々がこれからも学び続けなければいけないことだと思います。
バネッサ、ナタリア、ビアンカ、カプリへ。
私の妻と私はずっと心と祈りを寄せ続けていきます。
常に我々はあなたたちと共にあります。いつ何時もです。
そしてこのように大きな悲劇を被られたご家族のみなさまにもお悔やみを申し上げます。
コービーはいつも自分の一部分を、何であれ彼がやっていたことに対して残していきました。
バスケットボールを引退した後、彼は誰もが知らなかったような、クリエイティブな側面を見せてくれました。
引退して、彼はとても幸せそうに見えました。
彼は新しい情熱を見つけたのです。
そして彼はコーチとして、地域にお返しをすることを続けました。
そしてより大切な事ですが、彼は家族にすべてを捧げ、心から娘たちを愛する素晴らしい父親であり、素晴らしい夫でありました。
彼はコートですべてを出し尽くしましたが、それこそ彼が私たちに望んでいたことだったと思います。
誰もが自分に残された時間を知りません。
それこそがまさに、その瞬間を生き、その瞬間をエンジョイしなけれなならないという理由になるのです。
我々は、自分の愛する家族や友達、そして大好きな人々とできる限り多くの時間を共に過ごさなくてはいけない、ということに気付かなくてはいけません。
「その瞬間を生きる」ということは、我々が触れるもの接するものすべてに対して楽しんでいきましょう、ということなのです。
コービーが亡くなったとき、私は自分の一部を失いました。
このアリーナを見た時、そして全世界を見渡した時、きっとみなさんもご自分の一部を失くしたような思いだったのでしょう。
だからここに来ていらっしゃるのですよね。
これらは我々が共に抱え、学んでいかなくてはならない大事な『記憶』なのです。
私は約束します。
「どんな方法でも手助けしてあげたかった弟が私にはいた」
という思い出と共に、今後生きていくということを。
弟よ、安らかに。
“As I got to know him, I wanted to be the best big brother that I could be.”
— NBA TV (@NBATV) February 24, 2020
Michael Jordan on Kobe Bryant. pic.twitter.com/dTSp7VDosP