人類の恥「旭川いじめ自殺」 政治家・行政・マスコミ徹底糾弾!! ―道徳だけが子どもを救う― | 高澤 一成 「真の哲学者とは」

高澤 一成 「真の哲学者とは」

■哲学・社会学・社会思想に基づく「社会衰退の克服論」
■成人道徳教育(啓蒙)の必要性と、道徳と自由の両立

 

人類の恥「旭川いじめ自殺」 政治家・行政・マスコミ徹底糾弾!! 

―道徳だけが子どもを救う―

 

 

 哲学者・道徳家で、「いじめ問題の専門家」である高澤一成が、未だに道徳を受け入れない、無知・無思想で卑劣な政治家・行政・マスコミを徹底糾弾!!

 

 

「いじめ問題には道徳教育しかない」ことの理論的な証明

 

 

 また10代の幼い命が奪われた。
 

 まさに「道徳の必要性」を認めずに、子どもを殺す「鬼畜の国」だ。

 

 20年来、道徳の必要性を訴えてきた私には、慙愧(ざんき)の念以外ない。

 

 今の日本は、児童虐待と並ぶ道徳退廃による「世界的汚点」、「※人類の恥」であり、事件の起きた北星中学校は即刻、廃校にすべきであり、学校や加害生徒、加害生徒の護者は「恥を知れ」と言いたい。

  ※但し、一般の純粋な日本人ではなく、道徳を否定してきた政治家・行政・マスコミ。

 

 


(画像は 2021年4月15日 「文春オンライン」 /2021年4月23日 朝日新聞 より)
 

 

  私個人は北星中学校を即刻、廃校にして更地(さらち)にすべきであり、学校や加害生徒、加害生徒の保護者に対しては「恥を知れ」と述べた―。
 ただ、この事件を一つの社会現象として捉(とら)えれば、社会学の代表格デュルケムの言う「社会環境」の変化も大きな要因である。

 

「もし道徳的環境が腐敗していれば、教師自身もそのなかに生きているのであるから、かれらにもそれが浸透しないわけにはいかない。…社会じたいが改革されないかぎり、教育の改革も行われないのである。」

(デュルケイム著・宮島 喬(たかし) 訳「自殺論」中央公論新社)
 

 

 つまり今回の悪質な、小学生も加わったという、中学生による性的凌辱と、その状況を画像、動画に残して、かつ拡散するという脅迫を伴う倒錯したいじめ自殺は、令和の日本社会そのものが抱える漆黒の闇であり、お金目当てや怨恨による一殺人事件のような、「個別的な案件」として片づけられるものでは到底なく、元々、「少年法の壁」など、法によって裁くことのできない加害生徒や、自分の子どもの責任を頑として認めようとしないその保護者、また担任、学校関係者だけを断じて終わらせることが全くできない、極めて重大な「社会問題」である。

 

 そして今回の事件とは、成熟社会が抱える、社会学で言う、「アノミー(道徳退廃による混沌状態)」、もしくは「社会衰退」の現象の現れである。

 言い換えれば、個別的な案件としてスルーすることはできず、前述したような加害生徒など、①個人の責任と、②道徳の退廃など、社会環境の変化という二つの側面があることを認識しなければ、今後また同じようないじめ自殺が後を絶たないということにもなる。

 

 たとえば今回の事件は、昭和30年代には存在しなかったネット環境と、子どもでも簡単に動画を撮影できるスマホというツール、また子どもでも扱いやすいLINEというアプリがあることによって、撮影された裸の画像や動画の拡散を脅迫されて、被害生徒は自らの命を絶ったのである。 

 つまり、昭和30年代には物理的に起こり得ないいじめ自殺であり、社会環境の変化によって起きてしまった事件であることは、ここに容易に証明できる。

 

 しかし、昭和30年代に中学生だった日本人(70代以上)には、今の子どもたちよりも、親に厳しくしつけられて、人としての道徳があったので、仮にネット環境やスマホが、アメリカ人から与えられていたとしても、戦時を生き抜いて、厳しいながらも道徳を以て指導する教師も多くいた当時の学校環境では、(今のバカしかいない政治家、行政、マスコミには全く理解できないかもしれないが)そのような事件は絶対に起こらなかったと断言していい

 事実、それら団塊世代の親たちは、人口が最も多いにも関わらず、今日(こんにち)社会問題となっている児童虐待がほとんど報道されていない親たちなのである。

 

 無論、全共闘世代である団塊世代は、決して道徳を肯定していた世代ではないが、「巨人、大鵬、玉子焼き」と言われるように、同世代で価値観が共有でき(王、長嶋やアントニオ猪木を知らない人はなく)、その娯楽もまた、「月光仮面」のような勧善懲悪に代表されるように、哲学嫌いの児玉清が好きな英雄譚を重視する類のものだった。

 

 ただ、哲学の代表格のヘーゲルや社会学の代表格のデュルケムによれば、英雄譚による道徳教育は明確な誤りであるが、それでも団塊世代には、コミュニケーション能力や互酬性(ごしゅうせい、社会に貢献すること)といった社会性(=道徳)があり、また彼らが若いころは、それ以降の世代に人格障害を引き起こすことになるカラーテレビが普及する前であり、文学少年も多かったため、道徳そのものが肯定されていなくても、男女とも戦後の貧しさの中で培(つちか)われた、抜群の社会性を備えていたため、特段何の問題のない世代であった。それどころか多くの人たちが結婚して家庭を持ち、団塊ジュニアと呼ばれる世代を生み育てたのである。

 

 そしてここにおいて、戦後のバカしかいない政治家(伊吹文明さんと上田清司さんを除く)、行政、マスコミが一貫して、儒教道徳と混同して排斥してきた、哲学・社会学・社会思想で論じられるような、「社会性」としての道徳だけが必要であることと、ネットやスマホ、LINEだけを「令和の極めて悪質ないじめの原因」として、やり玉に挙げる必要がないことをここに証明できたのである。

 

 無論、道徳を排斥して日本の社会秩序を解体したい朝日新聞やテレビ民放などのマスコミや、極端なジェンダーなど、頭が悪くて人気取りでしか票を獲ることしか頭にない全政治家に対して、引き続き道徳の必要性を理論的に訴え続けるとともに、西部(にしべ)邁(すすむ)がかつて80年代の「朝まで生テレビ」で、誰もが発信できるネットのような時代にも「規範が必要」と主張し、また、「2ちゃんねる」の創設者である西村博之(ひろゆき)さえも、「子どもにはネットをやらせない」と言ったように、こうした重大事件を教訓として、「子どもをネットに触れさせない」という流れ、つまりネット環境において何らかの新しい規範を設けることも、また重要なのである。

 

 それはデュルケムが「道徳教育論」において、また、北野武が「新しい道徳」において、共に「道徳は時代によって変化していくものである」と言っていることからもわかるように、時代の変化に応じて新しい規範を設けることは、自然の流れなのである。

 

 

  

 

  

 しかし、ネット環境やスマホ、LINEではなく、「加害生徒や親、担任などの道徳の欠落が原因」であることを証明したのに、なぜネットの規範も必要であるのか? 

 

 私は「道徳の欠如だけが原因である」ことを今ここに証明したが、今の社会は完全に道徳が崩壊しているため、道徳を再構築するためには、私一人が努力しても、日本の政界、行政、マスコミには完全に敵しかいないため、あと数十年はかかってしまい(すでに20年経っていてこのザマであるから)、日本社会の道徳を、昭和30年代までの水準に復元することは不可能であるため、少なくとも私が影響力を持つまでは、今の子どもたちを救うために、ネットの側に規制による規範を設けざるを得ないのである。

 

 しかし、当然、どうしてもいじめをしたい加害生徒の側にとっては、そんなものはいくらでも抜け道を作られるだろうし、いたちごっこにしかならないのである。

 

 よって、「①道徳の必要性」と、その間をつなぐために、「②ネットにおける新しい規範」の両方をセットにしなければならないことが、ここでまた新たに証明できた


 そして道徳を除く、ネットの規範と同様の法整備などの荻上チキ氏が提案するような、現状認識も、問題意識も、洞察力もなくて、かつ哲学も道徳も知らない人たちがやっても、全く人件費のムダにしかならないような「いじめ悩み相談」など(他国では宗教倫理だけで事足りるようなことが、ありとあらゆる問題で、能力のない人によるマニュアルの悩み相談窓口を設けているほど日本人はバカなのであるが)、いかなる対策もほぼ同様であり、根本的な解決には全くならないことは追って証明したい。

 

 この論に対しては、怒る人がたくさん出てくるかもしれないが、「そもそも論」として、本来は、いじめ加害生徒に対して大人が注意して、諭(さと)して道徳的にしなければならないのに、相談の電話をかけてきた被害生徒だけに対して、世代が全く違って価値観を共有できない大人の相談員が、全くいじめられない安全な身分で、電話越しに「頑張ってね」と諭したところで、何の問題解決にもならないのである。

 事実、少子化で子どもの数は減っているのに、いじめ自殺は増えているのである。


 よって、哲学・社会学・社会思想的に言っても、道徳こそが「主」たる対策であり、相談窓口や、法整備、バカしかいない自民党の政治家や朝日新聞などの左翼が勧めるような、非現実的な、すべての学校の弁護士設置(スクールロイヤー)、ネットの規制などは、「従」の補足的な対策に過ぎず、道徳以外は雨漏りで、屋根を修繕せずに、雨水を受ける桶だけを増やすような、その場しのぎにもならない、ほとんど無意味な対応に過ぎないのである。
 

 スクールロイヤーの無意味さについては、「旭川いじめ」のような重大事件においては、加害生徒は少年法で守られ、また、それ以外のいじめでも、無視、悪口、仲間外れなど、いじめの大半は犯罪ではないため無意味であり、そもそも学校とは、人間関係などの社会性を学ぶ場であって、もし社会性という道徳を学ばないなら、すべてリモートで授業を行い、さらには道徳を全く肯定せず、スクールロイヤーを置かなければならないほど、子どもが危険にさらされるのであれば、このような凶悪犯罪の温床でしかない日本のすべての中学校は、直ちに取り壊すほかない

 

「道徳教育はもっぱら家庭の任務だという俗説があるが、私は、児童の道徳的発達において、学校が果たす役割がもっとも重要でありうるし、またそうあらねばならないと考えるからである。

…家庭は、社会生活の見地から子どもを形成するようには、作られていない。」

(デュルケム著 麻生誠/山村健 訳「道徳教育論」)

 

 無論、子どもの保護者である「モンスターペアレント対策」という側面もあるが、学校が親御さんと法廷闘争になるくらいなら、道徳を教えずにトラブルの原因にしかならない中学校なんていらないし、親にも完全に道徳がなくなってしまっている時代なのである―。
 

 そして最近になって、北星中学の学校教員、いじめの相談を全く取り合わず、廣瀬爽彩(さあや)さんのSOSをガン無視した女性担任の落ち度や、廣瀬爽彩(さあや)さんの問題のある画像か動画のコンテンツを保存する教頭の不可解な行動、さらには川に飛び込む事件以降も、隠ぺいする姿勢が見え隠れする。

 児童の監督責任者である学校が、こういう事件を起こさせて殺したと言えなくもないのである。このようなおぞましい事件を起こした学校は直ちに叩き壊すしかないのである。


 しかし、今の日本には、「主」たる対策である道徳が、バカな政治家や行政やマスコミによって、事もあろうに排斥されて、「完全に抜け落ちている」のである。
 そうした、道徳を全否定している朝日新聞の編集員でも、田原総一朗でも何でもいいが、そうしたマスコミや戦後知識人が、激しく児童虐待をしている若い親の下に生まれ変わるとしたら、まさに彼らが日本社会から道徳を排斥することによって、自分自身の手によって、極めて理不尽で感情的な児童虐待をされること抜きには、日本社会には決して生まれ変わってこられない環境作りをしていることに他ならない。




 (「テーマは『愛』」  NHK BSプレミアム 「玉置浩二ショー」 2021年5月1日)

 

 旭川出身の有名人と言えば、玉置浩二しかいない。

 

 しかし、その旭川は今、とんでもないことになっている。

 そして日本の偏向テレビは旭川市14歳少女凍死事件についてほとんど報じていないから、玉置さん自身、何も知らないかもしれない。

 私も玉置さんと同じ道央の江別市出身であり、また私が中二のころは、安全地帯を一番よく聴いていたから、私と玉置さんが旭川の中学校に行って、道徳を教えに行くべきかもしれない―。

 

 重大犯罪を起こした加害生徒の子どもたちは、皆、玉置さんの旭川の後輩ということになる。

 まさに「同郷」なのである。

 玉置さんみたいに、人なつこくて感受性の強い、日本を代表する歌手を輩出した旭川がどうしてこうなってしまったんだろう?

 バカ過ぎる政治家や行政、マスコミには、「道徳の退廃以外ない」ということには未だに気づかないらしい。

 

 逆に道徳を全否定するマスコミや全・戦後知識人に聞きたいが、仮に田原総一朗や荻上チキが言うように「道徳の退廃がいじめの原因では全くない」と仮定した場合、つまり彼らの仮説によると、49年前も今も、旭川の中学生の道徳観は全く変わっていないのであるから、49年前の玉置浩二さんがギターを背負いながら、LINEで同級生の女の子を呼び出して、こんな倒錯した性的暴行のいじめや動画撮影を執拗にすると本気で思っているのか? 

 間違いなく、今の中学生とは違って、49年前の13、14歳当時の玉置浩二さんには道徳があったんだよ。
 ∴いじめ自殺をなくすには、道徳が必要である

 

 完全に思考停止した、頭のない連中だけが、この国を支配している。

 

■違法となった体罰の必要性について

 

 2020年4月に体罰禁止の法律(改正児童虐待防止法)が施行されて一年も経過しないうちに、イスラム国と何ら変わらない、倒錯した、凄惨な、旭川市14歳少女凍死事件が起きた。

 

 昭和30年代のような、児童虐待や旭川いじめ自殺のような社会問題が全くなくて、道徳があったころには、当然多感な小学校高学年から中学生男子に対する適度な体罰も社会的に許容されていた。
 

 つまり道徳と、男子に対する適度な体罰によって、団塊世代は良く「しつけ」られ、児童虐待をすることなく、社会性を持って結婚、出産、育児をして、我々第二団塊世代を産み育ててきたのである―。

 

「意識において自らの個性は、それ自体正しく善きものである普遍的なもののもとにしつけられるべきである。

…そして真のしつけとはもっぱら、個人的な性格のすべてを犠牲にするということである。

 つまりそれは、意識が実際もはや個々のものに囚われたままではないということを証示することなのである。

 徳の意識にとっては、…個人は廃棄されるべきものである。

 つまりこのことは、個人の意識そのものに関しても、また、世の流れに関しても、当てはまるべきなのである。」
(ヘーゲル著  高山守訳 「精神現象学」、放送大学 高山守 第11回「精神現象学」を読む III)

 

 女性が激しく弾圧されている中東やアフリカ、あるいは人権そのもののない中国ではなく、なんでもかんでもありがたがって受け入れる、バカしかない日本「だけ」に極端なジェンダーを押し付け、さらには児童虐待の問題を契機とばかりに、「体罰禁止の法律」を日本に押し付けたスウェーデン寄りの国連左翼、さらにはフジテレビを始めとする外国資本に買われている日本の反日マスコミ、すなわち、完全に新自由主義と人権主義との売国と化した自民党政権に影響力を持つメディア権力の「人権主義左翼」並びに、参院選の選挙目当てのために拙速(せっそく)に悪法を成立させた自民党の山下貴司法務大臣(当時)並びに、同法の成立を山下に要求した超党派の議員連盟は、加害生徒に対するいかなる「しつけ」の機会も法的強制力によって奪い去り、旭川市14歳少女凍死事件を誘発させる社会環境を作った張本人たちであり、日本社会にとって百害あって一利なしであり、完全に万死に値するものである。

 

 これらの人たちには、日本から児童虐待と、いじめ自殺とを撲滅するために、キリスト教倫理を弾圧して、極端な人権主義を進めて、欧州の中でも批判されているスウェーデンに一日も早く、速やかに出て行ってもらいたい。

 

 無知・無思想で人気取りだけの政治家やマスコミ、あなたたちみたいな人たちが日本からいなくなることこそが日本のためなのであることはすでに証明した通りである。

 

 そして私に反論したい日本人の大多数の左翼やメディア関係者に逆に聞きたいが、廣瀬爽彩(さあや)さんに個人的に執拗に付きまとって性的暴行を続けた加害生徒たちに対して、事件が明るみになった後でも、一切体罰を加えないことが果たして正しいのか? 

 

 もし仮に加害生徒の親たちが、自分たちの子が全く非のない人さまの子に対して、これら倒錯した性犯罪を起こしていたと知っても、不良やヤンキーなど、理論による説得によっては全く聞く耳を持たない感情的で、自己本位的で、未熟な年代であれば、体罰によって𠮟りつけるほかない。

 

 だが、もし仮に加害生徒の親たちが、これらの事実を知っていたとしても、法的強制力によって、体罰をする自由は奪われているのであって、そもそも今の日本では、加害生徒の親たちには、最初からしつけの裁量がないのである。しかも去年から、日本の社会秩序を破壊しようとする勢力によって恣意的に。

 

 極論を言えば、この北星中学のように、今の日本の学校には、全く道徳が行き渡っていないし、かつ加害生徒の親さえも加害生徒をしつけることが悪法によってできないため、こうしたいじめに全く対処できない日本社会においては、すべての中学校は理論的には今すぐ閉鎖するしかないのである。

 

 そして、これらネットを駆使したずるがしこい性犯罪者が、鬼畜のガキが、人として全くしつけられていない、社会性のない悪魔が、少年法にごたいそうに守られて、何ら社会的制裁を加えられずに、少年院すら入らずに、野放しにされることが、果たして社会にとって公共の福祉に沿った、公益にかなうものと言えるだろうか?

 

 事実、道徳を全否定してきた日本の全マスコミは、彼らが間接的に引き起こしたようなこの事件を意図的に報道しないように努めている。 

 

 廣瀬爽彩(さあや)さんの存在すら、風化させられ、忘れ去られつつあるのだ。

 

 これらの性欲に狂った暴力的な悪魔たちが、あなたがた左翼のマスコミ関係者たちの娘さんがいる中学校の同じクラスにいて、愛娘(まなむすめ)に対して、さまざまな性的暴行や、裸の動画を拡散するぞという脅迫をしたらどうか?

 しかし、西部(にしべ)邁(すすむ)によれば、「自分たちの娘のクラスにそのような頭のおかしい中学生がいなければそれでいい」というのが、道徳を攻撃してきた田原総一朗を始めとする浅はかな戦後左翼の人たちの利己的な考え方なのである。

 

「…彼ら(戦後知識人)の唱える個人主義や自由主義は他者への冷酷な無関心と張り合わせになっているといわざるをえない。そうでないとしたら、彼らは価値判断の問題に、いいかえれば道徳の問題に、死活の覚悟で取り組んでいるはずである。」 (西部 邁 著 「国民の道徳」 産経新聞社)

 

 あなたがた左翼が、あるいは売国の自民党が、これら加害生徒の人権とやらを全力で守ろうとも、私は「自由論」で有名な社会思想家 J.S.ミルの言う「道徳的報復」や、「道徳的非難」を加え続ける。

 

 なぜなら、それ以外に、この国を守る手立てがないのであるから。

 

 「ある個人の行為が、…法定の権利を侵害するという程度には至らないにしても、…他人の幸福に対する当然な配慮を欠いている、という場合はありうる。

 このような場合には、…世論によって処罰することは正当であろう。」
 「他人との交渉における虚偽やうらおもてのあること、他人に対する優位を不当に、もしくは無慈悲に行使すること、また、利己のために、他人の蒙ろうとする損害を防ごうとしないことでさえ、―すべてこれらの行為は、当然に道徳的非難を受くべきものであり、また重大な場合においては、道徳的報復と刑罰とを受くべきものである。」

 (J.S.ミル著 塩尻・木村 訳 「自由論」 岩波書店)

 

 私個人は、人間関係が成立する「双方の合意」がないにも関わらず、一方的かつ執拗に被害生徒に関わってきて、性的暴行を加えたり、裸にさせた上で、裸の動画を撮影して、拡散したり、そうすると脅す頭のおかしい未熟な社会の構成員たちは、体罰どころか、加害生徒の保護者に事実を通告した上で、未成年と言えども、完全に「殺す以外ない」と考える。

 道徳に厳しいイスラム圏では、私の考えに近い同等の処置か、あるいは公開処刑など、より厳しい処置が採られるだろう。

 事実、成人の社会では極めて厳しい刑事罰が下されるが、子どもの社会では、これらの凶悪犯罪が、少年法で守られるため、大人の社会よりも厳しい指導か、道徳教育、体罰が行われるべきであるが、今の日本では完全に真逆であり、これら悪質な加害生徒に対しても、一切の体罰が法律によって禁じられていることはもちろんのこと、国連左翼によって、日本だけに押し付けられた「子どもの権利条例」によって、「セックスする権利」など、より子どもだけの人権を強調して、哲学や道徳倫理に全く疎(うと)い官僚出身のバカ過ぎる市長などによって推(お)し進められ、川崎市、広島市、日野市などの各自治体で反対運動が起きており、日本の社会秩序を破壊しようとしているのは周知の通りである。

 

 そもそも「憐れみ」の道徳でも知られるルソーの「社会契約論」で言うところの、「人間関係が双方の合意によって成立する」という「1+1=2」の普遍的な真理すら否定する完全に無知、無思想な人権主義バカが社会やマスコミを支配していて、学校に通っても、そんな道徳倫理の常識中の常識すら全く教えないので、学校に行っても全く社会性が学べないのである。

 

「道徳教育はもっぱら家庭の任務だという俗説があるが、私は、児童の道徳的発達において、学校が果たす役割がもっとも重要でありうるし、またそうあらねばならないと考えるからである。

…家庭は、社会生活の見地から子どもを形成するようには、作られていない。」

 (デュルケム著 麻生誠/山村健 訳「道徳教育論」)
 

 このような日本の道徳環境を、車の運転にたとえるなら、日本は左側通行の国なのに、「右側通行で運転するガキもたくさんいるよ」みたいな状態であり、もちろん、道徳の免許を持っている人が一人もいなくて、事故が多くて当たり前という状況だから、児童虐待やいじめ自殺が多くても当たり前である。

 

 事実、実際の車の運転でも、明確な道交法、交通ルールが存在するにも関わらず、危険運転やあおり運転をするバカが後を絶たないのである。これは運転する人間の道徳の問題以外の何物でもないのであるが、そうした自明の理に、バカ過ぎる政治家、行政、マスコミはそっぽを向いて、ドライバーに負担となるドライブレコーダーの設置だけを呼びかけているのである。

 

 このような宗教倫理が全く行き届いていない日本は、一言で言うと人さまのマウントを取ろうとするようなやつばかり、つまり他人を「モノ」として利用して隷属させようとするやつばかり(マルクスや西田幾多郎が批判)であって、カントのいう悪い意味での「自然状態(弱肉強食)」、つまり完全に野獣しかいない「人間失格の国」であり、完全な「道徳発展途上国」である。

 

 ここにおいて日本国民は、道徳と適度な体罰とを禁止して、進んで児童虐待や旭川いじめ自殺を選んでいる社会であるという客観的な事実を認識してほしい。
 そして、亡くなった子どもたちのためにも、道徳を排斥して、適度な体罰を禁止する政治家、行政、マスコミと徹底的に糾弾(きゅうだん)して、こちらのブログをできるだけ拡散して、戦ってほしいのである。
 

 だが無論、「今日(こんにち)の親に道徳がない」ことが、「法律で体罰を禁止せざるを得ない原因である」ことは、栗原心愛(みあ)さんが10歳で亡くなくなった2019年1月に起きた野田小4女児虐待事件からも明らかであり、旭川市14歳少女凍死事件が起きた一つの原因をさかのれば、この事件にたどり着く。

 

    

 

 しかし、栗原心愛(みあ)さんを殺害した父親の栗原勇一郎被告は、私の4つ下の弟と同い年であり、アニメ、ゲーム、受験戦争の世代の、道徳を全く教えられてこなかった第二団塊世代であるため、この世代の道徳の欠如が、事の発端であると断じざるを得ず、西部(にしべ)邁(すすむ)が、著書「国民の道徳」で主張していたように、道徳を排撃してきた、今の日本のメディアを蝕(むしば)む全・戦後知識人(田原総一朗、朝日新聞と結託した後の橋下徹など)、人権主義左翼が日本の元凶であることは言うまでもない。


「道徳について論じるものを道学者とよび、道学者を『生の選択肢を縮小させるもの』として非難するのが現代の習わしであった。
 とくに戦後日本ではその非難が大きくなり、とうとう道学者という言葉すらも廃語になっている始末である。
 …抑圧と反逆の混ぜ合わせとしてのマスコミ世論は、日本のこの世紀の変わり目において、ほとんど敵なしの横暴ぶりをみせつけている。
 多数者が世論という名のきわめて押しつけがましい意見を社会にあてがう。
 …世論の専制政治が最も行き渡っているのが今の日本だ、といって少しも誇張ではないのである。
 …マスメディアは第四の権力であるどころか、第一権力にほかならないのである。
 …第一権力が自己のもの以外の一切の権威…に攻撃を加えるときに何が起こるか。
 それは、いうまでもなく、社会秩序の瓦解である。」
 「新奇な犯罪の多くは人権主義の帰結」 

 「道徳を破壊する道徳、それが人権主義」 

 (西部 邁 著 「国民の道徳」 産経新聞社)
 

 但し、そうした人権主義左翼一辺倒のメディアの状況にあっても、テレビ寄りの政治的なスタンスでありながら、室井佑月さんとやくみつるさんのお二人が、日本のテレビにおいては完全にタブーである「道徳」の必要性をテレビで果敢に発言していたことは注目すべきである。

 なぜなら「道徳」という言葉は、美輪明宏さんや曽野綾子さんでも、テレビではそうそう使えない言葉であるから。

 

 日本国民や教育の地方自治たる教育委員会は、決して、アイヌ問題によって、私の出身市のシンボルである江別の百年記念塔を取り壊そうとするような、テレビや行政の「人権主義左翼」に惑わされてはならないが、私はこの国においては、(このブログに訪れる読者の方々を除いては)一人も理解者がいないので、以下に勧める、道徳を重視する人たちをご紹介する。

 今の時代には江原啓之(1964- 神道)さんと、三木大雲(1972- 法華経)さんという、道徳を説く年の近い二人の先輩がいる。また、明治期には、今注目されている渋沢栄一 (1840-1931 論語)、さらには美輪明宏 (1935- 諸宗教など)さん、私を後継者に指名した林田明大 (1952- 陽明学)さんなどがいる。
 

 

 

 

 特に江原さんの著書「言霊のゆくえ」は、私が道徳とは全く関係なく、「息を吹き入れられたことば(エクリチュールと差異)」という、アルトー的な観点から「言霊」に関心を持ち、霊魂や魂などのスピリチュアル的な読み物と勘違いして買ったら、なんと私の自著と思いっきり類書の(画像の通り)道徳書だったのであるが、その第2章の章題が、私の道徳書のタイトルと酷似しており、しかも、第2章の「道徳」が占める同著におけるページ数が極めて多かったのである。

 

 江原啓之さんは、テレビでは「道徳」とは一言も言われなかったが、テレビの一線を離れた2012年末に出された同著の中で、一番大きなウエイトを占める章の章題が「今こそ必要な『道徳と終身』」であり、テレビの魔の手から離れた彼の真意としては、私と同じなのである。

 

 ただ、今の時代には、キリスト教を作った聖パウロや、日蓮上人(しょうにん)のように、世の中を破滅に導く時の権力者や社会的な影響力を持つ悪い人たちを徹底的に批判して、攻撃していく哲学的で頑固な道徳家が「全くいない」ので、今の人なき時代においては、私一人だけが彼らに比するものである(聖パウロに至っては私とは非常に多くの共通点がある)。

 

 

■旭川市14歳少女凍死事件の特異性

 

(画像は 2021年4月15日 「文春オンライン」 /2021年4月23日 朝日新聞 より)

 

 一言で言って、この事件は単なるいじめ自殺では全くなく、「日本の社会衰退のデパート」であり、いろんな社会衰退の要素が入り込んだ、令和を象徴する事件である。
 それにも関わらず、テレビ・新聞・週刊誌ではほとんど取り上げられておらず、ネットをほとんど利用しない大多数の高齢者は、事件があったことすら知らない有り様である。
 

 また、この事件は、単なるいじめ問題ではなく、「①ネットの問題」と「②性的な問題」と「③少年犯罪の問題」と「④学校の問題」も入るので、従来のいじめとは、ほぼほぼ別問題であり、令和の時代の、新しいショッキングな社会問題と言える。

 まず、これまでは主に男子生徒がいじめの加害者であり、かつ被害者であって、また、70年代生まれの団塊ジュニア世代は、女子がコミュニケーションの主導権を握って(宮台真司)、女がコミュニケーションを取る男を選ぶようになって、男子とはあいさつすらせず、排他的になることで、男子と女子との交流がそもそも少なかったが、AKB48以降は、90年代から2000年代生まれの女子のコミュニケーション能力が、彼女たちの母の世代にあたる、現実的でしっかりした人の多い60年代生まれの女性並みに復活して、さらにはAKBに影響された、かわいらしさが見受けられるようになったが、依然として学界や行政、マスコミでは道徳が完全に否定されたままであり、男子とのコミュニケーション能力を保ったまま、女子の道徳がさらに低下していって、女子が男子と共にいじめ加害に加わり、さらにはネットで倒錯した性娯楽が氾濫してきたため、かつてではありえなかった、いじめ加害の女子が、いじめ被害の女子に対して性的凌辱を加えるという新しい段階に入ってしまったのである。

 しかもこの事件では、小学生までもが加わってしまっているのである。

 

 もし仮に女子がいじめに加わるとしても、自らも女性であるため、加害女子が、男子の被害女子に対する性的暴行に加わることはおおよそ考えられなかったのである。それが今ではネットの影響によって、完全に新しいステージに突入していったのである。

 

 玉置浩二さんが聞かれたらどう思うだろう?

 だが、「原因があって結果がある」のは先に示した通りである。

 
 

 

 

■加害生徒に対する社会的制裁としてのいじめ加害生徒出席停止案

 

 何ら非のない被害生徒である廣瀬爽彩(さあや)さんが、刑罰でしかない転校を強いられる状況自体が完全に逆である。

 つまり義務教育下にある社会に出たことのない子どもにとって、自分のクラスから自分だけが除外されることは、日本社会から除外されるに等しい孤独と苦痛であって、転校してもその傷は癒えず、自殺を選ぶに余りある理由となることは疑いようがない。

 まして、性的凌辱を加えられて、撮影され、ネットで拡散すると脅されているだけに、人としての尊厳を破壊された心の傷と将来への不安と絶望とは察するに余りある。

 

 逆に「加害生徒を他校に転校させるべき」とする弁護士の案もあるが、あまりにも拙劣であると言うほかない。なぜなら、なんら道徳教育を施(ほどこ)さず、今回の事件のような凶悪事件を起こした児童たちを、喜んで受け入れる学校なんてまず存在しない。他の中学校が少年院や刑務所であると考えることがおかしいことは少し考えればわかることだ。
 

 こうした重大な犯罪を起こした加害生徒を、たとえば1学年落第させることが、彼らにとってとてつもないペナルティであり、いじめの抑止につながることは疑いようがないが、転校と同様、加害生徒たちを受け入れる下の学年の生徒にとってはたまったものではなく、したがって私が15年前に文科省に提言した出席停止こそが妥当であると言わざるを得ない。

 そして、今回のような無視、悪口、仲間外れの類ではない、重大な凶悪犯罪であるいじめのケースは、1年以上の出席停止とし、下のクラスにも入れない

 学校そのものの秩序を守るため、学業からは完全に外すほかない。

 そして道徳的に更生するまでは中学校の卒業自体も認めず、加害生徒の保護者に事の重大さを認識させて、義務教育を受ける権利を一時停止するという重いペナルティーを科すほかない。

 

 当時の文科省は、この合理的な提言だけに食いついて、私が伝えたかったいじめ対策の具体案や、肝心の道徳教育の中身については全く聞こうとせず、その3年後の2009年に慶応大学で行われた日本哲学会総会後の「哲学系四学会」で、中学校の道徳教育の義務化について議論されたが、私は文科省の官僚たちがいる前で発言して、中学校での理性教育の必要性を伝えたが、彼らには全くピンと来ていなかった。

 

「それまで自分しか考慮しなかった人間は、違った原則に基づいて行動し、自分の好みに従う前に理性に図らなければならない。」(ルソー著 井上幸治 訳 「社会契約論」 )

「世俗的な道徳教育…は、…もっぱら唯一理性によって主宰される観念や感情や実践に力点をおく。

 一言にしていえば、それは、純粋に合理主義的な教育である。」

(デュルケイム著 麻生誠/山村健 訳 「道徳教育論」)
 

 

 今回の対策としては、被害生徒の訴えから、そこで初めて監視カメラを設置するなどして、日常を観察したり、LINEのやりとりを検分するなどして、犯罪に類する深刻ないじめが明らかになった時点で、加害生徒をクラスから駆除して、放課後やLINEなどでも一切関係を持たせないようにし、被害生徒やクラスの秩序を保つために、1年単位の出席停止とするほかない。

 実際、廣瀬爽彩(さあや)さんの母親が担任の先生に昨年の4月から6月まで計4回相談していたのでそのチャンスはいくらでもあったはずだ。

 

 そしてその後、廣瀬爽彩(さあや)さんが地元の川に飛び込んだ事件が発端となって、被害者の女の子が入院して、警察が捜査を開始したが、学校は注意だけで済ませており、加害生徒に1年単位の出席停止など、適度な罰を与えることが全くできなかったために、いじめ自殺を止めることができなかったのである。

 

 また、哲学や道徳の必要性を全く知らないお馬鹿さんには、最初から「監視カメラを増やせ」という稚拙な議論が未だに根強いが、相模原障害者施設殺傷事件ではすでに20数台のカメラが設置されていたように、日本全国の学校で監視カメラの設置することは完全に税金の無駄であり、「どうしても付けるべき」という人がいるなら、そいつが全部自腹で出して勝手にやれ。

 無論、凶悪犯罪では、ある特定の時間帯だけを調べるために、コンビニなどに常時設置されている監視カメラが捜査に役立つことも往々にしてあるが、「無視」、「悪口」、「仲間外れ」が大半を占めるいじめの場合は完全に別であり、学校のすべてのクラスや体育館などにくまなく監視カメラを設置して、それを常時見るか、あるいはいじめかどうかをチェックする人を雇うことは不可能であり、バカげていることは少し考えればわかることだ。
 

 いじめの被害生徒や保護者からの相談があって、いじめの状況を見極めるために短い期間限定で設置するなら有効であるが、最初からすべての学校の至る所に設置するくらいなら、学校で道徳を教えることに税金を使うことの方が、生徒の将来のためにもなるし、それが本来の学校の役割なのであるから。

 

 そして、こうした被害生徒や母親の切実な訴えも、道徳のない学校や担任には全く届かず、女性担任はデートを優先して相談自体を断ったとも報道されている。

 事実、日本の中学校の教員には道徳がなく、それどころか、旭川市14歳少女凍死事件の加害生徒と同様に、男性教員や講師による空き教室での児童に対するわいせつ行為が多発している有り様である。

 

「もし道徳的環境が腐敗していれば、教師自身もそのなかに生きているのであるから、かれらにもそれが浸透しないわけにはいかない。…社会じたいが改革されないかぎり、教育の改革も行われないのである。」

(デュルケイム著・宮島 喬 訳「自殺論」中央公論新社)


 本質的な解決策として、厳密に言えば、教員と生徒を含むすべての中学校が、現状認識と問題意識と洞察力を持ち、普遍的な道徳倫理に精通する私の道徳教育の管理下に入る以外ない。

 しかし、それは不可能である。

 

「なるほど、ときには、いだいている観念や願望が同時代の人びとのそれを凌駕しているような者(=高澤一成)が出現してくることもある。

 しかし、国民の精神の構造をつくり変えるのは、そのような孤立した個人ではないのだ。

…まったくあらがうことができないとわかっている趨勢を押しとどめようとするのは愚かなことである。」
(デュルケーム著 宮島喬訳「自殺論」より)


 無論、各自治体の教育委員会が、深刻ないじめ自殺を引き起こす前に、専門家以上の専門家である私に、地域の学校の道徳教育を依頼するという選択肢はあり得るかもしれないが、教委には、人権主義のイデオロギーであったり、哲学や道徳倫理に疎いお馬鹿さんしかいないので、耳を貸す人は皆無であろう。
 



 

 

①旭川市14歳少女凍死事件で周知のように、子どもが完全に性的に倒錯していて、道徳がなく、②野田小4女児虐待事件でも周知なように、児童虐待をして子どもを殺してしまう親に道徳がなく(あるいは①の加害生徒をしつけない親にも道徳がなく)、③空き教室に児童を呼び出してわいせつ行為をする教員、講師に道徳がなく、④不倫相手の元妻の子どもの親権まで奪い取って、結果的に自殺に追い込んでしまっても、何の後ろ暗さもない山尾志桜里など、政治家に道徳がなく、さらには行政においても、省庁レベル、市役所レベルでも、官僚や市職員の犯罪・不祥事が相次いでおり、道徳がなく、外資に買われた今の日本のマスコミは、そもそも日本の社会秩序だけを破壊するために、道徳を否定する人たちだけなので、完全に私以外は「打つ手なし」なのである。

 

 つまりコロナの再拡大と、経済の低迷(新自由主義の自民党政権が進める緊縮増税による国民の貧困)と、道徳退廃と原発廃炉という、四重苦に日本はあるのである。

 また国際的なSDGsとは、本来、新自由主義に対抗し、代替するための「道徳」をモットーとしているが、新自由主義と人権主義だけを信奉する日本の政治家、自治体、マスコミが、他者を攻撃して大衆を味方に付けるためだけの「自己正当化」(イスラム国がイスラム教を利用するのと同様に)のためだけに利用する、本来のSDGsとは真逆の主旨の日本版エセSDGsには肝心の「道徳」がない

 

 

 

 

 仮に私が、加害生徒の親たちの胸ぐらをつかんで、厳しく叱責したのち、加害生徒である小中学生10人を蹴って蹴って、鼻血が出るくらい蹴り続けて、近い将来、彼らのうちのいく人が事の重大さに気付いて、廣瀬爽彩(さあや)さんの墓前に手を合わせて、一生お寺に入って供養を続ける人生を選んだしても、「廣瀬爽彩(さあや)さんは生き返らない」のである。
 彼ら10人並びにその加害生徒の親たちは、一生重い十字架を背負い、道徳的非難を浴びて、残虐非道な忌むべき人たちとして、逃げ隠れするように生き続けるしかないのである。

 

 「道徳的非難」の必要性を強調する社会思想家のJ.S.ミルは次のように言っている。

 

「社会の比較的弱い成員たちを教育して理性的行為の…水準にまで高めるためには、彼らが…無分別な行為を為すのを待って、…その後にこの行為を理由として法律上…の刑罰を加えるという方法以外には、方法がないかのように論ずることには、賛成することができない。」(J.S.ミル著 塩尻・木村 訳 「自由論」より)
 

 つまり、要約すると「重大な犯罪を犯してから道徳を教えるのでは遅すぎる」とJ.S.ミルは言いたいのだ。

 

 

 

 

 

■5月6日 追記  失われた「旭川の愛」  ~旭川を救えるのは玉置浩二しかいない~

 加害生徒に対しては、あまりの事件の異常さに大変厳しいことを書いてしまったが、これは私の本意であって、江原啓之さんの本意ではない。
 江原啓之さんは「子どもは何も変わっていない」と言う。
 つまり、「子どもは大人の社会や大人の姿を真似しているだけなのである」と。
 そして私も、加害生徒が生まれた時から鬼畜であったはずがないというのは重々承知している。
 では、何が原因か? 
 日本のテレビを支配していて、道徳を全否定する人権主義左翼によれば、「加害生徒の個人責任だけ」となろう。
 つまり、江原さんとは真逆の見解である。
 それでいて彼らは加害生徒の人権も守りに行くだろう。
 これは矛盾である。
 そして結局、テレビがこの問題をほとんど報道しないように、彼らにとって都合の悪い現実は直視しない。
 これら江原さんが「何も変わっていない」、「純粋だ」と言われる子どもたちが倒錯した性的暴行を始めとする一連の凶行に及んだのは、言うまでもなく、私がこれまで述べてきたような、「道徳の破壊」と、「ネットの影響」の二つによるものである。
 逆に49年前の旭川市の一中学生だった玉置さんの時代には、日本社会や玉置さんの通う中学校に道徳があって、ネットもなかった。
 特に本件では、とめどないネットの性的娯楽の氾濫が、小中学生にまで及んでいることをまざまざと知らしめる決定的な事案だったに相違ない。
 社会学の権威であるデュルケムは次のように言っている。

「いったん弛緩(「しかん」。ゆるむこと) してしまった社会的な力が、…それらの欲求の相互的な価値関係は、未決定のままにおかれることになって、けっきょく…すべての規制が欠如するという状態が生まれる。
…人はなににたいしても、見境なく欲望を向けるようになる。
 それは、各職務…にまでおよんでいく。
…このように、欲望は、方向を見失った世論によってはもはや規制されないので、とどまるべき限界のどこにあるかを知らない。
…この無規制[デレーグルマン]あるいはアノミー(混沌状態の意)の状態は、…より強い規律が必要であるにもかかわらず、…ますます度を強める。」(デュルケイム著・宮島 喬 訳「自殺論」中央公論新社)


 つまり、デュルケムによれば、ネットで倒錯した娯楽が氾濫している今の時代は、ネットはおろか、今の時代に人格障害をもたらしているカラーテレビすらなかった昭和30~40代以前の時代よりも増して、「道徳が必要である」ということである。
 

 無論、昭和30~40年代には、団塊世代や玉置浩二さんがそうであるように、旭川いじめ自殺や児童虐待のような社会問題は全くなく、道徳があったのである。
 そして、その水準よりも高い道徳が求められているが、今の時代には私しかおらず、社会衰退の克服(社会問題の解決)は絶望的である。

 また、ネットであふれているコンテンツのように、異性を「性的なモノ」とみてしまうと、自分も他人も獣になってしまい、結局は個では絶対に太刀打ちできない社会によって取り締まられ、没落するのみである(ヘーゲル)。

 いい加減、必要以上にネットを利用する日本人は、女性を「性的なモノ」ではなく、「愛すべき人」として見てほしい。
 

 そしてそうした、神道やキリスト教でも重視される「純粋な意識」を一番体現していたのが、皮肉にもこのような恐ろしい事件を起こしてしまった旭川市の出身である玉置浩二さんであった。
 

 

 

 (「テーマは『愛』」  NHK BSプレミアム 「玉置浩二ショー」 2021年5月1日)



 旭川出身の安全地帯の曲は、サスペンスのテーマソングもあるが、彼らに先行した寺尾聰(あきら)を踏襲するような(北海道という意味では松山千春であるが)、現実的な大人の世界観の中で(寺尾聰は、より都会的であるが)、「世界的なシンガー」と言っても過言ではない玉置浩二の圧倒的な温かみのある歌唱力(倍音)をフルに生かした、せつない感じのプラトニックなラブソングが多く、恋愛を重視して、思いを寄せる女性を美化するものばかりである。

 私個人が中学生の時に好きだった曲は非常にたくさんあるが、今、二つだけ上げるとするなら、マスカレード(1984)と、Friend(1986)である。

 《あなたは嘘つきな薔薇/いま心なくしたまま/枯れてしまいたいのなら/その胸をあずけて》
 (M4「マスカレード」) (2017年12月20日 18:00 OKMusic編集部)

 

 

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