5月23日 4年ぶりに早稲田大学で開催された日本哲学会・総会に出席/日本哲学会の問題点 | 高澤 一成 「真の哲学者とは」

高澤 一成 「真の哲学者とは」

■哲学・社会学・社会思想に基づく「社会衰退の克服論」
■成人道徳教育(啓蒙)の必要性と、道徳と自由の両立

 

 

 

5月23日 4年ぶりに早稲田大学で開催された日本哲学会・総会に出席/日本哲学会の問題点

 

 

2023年5月20日に早稲田大学の戸山キャンパスで開催された日本哲学会に4年ぶりに出席した。

 

 

 

■日本の哲学界の終焉と私の使命について

 2020年、21年とコロナで中止になり、22年の九州大学開催を欠席して、今年、晴れてマスクのない大会開催となった。
 残念ながら、私の専門であるヘーゲルや、カント、ハイデガーの研究発表者に、直前の中止が相次いだため、さして重要ではないデカルトや、哲学ではない思想史、ジェンダーなど、あまり関心のない発表でお茶を濁さざるを得なかった。

 それでいて、プラトンの徳とカントの徳に関する重要な発表が、よりにもよって1限目で重なるなど、タイムテーブルの不手際にも悩まされた。

 これら二つの発表は重要なので後述する。
 

 また、毎年、学会が出版していて、大会前に会員に送付される書籍「哲学」も、メインで掲載されている大会シンポジウムの項が、近年は「昨年度の大会の内容」になってしまい、同書を大会に持っていく意味が全くないのも非常に残念だ。
 

 さらには当日の本大会の15時20分からのメインのシンポジウムでは、スマホの話を長く論じるなど、哲学のテーマでは全くなかった「戦争と暴力」(脳のしびれにより17時過ぎに途中退席)、また、翌21日の大会プログラムも、近年は2日めの日曜日の発表に一般研究発表がなく、「動物倫理とフェミニズム・ジェンダー問題」、「公募のあり方、応募者の負担を減らすために、写真欄の問題」(哲学のテーマでは全くなく、同時間帯に他のシンポジウムもなし)と、哲学そのものとは縁遠いプログラムが続いたため、日本の哲学界そのものが著しく劣化しており、深い失望しかなかった。また、学会の評議員や理事の選挙の手続きで、業者の不手際によるミスが起きたという。
 

 当日は、終日、脳にしびれがあって体調が悪かったのと、朝9時台までに西多摩から東京メトロの早稲田駅まで行くのはさすがに遠すぎたのと、前乗りしようにも、都心のホテル代が急激に値上げしていることもあって(それ以外にも精神的に相当落ち込むことが多々あって)、決して充実した有意義な大会だったわけでは全くなかった。
 だが、そんな中でも、古代ギリシャ哲学の第一人者である納富信留氏は、WCPやFISPに向けて尽力されているようだった。

 ただ、私は日中の哲学交流に急激に舵(かじ)を切っている日哲会に対しては、「なぜ習近平はノーベル平和賞を受賞した劉暁波を殺したのか?」という人類史上で最も悲劇的かつ致命的で哲学的な難問を直視すらしない限りは、訪中することなんてありえないが…。

 

 

 

 

 

■「日本学位学会」に過ぎない日本哲学会の無意味さについて

 

 

 哲学を学ぶことに加え、哲学をこの国の社会に具体的に役立てることや、自らの新しい哲学の構築のために哲学活動を続けている市井(しせい)の哲学者である私が、教授職や大学院生ではないため、哲学を専攻する大学生から「哲学者ではない」とバカにされる反面、哲学を専攻する学会員にとっては、学位を取ること自体が目的となっており、学会員の大半が、9割9分社会に還元できないような、あるいは重箱の隅をつつくような、非常に視野の狭い領域の哲学しか研究しないが、私は主要な哲学全般に加えて、社会学や社会思想などもカバーする、確固として卓越した哲学者であり、たとえば三島由紀夫は、大学の文学部の教授職や大学院生ではなかったし、YOSHIKIもまた音大の教授職や大学院生ではない。

 

 アカデミズムのためだけの学会、つまり医学部や法学部の学生と比べれば、公金を使って哲学にも関わらず、中身のない空虚な世間的な形式だけの学位を取るためだけの、自己満足を楽しむだけに堕しており、もちろん学会の若手研究者の育成を肯定的にとらえることもできるが、哲学は考古学や歴史学ではなく、すべての学の中で最も重要な、人間の精神や社会に不可欠な学であるという気概が微塵もない体たらくぶりである。

  

 (「哲学者 高澤一成」と、私のアメブロかnoteのリンクが記載していれば拡散は大歓迎です)
 

 

 まずこちらの図を見てほしい。

 社会学で最も重要とされるデュルケイムが「…一見自発的に望まれたかに見える能力ですら、じつは社会が促して、はじめて個人が求めるのであり、個人は社会が命ずるがままにこれを求めるのである。以上述べたところによってみても、教育学者にとって、心理学だけに頼る方法がいかに不充分なものであるかが、理解されよう。」(道徳教育論)と言うように、すべての社会衰退を即座に解決できる哲学が、それに対して周知のように今日まで完全に無力であり、むしろ社会衰退を深刻化させてきた、道徳を否定するためだけにしか存在しないようなフェミニズムやLGBTなどの左翼イデオロギーや心理学の後塵を拝することがあってはならないのである。

 

 ソクラテスより端を発する「1+1=2」の普遍的な哲学の道徳に比べて、心理学とは、見た目やパーソナリティー、体質、境遇など、人それぞれ違うのだから、人の数だけ精神病があって、普遍的ではなく特殊的で、かつ外部観察的であり(=科学、悟性、唯物主義)、社会衰退を全く解決できないことが戦後70年の日本で証明されている。
 一方で哲学など人文諸学における道徳とは、ヘーゲルやデュルケムの言うように「社会性」であり、人と社会との関わり方なのである。

 それはアリストテレスの「人間は, ポリス(≒社会)的動物である」という格言にまでさかのぼる。

 これは、人間は社会を離れて生活することは不可能であり、人間性は社会生活のなかでつくられることを説いたものである(「精説 社会・倫理」数研出版)

 

 また、道徳について語るのであれば、イスラム教の倫理五分法で善と悪とをきちんと整理して理論的かつ普遍的に語られなければ、子どもの戯れ言と同じで、意味がないのである。

 

 普遍的な知を探求する者にとって、近年の哲学会の「話し合いをすればいい」、「一つのテーマについて考えることをすればいい」というだけで、現実的な理論の展開や、社会的な発展を見出すことのできない学会は、単なるオフ会であり、一言、「退化」という他なく、お粗末極まりない。

 なぜなら、アメリカのハーレム地区で、銃を所持する若い麻薬の売人も、話し合いをしたり、一つのテーマについて考えたりするから。

 その辺の左翼の団塊世代の多い学会の、哲学に対するナメた姿勢が、今日の日本の社会衰退の元凶であり、日本の哲学そのものの衰退というか「不在」なのだと思う

 つまり今の日本哲学会は①総合的、②進歩的、③社会的な視点に著しく欠けるのである。

 総合的とは、哲学会の哲学者も、資格が必要な医者や弁護士のように、哲学の分野の総合的な基礎知識や教養が必要であるということ。
 進歩的というのは、日本社会を蝕(むしば)む児童虐待などの社会衰退に微塵も効果がないのに、メディアなど社会の中心に居座って哲学を排除、攻撃して社会衰退を悪化させる心理学、民主主義を無視して外国とは異なる道徳のないSDGsや、LGBTを押し付ける左翼マスコミに対する批判的な視点、さらには2019年にノーベル化学賞を受賞した吉野彰さんが「一見、科学技術が非常に進歩して、全てのことがわかりましたと。多分、そんな受け取り方してるのではないかと。若い方は。実際はとんでもなくて、我々人類、自然現象の中で本当に理解しているのは1%か2%くらいだと思う。いくら科学技術が進歩しても、まだまだ知れてるんだよ。まだ98%、99%、未知の、哲学の状態で横たわってる」と述べたように、スピリチュアルやUFOなど、超科学的な視点である。

 

 

  

 (日本上空に巨大な傘型UFO? / テレビ東京 2023年4月21日「本当にあった㊙衝撃ファイル」)

 

(18時過ぎ、さいたま市の上空。また変なの飛んでいる #未確認飛行物体 #凧 #一反木綿 #エイ
/ ツイッター  AWSGY @ygsw 午後6:12 · 2023年5月12日)

 

 どちらも日本上空での、不可解な傘型の巨大なUFOの母船?と、生き物のように動くエイ型のUFOか未確認生物か自然霊?。

 どちらも極めて不吉な兆候にしか私には見えないが、道徳なく、哲学なく、ツイッターで同じ国民同士で誹謗中傷して、中絶大国で、児童虐待しまくっている堕落した国だから致し方ないのか…。

 


 日本哲学会に最も顕著な、重箱の隅をつつくアカデミズムは視野が狭く、たとえば、日哲会の研究者は、道徳をテーマに、たとえばデカルトなど、特定の有名な哲学者を取り上げて発表する場合、全く誰も知らないようなデカルトの近現代の研究者や後世の思想史家を取り上げるが、他の五万といる道徳を重視する著名な哲学者や社会学者、社会思想家、三大宗教、道教などについては微塵も関心がないため、道徳それ自体の発表としては意味がないものになっている。
 

 そして、日哲会の会員が道徳をテーマにして取り上げる古典の哲学者のチョイス自体が私から見れば哲学を全く知らない人たちそのものであり、センスがないのである。

 

 たとえば、デカルトやスピノザの道徳を取り上げるなら、ソクラテスやカントなど、倫理科で習うような哲学者以外にも、大哲学者のヘーゲルと、社会学で最も重視され、レヴィ=ストロースに多大な影響を与えたデュルケムの道徳の知識は必須になってくる。それに「憐み」の道徳で知られる社会思想家のルソーや、「道徳的非難」と「道徳的報復」と「道徳的刑罰」とを強調する、「自由論」で有名なJ.S.ミルも重要かつ必修だ。

 当然、「赦(ゆる)し」の道徳で有名な、キリスト教を作った聖パウロも重要であるし、私から見れば日哲会の非常に多くある道徳をテーマとした発表は、去年の九州大学の大会シンポジウムも含めて、「スタート地点にすら立てていない」のである。

 

 


 哲学においては門外漢である故・大川隆法ですら、ソクラテスの道徳の普遍性について言及したように、普遍的な道徳を広めていくことがこの国では求められているから、道徳について大したことを全く言っていないデカルトやスピノザだけの道徳に注目して、他のよっぽど普遍的で重要な道徳を説いている諸哲を全く知らずに学位だけのために哲学を志すのも、自己満足と人生の時間の無駄でしかないとしか思えないのである。
 

 デカルトやスピノザについては道徳ではなく、当然だが、彼らの哲学について研究するのは有意義である。たとえば、スピノザの論文を書くのであれば、道徳についてはあまり普遍的なことは言っていないので、道徳ではなく、必然や「絶対無」としての神など、いくつかの共通する概念がありながらも、一元論と二元論の決定的な違いがある後世の大哲学者であるヘーゲルとの関連性で論じていくことが重要である。
 

 つまり著しく視野が狭く、道徳について全く的を射ていない研究発表に対しても、誰も何も知らないから、誰も何も言えず、発表をスルーしたり、賞賛しているため、日本哲学会自体が、ソクラテスが登場する以前の古代ギリシャのような、相対主義の混乱に陥っているのである。

 まぁ、もっとも、学会員1000人程度の日本哲学会に対して、全く不要な日本心理学会が7,800人以上もいるのだから、日本人の哲学や道徳に対する無関心と怠慢と、年々悪化する社会衰退、さらには日本人の誰一人もが、全くこの現実を理解「すら」できていないことそれ自体が、引いてはこの国の消滅を暗示している現象に相違ないが―。

 

 日本だけで年々激増する児童虐待で、幼い子どもが死んだり、重度の障害を負ったり、性的虐待で一生消えない傷を負っているのにも関わらず、日本人が、日の丸・半導体の急激な衰退と時を同じくして、なぜこうも勉強嫌いで、洞察力が皆無で、9割9分の浅はかな人たちが、哲学なしで済ませようとするのか全く理解に苦しむが、最近はバカ過ぎる日本人が、保育士による園児の虐待のことを、道徳の必要性を隠すために、「不適切保育」などと報じているが、英語では"Child Abuse(児童虐待)"であり、日本の大人に道徳が必要という普遍的な真理だけは何一つ変わっていないのである。