何か読めば、何がしか生まれる

純文学からラノベまで、文芸メインの読書感想文です。おおむね自分用。

大槻ケンヂ『サブカルで食う』の感想


(2019年4月読了)

 副題には「就職せず好きなことだけやって生きていく方法」とある。

 少し疲れて古本屋を訪れた際、ふと見つけて購入し、その足で昼ご飯を食べに行ったカレー屋で読んだ。筋肉少女帯で知られる大槻ケンヂ氏が、自身の経験を元にサブカル界でお金を稼ぎ食べていく方法について綴った本である。
 氏の想定する読者は、「サブルなくん」「サブルなちゃん」――“「サブカル」とかって呼ばれるようなことをやって生きていけないかなとボンヤリ思っている「サブカルなりたいくん」”(白夜書房版『サブカルで食う』p.10)――だという。

 大槻ケンヂ氏と言えば、上述の筋肉少女帯の中心人物で、私も世代的にその影響を受けていておかしくないはずだが、残念ながらそれほどは受けていない。「もう少し接しておけばよかったかな」とは、大学生の頃に酔っぱらった先輩がカラオケで「踊るダメ人間」を熱唱しているのを聴いた時に抱いた思いである。

 ミュージシャンとしての氏からは影響を受けなかったが、氏の著作は1冊だけ読んだ記憶がある。『行きそで行かないとこへ行こう』という旅エッセイ(?)である。何となく手に取ったのものだったが、面白かった。私が旅に出る際の目的地や旅程の考え方の基準の1つには、この本があるような気もする。氏には何となく怖そうな印象を抱いていたけれど、それを払拭するに足る本でもあった。

 面白かったが他の本に手を伸ばすことはなく、そのまま長い時が過ぎた。それが、なぜ再び氏の本を再び手に取ったのかは、よくわからない。
 『サブカルで食う』という端的な表現が気になったのか、みうらじゅん氏と同じように「何をやって生きているのか今ひとつ分からない人」がその自家薬籠中を開陳してくれていそうな本ということで興味が湧いたのか。
 あるいは、私自身フリーの人間で、サブカルなのかカルチャーなのかよく分からない領域で暮らしているので、「参考になるかもしれない」と無意識に考えたのかもしれない。

 ともあれ、久しぶりに氏の文章を読み出した。まずはその概要を示したい。
 ちなみに本書は最近になって角川文庫に入ったが、私が入手したのは白夜書房版(上掲の通り、氏の本としては随分さっぱりした表紙だと思う)なので、その点ご了承いただきたい。

概要

第1章 「サブカル」になりたいくんへ

 「サブカル」は、歴史的な背景のある「サブカルチャー」とは違う。もっと軽いものである。表現意欲だけが前面に出て、色々やっているうちに成り立ってしまったのが「サブカル」の人々である。かつては「アングラ」と言われ気味悪がられたが、そこに笑いを加わることで間口が広がったと言える。
 サブカルで食うには、才能・運・継続が必要である。

第2章 自分学校でサブカルを学ぶ

 自分(大槻氏)は少年の頃は身体が弱く、それでアングラに出会った面がある。中学になると、机の落書きを介して知り合った友人と漫画を描いていたが、そのままバンドに取り組むこととなった。ライブハウスで知り合った人々は刺激的だった。
 学校では冴えなかったが、その代わりの「自分学校」として、大量の映画を観て、少女漫画を含む漫画や小説を読みふけり、ライブに足を運んだ。

 しかし、そうしたものを受容するだけの「プロのお客さん」になってはならない。完成度がいまいちでも、バカになって自分の表現を出すべきである。
 サブカル的な仲間に出会いたいという気持ちを叶えてくれたのは、深夜ラジオであり、投稿雑誌だった。雑誌の編集者に電話した際には、テンションが上がり過ぎており、引かれた。

第3章 インディーズブーム~メジャーデビュー

  インディーズブームという幸運によって、自分もライブハウス周辺では少し有名になった。が、私生活では大学受験に失敗し、デザイン系の専門学校に通い始めるもドロップアウトする。アルバイトを転々とするものの身につかず、実質的にはニートだった。

 そうこうするうち、筋肉少女帯はメジャーデビューが決定する。そのことを親に伝える際は、不意打ち的に切り出した。思考停止状態に陥った両親は、とりあえず了承してくれた。
 ラジオ番組『オールナイトニッポン』第1部に抜擢されたが、勝手が分からず何もできなかった。しかし、そこから掴んだチャンスもあったので、何もできなくても諦めてはいけない。

第4章 「人気」というもの

  人気が出るということは、突然に多くの人から愛と憎しみを受けることである。すると、よほど野心がある人以外は、自分が何なのか分からなくなる。
 そうした時、人間は根本的には悪であるという性悪説的な捉え方をしつつ、良い面も見るようにするとよい。また、ネットでの自分検索(エゴサ)はしない方がよい。

第5章 サブカル仕事四方山話

  メジャーデビューはしたが、バンド以外の仕事にも「社会科見学」のつもりで手を広げた。テレビでも”怖くないロッカー”としての枠を得ることができた。テレビに出たい人は、自分がどういうタイプなのか考えるとよい。

 映画の現場は苦労が多い。天候や集合時間、初対面の役者との待機など。制作スタッフたちも一筋縄ではいかない。原作者として映画に関わったこともあるが、大変だった。
 右も左も分からず書いた初めての小説『新興宗教オモイデ教』は意外と評価された。「とりあえずやってみる」のは大切だと言える。小説を書くには、ラブコメ映画を観て物語の構成を理解するのがおすすめである。散文詩から書き始めるのもよい。継続し、つじつまは最後に合わせればよい。

新興宗教オモイデ教 (角川文庫)

新興宗教オモイデ教 (角川文庫)

 

 エッセイの場合は、目標とする著者の書き方――視点や文体を真似する。ネタは外に出て拾ってくる。作詞については、まずタイトルを決め、サビには関連した言葉を持ってくる。筋肉少女帯の「これでいいのだ」は冤罪の歌で、「日本印度化計画」は革命の歌である。

 何かを表現することは、相手のニーズを受け入れることでもある。「サブルなくん」「サブルなちゃん」は反感を感じるかもしれないが、自分を裏切らずニーズに応えた表現は可能である。ゲームのようなものと捉えるとよい。場合によっては「何でもオッケー」よりも、そうした制約があった方がやりやすいこともある。

第6章 サブカル経済事情

 事務所と契約はよく選ぶべき。いい加減な事務所は本当にいい加減。自分が所属した3つの事務所はすべて潰れた。事務所に所属するなら、月給制+歩合がよいと思う。
 サブカルな人は、色々な形で収入がある。本やCDの印税、ライブやイベント、テレビ出演など。それ以外の仕事の報酬額は「ランダム」。金額よりも、充実できたか否かの方が重要になってくる。

第7章 人気が停滞した時は

  筋肉少女帯は1999年に活動停止となり、タレントとしても滑ってきていた。人気が下がるというのは、やはりしぶい。意地になって『グミ・チョコレート・パイン パイン編』などの小説執筆に没頭した。

 落ち込んでいる時には陰性なものに目を向けるべきではない。特にドラッグは絶対にダメ。思い切り見栄を張るのはよいかもしれない。自分は掟ポルシェをポルシェに乗せる羽目になったけれど。

 ライブハウスからやり直し、得るものはあったが、三度所属事務所が倒産した。しかし、ここで筋肉少女帯の再結成という話が出てくる。

第8章 筋少復活! それから

  再結成した筋肉少女帯は大型ロックフェスにも出演。観客のニーズに応えられた。また、再結成以前の仕事から繋がって制作したアニメソングがヒットし、かつてのロックのように盛り上がるアニソンの世界にも関わることができた。

 ライブは、緊張して当たり前。失敗は付き物だが、観客は敵ではない。観客席に向ける視線などにも気を配る。MCには鉄板ネタというものが存在する。
 もしもライブで大失敗してスベってしまっても、ウッドストックでのジミ・ヘンドリックスのように、伝説になる可能性だってある。

第9章 それでもサブカルで食っていきたい

  フリーランスとは自由だが、その自由さが辛いという面もある。これに耐えるには、「自分学校」で培った「教養」が必要である。
 上手くできない自分だからこそ、他人に担ぎ上げられてやってこれた。若くして亡くなった友人たちもモチベーションに繋がっている。

 表現活動を仕事にすると言っても、必ず成功できるわけでもない。だから3回まで、「止め時」を用意しておくのもよい。もしも、それらを超えて止められなかったら、そのままずっと生きていけばいい。

感想

 著者のこれまでの実体験と、サブカルで食うためのノウハウの説明がザッピングされている。そのため純粋にノウハウだけを知りたいという読者は、少し戸惑うかもしれない。
 とはいえ、口語的な文章は読みやすく、全部を読み通すとしても大した苦労ではないだろう。私も著者の半生をモデルケースとして読みつつ、自分に必要だと思うところはメモしつつ読んだ。

 体験とノウハウが混在する構成は、以前読んだ、みらうじゅん氏の『ない仕事の作り方』と同等の作りと言えるだろう。そういえば本書にも少しだけ、みうら氏についての言及がある。

 そして、語られている方法論にも、みうら氏の本との共通点がかなり見いだせると思う。
 著者の言う、サブカルで食うための条件とは「才能・運・継続」であり、みうら氏も「「ない仕事」を成立させるためには、言い続けること、好きでい続けることが重要」としている。
 これは、当然そうなると言うべきだろう。同じようなところを目指した両者なので、そこに至るやり方も重なる部分が出てくるのは必定である。逆に言えば、両者が条件として明言する「継続」は、よほど重要であるということになるだろう。

「自分学校」についても、みうら氏の書いていることと共通した部分が大きい。いわゆる学校教育のカリキュラムではない、音楽や映画、本などを、自発的に取り込んでいくことが大事だということである。
 この「自分学校」はサブカルな大人になるために必須な過程だし、サブカルな大人になって「自由」をもて余した時には、そこで培われた「教養」が重要になってくると、著者は大真面目に書いている。

 私自身を顧みると、10代から20代はじめまでに十分な「自分学校」を実践できたかというと微妙なところだし、そもそも自分はサブカルな大人にはなっていないと思う。
 しかし、とりあえず積読が膨大にあるおかげで、フリーゆえの自由さを「時間の牢獄」とは感じていない。新型コロナウイルスで自宅に居ることを余儀なくされたが、特にストレスもなく過ごせた。
 著者とは少し違うかもしれないが、貯蔵した積読が「自分学校」に相当するのではないかと思う。加えて言えば、私が積読を溜め込むようになったのは20代の後半になってからである。
 ということは、「自分学校」への入学資格は何も思春期に限定されていないということである。いくつからでも興味のある領域に、軽はずみに踏み込めばよいのではないかと、この本と私自身の来歴を考えて思った次第である。

 ところで、白夜書房版の裏表紙には「15万円」「情熱」「自習」という「サブカルで食っていくための3J」も記されている。こちらは、本文の内容から、担当編集が作り上げたものと思う。
 「情熱」は「継続」とほぼ同義で、「自習」とは「自分学校」を指すだろう。残りの「15万円」は、後述する巻末対談の内容を受けてのものだと思われるが、「実家で月15万円あれば、ひとまず暮らせる」というのは、私も同意できるところである。
 もちろん生活上は諸々あるわけだが、住居費などを度外視し、自分1人が生活することを考えると、月15万円という金額は、そこそこ文化的に過ごせる適度な数字に思われた。

 最後の章で挙げられている「悔い改めて遊んで生きちゃう」という文句は、糸井重里氏と橋本治氏の対談集の表紙に書かれていたものらしい。この言葉自体は、私にはそれほど響かなかったのだが、ここで糸井氏が出てくるのが興味深い。
 みうらじゅん氏も糸井氏を「師匠」と呼んで結びつきが強いことを考えると、糸井-みうら-大槻という“サブカルな大人ライン”とでも言えそうな繋がりが浮かんでくる。もちろん、細かく言えば三者のスタンスは異なっているだろうけれど、その差異や、世代的な要因などについて考えてみるのも面白そうである。

 また、巻末には、大槻氏とヒップホップ・グループ「ライムスター」の宇多丸氏による対談が収録されている。
 その内容は上記の概要には記さなかったが、ふるったものであることは間違いない。ここでも「実家と月15万」という結論が繰り返されており、身も蓋もなくて思わず笑ってしまった。

 ノウハウ本としては概ね以上のような感想である。それ以外の部分についても少し触れよう。
 苦労を重ねたためか、生来のものか、あるいは過去の自分を重ねるがゆえか、「サブルなくん」「サブルなちゃん」へ向けた著者の書きぶりには、優しさが滲む。教育的ですらある。そうした温厚さとロックが両立できるのが、大槻ケンヂという人の偉大さではないかと思った。
 また、著者自身は「自分学校」で映画を主専攻としたようで、何かと映画への言及が多いのも本書の魅力と言えよう。とりあえず、『エル・トポ』と『ミツバチのささやき』は観てみたいと思った。 

ミツバチのささやき (字幕版)
 

 現在こうした本を刊行するのであれば、趣味の動画をアップロードして収益化もできる「You Tube」などのツールを避けて通れないだろう。独自に積み上げたコンテンツで食う――生活する人が出始めている。
 本書はそうした方面についての記述が全くなく、その点はもの足りない。が、2012年初版の本ならば致し方ないかもしれない。それがサブカルであろうとなかろうと、自分が好きなものに一生をかけ、それで生きていこうとする人は 一読してよい本と思う。

 

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