武術と体 健やかな体づくり

人が人であるために 自然でなかった自分に気づくかも知れない
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ありよう観賞を日常化して欲しいという迷惑な願い。

2019-01-23 14:44:46 | 名言 紹介
ありよう観賞を日常化して欲しいという迷惑な願い。

趣味は何ですか?
最近はあまり聞かないが、
その回答例として「映画観賞」や「音楽鑑賞」がある。
この「観賞」を趣味(?)にして欲しいという願いがある。
それは、ありよう観賞だ。
0.3秒刻みのありよう観賞。

出来るありようから出来るが生まれ、
出来ないありようから出来ないが生まれる。

じゃあ、出来るありようを重視しているのか?
と聞かれれば「そうでもない」となる。
出来ないありようも重視している。

いずれにしてもそれは自分自身。
出来ても出来なくてもどっちでもいい。
ありよう観賞が出来れば結果はどうでもいい。
そういうことである。

良い結果を望まないという意味ではない。
そこに至るありようを観賞できることを望む。

この「ありよう観賞」は普段は「内観」と呼んでいる。
親しみやすい(?)名称はないかなあと思い、
昨日からそう呼んでいるが、長続きするかどうかは
分からない。

昨日は、京都pmj。
夕方には、すこやかコミュニケーション教室。
昨日も願いはそう、ありよう観賞だ。

セミナーにお越しになった方々にまずお伝えしたいこと。
それはもちろん「私も普通にできるんだ」という事実。
しかし、それを通してお伝えしたいことがある。
それは、
ありよう観賞を日常化して欲しいという迷惑な願い。
ほんと、迷惑。

例えば、演習にて
「知覚遮断で相手を投げてみましょう」
となったとする。

まずは、
「知覚における人の神秘を知れば
 ほらこんなに出来ちゃう」
がお知らせしたいこと。
でも、次にお知らせしたいこと。

「出来ない時の自分のありよう。抵抗してもらっている
 相手のありよう。これを0.3秒刻みで知覚して
 認知しているか?仮に出来たとしても、それは
 0.3秒刻みで知覚して認知した結果なのか?」

という、結果よりも経過経緯のありように目を向けることを
お伝えしたい。

内観という言葉でもいい。ありよう観賞でもいい。
とにもかくにも、結果よりも経過経緯の0.3秒。
これを知覚認知するありようを演習を通して学ぶ。
武術的要素が強い刹那の動きや技に対して
0.3秒刻みのコミュニケーションが普通になれば
3秒、30秒のコミュニケーションがより豊かに
繊細になるだろう。その勝手な願いを
ありよう観賞(つまりは、内観)という言葉に
託している。

うん、そうだ。そのあたりをしっかりと
これからもお伝えしていきたい。
ホント、迷惑な願いである。

白神先生からの 伝言

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