別れはなんだってつらいもの | うたよみセラピー【しなやかな心、どんな苦しみも受け容れられる心に”おのづから”なってしまふブログ】

うたよみセラピー【しなやかな心、どんな苦しみも受け容れられる心に”おのづから”なってしまふブログ】

歌をよむこと、それは古(いにしへ)よりやまとの国に伝はれる道です。
道とは、生き方のこと。
「いかに生くべきか?」を”考へる”必要はありません。
歌とともに生きること、それだけで人も社会も、望ましいあり方に近づいてゆくのですから。
ようこそ、うたの森へ。

或る日のこころの流れをよめる


あな楽し きみと語らふ時ながれおちて消えゆきいよよかなしも




★一日一回、クリックを御願ひいたします。アメブロのかたは、読者登録もどうぞ!


(別ウィンドウが開きます。)

みなさまの温かい励ましのおかげで、忙しいながらもブログを書きつづけられてゐます。
ありがたうございます。




私は、ひとなつっこい性格です。
そんなふうに見えないと言はれたりしますが、それはただの見落としです。

たしかに、冷静なところはあります。
でも、子どもみたいなところもある。
激しくたぎる血だって、あるのです。
(ブログ読者のかたなら、わかってくださることでせう。)

私は、人が大好きです。
だから、人と言葉をやりとりすることを、この上ない悦びとしてゐます。

「このヘンテコリンな僕をかまってくれて、どうもありがたう。」

と言ひたいくらゐです。



そんな私ですから、別れはいつもつらい。
ここで言ふ「別れ」は、なにも恋人にふられるとか、人に死なれるとかに限りません。
一緒に帰って、途中で「さやうなら」をするのだって、歴とした別れであります。

おのれの顔は見えないのでわかりませんが、きっと、さびしさうな顔をしてゐるんでせうね。
ともに過ごした時がステキであればあるほど、さびしさは募ります。

江戸時代の記録をみると、そのころの日本人もまた、きはめて人なつっこい心をもってゐたやうです。
幕末、日本に来た外国人を監視する役人が、その役目から離れるとき、外国人たちに
「別れるのはかなしいけれど、どうかお元気で。」
と、いかにも名残惜しさうに挨拶してゐたらしい。

ただの仕事上のつきあひ、いや、ただの監視対象にすぎないはずなのに、身なりも、話す言葉もちがふ外国人にたいして、そこまで篤いこころをもてるとは・・・・・・。
しかも、その挨拶は歴とした“アイメッセージ”ですよ。
心をひらいてゐます。
現代人の眼からすれば、おどろくべきことではありませんか?

ただ、私は、そんな江戸時代人にすごく共感できるのです。
私も、ただの業務上のやりとりであっても、その人とのやりとりをなるべく大切にしたいと思ってゐます。
荷物を届けてくれただけの宅配便の運転手さんであっても、品を買ひに立ち寄った店のレジ係の人であっても、私には愛しくうつります。

都会の人は、そんな人たちがロボットに見えるのかな?
あまりに無味乾燥なやりとりを見てゐると、さう断ぜざるをえません。

相手は、生身の人ですよ。
どうして、そんな態度がとれるのか、私には理解できません。

「江戸ブーム」が聞いて呆れる。
いまの東京のどこに、ふるき良き江戸があるか?
むしろ、ふるき良き江戸から最も遠いのが、いまの東京のすがただと思ひます。
田舎の方が、よほど江戸時代の大らかさをとどめてゐますよ。

おっと、また熱くなってしまった(笑)。



けふの歌は、ステキな人とすごす時のながれを詠んだものです。

第1句「あな」は感動詞で、“ああ”といふ声をあらはします。
歌はさまざまな“感動”を詠むものですから、かうした言葉を知っておくと、何かと便利です。

第1句でわきおこった楽しさが、そのあと時のながれとともにしぼんでゆき、別れが近づくとかなしくなる。
そのながれを57577の“音楽”であらはしてみました。

この歌はかなり気に入ってましてね。
かなしみといふネガティブな感情をうまく57577に刻みこめましたから、そんな感情であっても私にはたからものなんです。これぞ、

“実践! あるがままを受け容れる”

であります。

あるがままを受け容れようと思ったことは、まったくありません。
ものの見方をかへようとも、まったく思ひませんでした。

考へたのは、ただ歌を詠むといふことだけです。

で、歌が出来あがると、いつしかかなしみを受け容れてゐるわたしに気づきます。
これは体験談ですから、このやうに詳しくレポートすることができるのです。
このブログは理窟っぽいブログですが、ちゃんとした実際上の根拠があることも、わかっていただけるでせう。



歌を考へてゐるとき、私はこころを見つめ、わきおこった感情を味はひなほしてゐます。
さうしなければ、歌はよめませんからね。

この“味はふ”ことこそ、あるがままを受け容れることなのです。
イメージとしては、“開きなほる”に近いかな。
「かなしみの情、あって当然!」
と思ふことです。

かなしみを見つめたからと言って、ますますかなしくなるわけではありません。
歌を詠むといふ行ひにからめて味はってゐますから、単独で味はふよりも心は穏やかでゐられます。

そして、ひとたび歌が出来あがれば、もう心はスッキリさはやか。
かなしみを、かなしみのまま受け容れ、しかもそれをプラスに転化する。
すなはち、マイナスをマイナスのまま受け容れて、プラスにするといふこと。
それは、歌よみならではのスゴ技であります。



かたや、例の「ものの見方をかへる」式は、かなしみのまま受け容れてゐるわけではありません。
おのれの受け容れがたいマイナスを、知性のチカラでプラスに転換して、受け容れてゐるのです。

ただ思ふに、知性でプラスにできたとしても、感情レベルのマイナスはいくらか残る気がします。

たとへば、飲酒による交通事故で大切な人をうしなった人が、飲酒運転撲滅の運動を始めたとします。
その場合、交通事故による離別といふマイナスを“使命感”といふプラスにかへて受け容れ、運動への糧としてゐると言へさうです。

そのやうに捉へなほしたとしても、それは公的世界ではプラスになったかもしれませんが、私的世界においては、その離別がいまだに悲しむべきマイナスとして残ってゐます。
だから、外で使命感をもって働いてゐるときは涙なんぞ見せなくとも、ひとたび家へ帰ってガランとした部屋に気づけば、悲しみの涙がにじんでくる時もあると思ふのです。



歌よみは、そんな悲しみにも寄りそふことができます。
ものの見方をかへても拭ひきれない苦しさを、いたはってあげられるのです。

そんなことができるのは、歌よみしかありません。
短い言葉を用ゐてこころを見つめる歌こそ、わりきれぬ苦しみを受け容れさせてくれます。

まだ疑ふ人には、もはや歌をよんでいただくほかはありません。
案ずるより産むがやすし。
むかしの人がやってきたことですから、今の人にできないわけがない。

ぜひ、御試しくださりませ。
(終)



★一日一回、クリックを御願ひいたします。アメブロのかたは、読者登録もどうぞ!


(別ウィンドウが開きます。)