EEKの紀行 春夏秋冬

紀行&散策を画像を交えた紹介です

日本最強の城の一つ伊予松山城

2024年06月01日 | 新たに発見好古揮毫石碑 魚沼市で

令和6年4月29日午後7時30分からNHK総合TVで 放映された「日本最強の城スペシャル」の一場面。

画像は、TVに放映された画像をデジカメで撮影、縁を切り取った画像。

TVに放映された画像をデジカメで撮影したもの、縁を切り取る前の画像。

令和6年4月11日松山観光コンベンション協会事務局からNHK番組の「あなたも絶対行きたくなる日本最強の城スペシャル」制作スタッフから放映に使用したい画像があります。使用許可をお願いします・・との連絡があった。

その画像は、私が以前「松山観光コンベンション協会」のHPに掲載した画像で、西日本最高峰の石鎚山1982mを背景にした伊予松山城天守であった。

NHKさんは、使用をさせて頂けるのであれば原画が欲しいとの由、原画を送った。放映は4月下旬頃だとはっきりした放映日時の連絡はなかった。

これからの画像は、原画である。

NHKには数種類の画像を送った。

石鎚山は、松山から観るのが一番綺麗に観える。

使用した機材は、カメラ:CANON 7D

レンズ:CANON ZOOM EF100~400m ZOOM

伊予松山城は、松山市のほぼ中心部の標高132mの勝山山頂に位置し天守最上階は160mあり全国にある城(現存天守・復元天守・復興天守・外観復元天守)平山城・平城・山城の中で伊予松山城は、日本三大平山城の一つ(津山城・姫路城・伊予松山城)の内一番高い所に本丸がある。

少しレンズを引いて撮影すると松山の町並みが視えてくる。

松山市の人口は、令和6年5月1日現在 499,930人、中四国で三番目の人口を有し広島市・岡山市に次いでの自治体で、四国では一番の人口を抱える街である。

西日本最高峰の石鎚山1982mを背景に日本三大平山城・日本三大連立式天守を誇る天守を撮影出来る場所は、一箇所しかない、この撮影場所を見つけるのに大変な苦労をした。

撮影に行ってみると先人たちはスタンバイしていた。

撮影の方角から考えると、松山総合公園と誰しも思い行ってみると全然場所違いであった。

道は、柑橘農家さんが使う地元土地改良区が管理する農業用道路のような道で撮影場所も、ちょっとした車を止める広場を借りてである。

その場所から見る松山城はこんな感じで、400m望遠レンズ以上でないと頭に描いた画像は撮れない。

そしてなにより肝心なのは、気象条件である。

大気の水蒸気の少ない季節、石鎚山に冠雪があること、石鎚山がくっきりと見えること。

我が家の玄関から真正面に石鎚山が見えるので石鎚山の状況を見て撮影場所に出かけていた。自宅から撮影場所までバイクで20分程である。

伊予松山15万石の城下町に夜の帳が降りる。

撮影場所は、道後温泉の裏山「瀬戸風峠」から撮影。

街の中心に見える山が松山城本丸のある勝山132mで、その奥に見える海は瀬戸内海「伊予灘」である。

伊予松山城天守は、江戸時代に築城された一番新しい天守・安政元年である。

撮影場所は、松山市畑寺町で四国八十八ヶ所第50番札所「繁多寺」の南側からである。

初代藩主加藤嘉明が築いた天守は、第3代藩主松平定行の時代(寛永19年)三層の天守に改築された。その後天明4年天守を含む本壇建造物は落雷で消失、以後70年間天守を含む本壇には建造物は現存しなかった。

現在の天守は、安政元年に再建された江戸時代では一番新しい天守である。

大政奉還され、幕府は無くなり、天皇を中心とした新政府が施行され、明治6年廃城令発布された。江戸末期193の天守があったが全て廃城命令であった。

いち早く伊予松山から明治新政府、大久保通卿に対して存続の上申が行われ、木戸孝允卿から存続の許可が下された。その許可書は現在愛媛県立図書館に大切に保管されている。

明治新政府は、松山から城の存続願いが上申されたのを切っ掛けに18ケ所から城の存続願いがあり、政府は、18箇所の城の存続を決定した。伊予松山城を含め19城であった。

伊予松山城天守は、再建から14年しか経過しておらず、廃城令でハイ分かりました・・で取り壊すのは忍び難い事で(新築して14年まだ木の香りが残る)

伊予松山藩の財政は厳しい中やりくりして再建した天守是非残してほしかったと思う。(存続の理由は、市民の憩いの場所としてが・・おおきな理由であった。)

明治新制は19城の存続を許可した。先の大戦で消失した5城と不審火で消失した1城が欠落し今は、下記の天守が現存している。

丸岡城・松本城・犬山城・彦根城・姫路城・松江城・丸亀城・宇和島城・備中松山城・高知城・弘前城・伊予松山城、これが現存12天守である。

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松山の偉人伝その2 元祖二刀流 影浦 將

2024年05月19日 | 新たに発見好古揮毫石碑 魚沼市で

MLB(メジャーリーグベースボール)、今年からロサンゼルスドジャースに移籍した大谷翔平選手は、二刀流として(今年は打撃に専念・来年から投手としても)活躍するだろう。

さて

野球王国四国の伊予松山には戦前から二刀流の凄い選手がいた。野球界の偉人である。

その人は「影浦 將」である。

プロ野球選手、二刀流の元祖 影浦 將は、温泉郡伊台村大字下伊台(現・松山市下伊台町)で材木商を営む家に5人兄弟の長男として大正4年7月20日に誕生した。

大正4年は、現在の全国高等学校野球選手権大会(夏の甲子園)にあたる全国中等学校野球第1回大会が開催された年であった。影浦は、幼い頃は小柄だったため、野球ではなく剣道に打ち込んでいた。

甲子園の強豪校、松山商業学校(現、県立松山商業高等学校)に入学後も剣道をしていたが、2年生の時、野球部の監督に誘われて入部、すぐに頭角を現し、昭和6年春夏連続で甲子園に出場、翌年春の甲子園で優勝、夏の甲子園で準優勝をした。(当時、中等学校は5年制であった)松山商業学校を卒業後は立教大学に進学し、1年生ながら公式戦において打者として長打力を発揮する一方、投手として4勝1敗の好成績を残し、立教大学の優勝に貢献し、二刀流の出現となった。
立教大学在籍中は、帰郷する度に母校・松山商業学校へ出向き、後輩らに1人1時間の猛ノックを浴びせ守備力アップに貢献した。

このノックを浴びた千葉茂は「景浦が来たと聞いただけで身体が震えた」という、後の巨人軍の名二塁手千葉茂の誕生であった。その後千葉は、川上巨人軍監督誕生とともに近鉄パールズの監督として移り、名称を千葉茂の愛称(猛牛・バッファロー)を使い、近鉄バッファローズと改称し昭和34年11月28日監督に就任した。しかし成績は上がらず、昭和36年10月30日監督解任された。

平成14年12月9日逝去享年83歳であった。

(近鉄バッファローズ 現・オリックス・バッファローズである。)

ちょっと寄り道をします。

松山商業は、一時期愛媛県立松山東高等学校商業科の時代があった。

昭和24年・学制改革で 愛媛県立松山東高等学校と改称し、県立松山商業学校を統合、商業科を設置した。

これは、GHQ司令部から学制改革の一つとして総合性の体制が求められ普通科と職業科を併せ、そして男女共学となり総合制の新制高等学校設置が勧められた結果であった。

昭和25年(第32回)夏の甲子園大会では松山東高等学校は北四国代表として出場し優勝した。決勝戦は南四国代表の徳島県立鳴門高等学校で12対8であった。

選手の構成は、普通科が3人、商業科の選手が6名で、池田投手は普通科の選手で、卒業後は中山製鋼硬式野球部に入部入社した。

優勝した松山東高校の打順守備位置は次の通りであった。

1[中堅]柏木達夫(3年)2[左翼]森平和(3年)3[投手]池田勉(2年)4[捕手]宇野秀幸(3年)5[遊撃]土居国彦(3年)6[二塁]山本忠彦(3年)7[一塁]岡本厚(3年)8[右翼]水口峰吉(2年)9[三塁]大川彰(3年)で、普通科の選手が3名池田投手と宇野捕手とあと一人は忘れました。6名が商業科在籍の選手であった。

太文字の選手が普通科(松山東高)でその他の選手が商業科(松山商業)であった。

この時期、松山市湊町3丁目にある「松劇」映画館はニュース映画専門で放映していまして松山東高校対鳴門高校の決勝戦を見に行った。・・懐かしい限りです。

話がそれましたが本題に帰ります。

池田投手は温泉郡久米村立久米中学校出身で、私も久米中学卒業生で妹さんが私の同級生である。

性格は温厚で優しい女性でした。中学校の修学旅行の時(旅行先は京阪神)松山(高浜)から客船で神戸港に上陸、その時神戸港に池田投手が出迎えに来られていた。

そして挨拶された。中山製鋼の池田です。何時も妹がお世話になっております。これからもよろしくお願い致します。皆さん楽しい思い出に残る修学旅行をされて下さい。・・と流石全国優勝した投手だなと感心した事を覚えている。(私達時代は松山市と合併して松山市立久米中学校であった。)

参考までに:昭和30年5月1日、町村合併促進法により温泉郡久米村は松山市と合併した。

池田投手は我々久米中学卒業生の偉大なる大先輩である。

昭和26年9月8日、サンフランシスコ講和条約が締結され、日本の主権が回復昭和27年1月15日、愛媛県立松山商業高等学校は独立した。

話がそれましたが本題に帰ります。

「画像は、平成15年11月7日、知人が居る倉敷市に行った時阪神タイガースが秋季キャンプを倉敷市のマスカット球場で行っていたのを見学した。その時、記念に購入したオリジナルグッズである。」

平成15年(2003年)の阪神タイガースは、昭和60年以来18年ぶり8度目のリーグ優勝に輝いたシーズンであった。昭和10年12月10日大阪野球倶楽部として創設され、来年(令和7年)球団創立90周年を迎える。

ライバルの読売巨人軍は今年、令和6年が創設90周年である。(創立は昭和9年12月26日)である。

さて、

景浦は、大学卒業を待たず、昭和11年2月28日に立教大学を中退し、松山商業の先輩・森茂雄監督に誘われ、大阪タイガースに入団、タイガースの初代4番バッターとして活躍背番号6を着け大活躍した。

監督の森茂雄から「野球がダメなら阪神電鉄社員として面倒を見るから」と勧誘された。

そして巨人軍の名投手・沢村栄治と名勝負を繰り広げ、昭和12年に首位打者として打点王、翌年2度目の打点王に輝いた。また、投手としても活躍し、昭和11年の防御率0.79は歴代2位の記録である。プロ野球草創期の伝説的な選手として活躍し、昭和40年、野球殿堂入りし、東京ドーム敷地内にある鎮魂の碑に景浦將の名前が刻まれている。

昭和59年には「日本プロ野球50周年記念切手」が郵政省から発行された際には、景浦の写真を元にしたデザインが採用された切手が発売された。

昭和59年には「日本プロ野球50周年記念切手」が発売された。

兎に角、日本プロ野球史上に残る伝説の選手で、投手として最優秀防御率と、打者として首位打者を両方とも獲得したことがある唯一の選手で、 戦前のタイガースを支えた元祖スラッガー・景浦 將二刀流の出現で、初代「4番・三塁手」背番号6番を背負って投打に渡り大活躍をした。

投手としては、重いシュートと、速球を武器に昭和11年秋季には防御率0.79(歴代2位)で最優秀防御率、6戦全勝の勝率10割(歴代1位)で最高勝率をそれぞれ獲得し、東京巨人軍との優勝決定戦では沢村の3連投の前に屈したものの、第1戦では沢村と投げ合い、味方の守備の失策から5点を失ったものの自責点は沢村の3点より少ない2点と好投を見せて完投、打っては、4回に沢村から場外へ消える3ラン本塁打を放つなど気を吐い。

その景浦を見た東京巨人軍監督の藤本定義は「アイツこそ史上最強の打者」と絶賛したそうだ。また、松木謙治郎は、戦後に阪神タイガースの監督に就任した際に、「景浦が復員して、戦争から帰ってきたぞ。今から試合に出るからな・・と松木に言って試合に出場する夢をよく見たという。」さらに松木は「景浦が無事に帰ってきていたら、タイガースの監督として読売ジャイアンツに負けないチームを作っていただろう。人間としてあんな立派な男はいなかった」とも述べている。

影浦は、沢村栄治のライバルで、東の沢村、西の影浦、日本のプロ野球は沢村が投げ、」影浦が打って始まったと言われた。影浦が提案した・・打倒 沢村栄治対策として、沢村を打ち崩す練習に報道陣の取材を断り、甲子園での投手間隔を2m短くして打撃練習をして沢村の剛速球に対応した話は有名である。

そしてこの時代は急変していく。球界からは敵性語としてカタカナの追放が始まり、昭和15年9月25日にタイガースは阪神とチーム名を改めた。

翌16年には選手たちは「皇国に挺身して戦う野球戦士」としてユニフォームを軍服にしてプレーするようになった。大東亜戦争が激しくなり、昭和14年に最初の応召となるが、帰国後暫く野球はしなかった。それは、兵役中過度の手榴弾の投擲(とうてき)により肩を痛めていたから、しかし昭和18年に阪神軍へ復帰した。打力は以前通りの長打力を発揮したが、投手や守備としては兵役中に過度の手榴弾の投擲(とうてき)によって肩を痛め、主に肩への負担が少ない一塁手を担うようになった。

そして

二度目の応召がやってきた。昭和20年5月20日、フィリッピン・カラングラン島で戦死帰らぬ人となっ。

最終階級は陸軍曹長で享年30歳の若さであった。

影浦 將は、伊予松山から排出された野球界二刀流の元祖である。

なのに、伝説のバッター、影浦 將の墓所の墓碑銘には野球のことは何も書かれていない?

墓所は、由緒ある西法寺にある。(松山市下伊台町969番地)

景浦 將の墓は、影浦家之墓所の一角に墓石がある。

西方寺は1300年の歴史を守り伝える伝説の寺・・と伝えられている。

景浦 將の墓 

景浦 將の墓石、左側面には野球のことは何も書かれていない。

景浦 將の墓がある、西法寺には日本に一本しかない西法寺桜 (サイホウジサクラ)がある。

この桜は、西法寺の参道を登りつめたところの左手にあり、薄墨桜のある、石囲いの中で薄墨桜と染井吉野桜との自然交配により実生で出来た全くの新品種だそうだ。

最近、愛媛大学の教授によってこの西法寺桜が学会で発表され新品種として登録された。また東京の国立遺伝学研究をされている先生も西法寺へ来られ研究調査され、そして浦和市の桜の研究の先生も続いておとずれ、全国に一本しかない貴重な西法寺桜を研究されていると西法寺薄墨住職さんの奥さんからお話を伺った。

そしてまた新品種の桜が生まれたとの由、その名前は「新西方寺桜」で薄墨桜と大島桜との自然交配だそうだ。

これからの画像は松山商業学校が一時期松山東高等学校の商業科となった東高の画像である。校門左側に安倍能成の胸像が建てられている。

松山東高等学校の前身は、松山中学で秋山眞之や正岡子規が学び、明治28年、夏目漱石が英語教師として赴任した松山中学である。そして明教館は、秋山信三郎好古が学んだ藩校である。

藩政時代の藩校「明教館」である。

明教館の棟瓦には久松家(菅原家)の梅鉢の家紋の入った瓦が上がっている。

久松家の祖先は、菅原道真である。

軒瓦には、徳川家の三つ葉葵の家紋が入った瓦が上がっている。

これは、伊予松山藩第3代藩主が徳川家康の甥になる松平定行が藩主になり家康の指示によるものである。

詳細は、私のブログ「EEKの紀行 菅原道真 伊予の足跡」を参照下さい。

愛媛県立松山東高等学校正門の右側にある。

松山市教育委員会が設置した「明教館の説明板。」

NHKスペシャルドラマ「坂の上の雲」放映に伴い設置された説明板。

明教館 防空要員の碑(明教館死守の記録版)

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令和6年4月、私達の散歩道 桜散りはじめました

2024年04月13日 | 新たに発見好古揮毫石碑 魚沼市で

令和6年も私が散歩する道の「ソメイヨシの桜」は元気よく咲きました。

今年は、天候不順で特に寒暖の差が激しく、絶好の散歩日和が少なかった。

今年の画像は、何時もの一眼レフカメラでなく、スマホのカメラで撮りました。

撮影は、令和6年4月12日で満開は少し過ぎちらほら散りはじめていました。

側を流れる川附川には、さくら花筏になっていました。

 

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秋山眞之生誕156年 生誕祭 開催される

2024年04月06日 | 新たに発見好古揮毫石碑 魚沼市で

画像は、令和6年3月20日、松山市歩行町二丁目3番地6・秋山兄弟生誕地(公益財団法人・常盤同郷会) 武道場で開催された 秋山淳五郎眞之生誕156年 生誕祭の様子です。

秋山眞之生誕156年生誕祭 開催 次第

                  記

1、開催日時  令和 6年3月20日(春分の日)午前 9時30分 式典

2、場  所  松山市歩行町二丁目3番地6

        秋山兄弟生誕地 (公益財団法人・常盤同郷会) 武道場

3、開催内容と時間

  第1部 式典次第

        秋山眞之156年祭(慶応4年3月20日生)生誕祭式典

     ・国歌君が代斉唱

     ・来賓祝辞(愛媛県知事・松山市長)

     ・献茶(秋山眞之の像へ)

     ・献奏 正派邦楽大師範箏「佐川雅貴社中」の琴演奏

     ・令和5年度常盤同郷会受賞者スピーチ(県立内子高校小田分校・城戸 花さん)

     ・高校総文化祭放送部門ビデオメッセージ(新田高校・二宮 快地さん)

     ・全国高校弁論大会入賞者(県立松山東高校・谷村 琉凪さん)

     ・茶会 伊豫売流天山会:煎茶(立札式)

4,秋山眞之156年祭にご臨席頂きました皆様方

     ・秋山眞之 令孫 秋山崇 様

     ・山下亀三郎翁令孫 山下洋二郎 様

     ・松山市立子規記念博物館 館長 大石和可子 様

     ・ロシア兵墓地保存会会長 菅田顕 様

     ・松山子規会 会長 烏谷照雄 様

     ・愛媛県立松山東高等学校 校長 沖田浩史 様

     ・愛媛県立松山北高等学校 校長 友澤義弘 様

     ・愛媛県立吉田高等学校 校長 村井浩昭 様

     ・愛媛県立内子高等学校 校長 和田俊之 様

     ・愛媛大学付属中学校 校長 大西義浩 様

     ・松山市教育研修センター事務所長 光岡葉子 様

     ・松山市立勝山中学校長 八木誠一 様

 

午前10時45分 式典閉会

第2部 茶会・琴演奏会

 午前11時から茶会開始

一同起立して国歌斉唱

秋山眞之生誕156年祭合同生誕祭 開催に先立ち国歌君が代を斉唱し生誕祭は始まった。

生誕祭開式に当たり、主催者である、公益財団法人 常盤同郷会理事長 山崎 薫氏が開式の言葉を述べる。

 眞之は日露戦争(明治37年~38年)の日本海海戦で連合艦隊の参謀を務めるなどした。生誕祭は眞之や兄・好古の功績を後世に語り継ぎ顕彰していく活動も常盤同郷会の使命の一つであると、山崎薫理事長は挨拶された。そして現在の常盤同郷会は、松山同郷会と江戸末期に旧松山藩主である久松定謨が設立した常盤会、明治20年東京都真砂町に常盤学舎を創設された。秋山眞之は海軍兵学校在籍時代、薩摩の「郷中教育」を視察に行き松山に創設した組織が「松山同郷会」で、昭和28年あることを語った。常盤会と松山同郷会を併せて「常盤同郷」となり現在に至っている事も併せて挨拶をした。

続いて

中村時広愛媛県知事代理出席の、愛媛県スポーツ文化部文化局長・森居基修様が中村知事の祝辞を代読され挨拶された。

続いて

野志克人松山市長代理、松山市立坂の上の雲ミユージアム 石丸耕一館長さんがご自分の挨拶と、野志克人松山市長の祝辞を代読された。

続いて東京在住の

秋山眞之の令孫である、秋山崇さんが挨拶され、毎年眞之の生誕祭を開催して頂き感謝いたしておりますと述べられた。

続いて

秋山眞之生の親友であった 山下亀三郎翁令孫 山下洋二郎氏(東京都在住)が挨拶。

続いて

秋山 眞之に対して献茶。

献茶をするのは、常盤同郷会理事・藤島寛昌氏です。

献奏:春の曲を献奏。

正派邦楽会 佐川雅貴社中 山口真那さん演奏。

眞之記念青少年スピーチ

令和5年度常盤同郷会賞受賞者 愛媛県立内子高等学校小田分校3年 城戸 花さん。

愛媛県高校総文祭放送部門ビデオメッセージ

「祝祭の灯―興居島 船踊 新田高等学校 二宮 快地君

発表をする 新田高等学校 二宮 快地君

全国高校弁論大会入賞者の弁論「ディベートは世界を変える」

愛媛県立松山東高等学校3年 谷村 琉凪 さん

関係者一同の記念写真撮影で第1部 式典終了した。

第1部 式典も終了し、第2部の茶会が始まった。

茶会は、伊豫売流天山会 様主宰で行われた。

 

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私の散歩道にも春の気配 

2024年02月13日 | 新たに発見好古揮毫石碑 魚沼市で

菜の花の中に「水仙」が咲いていた。

令和になって6年、春の気配を感ずる季節到来である。

今年は、年明け早々能登半島に激震が襲った。毎日能登半島の復興度合いをTVで見ているが作業の進捗が遅い。もっと大掛かりな作業は出来ないのか苛立たしさを感じる。

そんな事を思いながら、私の散歩道の川附川堤防には、日増しに菜の花が元気よく地表に現れ花を咲かせている。

帰宅し暦を見ると立春(2月4日)を迎えていた。

立春を過ぎた頃から少しずつ、太陽の高度が上がり、昼間の時間が長くなる。

光の春・音の春・気温の春、植物も動物も日本列島各地で動き始める。

光の春­=気温が上昇して光に反応して冬眠から目覚める。

音の春=川のせせらぎの音、鳥の鳴き声、雪国では雪解けの音が聞こえる。

気温の春=春分をすぎる頃から「暑さ寒さも彼岸まで」のたとえの通りに、気温も上昇して一番いい季節に移

行していく。四季のはっきりしている日本は素晴らしい・・地震がなければであるが!!。

画像は、3年振りにカメラ持参で何時もの散歩道を歩きシャッターを押してみた。

私の散歩道の川附川堤防には、日増しに菜の花が元気よく地表に現れ花を咲かせ散歩をする人達を楽しませてくれる。皆さんスマホで写真を撮ている。

菜の花の写真を撮りながら「あなた達はすごい感覚の持ち主ですね!!」「地表が暖かくなると冬眠から目覚め、芽を吹き、葉っぱを形成し、花を咲かせる。そして人々の気持ちを浄化させてくれる。ありがとう、いい構図の写真が撮れないけれどごめんね・・と心の中で呟きながらシャッターを押した。

菜の花を見ながらサイクリングを楽しむ人も。

近くに病院があり、リハビリの先生とリハビリを兼ねて屋外で運動する人。

気持ちも晴れやかになる。

直ぐ側には伊丹十三記念館もある。

左奥の樹々は、天山です。

伊丹十三記念館の庭に咲いていた「雪柳・ユキヤナギ」

散歩道沿線の家の庭に沢山の「キンカン」があった。

別の家庭に「山茶花」が元気よく咲いていた。

我が家の山茶花は、昨年夏場に水を与えなかったので今年は一輪も咲いてない。木が弱っている。悪いことをした。

「菅原公御腰掛石」とその記念石碑。

菅原道真が今治市桜井の「綱敷天神」から、松山市久保田町の「履脱天神」に行く途中、暫しの休息をしたと言う菅道真腰掛けの石で、星岡古戦場跡の一角にある。

私が散歩をする付近は、歴史上に出てくる所が沢山あり、歴史好きの人達には絶好の散策地である。

以前、奈良県から天山の歴史散策に訪れた人に出くわし、ご案内をしたことがあった。

「天山」は、記紀に出て来る山で、奈良県橿原市の「天香久山」と愛媛県松山市天山町の「天山」、は姉妹の山で、両町の皆さんが交流を記念して建立された石碑が天山山頂にある。

また、天山は、加藤嘉明が松山城築城に際し1番候補地として徳川家康に許可申請をした山で、2番候補地が「勝山・現在の松山城」3番候補地が「御幸寺山、愛媛県護国神社の裏山」。当時家康は、2番候補地に築城許可が下りていたので「嘉明が築城したかった勝山を2番候補地にした・・との逸話がある。

天山山頂から望む「松山城」

散歩道の川は「川附川」といいますが、鳥がやってきて「水浴び」をしていました。

教科書に出てくる「蒙古襲来の時、博多湾で、河野の後築地」と呼ばれ、有名な河野通有の居城であった「縦淵城跡」も近くにあります。

縦淵城跡の説明板。

鎌倉幕府終焉の切っ掛けとなった「星岡古戦場跡」も近くにある。

星岡古戦場跡とは、鎌倉時代の末期幕府の力が弱まってきたころ、後醍醐天皇はもう一度、天皇が政治を行なう為に実権を取りもどそうと討幕を計画し王政復古の戦いである。

明治17年5月、陸軍中将仙波太郎が発起人となり建立した星岡古戦場山頂にある「星岡表忠之碑」、当時仙波太郎は陸軍中尉であった。

私が散歩をする付近を上空から見るとこのような図式になる。

加藤嘉明が松山城築城の時、1番候補地(天山)を徳川家康に申請したが、もしも天山に許可が下りていれば、我が家周辺は松山の城下町になっていた。

 

 

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