2019年5月22日水曜日

中目重定 -伊達に寝返った大崎宿老-

なかのめ しげさだ
中目 重定 
別名
兵庫助、兵庫頭、隆政?
生誕
不明
死没
不明
君主
大崎義直 → 義隆 → 伊達政宗
勢力
大崎家 → 仙台伊達藩
家格
四家老? → 不明
所領
-1590 下中目 兵庫館(および下伊場野古城?)
1590- 不明。浪人?

1593- 青生・彫堂
氏族
中目氏(渋谷氏系統か)
父母
不明
兄弟
不明
氏家直俊の娘
中目弥五郎重種
子孫
中目太郎左衛門
親戚
中目相模? 中目大学?
氏家隆継(義理の甥)、氏家吉継(義理の大甥)
墓所
不明
中目兵庫重定は大崎家の家臣でありつつも、戦国時代の末期に伊達家に仕えた武将である。中目は「中ノ目」「中野目」とも表記されることから、「なかのめ」と読むのが正しいと思われる。

『葛西・大崎盛衰記』によれば中目家は大崎の「四天王の御家臣」であり、四家老と呼ばれたりするのだが、これは近世の著作であり、大崎氏の初期~全盛期においてはともかく、重定の時代にこの四家老なるタイトルが実情に即していたかどうかは疑わしい。


■その支配地

大崎地方に下中目(現在の宮城県 大崎市 古川 下中目)という集落があり、そこを治めていた様だ。下中目は現在、低地の田園地帯となっているが、そこにぽっかり島の様に浮かんだ丘がある。「中目城」あるいは「兵庫館」とよばれていた城館跡があり、『風土記書出』では城主を中目兵庫と伝える(以下、出典史料については【史料集】中目重定を参照)。

ここは鳴瀬川に多田川が合流するポイントで、昭和32年(1957)以降は新江合川もそそぐ結節点となった。いずれにせよ、治水がそれほど進んでいなかった戦国時代当時は、それなりの湿地帯であっただろう。河川の氾濫がおこれば、中目城はあるいは水の浮城のような城塞となったのかもしれない。ただし、

①現在の様子を見ても、小規模な居館といった印象
②大崎合戦においても対伊達の防衛ラインとして用いられていない
③葛西・大崎一揆においても簡単に陥落している

ことから考えて、本格的な籠城に耐える城ではなかった様だ。

また、『風土記書出』では下伊場野村の古城(伊場野古城)についても城主を中目兵庫とし、隣接する下伊場野城については中目大学を城主と伝える。中目大学は兵庫重定の親戚だろう。

どちらにせよ、中目一族としては鳴瀬川をはさんで南北にその領地をもっていたこととなる。伊場野は伊達領の大松沢(大松沢氏)や松山(遠藤氏)と接する場所であり、のちに大崎を見限って伊達に接近するのも、こういった地理的要因があったかもしれない(上記 兵庫館・伊場野古城の位置については下記Google Map参照)。


■活動の初見 - 黒川への使者

中目兵庫重定の名が初めてみえる史料に、「黒川氏宛 大崎義直黒印状」がある。弘治3年(1557)のものと推定されており、大崎家の第11代当主・義直が黒川景氏・稙国親子に宛てたものである。

内容は、近隣の大名である留守氏の当主・顕宗に対して家臣・村岡氏がおこした反乱に関するもので、この留守氏内紛を調停しようと動いていた黒川親子へのねぎらいと、協力の約束である。最後に「委曲 中目兵庫助 理申すべく候」とあるので、大崎義直の使者として、中目重定が黒川へ派遣され、詳細を伝えるメッセンジャーの役割を任せられたのだろう。

以上から、中目重定が大崎義直の代から現役だったことがわかる。一方で、続く第12代・大崎義隆の時代末期まで、しばらくその活動の詳細は不明である。


■大崎合戦

天正末期、大崎家がふたつに割れた天正大崎の内乱においては、中目兵庫重定は大崎義隆・新井田刑部の側についたと『成実記』にみえる。

ただし、その内乱が発展し伊達政宗の介入を招いた天正16年(1588-)からの大崎合戦においては、伊達勢を迎え撃った大崎家臣団の中に中目重定の名前が見えなくなる。あるいはこのとき既に伊達によしみを通じていた、もしくは中立的な態度をとっていたのかもしれない。

『葛西・大崎盛衰記』では桑折城に中野目兵庫が加勢したと見えるが、『葛西・大崎盛衰記』は近世成立の軍記物であり、『成実記』と比べても大崎方の陣容にかなりの誇張があると思われ、信頼するには怪しい。

このとき大崎氏は対伊達戦線として、本拠地・中新田を守備するべく下新田城・師山城・桑折城を防衛ラインに設定していたが、それよりも前線側にある中目城は無視されている。

それだけでなく、おなじく中目兵庫が城主だったとされる伊場野古城、親族だと思われる中目大学が城主だった伊場野館も防衛ラインとしては外され、一段下がった師山城 = 桑折城が防衛ラインとして設定されている。

クリックで拡大。大崎合戦開始前(1588.01)の戦闘配置。『成実記』より。
南東の白いアイコンが中目氏関連の中目城(兵庫館)・伊場野館・伊場野古城。
これら3城は利用されず、大崎方の防衛線は一歩下がった師山=桑折城ラインに設定されている。

先述のとおり、城の脆弱性が原因かもしれないが、あるいはやはり、中目氏はこの頃すでに大崎防衛部隊からは戦線離脱していたのかもしれない。いずれにせよ、中目重定がこの戦いで目立った動きをしなかったことは確かだ。


■大崎への手切れと伊達への接近

大崎合戦において大崎方は、戦術的には中新田で伊達軍を打ち破りながらも、政宗による大崎家臣団の切り崩しや粘り強い講和条件交渉により、大局的には大崎方の劣勢に推移していった。

上記のように、もともと大崎合戦においては行動がはっきりとしない中目重定であったが、天正17年(1589)3月初頭、同じ大崎家臣の古川氏の配下を攻撃し、明確に反大崎の姿勢を明らかにする。これは『貞山公治家記録』(3月7日の条)およびその史料集ともいうべき『政宗君記録引証記』に紹介されている。

この中目重定の行動のタイミングを考察するに、少しさかのぼる2月上旬に大崎氏における最大の抵抗勢力・氏家吉継をはじめとする氏家党のメンバーたちが政宗の米沢にいる参上したことと関係があると考えられる。『古川市史』では中目の行動をもっと厳密に、氏家吉継が米沢から岩出山に帰還した直後の3月2日のこととしている。

氏家党メンバーの米沢参上は、彼らが大崎家を離れて伊達に出仕することを意味する。実は中目重定の妻は氏家氏出身で、吉継は親戚にあたる。氏家吉継は伊達出仕への手土産として、中目の大崎離反を工作したのかもしれない。あるいは逆に、中目重定が自ら流れに乗り遅れまいとして、反大崎の行動をとったのかもしれない。

また、同じく天正17年(1589)の12月24日には政宗からの書状(政宗文書579)で大崎の合戦が勝利した暁には、四日市場の領土を加増する旨を約束されている。この四日市場は、大崎の本拠地・中新田の近辺で、おそらく大崎方に属する地である(『古川市史』は下新田氏の領地と推測。下記に地図あり)。中目重定はこの時点で、完全に大崎に反し伊達方の武将として行動している。


■葛西・大崎一揆

その後、大崎氏は小田原参陣を果たせなかったことから、改易となり大名としては滅亡した。大崎と、同じく取りつぶしとなった葛西の旧領には木村吉清が入封するが、これに対して旧葛西・大崎家臣や農民たちの一揆がおこる。

伊達政宗や、蒲生氏郷はこの一揆の鎮圧に乗り出すが、途中、政宗は一揆を扇動していることを疑われ、弁明のために上洛。有名なセキレイの花押のエピソードで秀吉の疑いを解いた政宗は、一揆の第2次鎮圧を開始する。

この第2次鎮圧の開始直前(天正19年(1591)6月8日)、政宗は中目重定に宛てて書状を書いている(政宗文書837)。「これから出陣するので、(現地で)直接いろいろ申し付ける」といった内容で、このとき中目重定が一揆には加わらず、むしろ鎮圧側として政宗に協力していたことがわかる。

一方、『伊達治家記録』天正18年(1590)11月20日の条には中目相模なる人物が中目城に籠って一揆に参加していたことが書かれている。伊達方の武将・遠藤心休斎によって簡単に攻略されているが、この中目相模はおそらく重定の親族の誰かであろう。中目一族も一枚岩ではなかった様だ。

中目城(兵庫館)。中目兵庫重定の居館と伝わる。
葛西・大崎一揆(1590)では中目相模が籠城するも、
伊達方の遠藤心休斎により陥落される。宮城県 大崎市 古川 下中目。

少しさかのぼる11月11日には、政宗から中目弥五郎(『治家記録』では重定の嫡子・重種としている)宛に判物が下され、その忠節を賞されている。あるいは一族の中目相模の反乱に対して、重定・重種親子もなんらかの鎮圧行動に加わっていたのかもしれない。


■大崎耕土の開墾

その後の中目重定の活動は明確ではないが、1593年3月23日の段階で、伊達氏から中目兵庫(重定)宛てに朱印制札が出され、青生・彫堂の地の開墾を指示されている。青生・彫堂はいずれも下中目のすぐ東側の土地であり、制札では「あれ地」と表現され、葛西・大崎一揆で荒廃したことが示唆されている。あるいは中目相模が中目城に籠ったことと関係しているのかもしれない。


政宗は葛西・大崎一揆をきっかけに本拠地の置賜や現在の福島県域に獲得した領地を没収され、かわりに葛西・大崎の旧領を与えられた。これは石高としては大幅にダウンで、伊達家としては中目たちの様に、諸家から伊達に鞍替えして増えた家臣を、減少した収入で養わなければならなかった。

その解決策として行われたのが、このように給与の直接支給ではなく土地を与えて家臣たちの開墾を推奨する方法で、近世には地方じかた知行制と呼ばれた。これがのちに「実質200万石」ともいわれる穀倉地帯・仙台藩の姿につながる。中目重定に指示されたこの青生・彫堂の開墾は、その典型のように思える。


■その子孫

...以上のように、大崎家から伊達の配下となったことは確かな中目重定なのだが、その後の動向は子孫も含めてよくわからない。

彼の嫡子とされる中目弥五郎は、「伊達政宗最上陣覚書」と呼ばれる史料にその名前が見えることから、東北の関ケ原・長谷堂城の戦いへ派遣された伊達の援軍に参加していたことがわかる。つまりこのとき、すでに重定は第一線を退き、嫡子・弥五郎重種に家を継がせていたのではないかと思われる。既に活動の初見(1557年)から40年以上が経過している。妥当なところだろう。

仙台藩の家臣録である『伊達世臣家譜』には「大崎の旧臣」を称する中目家が載っているのだが、元寺尾姓、隆継・一慶を経て定継の代の慶長19年(1614)に伊達家に仕えた、とするなど、どうもここに紹介した中目重定の家とは一致しないように思える。あるいは、中目相模や中目大学の家系だろうか。

上記で紹介した政宗文書などは「中目家文書」として伝わっているものなのだが、文書について『政宗君引記録証記』では「右、津田民部預給主中目太郎左衛門所持」と解説している。中目重定が政宗から与えられた文書を所持していた中目太郎左衛門は、重定の子孫であることに間違いはないだろう。「津田民部 預給主」とあるので、兵庫重定の子孫たちは、佐沼要害を拝領した津田氏配下の伊達家臣として近世を生きた様である。


■参考文献
直接の出典となった史料についてはこちらを参照 ⇒ 【資料集】中目重定
  • 佐々木慶市『奥州探題大崎十二代史』1999年、今野出版企画
  • 遠藤ゆり子「大崎氏の権力構造」(『戦国時代の南奥羽社会』2016年、吉川弘文館 所収。初出は『立教 日本史論集』第8号に掲載の「戦国大崎氏の基礎的研究」2001年)
  • 『古川市史1』第1巻 通史Ⅰ、2008年






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