2015年9月4日金曜日

キリシタンが日本の娘を50万人も海外に奴隷として売った事 転載

今も変わらないキリスト教 以下引用「

http://blog.goo.ne.jp/2005tora/e/5a197e856586baf726f6a0e68942b400


(2)奴隷売買

しかし、アルメイダが行ったのは、善事ばかりではなく、悪事もありました。それは奴隷売買を仲介したことです。わた〕まここで、鬼塚英昭著「天皇のロザリオ」P249~257から、部分的に引用したいと思います。

「徳富蘇峰の『近世日本国民史』の初版に、秀吉の朝鮮出兵従軍記者の見聞録がのっている。『キリシタン大名、小名、豪族たちが、火薬がほしいぱかりに女たちを南蛮船に運び、獣のごとく縛って船内に押し込むゆえに、女たちが泣き叫ぴ、わめくさま地獄のごとし』。ザヴィエルは日本をヨーロッパの帝国主義に売り渡す役割を演じ、ユダヤ人でマラーノ(改宗ユダヤ人)のアルメイダは、日本に火薬を売り込み、交換に日本女性を奴隷船に連れこんで海外で売りさばいたボスの中のボスであつた。

キリシタン大名の大友、大村、有馬の甥たちが、天正少年使節団として、ローマ法王のもとにいったが、その報告書を見ると、キリシタン大名の悪行が世界に及んでいることが証明されよう。

『行く先々で日本女性がどこまでいっても沢山目につく。ヨーロッパ各地で50万という。肌白くみめよき日本の娘たちが秘所まるだしにつながれ、もてあそばれ、奴隷らの国にまで転売されていくのを正視できない。鉄の伽をはめられ、同国人をかかる遠い地に売り払う徒への憤りも、もともとなれど、白人文明でありながら、何故同じ人間を奴隷にいたす。ポルトガル人の教会や師父が硝石(火薬の原料)と交換し、インドやアフリカまで売っている』と。

日本のカトリック教徒たち(プロテスタントもふくめて)は、キリシタン殉教者の悲劇を語り継ぐ。しかし、かの少年使節団の書いた(50万人の悲劇)を、火薬一樽で50人の娘が売られていった悲劇をどうして語り継ごうとしないのか。キリシタン大名たちに神杜・仏閣を焼かれた悲劇の歴史を無視し続けるのか。


数千万人の黒人奴隷がアメリカ大陸に運ばれ、数百万人の原住民が殺され、数十万人の日本娘が世界中に売られた事実を、今こそ、日本のキリスト教徒たちは考え、語り継がれよ。その勇気があれぱの話だが」。
(以上で「天皇の回ザリオ」からの引用を終ります)

わたしはこれまで各種の日本キリシタン史を学んで来ましたが、この『天皇のロザリオ」を読むまでは、「奴隷」の内容について知りませんでした。しかし、こういう事実を知ったからには、同じキリスト教徒として真摯な態度で語り継いで行きたいと思います。

なお今年の1月30日に、第5版が発行された、若菜みどり著「クアトロ・ラガッツィ(四人の少年の意)」(天正少年使節と世界帝国)P.414~417」に奴隷売買のことが報告されていますが、徳當蘇峰「近世日本国民史豊臣時代乙篇P337-387」からの引用がなされているにもかかわらず、「火薬一樽につき日本娘50人」の記録は省かれています。

そして、「植民地住民の奴隷化と売買というビジネスは、白人による有色人種への差別と資本力、武カの格差という世界の格差の中で進行している非常に非人間的な『巨悪』であった。英雄的なラス・カサスならずとも、宣教師はそのことを見逃すことができず、王権に訴えてこれを阻止しようとしたがその悪は利益をともなっているかぎり、そして差別を土台としているかぎり、けっしてやむものではなかった」(p.416〉と説明して、売られた女性たちの末路の悲惨さを記しています。かなり護教的な論調が目立つ本です。

秀吉は準管区長コエリヨに対して、「ポルトガル人が多数の日本人を奴隷として購入し、彼らの国に連行しているが、これは許しがたい行為である。従って伴天遠はインドその他の遠隔地に売られて行ったすぺての日本人を日本に連れ戻せ」と命じています。

2015年8月21日金曜日

創価学会の過ちキリスト教の過ち

キリスト教も全く同じです 特に
義教学上の問題を、公明厳正なる学的方法によって論究できる人はほとんどいなく、彼らの議論を見ると、ただ言い負けまいとするのみで真実を求めようとする研究心・求道心などは残念ながら見出せません。

教義や教理を振りかざしそれ自体歴史の過程で変質させられていることも知ろうとせず ただ 組織を守るだけの人の集まりであり マシア キリスト とは 全くかかわりが無いのがキリスト教です
キリスト教の教理では 贖いは成立しません

引用↓
https://www.facebook.com/profile.php?id=100003279872511&fref=ufi
創価学会の過ち
 
創価学会の特色教義として主張するものは、1に曼荼羅。2に釈尊脱仏・日蓮本仏。3に日興師唯一相承。4にご利益。以上の4つで出来上がっており、創価学会員には、教義教学上の問題を、公明厳正なる学的方法によって論究できる人はほとんどいなく、彼らの議論を見ると、ただ言い負けまいとするのみで真実を求めようとする研究心・求道心などは残念ながら見出せません。
 創価学会の曼荼羅の筆跡・座配から偽作を論証できます。また日蓮本仏論はいうまでもなく邪義、過ちです。この考察により創価学会の教義が、いかに間違ったものか、それがわかれば有りがたいです。
創価学会の曼荼羅には、若脳乱者頭破七分という文字が書かれているのが特徴的ですが、日蓮聖人はこの文字をお書きになられておりません。この文字は、法華経の二十六番目の陀羅尼品で唱えた呪文の一説であり、釈尊の敵となって脳乱するものは頭割れて七分になるという呪文なのです。
 次に、日蓮聖人は「本仏」で、法華経を説かれた釈尊は「脱仏」だということですが、御遺文のなかに、かつて日蓮聖人は一度も、日蓮は「本仏」なりと申されたところが、ただの一ケ所もないのです。つまり、お釈迦様を切り捨ててしまっている訳ですから、創価学会の御本尊は、頭が割れてしまうという恐ろしい御本尊なのです。
 さらに日興師への「唯授一人血脈相承」説ですが、この件に関しても創価学会が後付けした議論に過ぎません。
 最後にご利益だが、創価学会の初代会長である牧口常三郎氏は昭和19年に獄中に悲惨な病死をしている。曼荼羅を昼夜に祈念して、
幸福を願った創立者初代会長に、どうしてそのご利益がさずからなかったのか。あるいは第二代会長戸田城聖氏は昭和33年、積年の飲酒、アルコール中毒にたたられてまだ歳若なのに「肝臓硬化」で無残なる病死となった。
 以上のことから創価学会は1、偽物の曼荼羅について2、六老僧平等を日興唯一と僭称したこと3、教主釈尊を脱仏と否定して日蓮聖人を「本仏」としたこと4、ご利益を我欲と履き違えたことなどについて破折されなければならない。
 日蓮聖人を信じる上で大事なことは、自分の信仰が日蓮聖人の教えの正義を得ているかどうか。あるいは、自分の信仰がどれほど国家・社会を正しく導き得たか、否かである。
 会員の数や建造物の大きさなどは、日蓮聖人のお説きになられた成仏には関係のないことである。

2015年8月5日水曜日

まとめ キリスト教では贖いは成立しない 水曜日過ぎ越しに処刑


 キリスト教の購い              聖書に書かれている 購いの条件


金曜日の安息日に処刑               過ぎ越しの日に処刑
最後の晩餐                    過ぎ越しの食事
罪とは的外れ                   罪とは律法にさししめられたもの
ピラトにより処刑                 律法の罪によりユダヤにより処刑
みな許され救われる                信仰による救い
日曜礼拝                     安息日
ユダヤ教がベース                 モーセがベース


自分で考えない栗ちゃんには 理解不能

2015年7月12日日曜日

栗チャンというドウショウモ無い人たち

使途信条はまともですか?
キリストの贖いとは
罪とは
許しとは
ニケア会議とは
秀吉が栗ちゃんを迫害した理由とは
教会の政界とのつながり (アメリカ版創価学会宗教マフィア)


クリスチャンは自分で聖書を読まず 教会のの話を 鵜呑みにするだけで 何事もAはBとは違います
大は小を兼ねる これぐらいの事しか理解が出来ない 最大のDQN ですね

自分で調べてみてください 最大の アホ であり 思い上がった クズ です

三位一体  聖霊様 罪の許しとは 教会で牧師が話していることは どこにも書いてありません

元々理解する気も無く 重要な 事柄 を 知らなくても 栗チャン と 平気で名乗れる 人たちは何者なのでしょう

栗ちゃんの皆さんは 社会的なアイデンティティーを得ているだけの 単なる新興宗教

キリスト教会の腐った歴史はご存知でしょうか?金 政治とのかかわり  有名牧師の私生活

何でもありの 油で清める 携挙 統治主義  歪められた贖い 非聖書的な教理 

祝福されると富む=金持ちになれる
 
一般人でも ドン引き なるほどの バカ 洗脳  感情の劣化 状態にも気づかない状態がもはや普通と思っている栗ちゃんは薬中 泥酔 状態

↑ 基地外の新興宗教だと気がつかないのは アホ か クズ です 自己をアホかクズだと認めるところから
真実の道は始まります。 罪の自覚が無ければ 贖いも悔い改めも存在しません

今まで信じていたものを 失うのは 怖いでしょうが 信じるべき本物はあります。
 
 

2015年7月5日日曜日

ユダヤは旧約聖書の民か

ルカ 7:3 もともと、パリサイ人をはじめユダヤ人はみな、昔の人の言伝え をかたく守って、念入りに手を洗ってからでないと、食事をしない。 7:4 また市場から帰ったときには、身を清めてからでないと、食事をせず、なおそのほかにも、杯、鉢、銅器を洗うことなど、昔から受けついでかたく守っている事が、たくさんあった。 7:5 そこで、パリサイ人と律法学者たちとは、イエスに尋ねた、「なぜ、あなたの弟子たちは、昔の人の言伝えに従って歩まないで、不浄な手でパンを食べるのですか」。 7:6 イエスは言われた、「イザヤは、あなたがた偽善者について、こう書いているが、それは適切な預言である、『この民は、口さきではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。 7:7 人間のいましめを教として教え、無意味にわたしを拝んでいる』。 7:8 あなたがたは、神のいましめをさしおいて、人間の言伝えを固執している」。 7:9 また、言われた、「あなたがたは、自分たちの言伝えを守るために、よくも神のいましめを捨てたものだ。 7:10 モーセは言ったではないか、『父と母とを敬え』、また『父または母をののしる者は、必ず死に定められる』と。 7:11 それだのに、あなたがたは、もし人が父または母にむかって、あなたに差上げるはずのこのものはコルバン、すなわち、供え物ですと言えば、それでよいとして、 7:12 その人は父母に対して、もう何もしないで済むのだと言っている。 7:13 こうしてあなたがたは、自分たちが受けついだ言伝えによって、神の言を無にしている。また、このような事をしばしばおこなっている」。
文中に頻繁に書かれている 言い伝え とは タルムッドトラーのことです タルムッドトラー とはモーセのトラーに付け加えをしたものです 奥深いものも ありますが 解りやすいものを 上げますと  モーセのトラーは  帽子は大祭司しか被るな  ユダヤは黒い帽子を被っています   メノラーはランプで作れ と書いてありますが ユダヤやキリスト教はろうそくを使います  この様にもともとの教えに付け加えたり 変更させたりしています キリスト教も 神の無償の愛 といいますが 信仰による救い という 条件が 課されていますが そのような事は 一言も言いません 救いはアブラハムによる 信仰によるのです。 (キリストの) 

この様な 主な部分 を 変えて伝えています キリスト教のタルムッドに対する評価は聖書の解説書だそうです キリストが忌み嫌うものを 評価しています 一度牧師にタルムッドに関する評価を着てみてください ですから 間違いなく キリスト教は 反キリストの組織なのです ユダヤもキリスト教も聖書の民なのではなく 古い 新興宗教なのです。 レビに払うべき十一献金を教会にせよ とか 牧師が勝手なメッセージなどをして 基の教えに 付け加えをしているのです

2015年6月21日日曜日

音声解説付き 過ぎ越しの購いを隠すキリスト教のサタニズム

マタイ 26:17 さて、除酵祭の第一日に、弟子たちはイエスのもとにきて言った、「過越の食事をなさるために、わたしたちはどこに用意をしたらよいでしょうか」。

レビ
23:5 正月の十四日の夕は主の過越の祭である。
23:6 またその月の十五日は主の種入れぬパンの祭である。あなたがたは七日の間は種入れぬパンを食べなければならない
23:7 その初めの日に聖会を開かなければならない。どんな労働もしてはならない。

↑レビ記の記述とマタイの過越の日程が異なるのが解る

 

、除酵祭の第一日に過ぎ越しの食事はしない 、除酵祭の前の日が過ぎこしなのである なぜ 意図的に このような 操作をしたのか 

すなわち除酵祭の最初 である キリスト を 金曜日の安息日 に 処刑されたキリストに摩り替えることにより律法の購いの意味を変えるためである
受難日とは言うが 過ぎ越しの日とは言わないのはそのためでる

正確には
火曜の日没~水曜の日没 → 過ぎ越し
水曜の日没→木曜の日没 →、除酵祭の第一日 働いてはいけない

水曜日没
木曜の日没
金曜の日没
土曜の日没

土曜の日没後復活
日曜の朝マグだらのマリアが墓に行く

律法の成就のため過ぎ越しの日に購いとなられた

2015年6月19日金曜日

キリスト教が隠したい 愛するという言葉の意味

ローマ
13:8 互に愛し合うことの外は、何人にも借りがあってはならない。人を愛する者は、律法を全うするのである。
13:9 「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな」など、そのほかに、どんな戒めがあっても、結局「自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ」というこの言葉に帰する。
13:10 愛は隣り人に害を加えることはない。だから、愛は律法を完成するものである。

愛するというと思いと心 力 精神 をつくし戒め(申命記の教え)を守る事と聖書に書いてありますが又
私を愛するものは私の戒めを愛するとあります戒めとはトラーのことです
トラーは多様性があり一言では語れませんがトラーの中に愛でありみこころを悟りなさいと言う意味なのです。
トラー律法をキリストと切り離しトラーの重要性を隠し博愛 ヒューマニズムに置き換え 
違った福音に変え変質させているのです

キリストにより成就されたとラーは規定が廃棄されただけであり未だに変わらず有効です
人間的なヒューマニズムなどでは無くトラーを通して理解した御心なる愛で無ければならないのです
一面的な受け取り方は危険
キリストはは愛だとい う方がいらっしゃいますが 確かにそうですが 裁く方でもあり 試される方でも あります 一面だけではありません 人に受け入れやすいのは 愛の方と言えば心地よいので 人間的心地よいものを
信徒を集めやすいように利用しています 真の御言葉からは程遠い偽者のなっています
心にも無い偽善を撒き散らして糞まみれにしています。
 
  聖書を読めば一目両全ですが 愛という言葉には 練られることもあり 失敗により学ばされることもあります
私を愛するものは 私の戒めを愛すると言っておられます 受け入れやすいものもあれば 人にとっては 受け入れにくい ものもあります。 人間の創造する表向きな愛というものではありません。