つばた徒然@つれづれ津幡

いつか、失われた風景の標となれば本望。
私的津幡町見聞録と旅の記録。
時々イラスト、度々ボート。

江戸の轍を辿り、万葉の島に渡る。

2021年10月12日 22時00分00秒 | 旅行
                           
前々回、前回投稿の続編。

コロナ感染鈍化の機を捉えた1泊旅行。
津幡町を出発した僕は、滋賀県・大津市の「カトリック大津教会」を見学し、
「びわこ競艇場」にて1年2ヶ月ぶりの「旅打ち」を堪能。
宿泊先の甲賀市で「水口城址」を訪問後、腹ごしらえを済ませ、
旧東海道「水口宿」の概要を把握しようと「水口歴史民俗資料館」へ足を運んだ。





水口の転換点は、江戸開幕にさかのぼる。
「徳川家康」は公用輸送をスムーズに行うため、
東海道を整備し要所に「宿駅」を置いた。
その一つとなった水口には、本陣・脇本陣、40を超える旅籠が軒を連ね、
江戸後期には、大津に並ぶ大きな宿場町になった。



出版から190年近く経った今も人気の衰えない浮世絵の名連作「東海道五十三次」。
絵師「歌川広重」が、水口宿のモチーフに選んだのは「かんぴょう干し」である。
夕顔の果肉を細長く剥き天日干しする「水口かんぴょう」は、ふんわりと柔らかい。
美味しさが評判を呼んだ。
他の名物としては、ドジョウ汁、煙管(キセル)、葛(クズ)細工などが挙げられる。



精密で美しい「水口細工」も名声を博した。
山野に自生する葛などの蔓(ツル)を加工・精製して織るそれは、
江戸時代には水口藩士の内職として盛んに。
しかし明治以降、近代化が進む中、細工・原材料生産の担い手の多くが、
安定した収入を求めて離職してゆき、昭和40年ごろに途絶えた。
現在は、その復興に取り組んでいるという。

前述のかんぴょうにしても今や国産シェアは栃木が独占し、輸入が占める割合も高い。
そもそも、かんぴょうを口する機会が減った。
手仕事の技も一度は失われた。
流転を感じるのである。







最盛期には「街道一の人とめ場」と言われるほど、沢山の旅人が往来したのも今は昔。
江戸の面影を残す町並みに人影はなく、風が吹き抜ける。
「広重」の絵を思い起こしながら、しばし時の轍(わだち)を歩いた。



さて、次なる目的地へ。
甲賀市 水口を後にして、近江八幡市の「堀切港」に到着。
ここから船に乗って、沖合約1.5kmに浮かぶ琵琶湖最大の島、
「沖島(おきしま)」へ渡るためだ。
何隻もの船が停泊する港の様子は、海のそれと変わらない。
湖面を見つめていると潮の香りを嗅いだ気がしたが、
それは脳が起こした錯覚と思い当たるのに左程時間はかからなかった。



待つこと十数分、島から連絡船がやってきた。
沖島への船は1日12便(日曜10便)。
定員50名、バリアフリー、トイレ、エアコン付き。
釣り竿を担いだ人、僕と同じ観光目的など、
この日乗り込んだのは30人程度か。
なかなかの盛況ぶりである。



「あっ!」
船体に見慣れたロゴマークを発見。
「ここも俺たち競艇ファンの銭が流れていたのか」
遠慮なく乗せてもらおう。
片道約10分の船旅に出発。(料金片道500円)





沖島は、周囲約6.8キロメートル、面積約1.53平方キロメートル。
およそ300人が暮らしていて、小学校もある。
人が住む湖沼の島は、日本国内でここだけ。
世界にも例は少なく、学術的にも注目されているそうだ。
その歴史は古い。
かつては琵琶湖の航行の安全を守る神の島として崇拝され、無人島だったという。
戦に敗れた源氏の落武者が島を開拓し定住したのが始まりとされる。

帰りの船が出るまでおよそ2時間弱。
島内散策を楽しませてもらった。














 
空からは、上昇気流に乗り飛び回るトンビの鳴き声。
岸に打ち寄せるさざ波の音。
数匹の猫とすれ違う。
島の中は自動車が走っておらず、流れる時間はのんびり。
もっとも、それは門外漢の言い分かもしれない。
漁業・観光に従事する島民の皆さんにとっては、生活の場なのだ。



湖沿いに「小型モノレール」を発見。
軌道は島の奥へと向かっているが一体何だろうと思案していたら、
島の公民館前で謎が解けた。



桜の古木の下に佇む、石の歌碑。
その傍のやはり石のプレートに、沖島の石材業について解説があった。
沖島の地質は石英斑岩から成り立ち石材資源に恵まれていた。
江戸時代、享保19年頃に島外の石工により石材採掘が始まり、
コンクリートの時代になるまで明治から百年、島民の生活を支えた。
なるほど、採石は今も続いていて、運搬のためのモノレールなのかと納得。



歌の作者は 大和時代の歌人「柿本人麻呂(かきのもとの・ひとまろ)」。
「淡海の海 沖つ島山 奥まけて わが思う妹が 言の繁けく」
(あふみのうみ おきつしまやま おくまけて わがもふいもが ことのしげけく)
【琵琶湖に浮かぶ沖島は遥か遠くに見える。
 君に寄せる気持ちも、遥か将来を見据えた真剣なものだ。
 しかし、あの娘について何かと噂が絶えないのは心配でしかたがない】
                  (※【   】内りくすけ意訳)
万葉人が、沖島を題材に心情を詠んだ恋の歌である。

万葉歌碑の建立は、2年前の秋。
元号「令和」が万葉集から引用されたことを記念し、沖島産の自然石に歌を刻んだ。



再び連絡船に乗り込み堀切港へ。
陽は西へ傾きはじめていた。
僅か1泊2日の小さな旅が終わった。
実に楽しいひと時だった。
こうした行いが気軽にできる未来を願い、今回の旅ブログは筆を置く。
長々とお付き合いありがとうございました。
では、また。
                                           

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3 コメント

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りくすけさんへ (Zhen)
2021-10-14 08:13:39
おはようございます。

干瓢の名産地が、元々は滋賀県水口だったとは、干瓢産地の下野市に住んでいても知りませんでした。無知を恥じます。

僕が結婚する前年までは、妻の実家でも干瓢生産していましたし、親戚には元・干瓢問屋もいたりして、すっかり栃木下野のものと思っていました。

最近は、夏の朝に干瓢を処理する硫黄の匂いがすることも、廃棄される芯を見ることもなくなりました。

干瓢の味噌汁とか、卵とじとか、下野ならではの料理がありましたが、それらの料理も食べることなくなりました。

では、また。
Zhen様へ。 (りくすけ)
2021-10-14 18:10:57
コメントありがとうございます。

夏の朝に干瓢を処理する硫黄の匂い。
廃棄される夕顔の芯。
そんな風物を見かけた記憶があるのは、
干瓢栽培が「産業」である証ですね。
干瓢の味噌汁、卵とじ。
こうした食文化が根付いていることも、
干瓢の里ならでは。

どちらも昔になりつつあるのかもしれませんが、
どちらも北陸では見かけず、
味わえないものです。
こちらの干瓢料理と言えば、
巻き寿司や、煮しめの具材くらい。
お土地柄を感じる話ですね。

水口干瓢が名物とされた当時、
水口での生産量がどれほどだったのか
定かではありません。
案外、大阪・京都などに近い地の利から、
注目が集まったのかもしれませんね。

さて、本文中では単に現在の生産量を比較し、
栃木が一番、滋賀はかつての産地としましたが、
何かつながりがないかとネットで調べてみたら、
---ありました。
江戸時代中期、水口藩から壬生藩に
国替えになったお殿様が干瓢のタネを取り寄せ、
栃木に根付いたという情報を見つけました。
Zhenさんのコメントのお陰で、
また一つ新しい発見がありました!
ありがとうございます!

では、また。
りくすけさんへ (Zhen)
2021-10-17 09:48:48
おはようございます。

りくすけさんの博識の理由を垣間見た気がします。
僕のコメントの些細なことにも反応、即行動、素晴らしいことです。

では、また。

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