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永福の日々是好日

米国から南仏コートダジュール、そして日本定住。日々思ったこと感じたことをありのままに。

病から学んだこと


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※写真は突然濃霧が発生し、幻想的な雰囲気になったスイスの森を散策していた時の写真


ある日突然、自分の身体が全く自分の思い通りにならなくなって早20年あまり。
一昨年の春に指定難病受給者になり、
4週間に一度免疫抑制剤を自己注射し始めてから、
投与前は外出さえままならなかったところから、今はかなり外出出来ている。

それでも、私の身体は度々自分の身体を臓器を攻撃する。
明日の体調も予測がつきにくい。

時に、自分自身の身体の中に、敵を抱えて生きている感覚に陥ることがある。
自分の身体を、己を信じられない感覚は、病気そのものよりも辛いことがある。

免疫疾患という現代医学ではお手上げの病を爆弾として抱えながら生きる中で
心無い医師に、「この免疫製剤はいつか効かなくなる、
それがいつになるかは分からない、
明日かもしれないし何年後かもしれない。

この病気はやがて肺は臓器を蝕み、治療法もない、
そして好酸球は耳を蝕むことがあるから、
嗅覚以外にも聴力を失う可能性がある」

そう言われた時は、恐怖に押しつぶされそうになりながら
どういう気持ちでこの先生きていけばいいのかと、絶望した。

自分の思い通りにならない自分の身体と、
自分の波乱な人生を何度も呪い、希死念慮に囚われた。

でも、結局私がどれほど思い悩んでも、心配してみても何も変わらない。
絶望すればするほど寧ろ自分の身体は、その悪夢のような状態を
スピードアップして現実化させることになる。
それならばもう考えるのはやめて、
自分に残された時間を有意義に過ごそうと思った。

私は人生は学ぶために生まれてきた旅である、という考え方を信じている。
恙ない人生は無く、すべての事象には学びがあるのだと。

以前の私は、食事制限やダイエットなど殆どしたこともなく
食べたいものを食べ、病院さえほぼ行ったことがなかったし
一日500mile運転できるほど体力があった。

努力さえすれば、必ず成果になって結果は出ると信じていたし
自分が本気で最大の努力さえすれば、物事は思い通りになると思っていた。

その考え方に生まれ育った家庭環境とその後の生い立ちの影響も手伝い、
完璧主義で用意周到、周囲の人や環境さえも完璧主義で、コントロールフリークでもあった。
そして、大抵のことは自分で出来ると思っていたから
よほどのことがない限りは人に頼ったり甘えることは無い人生だった。

でも、病を発症し、長い闘病生活を通じ、
自分がどれほど血のにじむような努力を重ねても
報われず、ままならないことがあることを学んだ&学んでいる。

よく、努力をすれば必ず結果は出る、とか、そういう言葉を聞くし
自分も以前はそう思っていたけど、
人生にはままならないことも多くあると今は思う。

それは同時に、以前ならば結果を出せない人間は努力が足りないだけだ
すべては自己責任だと決めつけ、自分も他者も裁いていた。
その自分の考えは間違いだったと学ぶきっかけになった。
そして、新たな視点が出来たことで、
以前の自分に比べたら、自分にも人にも
首の皮一枚、ほんの少し優しくなれた気もする。

いかに外見上五体満足で悩みもなさそうな人も
人知れぬ苦悩や努力を日々重ね、それでも結果は出せず
その報われぬ思いを抱きながらも賢明に生きているかもしれない。
以前の私はそういう視点は無かった。

そして、あらゆることは大抵自分ひとりでやれると思っていた考えも、
この病を通じ、その考えはいかに浅はかであったか思い知らされた。
人は一人では生きられない、人に頼ることや甘えることを半ば強制的に学んだ。
同時に、人への感謝も生まれた。

恐らく、以前の自分ならば、病という手枷足枷がなければ
傲慢な自分は結婚してもすぐに離婚していたかもしれない。

また、病は同時に人の非情さも浮き彫りにする。
心のこもらない言動を吐く、うわべだけの人間や
自分さえ良ければそれでいいという
人の心のリトマス試験紙にもなるから。

そうなると、自分にとっても、この有限な人生の中で
本当に大切なものは何かが見えてくる。
そういう作用と学びもあった。

あと、考えてみれば、自分如きが自分の人生、環境、周囲の人や状況を
努力しようが準備しようが、コントロールできると考えることは
いかに傲慢な考え方であるかも、学んだ。

長い闘病生活を経験するまでは、本当の身体のしんどさや病苦を
理解できていなかったと思う。
今思うと病のある人へ恐ろしく非情な考え方をしていたし
精神論で、気合と根性さえあれば頑張れるはず、と自他ともに思っていた。

でも、病の苦しみを何年もの間日々体感することで、
弱った身体、それにより蝕まれる心、苦しさ、そういうものを知り
病気の理解を得て、心からの慈悲や優しさも
わずかながら持てるようになった気がする。

これらは今もまだ私が学び続けていることだが
不幸はすべて不幸ではない。
一見不幸と思える出来事や躓きがあるからこそ
その不幸により素晴らしい気づきと学びがある。

価値があるから生きるのではなく、生き抜くことそれ自体に価値がある。
今日は尊敬する師がそういう話をしている動画を偶然目にして、刺さった。

樹木希林さんも言ってた、生き抜く醍醐味。

自分のことだけ、今この時のことだけ、それ以外は何も考えず
漫然と生きるような人生よりは、
もしかしたら課題と学びが多い人生は幸せなのかもしれない。

誰かが有限な人生の中で今を充実させるための終活として、
実際にお棺を見に行き、中に寝そべってみたという話を聞いた。

死ぬ時私がお棺に寝そべることを想像してみると、
今ある物質的なものは何一つ持っていかない
身ひとつで生まれ身一つで死ぬという事を思い出させられる。

あの世に持って帰れるのは経験と経験を感動だけだからこそ
とにかくこれから残された時間は出来る限り
自分の大切な人たちとだけ、楽しい人生にしていく。

今年からは、自分にとって大切なことにだけ時間とエネルギーを使っていこう。



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