黄色い家を読んで以来、生き辛さと、単純な頭の良さ、の関係について敏感になってます。
この小説の中でも、文字がきちんと書けない人物が描かれます。
そして、その人物が、努力でそれを克服しようとするのですが、そのことについて、果たしてそれが正しい処置の仕方なのか、とい問いかけがされます。
近眼を努力して治そう、とする人よりも、単純にメガネに頼る人の方が圧倒的に多いでしょうし、足をケガしたりすると、杖に頼ります。
それと比べてどうなの? と問いかけられます。
この人物は、悪魔のような女性に騙され(って、ワタクシの主観ですが)、友人、その恋人を巻き込んだ大きなトラブルを起こします。
そんな事件の起こる数日間の話をそれぞれの人の心の動きを丁寧に描いた作品と言えるのでしょうが、そりゃも~、一言で言うとメンドクサイです。
もう、それは、生きるということそのものがメンドクサイ、ということなんですね。
特にこの小説で感じたのは、人との関わりです。人に頼まれ、人に頼られ、人を頼り、人との距離を探る。
もう、めっちゃメンドクサイ。
ワタクシは常々、人との距離がわかりません。どこまで頼っていいのか、迷惑をかけていいのか、全くもって分らないって感じでしょうか。
そして、そういうことを考えるのがそもそもメンドクサイんですよね。
嫁さんも同じタイプだったので、嫁さんの気持ちは良くわかりました。ところが、ワタクシは、いわゆる、上辺の付き合いは結構得意たったので、ご近所さんとか、町内会とか、そのあたりの交流は一手に引き受けておりました。
踏み込まない関係、と割り切ってしまえば、めちゃくちゃ楽なんで。
しかし、依存症のワタクシは、ある一線を越えると、とたんに距離感が分らなくなるんですよね。
この小説を読んで、いかにこの距離感が自分を守ってきたのか、ほんとによく分かった気がします。関わらなければ傷つかないけど、得るものもない。
もう一度、そこに切り込む気力なんてないし、そもそも、生きる、ということそのものがメンドクサクなってきたりしてますもん。
ま、元気だせ。