神田沙也加さん自殺と道徳不在のマスコミ | 高澤 一成 「真の哲学者とは」

高澤 一成 「真の哲学者とは」

■哲学・社会学・社会思想に基づく「社会衰退の克服論」
■成人道徳教育(啓蒙)の必要性と、道徳と自由の両立

 

 衝撃的なニュースがテレビで報じられた。
 

 

(2021年12月20日 朝日新聞 / テレビ朝日「大下容子 ワイド!スクランブル」)

 

  道徳に否定的な朝日新聞の取り上げられ方は極めて小さいが、他のスポーツ紙でも、大大的に報じられているとは言え、亡くられた神田沙也加さんの経歴だけがクローズアップされ、極めて特殊かつ、日本独特である著名な若い女性の自殺の原因と、竹内結子さんなど、不可解な自殺が相い次いでいる社会問題への考察については一切触れられていない。

 

 また、道徳に否定的で、場当たり的なマスコミが推奨する自殺対策の連絡先が空しく付け加えられているが、こうした自殺が起きてしまってからでは遅すぎる。

 

 

 

(2021年12月21日 テレビ朝日「スーパーJチャンネル」)

 松田聖子さんが神田正輝さんと共に、公の場に出られたことに、心から敬意を払いますと共に、心からお悔やみ申し上げます。

 

 

 松田聖子さんの一人娘である神田沙也加さんが35歳の若さで札幌の高層ホテルから飛び降り自殺してしまったという痛ましい事件だ。

 くしくも、私の父も昨年12月に、同じ札幌の市立札幌病院で、新型コロナにクラスター感染して帰らぬ人になってしまったが、神田沙也加さんの余りにも早すぎる死に、母である聖子さんの悲しみは私の比ではないだろう。

 

 今は日本で最も支持されているアイドルである松田聖子さんのことを思うばかりだ。
 私が小学生の頃は、テレビの「ベストテン」や「トップテン」などで「夏の扉」など、松田聖子さんの歌をよく聞いていたし、「日本を代表するナンバー1のアイドルが松田聖子さん」という見解は、芸能分野の専門家であるクリス松村さんと全く同じ意見である。
 

 (尚、私は20代のころに、渋谷の東急ハンズの裏口で神田正輝さんを見かけたことがあるが)アイドルとして完璧だった松田聖子さんの愛娘であり、見た目の美しさはもちろん、声優としても大成して、ミュージカルの公演中だった沙也加さんが、どうして急に亡くなられてしまったのか? 
 

 日本では、木村花さん、竹内結子さんと、若い著名人女性の自殺が多い。
 

 私はこうした自殺を「テレビ自殺」であったり、「メディア権力自殺」と呼ぶことにする。

 

 デュルケムの「自殺論」では、統計的に自殺は、社会的に孤立しやすい男性の方が圧倒的に多い。
 ところが近年の日本は、若い女性の自殺の増加が目立つようになってしまっている。
 それは、かの三島由紀夫も指摘しているように、取りも直さず、日本には道徳がないためだ。
 自らの心の支え、あるいは「より所」となる教えや行動規範がない。


 否、道徳のすべてを儒教道徳と混同して徹底的にメディアから排除してきた、哲学を全く知らない左寄りの全共闘世代の「マルクスがすべて」という唯物主義の愚かさによるものだ。

 

 つまり日本の自殺、普通の国では考えられないような、道徳が全くない日本特有の、若い女性の自殺の増加は、アノミー(道徳崩壊による混沌状態)によるものだ。

 

 「社会は個人に優越した唯一の道徳的な権威」とデュルケムは言う。

 

 しかし、日本の社会や社会に絶大な影響力を持つマスコミには、「道徳全否定」のマルクス主義者しかいなくて、道徳が皆無であるのだから、ありえないような自殺が頻発しても、不思議ではないというのである。

 

 また、デュルケムは次のようにも言っている。

「じつは、人の生がどのような価値をもっているかについて全体的な判断をくだしうる地位にあるのは、社会だけであり、個人にはその能力はない。」(デュルケイム著・宮島喬訳「自殺論」中央公論新社)

 

 かつては、日本のテレビにも道徳的な言論はあったが、2004年に「保守」で知られるNHKの海老沢会長が週刊誌報道によって失脚し、テレビをもっぱら韓国の影響が強い電通が支配するようになってしまって、それから日本のテレビでも韓流ドラマが多く流れるようになり、テレビ局の出向から成るBPOがこぞって辛淑玉(シン・スゴ)さんを擁護するなどして反日的な傾向が強まり、それと並行して、道徳に極めて否定的な田原総一朗さんに近い、道徳を排撃する左寄りの勢力、たとえば「あいちトリエンナーレ」の津田大介さんなどがSNSの絶大な影響力を駆使して結集し、同じく道徳に否定的で、かつ日本国民の格差を広げる新自由主義の橋下徹さんらと相まって、テレビ朝日やTBSなどの左寄りのメディアで影響力を持ち続けている感がある。

 

 日本のテレビの覇権をNHKから奪い取った電通でも、高橋まつりさんが過労死で24歳で自殺しているが、今でも、道徳の必要性を排除する反日と左翼と新自由主義者とが連携して、道徳家の私を排除、攻撃しつつ、このようなかたちで日本を破壊しようとしている。

 

 児童虐待やいじめ自殺の増加や、旭川いじめ自殺事件そのものをマスコミで一切取り上げないことでも、それは示されている。


 無哲学で道徳全否定の左翼が支配的なこの国では、いじめ自殺や児童虐待、さらには著名な若い女性の自殺だけが「SDGs」(持続可能)になってしまっている。


 そして「自殺論」で有名な代表的な社会学者のデュルケムも、「道徳教育論」という大著で、道徳の必要性を強調しているが、マスコミに出てくるような日本の社会学者には残念ながら同著を重視する人はいない。


 松田聖子さんの愛娘であり、立派な女性だった神田沙也加さんの自殺は余りにも衝撃的であり、いじめ自殺、児童虐待、わいせつ教員が絶えない今日の日本の社会衰退を最も象徴する出来事であり、道徳を完全に排斥してきたマスコミや学界、政界の大きな大罪だ。
 
 デュルケムは「道徳教育論」ではなく、「自殺論」においても次のように言っている。

 

「あらゆる豊かさの増大から生じる道徳的な危険は、たとえそれを救うすべがあるとしても、見のがされてよいものではない。」(デュルケイム著・宮島喬訳「自殺論」中央公論新社)

 無論、神田沙也加さんの場合は、歌もうまかったため、芸能界を引退できず、それこそ市川海老蔵さんのように、周囲の期待が大きかったこともプレッシャーと容易に考えられる。

 

 これが普通の女性のように楽観的であれば、公演をキャンセルしたり、私のように無名で不真面目な人間であれば、ドロップアウトすることもできるのだろうが、石原軍団の俳優とトップアイドルとを両親に持って、美しい女性ということもあり、真面目に品行方正に育ってきた彼女には、それができなかったのかもしれない。

 

「純粋な歓喜が感性の正常な状態であると考えるのは、じつは誤りである。

 人がかりに悲哀にまったく心動かされることがなければ、生きていくことはできないだろう。

 …人びとの感じる快(こころよ)さは、かならずやいくぶんか憂鬱なものを含んでいる。

 …それが生活のなかからまったく排除されてしまっているときは、これまた病的である。

 …あまりの陽気さをたたえた精神は*弛緩(しかん)した精神であって、もっぱら衰微をたどる民族にふさわしく、またそのような民族だけにみいだされる。」(デュルケイム著・宮島喬訳「自殺論」)
*弛緩した:  「気がゆるんだ」の意

 

 つまり、テレビが「道徳の必要性」を認めず、若いアイドルの垂れ流し番組や、明石家さんまさんのような陽気な人だけを称(たた)える番組だけを作っていても、当然、人間が生きていくためには、悲哀や鬱という感性は必要であり、それを全否定している時点で病的であり、かつ現実社会では、道徳が完全に破壊され尽くしていて、児童虐待やいじめ自殺、わいせつ教員、ネットでの誹謗中傷など、陽気になれないような悪いことの方が多くて、ましてネットでも、ホリエモンなどの新自由主義で格差が拡大し、大半の人々が貧困で、全く陽気になれないのであるから、自殺は増え続ける。

 

 「今のテレビの世界や芸能界そのものが病的である」と、少なくともデュルケムの叙述からは読み取れる。

 少なくとも「道徳が必要である」とか、「竹中平蔵がオリンピックで95%も中抜きをしている」であるとか、「中国の公船が日本の領海に侵入している」であるとか、「中国資本が日本の土地を買い漁っている」であるとか、「日本は対外純資産が356兆円もあるので消費税は必要ない」といった現実を一切伝えず、かつ現実とは乖離(かいり)した、陽気さだけの虚構、バカ番組だけを作り上げて、大半の人がテレビしか見ない3600万人の高齢者を取り込んで、社会に対して絶大な影響力を持っている。

 

 また逆に言えば、社会が道徳的規範を一切教えずに、つまり自分がどのように生きるべきか、全くわからないまま、周囲の期待が強すぎて、逃げ道のなかった神田沙也加さんに陽気なことだけをさせていても、心の闇は解消されないまま、不安や悩みが解決されることがなく、自殺はなくならないというのである。

 

 神田沙也加さんの自殺は、社会学においても極めて例外的だ。

 

 それは、若い女性の自殺自体が他国では少ないのと、離婚は統計的に言って、カトリックの国などでは、女性の自殺の抑止になるためだ。

 つまり、神田さんは離婚されているにも関わらず、自殺されてしまった。

 また神田沙也加さんの自殺は、自殺の最たる原因である経済的困窮や、社会的孤立、異性に対する悲哀とも全く関係がないことは周知の通りである。

 さらには家族との結びつきが絶対的な自殺の予防であるが、沙也加さんのご両親は健在であり、関係も極めて良好なのは言うまでもない。

 つまり率直に言って、沙也加さんは社会的に見て、あるいは社会学的に言って、最も自殺しづらい存在である。

 だが、自殺してしまった。

 

 ただ、一つ考えられるのは、公演の宿泊先に「高層ビル」が定番であること自体が良くないことだ。

 デュルケムも次のように言っている。

「刃物を目にしたり、断崖の縁を歩いていたりすると、それだけでたちまち自殺の想念が生まれ…」(デュルケイム著・宮島喬訳「自殺論」中央公論新社)

 

 無論、沙也加さんの死には動機があると考えられ、突発的なものではない可能性が高いが、そうした環境に身を置くことは避けるべきであった。

 

 オリックスで2009年に打率3割をマークして、いわばイチローの後継者的存在として期待されていた小瀬浩之外野手が、翌2010年の春季キャンプで宿泊した沖縄県宮古島市のホテルで10階から2階屋上に転落して死亡したが、彼の自殺に近いものを感じるのである。

 

 沙也加さんは17日の稽古前に「調子が出ない」、「声が出ない」、「手術しなきゃいけないかも」と周囲に不安を漏らしていた(スポーツニッポン、鈴木美香氏)というが、小瀬選手もまた、自殺した前日のトレーニング室で元気がなく、帰りのバス内では頭からタオルを被って座席に身を沈めていた(日刊スポーツ 2010年2月6日)というから、そうした一時的な落ち込みの状態にある人に対して、マネージメントしている人が高い階に宿泊させないか、あるいは公演やキャンプなど、集団行動を余儀なくされている団体での宿泊では、いい眺めという安直な理由で、高層階に泊まらせるという慣習自体をなくすべきと思う。

 

 沙也加さんの自殺はあまりにも例外的だが、自殺は「日の長さ」に比例する。

 今は冬だが、つまり「人間関係にいる時間の長さ」に比例するのである。 

 

 日本に自殺者が多い第一の原因である、「社会全体に道徳がない」という「アノミー」に加えて、特別な境遇にあった沙也加さんには周りの期待が集中しており、まさにミュージカル公演のために札幌に来ていて、「公演」という計り知れない「人間関係」から離れられる時間がなかった―。

 

 文化人類学者のレヴィ=ストロースが言うように、女性は「関係の宝」であり、まして沙也加さんは誰からも注目される松田聖子さんの愛娘であって、美人であり、声優として大成し、歌もうまく、才色兼備だったのである。

 

 たとえば大坂なおみさんも、神田沙也加さんと同じような状況にあって、自らの精神的な負担から、すみやかに実情を申し出て、大会をキャンセルするなどして、道徳のない人たちや道徳のないSNSの世界から距離を置こうとしていた。

 

 ただ神田沙也加さんの場合は、幼少から「松田聖子さんの娘」として真面目に育てられてきたため、大坂なおみさんのように素直に申し出ることはなく、高橋まつりさんのように頑張られて無理をしてしまったのだと思う。

 そして、「声が出なければ周りに迷惑をかけてしまう」という責任感に駆られたというのも大きいのかもしれない。

 

 つまり、結論としては、次のように言うことができるのではないだろうか?

 

「人は社会から切り離されるとき自殺をしやすくなるが、あまりに強く社会のなかに統合されていると、おなじく自殺をはかるものである。」(デュルケイム著・宮島喬訳「自殺論」中央公論新社)

 

  すなわち後者の、「社会に強く統合され過ぎている場合の自殺」であり、警察や軍隊における自殺である。

 無論、他の国では、警察や軍隊の大半は男性なので、なおさら女性は例外的であるが、デュルケムの言う「集団本位的自殺」の一つと考えることができるかもしれない。

 道徳のない現代日本における、特殊な「集団本位的自殺」である。

 

 ただ、神田沙也加さんの場合は、警察や軍隊のように自分の代わりができる人がいくらでもいるという状況とはまた異なり、この公演で、自分一人だけにかかる重圧が非常に大きかったことが予想される。

 

 

 

 (My Fair Lady 2021 Teaser Trailer/TohoChannel)
[決して悪いミュージカルではないが、『ダブルキャストで主演』の神田沙也加さんの負担だけがひときわ重いという他なく、道徳・倫理がなく、つまり、か弱い女性が抱える悩みや不安に対する救いがない成熟日本社会には『誠にふさわしうない催し物にて』。 
 まして、これだけ多くの著名人が商業的に動いている公演…。
 プレッシャー以外の何物でもない…。
 商業的に陽気に徹することだけを強要される「唯物主義」の日本の芸能界にあって、悩み、不安のための救いもなく…。ただ、ひたすら、無念としか言いようがない。悲し過ぎる…。 

 サッカーの世界なら、スーパースターが、いくら高額な年俸をもらっていても、いくらでも欠場できていくらでも代わりがいるけど、事この公演に関しては神田沙也加さんの代わりは「全くいない」。
 世界一注目されるプロサッカーの世界の何千倍も過酷。
 まして両親が超有名人であり、芸能界の引退も考えていた神田沙也加さんには、「ビッグになってのし上がってやろう」という若い頃の矢沢のようなモチベーションがあるはずもなく―。
 『ダブルキャストで主演』を完璧に演じ切らなければならないという、商業的で興行的な途方もない「責任」だけ…。
 「ブラック」とは違うのかもしれないけれど(俺はブラックだと思うけど)、考えただけでも空恐ろし過ぎる―と。

 こういうハードな公演を難なくやれるのは美輪明宏さんクラス…。ただ、美輪さんの場合は、公演自体を自分が全部プロデュースして、自分がやりたいことを自分のこだわりでやっていて、全部「自分が」能動的に仕切っているから、「ありもの」を受動的にやらされている神田沙也加さんとは比較の対象には「全く」ならないんだな。]

 

 

 いずれにせよ、社会の目や周囲の期待によって、神田沙也加さん自身の人生を生きることが難しかったことは容易に想像できてしまう。

 神田沙也加さんの公演や歌に対する思いの強さが、道徳のない社会においては、不安や悩みを解決する術もなく、極めて悪い方向に行ってしまったと。

 

 「お客さまに対して、中途半端なものを見せたくない」という、母親譲りのプロ意識がこうした悲劇を生んでしまったとも言えなくはないが、道徳のない日本社会において、竹内結子さんから続いてしまっている著名な若い女性の自殺という選択は、一時の失敗以上に悲しいものでしかなかった。

 神田沙也加さんの自殺に関しては、「社会全体に道徳がない」、「逃げ場がない」、「役割を演じつつけなければならない」という点で、全国で相次ぐ女子児童や女子学生の自殺に共通する点があるのかもしれない。

 また、デュルケムによれば、たとえば新型コロナによる社会全体の生活様式の再編も自殺が増えやすい原因であるという。

「社会集団のなかにはなにか重大な再編が生じるときには、…きまって人は自殺にはしりやすくなる。」(デュルケイム著・宮島喬訳「自殺論」中央公論新社)

 

 新型コロナによって、特に女性にとって、人と交流する場で大きな制限が加えられるように変革してしまった社会では、ことさら自殺をなくすために道徳が必要なのである。

 

 また、アノミーを克服して、日本社会を救うためには、三木大雲さんなどを除けば、道徳的に見て見るべきコンテンツの乏しいネットに多くの時間を割(さ)いてしまっている、未熟な社会の構成員である日本人各人が、反日、左翼、新自由主義者のあやかしにださまれず、ネットでは私のブログに訪問するなどして、道徳の必要性に気づいてもらうしかない。

 

 「日本のテレビ・ネットは悪しきものだ」と考えてもらう以外他にない。

 

 たとえば、神田沙也加さんの件と状況は違うが、木村花さんの件では、ツイッターの誹謗中傷者と、テラスハウス・フジテレビの両者は悪しきものであり、ネット、テレビのどちらにも著しく落ち度があり、道徳がなかった。

 そして木村花さんの件のような、目に見える悪意がなくとも、日本社会全体が、悪しきテレビやネットの影響によって、道徳がないか、もしくは道徳に否定的な人しかいないという状況なのである。

 

 そして、道徳を否定した今の日本社会が、このような特殊な自殺を生み出し続けているのは事実である。

 

 「日暮れて道遠し」であり、哲学者・道徳家である私の力が日本社会には全く及ばないばかりに慙愧(ざんき)の念に絶えない。

 

 神田さんも、松田聖子さんも、道徳の専門家ではないため、デュルケムが言うように、悩みや不安を解決できるような道徳は家庭ではなく、社会が教えるものである。

 

 しかし、積極的に道徳を排斥してきた日本のメディアには、私のような道徳の専門家には言論の場がないため、児童虐待やいじめ自殺、わいせつ教員など、この道徳が完全に破壊された社会衰退(アノミー)のただ中にある日本の成熟社会に添った流れの中の、道徳的解決策のないがゆえの、自殺という道を選ぶということになってしまっている。

 

 西部 邁(にしべ すすむ)は著書「国民の道徳」の中で、マスコミの戦後知識人について、次のように言っている。

「…彼ら(戦後知識人)の唱える個人主義や自由主義は他者への冷酷な無関心と張り合わせになっているといわざるをえない。
 そうでないとしたら、彼らは価値判断の問題に、いいかえれば道徳の問題に、死活の覚悟で取り組んでいるはずである。」(西部邁 著「国民の道徳」 産経新聞社 )


 西部の言うように、道徳のない日本のテレビ・マスコミ・ネットとは、無哲学かつ、「1+1=2」が理解できないくらいに頭が悪いために道徳の必要性が理解できないばかりに、アノミーによって、今日のような未曾有の社会衰退を引き起こしてしまい、神田沙也加さんの自殺に対しても、極めて冷酷であり、無関心であると思う。

 

 

 また、ヘーゲル哲学によれば、道徳は自由(自然、感覚)と大きく関連する。

 

「意識は、その本質からして、…自由な現実とむきあう存在であって…自然的な存在である。

…この自然が「感覚」と呼ばれるもので、…それは自分独自の確固たる思いや個別の目的をもっていて、だから、純粋な道徳意志…に対立するのである。
…この対立を押しのけて(自由=自然=)感覚と意識の絶対の統一を、作りだすことが肝要である。
 そうした統一こそ現実の道徳と呼ぶにふさわしい…。
 統一は、…自由な自然が…意識そのもののもとにあるから、…調和は行為する自己のもとになりたたねばならない。
 意識がみずから調和を実現し、もって道徳性を前へ前へと進めなければならない。」
(ヘーゲル 著 長谷川宏 訳「精神現象学」 作品社)


 そして自殺とは、一個人の自由の範ちゅうであり、四六時中その人を監視しない限り、誰もその人の自殺を止めることはできない。

 つまり、自殺は人間関係にいる時間の長さによっても増えるが、行為的には、まさに自由によって起こる。

 真の道徳とは、「電車でお年寄りに席を譲る」など、日本人が持つステレオタイプの「善をすべき」という道徳ではなく、たとえば自殺を考え、悩み苦しんでいる本人が、「自殺する自由」に対して、理論的かつ理性的な制限を加えることである―。
 
 無論そのためには不安や悩みを解決する道徳的な方途が必要だ。
 それが即(すなわ)ち、美輪明宏さんもよく言われる「理性」である。

 しかし、これもまた美輪明宏さんがよく言われるが、結局は「本人の気づき」でしかない。
 だが、私は美輪明宏さんに反駁(はんばく)するが、そもそも日本社会全体にすでに道徳という概念すらないのだ。

 見えないもの、無いものには気づきようがない

 私は美輪明宏さんの言う「闇夜のカラス」である。

 美輪明宏さんクラスの人たちがそろそろ高見の見物から離れて、普遍的な「道徳の必要性」について物を言わない限り、日本はダメなのかもしれない。

 

 日本では、道徳が芯まで破壊されて行って、女児や女子学生、若い女性が、著名人も含めて、どんどん自殺して行っている。


 なにゆえ、誰からも愛されていて、事実、才色兼備だった神田沙也加さんが死を選ばなければならないのか? 

 「一体何の罪があるのか?」と 
 「なぜ沙也加さんが、道徳を破壊した日本社会全体の罪を背負う必要があるのか?」と。
 
 道徳を志して早20年以上が経過して、伍子胥(ごししょ)の言う、「日暮れて道遠し」であり、私の何万倍もテレビに出て(私はゼロだから倍にはならないが)、80年代以降、テレビから道徳を排斥して竹中平蔵の旗振り役をしてきた田原総一朗さんの「屍に鞭打つ(伍子胥)」である。
 

 

 松田聖子さんへの心からのお悔やみを申し上げると共に、

 

 神田沙也加さんのご冥福を心よりお祈り申し上げます。