上越の青き魂の風音のブログ

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肩肘張らず書いてみます。理想は、想像力で天翔る創作の天使。「たいまつ新聞」を掲げたむのたけじのごとき自由な言論。やさしく、深く、情けあり。過ぎ去った日々に哀切を感じつつ…。青春よ、なぜ、おまえは過ぎ去るのか。

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 2年ぶりですね。お元気ですか?

 

 ご無沙汰しておりますが、

 あれからいろいろあって現在、準主婦として活躍しています。書きたいことは山のようにありますが、ときどき夜中に目が覚めて眠れなくなる不安とか、夜明け前の光のなかで下りてくる微かな慰めとか、いじらしい努力とかをつらつらと書くのは「日記」の役目だから、いまはただ元気であると言うことだけをお伝えしたい。

 昨年秋に励ましもいただいた方々に、「階段から落っこちた女房」のその後の病状などを報告すべき義務があると思ってきたけれど、なかなかに書き切れぬことも多く、いまのところは、歩いていること、要支援2になったこと、週2回のリハビリに小生が送り迎えしていることだけをお伝えしておきます。

 ところで、最近は女房の近くで寝るようにしていて、臨時のマットレスで寝るときに読んでいるのは「百人一首」の解説本。気に入っているのはこんな和歌。

 もろともに 哀れと思え山桜

          花よりほかに 知る人もなく

 ということで、最近ちょっと気持ちがやわらいできたので、テレビでやっていたうわさのchatGPTを戯れにやってみた。いろいろ試したが、「藤あきら」はとんでもない経歴の持ち主で数々の賞を取り、すでに亡くなっているという回答があふれて、あきれたというか驚いたね。

 いろいろ試みて、これは「愛」について直裁に尋ねてみたときの回答。

 うーん、まじめではないか。これから、たまに、しごいてやろう。

      ◇    ◇

Q 愛とは何でしょうか?

A 愛とは、人間関係や社会生活において、人々が互いに深い感情的な絆を育み、心からの思いやりや尊重をもって接することです。この感情的な絆は、親子、夫婦、友人、家族、同僚、恋人など、様々な関係性に存在することがあります。

愛には、次のような特徴があります。

思いやりや尊重:相手を大切に思い、自分自身の感情だけでなく相手の気持ちも理解すること。

寛容さ:相手の欠点や過ちを受け入れ、許容すること。

責任感:相手を守り、支えるために責任を持ち、行動すること。

希望や信頼:相手に対して希望を持ち、信頼を寄せること。

愛は、人生において非常に重要であり、幸福感や安心感をもたらすことがあります。また、相手との絆を強めることで、精神的な成長や自己実現につながることもあります。

 ☆ 写真は正月のドカ雪の降り止んだ日の青空。雪国の清浄な空気が好きですね。

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 2年ぶりだあー。

 こんな顔で生きている。困難はコロナだけじゃないけど、山のように向かってくるけど、そいつになんとか抗して生きているのだよ。今年は年明け早々の豪雪で町ごと雪に埋まり、一週間も車が出せなかった。雪に閉ざされて、一階の窓がどんどん暗くなって埋まっていく閉塞感というのは、外は吹雪だからね、結構、重い!コロナの蔓延で不安な都会はどうだろう?

 まずはこんな顔でご挨拶!

 

 「鷲尾教導さんの足跡を訪ねて」・・・久しぶりに講演してきたぞ!

    教導さんの業績が忘れられないために、再発見すべきです。

   

   (ご参考に)恵信尼文書の世紀の発見をした鷲尾教導さんの実家のお寺

         見附市の安城寺での講演メモ(2019/6/16)

                        作成 2019年5月9日

 

 冒頭の挨拶

  この度は本堂落慶、おめでとうございます。

 実は安城寺には12年前にお邪魔したことがありまして、親鸞聖人ご流罪800年の年、07年の7月6日と、その2ヶ月後の9月3日なんです。この年に実は朝日新聞の新潟版で、「越後の親鸞 伝説を訪ねて」の連載を始めまして、そのときの取材でお邪魔したわけです。そのときは、お寺が廃されて敷地もほとんど売却した後に、そのときになってお寺をなくすわけにはいかないということで残った敷地に建てられていた、まだ平屋の「町内会館」のような建物で、このように立派な内陣もなく、天井絵もありませんでした。ときどき子どもたちに勉強を教える学習塾を開いていたというころです。

 ただ長押の上に鷲尾教導さんの写真だけが飾られていた、その光景がとても印象的でした。今回、当時の取材ノートを探しまして、あのころの取材メモを読んだんですが、最初の日は、まあ偵察みたいな事前取材で、いろいろ門前をキョロキョロうろつきまして、2度目は、覚悟を決めてご住職にアポを取って、きちんといろいろお話を伺ったわけですが、それからすっかり変わって、立派なご本堂が建ち、それでも、ああここだったかなあーという懐かしさを感じました。

 

 ま、そんなことで、当時、一介の新聞記者としてここにおじゃまし、住職さんにお会いして話をお聞きし、そこから芋づる式にいろいろ取材して歩いたわけですが、しかし、なかなか教導さんのことは、大正時代の人で、研究した資料もなく、地元でもよくわからず、忘れられてしまったのかと本願寺にも問い合わせたりしました。多分、現在もほとんど、教導さんのことについてはその状況だと思います。

 そういうことなので、記事はなんとかでできたものの、ある思いというのは残りました。つまり、取材しているとだんだんわかってくるんですね。もっと教導さんは評価されていいんじゃないか、もっと業績が讃えられていいんじゃないか、そういうことを強く感じるわけです。

 ですから、今日は、お話があって、ああ、あの教導さんのお寺か、教導さんのことかと、当時の思いが一瞬によみがえりまして、それならなにかお話ができるかもと、そんな思いで参りましたので、学者でも研究者でもないので、つたない話しかできませんが、どうぞよろしくお願い申しあげます。

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                          

2 さて、教導さんという人のことですが

 ご存じのように安城寺13代住職で、本願寺の「司教」という「学僧」ですね。私事で恐縮ですが、鎌倉に赴任していたことがあって、あそこに禅宗の臨済宗円覚寺派きっての学僧という有名な人がいて、いろいろお話を伺ったことがあるのですが、教導さんというのはそれとはちょっと違ったタイプで、いわば宗門の歴史学の学僧、真宗史の学者、研究者だったわけです。

 それも、ただ勤勉な研究者でした、というのではなく、ある日、宗派を超えた日本の大きな思想家である親鸞聖人という人の、だれも確認できなかった歴史上実在する妻の直筆の手紙の束を発見した人です。『恵信尼文書』といいます。

 この恵信尼文書は、親鸞聖人その人の、人となりや信仰をめぐる数々のエピソードをいまに伝える画期的な文書だった。この発見によって、教導さんの名は、「永遠に不滅」となりました。

 これは冗談ではなく、どんな研究書や論文も恵信尼文書に触れるときには「鷲尾教導さんが発見した」とひと言、添えることになっています。いまでは当たり前に語られている親鸞聖人のことは、すべてこの発見のおかげなんです。

 そういうすごいことだったんです。

 

 教導さんは、越後から京都に行って本願寺僧侶となり、いまの龍谷大の前身である明治時代の「大学林」という西本願寺最高の教学機関を修了し、本願寺に勤務する「助教」となっています。

 このあと、本山から岡山県の監獄に『教誨師』として派遣されたりして、その岡山で意外なことに、過激な社会主義的な「平民新聞」の熱心な読者となりますが(明治37年、社会主義運動の黎明期で、後の大正人道主義の直前、日露戦争開戦のころですが)、いまはその話は省きまして、その後、理由はわかりませんが「帰休」を命じられたりして本願寺に戻って、本願寺の歴史や親鸞聖人の事績調査をしているなかで、本願寺の「宝庫」に入ることができて、それで、本願寺が所有する700年間に及ぶ古文書の中から、なんと「古新聞」に包まれた「恵信尼文書」の束を発見するというわけです。

 どうして古新聞なのか、それが不思議で、当時、そのいきさつについて西本願寺史料研究所に手紙で問い合わせをしています。

しかしその回答は、後に連載を本にした「親鸞 越後の風景」にも書いていますが、「鷲尾教道氏が恵信尼文書を発見した経緯については、それを詳細に記したものをこちらでは確認できません」というものでした。

 じゃあ、わからないんだったらしょうがない、ではそのことを本山としてどう評価しているのか、についても聞きました。

 史料研究所は、「恵信尼文書を例にすれば、(これは歎異抄のことも聞いているからなんですが、(本願寺3世の)覚如上人が目を通して以後、だれも見ていなかった、あるいは見てもそれが何であるかわからなかったというのが正確であろうと思います。鷲尾氏の業績は、蔵で見た古文書を恵信尼のものであると判断した点で画期的であったといえます」と回答しています。

 そういうことなんですね。

 

 ここに出てくる覚如上人というのは、26歳の時に、約724年前です、あの「親鸞伝絵」(御伝抄)を書かれた人です。本願寺3世ですね。親鸞の末娘の覚信尼の子どもの覚恵上人の子ども、つまり親鸞聖人のひ孫です。

 実は恵信尼文書の一部に、第3通から第6通の「端裏書き」という、まあ添え書き、メモが残されていて、そこに「えちごの御文(おふみ)」とか「恵信御房御筆(おんふで)」とか、「覚信御房御筆」とかがあって、それは覚如上人の字とみられていて、それによって覚恵上人も、もちろん覚信尼も読んでいることがわかる。つまり代々、この文書は引き継がれていたわけです。

 

 ただ、覚如が26歳で(1295年)『親鸞伝絵』を書いたときには、まだ恵信尼文書のことを知らなかったとみられます。というのは『伝絵』に恵信尼のことが出てこないからです。そもそも親鸞聖人の結婚のことが出てこない。

 それが60歳の頃に記された『口伝抄』(1331年)という文書になって突然、「6人の子どもの母親である越後国府の恵信御房」という記述が出てきます。ほかにも恵信尼が書き送った関東での重要なエピソードが記されています。

 しかもこの『口伝抄』が歴史上、初めて「恵信尼」のことが記された古文書なんです。ですから、覚如上人はこのときには確実に恵信尼文書をみていて、これを参照して『口伝抄』を書いたのではないかともされているのです。確実に見たのは1307年で、それは覚恵上人が亡くなった後のことで、そういう書き込みが文書にあるからなんです。

 

 『口伝抄』というのは、親鸞の子の(長男とも次男ともいわれる。母は恵信糸は別人という説もあります。系図では架空の人物とされる範意という長男がいることになっている)善鸞の子の如信上人から、この人は幼少のころから親鸞聖人と身近に接しながら育ったという人ですけれど、その人から覚如上人が聞いたいわば「身近な人たちの記憶による親鸞聖人の伝記」です。

 ですから当時は家族の中で、恵信尼文書を見るまでもなく親鸞聖人の妻は越後にいる恵信尼だと聞かされて育ったかも知れません。とはいえ、ほんとうにそうだったのかはわからない。この『口伝抄』という宗門の記述以外には証拠はなにひとつないのですから、そもそもそれは宗門の伝説なのか、それとも歴史的上の事実なのか、だれにもわからなくなっていた。

 それが教導さんの700年ぶりの発見によって、初めて実在した親鸞の妻だったということがわかったわけです。

 

 まっ、すでにご存じのように、この恵信尼文書というのは、当時、晩年を越後で暮らしていた恵信尼が、京都で親鸞聖人の臨終にも立ち会った末娘の覚信尼に宛てて書いた自筆の手紙10通のことです。親鸞聖人が亡くなったという知らせを受けて、改めて覚信尼に宛てて、親鸞聖人がどのようなお方だったのかと教えさとしたり、若いころに親鸞聖人がなにに思い悩んで法然の元に向かったかとかが書かれています。恵信尼が下人や下女とともに、飢餓にもさらされながら暮らしていたことなど、亡くなる最晩年までの13年間の越後での厳しい暮らしぶりがリアルに綴られています。

 それは中世の女性による記録としてもとても貴重な史料であるのはもちろん、この文書のすごいところは、それまでだれも知らなかった親鸞聖人にまつわるいくつもの事実が鮮やかに書き記されていたことです。

 

 例えば、親鸞聖人が若い頃、延暦寺で「どうそう」だったと書いてあります。それまで、よくわからないのので、「学生(がくしょう)」という高い身分だったんじゃないかとされていたんです。それが「どうそう(堂僧)」ということがわかって、不断念仏の修行をしていた下層の念仏僧だった、ということがわかった。つまりこれによって初めて「ほんとうの」親鸞聖人のことがわかったわけです。

 

 さらに、いろいろと本を読みますと、当時の言葉遣いについて、文書の表現を文法的に分析すると、親鸞聖人が比叡山を下りて法然のもとに向かった話は、伝聞ではなく、恵信尼自身が直接体験して知っていた話として綴られている。ということはつまり若いころの恵信尼は親鸞と同じく京都で暮らしていて、しかも法然も元に通っていたといえるわけで、いまやそれが定説となっています。

 ですから昔のように越後の豪族の娘で流罪の時に親鸞聖人と出会って越後で結婚したとは、もはや言えない、ということになっています。

 

 恵信尼は、もともと京都生まれで、摂関家の家来だったとされる三善家という中級貴族の娘だったか、これは学者に依りますと、枕草子の清少納言や源氏物語の紫式部と同じなんだそうですが、(なにしろ50年分もの日記を持っていたといわれるし、署名するときの花押が京都の公家の九条家ふうだとかいわれていますし)。あるいは越後に生まれて、越後の有力な一族だった三善家から京都に宮仕えをしていて、京都で親鸞聖人と出会って結婚したか、そのどちらかだとされています。つまりそうしたことを裏付ける要素が、今日までの分析で文書の中にあるわけです。時には骨太で、犬のように生きているとか、母親のような気持ちで孫たちの世話をしているとか、越後の女性らしい力強さも感じさせます。

 実に画期的な発見、お手柄だったんです。

 文書は、とても魅力的なのです。

 

 ご存じのように、親鸞聖人はご自分のことはほぼなにも書き残していません。当時の公家たちの、日記や書物にも一切登場しないし、何人もの僧侶が弾圧されて4人が斬首、8人が流罪という大事件である流罪の時でさえ、実は親鸞聖人の名前は出てこない。有名な教行信証の「後序」でも、これは流罪中に親鸞聖人が朝廷に出した抗議文の一部だともされていますけれど、「われもその一人」とは言っているけれど、自分が流罪になったかどうかは明確に書かれていない。

 そのため明治時代には「親鸞聖人は宗門が描いた架空の存在」とまでいわれ、歴史研究の中で、いわゆる「親鸞抹殺説」が流布するほどでした。

 それが辻善之助という、いまの東京大学史料編纂所の初代所長となった仏教学者によって、親鸞聖人の直筆といわれていた文書の筆跡鑑定が行われ、大正9年にその鑑定本「親鸞聖人筆跡の研究」が出版されて、初めて親鸞という人の歴史的実在が明らかにされます。

 その翌年の大正10年に、今度は教導さんが恵信尼文書を発見するわけです。

これによって「親鸞は架空の人物」説は一掃され、親鸞聖人という人は歴史上実在した人だということをもはや疑う人はだれもいなくなった。

 そういう大きな意味をも、持つの発見でもあったのです。

 

 以後、すべての親鸞研究は、この恵信尼文書の内容を前提として研究されています。それまでは想像というか空想というか願望というか、あるいは信仰上の親鸞像をめぐって侃々諤々、議論していたわけです。ですから教導さんは、今日に至る膨大な実証的な「親鸞研究」の、いわば「最初のスタート」「出発点」を担っている、と言っても過言ではないんです。

 

 さらに重要なことに、実は、この文書というのはですね、さっきも触れましたけれど、覚信尼がそれを保管し、自分の子どもである覚恵上人に伝え、孫の覚如上人へと継承され、読み継がれたことで、それを有していることが事実上、いまの本願寺につながる「親鸞廟堂」の管理責任者の地位を保証する「証し」となった、ともいえるのだそうです。

 恐れながら天皇家の代替わりになぞらえるなら、教導さんが発見した恵信尼文書は、実は、本願寺を継ぐ血筋の証拠品、いわば「三種の神器」だったんですね。「本願寺」と称するようになるのは、この覚如聖人からなんです。

 そういう意味で、宝庫に大切に保管されていたんだけれども、だんだん歴史が進んで本願寺が確立してくる中で不必要になって、そして忘れられた。教導さんは昔の本願寺というのは古文書をとても大切に守ってきた、だからこうして残されたと大変強化していますが、それを教導さんがある日、歴史の忘却から引っ張り出すように、700年たって、幸運にも「見つけた」、ともいえるわけです。

 

 余計なことですが、真宗の「3代伝持の血脈とか法統」というのは、法然上人、親鸞聖人、それから息子の善鸞の子の如信のことですが、それを継いだのが本願寺3世、親鸞末娘の覚信尼の孫の覚如上人で、以後、この覚如の血統が本願寺を継ぎます。つまり本願寺は、いまでいうところの「女系の天皇」ならぬ「女系のご門主」なんですね。何の違和感もないじゃありませんか。

 

 さらにいいますと、恵信尼文書の価値というのは、戦国時代になって、「一向宗」といわれる勢力となった本願寺が、この時初めて、はっきりとした系図が必要になって、それまで系図はなかったんです。それであの蓮如さんの子どもの実悟が、親鸞没後280年ほどたった1541年に、あと60年で関ヶ原という時代ですが、つくった最も信頼できる系図「日野一流系図」(大谷一流系図)に、善鸞や小黒女房や信蓮坊ら6人の男女の母親として「兵部大輔(ひょうぶだいふ)三善為教(みよし・ためのり)女・法名恵信」と初めて記されるのです。

 ですから恵信は法名で、本名はいまもわかりません。

 この父親の「三善」については、どういう根拠で記されたのか不明で、その後いろいろ解明されますが、親鸞の子どもたちの名前などについては、恵信尼文書が参照されたのではないか、といわれています。いずれにせよこうした親鸞一家の「系図」に於いても、恵信尼文書は、その信憑性を担保する、実証的な証拠となったわけです。

 

 縷々、しつこく申し上げましたが、ま、そういう大変なものでした。

 

 ただ、ご存じのように、この恵信尼文書には、なぜか越後の流罪のころのことは書かれていません。京都の比叡山時代の若いころの煩悶とか、関東での重要な信仰上のエピソード、煩悶などは書かれていますが、越後時代のことは何も書いてない。苦難の流人暮らしのことをなぜ書いてないのか、そこが不思議というか謎なのですが、ちなみに親鸞聖人も、越後に流されて、「海」は教行信証や文書の中に比喩としてたくさん出てきます。けれど越後の雪の苦労とか「雪」の比喩はまったくないそうですね。これも不思議だといわれています。

 雪の苦労をしないですむ流人暮らしだったのか……。

 

 とはいえ教導さんはこうして大正10年の12月に文書の発見を公表し、その翌年の夏ごろに「玉日姫」という、それまで流布していた伝説の親鸞の妻の名前で講演などしていますが、発見から2年後の大正12年7月に、満を持して恵信尼文書を研究した「恵信尼文書の研究」を刊行します。このとき、「序文」に「もはや玉日などの架空の名を借りるときにあらず、恵信の名をもって発表の時である」と誇らしく書いています。

 実は、古くから貴族の名家である九条家とのつながりを強調するためだとされますが、親鸞の妻を関白・九条家の娘の「玉日姫」とする伝説が長い間、流布していたのです。だからこそ、親鸞の妻について、「玉日」ではなく、歴史上実在した「恵信尼」という名前で自信を持って実証的に研究できるという意義は計り知れないわけで、教導さんのこの一文は、実にそのことを物語っているわけです。

 

 その上で、教導さんは親鸞聖人の事績について現在の研究につながる見解を提出していますし、いろいろ検討した末に、図版として、すべての恵信尼文書の文面を写真撮影して紹介しています。多くの人の研究に供しているわけです。

 この本が出る1年前に出版された「史上の親鸞」という、有名な実証的な研究書を書いた中沢見明という人には、そっくり史料を提供しています。この人は宗門の「親鸞伝絵」を批判さえした人です。

 その中沢氏は本のなかで、教導さんに対して、「多年の努力で集めた資料を貸してくれたり、多大の便宜と注意を与えてくれた厚意に深く感謝する」と書いています。教導さんは折に触れて「自由な学問研究が宗教の心理の発見に資する」と述べていまして、決して手柄を独り占めはしない、そういう人だと、ぼくは思いました。

 

 で、その恵信尼文書によると、晩年に越後で暮らしたという事実が記されているわけですから、(これについては関東から京都には行かなかったとか、京都に行ったけれど、娘の小黒女房が若死にしたのでその子どもたちを育てるため親鸞聖人を京に残して越後に向かったとか、子どもたちはどうしたかとかいろいろ説はありますが、恵信尼文書の記述から、少なくとも1254年以前、72歳より前には越後で暮らしていたとされますが)、それは恵信尼が相続していた三善家の越後の所領だろう、となって、その場所探しが始まります。

 

 で、ご承知のように第9通に、「といたのまき」と住所が記されていたことから、その土地で87歳ごろに没したと推測され、以来、何十年も、中央の学者や地元の研究者らが足を棒のようにして研究し、諸説入り乱れたなかでとうとう板倉の、いまの「ゑしんの里」がある地区の、「ごりんた」といわれていたところで見つかった古い五輪の塔が、恵信尼が生前に建てたいと書いていた「高さ7尺の五重塔」、「寿塔」だろうということになって、西本願寺がそれを受け入れまして、いま国府別院が「恵信尼廟所」として顕彰している、というわけです。(とはいえ塔の下には人骨など何もありませんでした)

 ですから親鸞聖人のお墓は京都にありますけれど、妻の恵信尼さんのお墓は越後にある。それは事実上、教導さんが発見した恵信尼文書によってほぼ間違いなく裏付けられているわけで、そういう意味で、国府別院と、恵信尼廟所、教導さんゆかりの安城寺は、実はたいへんな因縁があるわけです。 

 

 3 そこで、その恵信尼廟所の整備拡張で、教導さんの顕彰碑に日が当たる、という話に入ります。教導さんの長男・介一さん、ご存じでしょうか、と妹さんが建てた石碑が、「令和の時代」にやっと日の目を見ることになるという、うるわしい話です。今年中に、実現しそうなんですね。 恵信尼廟所の横の塀の裏側、隣の農家の庭の端っこに、いま立っている「わが父、恵信尼文書を発見して50年の顕彰碑」のことです。ご存じでしょうか? 

 

 その前に、石碑というと12年前に安城寺に偵察みたいに取材に来たときのことをよく思い出しますが、まず訪れて目にしたのがお寺の敷地の入り口に立っていた大きな石碑です。寺伝を伝える碑ですね。それを読んで、びっくりしました。

 昭和52年に建てた碑で、建てたのは教導さんの長男の介一さん。

 碑には、自らを「非僧非俗 釋 介一」と刻んでいます。なにかに打たれた気がしました。すごく印象的でした。「開基は善空法師で、もと武家で、越中新川郡笠破村(にいかわ郡かさやぶり村=黒部市笠破)に住し、平時は農耕、兵乱には人馬を殺傷して過ごす悲しきことわりなり〜」そして、江戸の寛永の頃に越中が冷害で不作なので、先に来た門徒の後を追ってここに寺を移した」。その後、続いて出てくる文字はすごいですよね。

 「一切凡夫 破戒、罪業、極悪深重(ごくあくじんじゅう)、唯仏本願、悉皆往生、仏恩報謝……」。そして最後に署名。「安城寺住人 非僧非俗 釋 介一」と書いてある。

 すごいですよ、どういう事情があったのかわかりませんが、「お寺の住人」というのがすごいと思いますし、「非僧非俗」なんです。僧にあらず俗にあらず、こういうふうに書くなんてのは、よほどの覚悟ですね。お寺のご住職みたいな立場の人ですから。まるで「教行信証」に出てくる親鸞聖人の「愛欲の広海に沈没(ちんもつ)し」という赤裸々な述懐みたいじゃないですか。

 そういうお寺が、鷲尾教導さんの生まれたお寺か、深く感じ入って、感激したことをよく覚えています。

 

 で、その「寺伝の石碑」が建つ6年前に、昭和46年に、「安城寺住職 鷲尾介一」さん(長男)と「同妹 久須美恒」のさん(長女)が、当時、板倉の恵信尼さんの寿塔に向かう畑の中の道沿いに、「わが父、西本願寺宝庫より恵信尼文書を発見して50年」と刻んだ「教導さんの顕彰碑」を建てていました。昔は村の畑のなかに寿塔まで続く細い道が通っていて、その参道のような道端に、碑は建てられたのですね。

 それがなんらかの事情で場所を移すことになって、昭和54年に、1979年、寺伝の石碑の2年後、いまからちょうど40年前です、いまの場所に移った。そしてその後のいろんな事情でいまや廟所の白く美しい塀の「裏側」の隣地の民家の庭先という場所に追いやられる形になって、ほとんどだれも訪れることのない、だれも知られない「顕彰碑」になってしまった。

 (裏面には、そのときの移設に支援した国府別院有志や「安城寺恵信尼様奉賛会」と添え記きされていますから、皆さんご存じでしょうか?)

 

 ところが、このあいだ12年ぶりに訪れたら、なんと隣の家の家も納屋もなくなって、小さな畑があるのみで、石碑だけがぽつんと残されていたんです。

 あーどうなるんだろうと、これじゃますます廃れてしまうと、びっくりしまして、いろいろ訪ね回ったら、実はその碑が、(資料に図があると思いますが)、このたび恵信尼廟所の塀の内側の、寿塔をお参りする参道のあたりに(⑩から⑪へ)移ることになっていたわけです。

 

 これは、本願寺のご門主が代替わりされ、全国各地の別院を訪問される。国府別院にも来られる。そのときにご門主が恵信尼廟所にもご参拝される。それを機に、別院が1億数千万円をかけていまの「恵信尼公会館」あたりを新たに整備し、その一環として教導さんの顕彰碑が移設されることになった。

 国府別院では、碑文の表も裏も読めるように、だれでもが目にすることのできるようにと、寿塔をお参りする「表参道」みたいなルートの一角、⑪ですね、そこに移す予定だそうです。

 つまり、やっと非僧非俗の介一さんらが父のために建てた「顕彰碑」が、「日の当たる場所」に移ることになる、ぼくはうれしくて、12年ぶりによかったなーと思っております。

 これからは大型バスでやってくる門徒の方々が、その碑をゆっくり、当たり前のように見学することができるようになるわけです。ですから「令和の時代」、教導さんの業績は、ついに今まで以上に、光り輝くことになります!

 

4 最後に、教導さんよ永遠に、というお話です。

 実は、教導さんの略歴とか著作、業績とかが記録されたものは、たった1冊の本に付録のように掲載された「鷲尾教導氏について」というたったひとつの文章しかありません。多分、今もそうだと思います。

 その本というのは昭和58年(1983)に刊行された「増補・津村別院誌」という本で、介一さんらが顕彰碑を建てた12年後です。もともともの「津村別院誌」は大正15年に出版され、その編集をしたのが、恵信尼文書の発見後、司教となった教導さんなんです。とても立派な本で、その素晴らしい内容に敬意を表そうと、教導さんを顕彰する文章をわざわざ「増補版」に載せた、そういうことなんです。それも、すごいことです。恩義ですね。先人への。

 それが今日、奇しくも教導さんの略歴として残っている、多分、唯一のものだと思います。津村別院というのは、あの信長と戦った「大坂本願寺」をしのぶ由緒あるお寺です。

 

 教導さんは、実は他にも、覚如直筆の『口伝抄』を発見したり、晩年の親鸞聖人の遺言状のひとつともされる有名な「ひたちの人々」に宛てた手紙なんかも発見し、身の回りにいた女性と子どものことが心配で、その面倒を頼むというような文面で、親鸞聖人の晩年の境遇について重要な事実を提供しています。

 また、本願寺史編纂の史料蒐集や編纂委員を命じられたり、たくさんの論文を書き、岐阜別院誌や名古屋別院誌の編纂にも関わっています。

 そういう教導さんについて、増補版の一文は、「平生つねに貧しい中にいて、一心不乱に研究を持続し」と述べ、教導さんを「真宗史学の実証主義的研究の開拓者」「真宗史の科学的研究の開拓者」と讃えています。

 宗門の歴史の実証的研究のパイオニア。本当に後世の研究の裾野を広げた、道を付けた人です。

 

 こうして幾多の業績を上げられた教導さんですが、昭和3年、54歳で病死されます。この安城寺で葬儀が行われました。

 そのとき本願寺から、蓮如上人から行われるようになったという「染筆院号」というのが贈られています。その院号は、ご存じですか、「恵心院」(えしんいん)です。恵信尼さんの「信」とは違う「心(こころ)」の「しん」ですが、歴史上の親鸞聖人の妻である恵信尼さんを、いわば「発見」された、その大きな功績に贈られたんだと思います。

 ですから今度は、ぜひ、そのゆかりのお寺である安城寺のみなさんが、令和の時代、介一さんらの思いを受け継いで、教導さんを「再発見」し、お寺のアイデンティティとして長く語り継いでいかれることを、僭越ですが、切にお願いして、時間が来ました、お話を終わりたいと思います。

 

 えー、ちなみに蛇足で恐縮ですが、ネットで染筆院号を調べましたら、それはよほど功績のある方にしか送られず、しかも金襴緞子の表装だと、ご本山に「1000万円以上」はお布施する必要があるそうです。

 そういう方なんですね。

 

 誠につたない話で、申し訳ありませんでした。これで終わります。ありがとうございました。

 

  2019年6月10日 最終的に改稿す。