参政党の4人目は、赤尾由美さんです。
私が最初に知ったのは、何かの動画でした。
1年位前だと思います。
詳しくは覚えていませんが、町工場を立て直した女性としての紹介だったように思います。
「赤尾」という珍しい苗字だったので、「赤尾敏の関係かな?」
と思ったことを覚えています。
その後、武田邦彦候補の動画に出ていたので、「あっ!」と、驚きました。
そして、今回検索して、やはり赤尾敏の関係者だったかと、納得した次第です。
私の「赤尾敏」という名前の印象は、
何度選挙に落ちても、かまわず立候補する右翼・・
こんな感じでしたね。
ところが、今回あらためて検索し、何も知らなかったことを恥じ入る結果となりました。
赤尾敏
日本愛国党
(以下、WIKIより)
GHQによる公職追放解除直後の昭和26年(1951年)に赤尾が結成。
各種選挙に積極的に候補者を立て、全て落選しているが、これは数寄屋橋で毎日行っていた街頭演説を公職選挙法の規定で途切れさせたくないという理由からだった。
政治腐敗・社会矛盾を糾弾し、市井の零細企業経営者から与党政治家まで幅広い支持者を得た。
窮乏の中で参議院議員通常選挙、東京都知事選挙への出馬を繰り返し、最大13万得票するなど健闘した。
赤尾は社会主義者からの転向である。天皇親裁の下での生産手段の公有財産化を主張していた他、右翼思想の解釈に不敬発言がある[1]と評する者もいる[2]。
戦前の衆議院議員時代から、反共主義、反ソビエトの立場から対アメリカ・イギリス開戦に反対し、反戦演説会を開くなどした。
北方領土問題については「南樺太・全千島列島が日本固有の領土である」と主張した。
「ファシスト」呼ばわりする者もあるが、赤尾の思想は民族純粋主義のような偏狭なものではなく、日本が完全独立を果たすまで、あくまで「繋ぎ」としての親英米路線を掲げていたとの見方もある。
自身を「泡沫候補」扱いするマスコミに、一貫して異を唱え続けた。
「泡沫」と書いた朝日新聞には抗議している[3]。
また自宅兼党本部に明治天皇、釈迦牟尼尊、イエス・キリストの肖像画を掲げ、政見放送では自らを殉教者に準え、キリストの他に日蓮の名を挙げていた。
赤尾の死後、「敵」であった公安刑事の一部から「過激ではあったが至誠の人」という評価を得る。
・
憂国の志士といえば、
まず、「三島由紀夫」ですが、「赤尾敏」も同様でした。
いえ、違った意味では、さらに上回っていたとも言えそうです。
銀座数寄屋橋等で行っていたという辻説法は、3万回以上にもなったそうです。
私も、銀座数寄屋橋での演説は、見たことがあります。
通りすがりのチラ見だったので、誰だったのかもわからないような状況でした。当時は何の関心もなかった若いころのことす。
40年ほども前に、タイムマシンで戻ることができたならば、最前列で聞いてみたいものですね。
3万回もの辻説法なんて、そんなに簡単ではありません。
こと、その点に関しては、日蓮上人をも上回るほどの情熱の持ち主なのでしょうかね。