個性個性と言ひすぎないでね | うたよみセラピー【しなやかな心、どんな苦しみも受け容れられる心に”おのづから”なってしまふブログ】

うたよみセラピー【しなやかな心、どんな苦しみも受け容れられる心に”おのづから”なってしまふブログ】

歌をよむこと、それは古(いにしへ)よりやまとの国に伝はれる道です。
道とは、生き方のこと。
「いかに生くべきか?」を”考へる”必要はありません。
歌とともに生きること、それだけで人も社会も、望ましいあり方に近づいてゆくのですから。
ようこそ、うたの森へ。

いまの世は、「個性尊重」がさけばれてゐます。

テレビをつければ、本をひらけば、そこにはよく
「かけがへのない個性」
「自分らしく生きよう。」
などといった言葉がつかはれてゐることに気づくでせう。

かたや、個性が抑圧されてゐる時代、とも言はれますね。
たしかに、違ってゐることをゆるさない同調圧力は、増してゐるやうにも見えます。

はて、どっちなのでせうか?
なんとなく怪しげな匂ひがします。

私の考へは、これです。

そもそも個性個性と言ひすぎない方がいい。




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お忙しいところわがブログにお越しくださり、いつもありがたうございます。
この長い記事をわざわざ読んでくださる御厚意、けっして忘れません。




なぜ、個性個性とさけぶべきでないかと言へば、ひとりひとり違ってゐるのは当たり前であって、それを言ひすぎるとむしろ弊害が生まれかねないからです。

いのちの来し方をながむるに、或る時から生き物は“性”を分けもつやうになりました。
無性生殖でコピーを順調に生みだしてゆくスタイルを捨て、雌雄(男女)をわけてその結合によって増やしてゆくスタイルに乗りかへる種があらはれたのです。
そして御存じのとほり、高度な進化をとげたのは、有性生殖の生き物であります。

どうして有性生殖の方に進化がもたらされたのかと言ふと、雌雄それぞれの組み合せによって“個性”がばらけてきたからです。

たとへば地球環境が変ったとき、まったく同じ個体しか生み出さない無性生殖だと、適応できなくなった瞬間に絶滅の危機をむかへます。
しかし、個性がばらける有性生殖なら、環境変化にたいして種のほとんどが適応できなかったとしても、適応できた少数派は生き残ります。
つまり、種じたいは守られてゆくわけですね。

種が全体として進化してゆくのは、有性も無性もかはりません。
無性生殖の細菌くんたちも、生きのびるために進化をつづけてゐます。

有性生殖のつよみは、やはりその“幅ひろさ”にあります。
父母の組合せによって、個性はかぎりなく豊かになってゆきます。

動物たちにも個性・性格の違ひがあるのは、みなさんもおわかりでせう。
植物でさへ、同じところに植わってゐても、花を咲かせる時期がずれたりします。
ぽつりと季節外れに咲くK.Y. なヤツだってゐますからね。

有性生殖の生き物は、個性をひろげることによって生き残ってきたのです。
一部が環境変化についてゆけずに死んだとしても、別な個性をもつグループが生き残り、いのちをつないできました。

このながい有性生殖の来歴において、もっともゆたかな個性をもつに至ったのが、他ならぬヒトであります。
クマとかイヌもかなり個性的な生き物ですが、ヒトの個性のゆたかさには及びません。

住む環境にあはせて食べ物や住処をかへ、肌の色さへかへてゐますね。
言葉だって、かなり細かくわかれてゐます。
人種のなかをみても、たとへば同じ日本人でも、性格は人によって大きく異なってゐます。
おとなしい人から、私みたいにぶっとんだ人もゐるわけです(笑)。
そんなゆたかな個性のなかから、時代をつくる人たちがあらはれてきたのが、ヒトの歴史であります。



手短に生き物の進化をまとめてみました。
いまの説明でもおわかりいただけると思ふのですが、ヒトが個性的なのは、もはや強調するに及ばない真実なのです。
個性個性とさけばずとも、ヒトは勝手に個性的になってゆきます。

私は歴史をふかく学んだ者として、むかしの人が今以上に個性的だったことを痛感してゐます。
歴史に名をのこした偉人が個性的なのは言ふまでもなく、庶民のなかをみても“豪傑”はちらほらゐました。

私がいま通ってゐる鍼灸の専門学校も、キャリアのながい先生にお話をうかがふと、むかしの方が個性的な学生が多かったさうです。
いまは、いろんな意味で“ふつうの”学生が増えてきてゐる。
と言ってをられたのが、心に残りました。

鍼灸の世界にかぎらず、いまと昔とを見比べてみれば、むかしの方がおもしろい人が多かった。
ぶっとんだ人が多かった。
それが、私のゆるがない印象です。

むかしは、今よりも個性個性と言ってなかった時代ですよね。
むしろ教科書的には、同じであることを強要された、と習ひませんでしたか?

はて、これはいったい、どうしたことでせうか?



個性的であることが当たり前なヒトの社会で、個性をさけぶ必要はありません。
それどころか、個性個性と言ひすぎることによって、“こころの垣根”がどんどん高くなってゆくのです。
すると、人と人とのこころのつながりがうすくなってゆきます。
共感といふ“こころの橋”がかけづらくなるのです。


ヒトと動物との違ひを強調しすぎた西洋人は、動物のこころを思ひやることができませんでした。
絶滅するまで狩りつくす、などといふ蛮行ができたのは、そのためです。

「オレはあいつらとは違ふんだ!」
と考へすぎると、わかりあへなくなります。
共感ができなくなります。

もちろん、ゆるやかに違ひを自覚しておくといふのはオッケーですよ。
でも、違ひを強調しすぎるのはいけません。

わかりあへない、共感できないといふのは、

“ゆるせない”

といふところにつながってゆきます。


個性をさけぶ現代において個性が抑圧されてゐるのは、そんなメカニズムなのです。



ここは大切なところなので、まとめますね。

ヒトは放っておいても個性的です。
それなのに、個性個性とうるさく言ふと、こころの垣根がたかくなり、人と人とのつながりがうすくなります。
すると共感がしづらくなって、他人の行ひがゆるせなくなってきます。
とくに、それが変り者の行ひとなれば、みんなで寄ってたかってつぶします。

このパラドックス(逆説)を、しかと味はってください。

人は万物の霊長で尊いんだと信じこんだ西洋人が、尊くないどころか鬼畜のごとき蛮行に手をそめる。
人を個性的だと信じこんだ現代人が、個性を尊重するどころか抑圧しようとする。

おなじ仕組みですね。

多くの人はスローガンだけをみて良し悪しを判断しますが、そのスローガンが眼くらましになってゐることに気がつかないやうです。
なんとかなしいことでせう。



私は本居宣長の学統につらなる者なので、すぐに宣長大人のこの言葉がうかびます。

まことは道あるが故に道てふ言なく、道てふことなけれど、道ありしなりけり。
『古事記伝』直毘霊(ナホビのミタマ)

歴史をみれば、西洋人以外の民族の方がよほど尊かったと私は思ひます。
「まことは、尊い人たちであるが故に「人は尊い」といふスローガンがなく、「人は尊い」といふ確乎たる思想はなかったけれど、“人は尊い”といふ実体があったのだ。」

私には、個性個性と言ってなかったむかしの人の方が、よほど個性的にみえますよ。
「まことは個性的であるが故に「個性尊重!」といふスローガンがなく、「人は個性的だ」といふ確乎とした思想はなかったけれど、“人の個性を尊重する”といふ実体があったのだ。」

そこを、よくよくお考えいただきたいのです。



ちなみに、私は個性的であらうと努力したおぼえは、ほとんどありません。

ただおのれの好きなこと、得意なことをふかめていったら、いつの間にかここにたどりついてゐた。
そんな感じです。

「自分らしく」なんていふ言葉、考へたこともない。
考へたのは、おのれは何が好きで、何に喜びを感じて、何をこころから信じるか、であります。
で、それを実際にやりつづけてきました。

私は正仮名遣(歴史的仮名遣)で書いてゐますが、それだって、私がこころから信じられる書き方をしようと思って、書いてゐるだけです。
わざと人目をひくためにやってゐるんぢゃありません。
まったくすなほな気持で、この書き方をしてゐます。

人からは個性的だと言はれるから、きっと私は個性的なのでせう(笑)。
しかし本人は、「個性的であるべき!」とは思ってゐないんですよね。

そんな私ですから、
「ナンバーワンよりオンリーワン!」
みたいなスローガンは、じつは嫌ひです。

口が裂けても言ひたくありません。

眼くらましだなこれは、と思ってしまふのです。
気持がわるくなります。

それにもかかはらず自信をもって言へるのは、私ほど人の個性を尊重できる人はなかなかゐない、といふこと。

前にも書きましたが、私は個性的な人ほど好きになります。
「あの人、すごく変ってるよね。」
「あの人のあのふるまひ、ありえないよね。」
そんな話を聞くと、ぜひ御会ひしてみたくなります。

で、実際に御会ひしてみると、たいして変ってゐるわけでもないし、「ありえない」と言ふほどの奇行でもないのです。
むしろ私の眼には、愛しむべき個性にうつります。

私みづからが、周りから個性をみとめられてゐないので、せめて他の人にはそんなおもひをさせたくありません。
他はともかく、私だけはこの人を受け容れよう。
そんな思ひもあるかもしれませんね。



私は個性的(らしい)ですが、「個性的であらう!」とがんばってきたわけではありません。
だから、人とはすぐに親しくなれます。
相手がこころの垣根をたかくしてゐても、私のこころは堀をうめた大坂城みたいな裸城ですから、打ちとけることができるのです。

人の個性をみとめつつも、私のこころの底にあるのは、

「人って、みんなつながってるよね。」

といふ共感であります。


私はひとの行ひを裁かない(ジャッジしない)人間です。
それも自信をもって断言できます。
他人の行ひをみて私がいつも考へるのは、この問ひです。

もし私がこの人の立場だったら、はたしてさういふ行動をとるだらうか?

それで、ちょっとでも「行動するかも・・・」と思へたことは、すべて受け容れます。
受け容れようとがんばらずとも、スッと心に入ってくるのです。
ちょっとでもさう思ったら、受け容れます。
すると、ほとんどの行動が受け容れられてしまふのですね。

自殺願望にしても、死にたくなる気持はわかります。
「あ、いま死んだら、楽になれるかも・・・・・・。」
と考へたことは、私にだってありますから。

だから、
「自殺なんて、絶対ダメよ!」
とまでは言ひたくないのです。
(これは、いけないことなのかな?)



「個性的であらう!」とがんばるのは、ひととの絆をうすくします。
つながりを感じられなくなりますから、共感できなくなります。
すると、おのれと違ふ人の気持がわからなくなるのです。

気持がわからなくなれば、人の行ひになにかとケチをつけたくなる。
裁きはじめます。


いまの世は、裁判官みたいな人がたくさんゐますね。

このあひだ「京王線沿線をあるく会」みたいなイベントが無期限中止された、といふニュースをみました。

たしかに、マナーがわるいといふのはその通りでせう。
うるさかったり、ひろがって歩いたりといふのはあったでせう。

しかし、毎週毎日のやうに、同じところを練り歩いてゐたわけでもありますまい。
ほんのたまに通るだけでせう。
それすらゆるせないといふのは、いったいどんな心なのか?

歩いてゐる人たちは行楽気分で、楽しくて仕方がない。
にぎやかになっても仕方ないな、とは思はないのかな?

私たちだって仲間と遊びにゆけば、話に華は咲きますよ。
苦情を言った人も、行楽に出かければそんな気分になるでせう。
絶対に騒がない、と自信をもって言へますか?
お互ひさまだと、どうして思へないのでせう?

明らかに“共感”といふこころの橋が落とされてしまってゐますね。
そのわけを、ひとりひとりが考へてみるべきではないでせうか?



なほ、共感といふこころの橋をかけなほす試みとして、歌よみはつかへます。
本居宣長が強調した
「もののあはれを知るべし」
とは、共感できるやうになれ、といふことなのです。


そして、もののあはれを知る行ひとして挙げられたのが、『源氏物語』をはじめとする平安文学を読むことであり、万葉や古今などの古歌にふれることであり、みづから歌を詠むことでありました。
私がこの現代において復活させたい歌よみには、あたたかな共感をとりもどす狙ひもあるのです。



「個性が大切!」といふスローガンは、私には眼くらましにみえます。
そんなスローガンは要らない、とも思ひます。
個性的な私が言ふと、説得力があるでせう?(笑)

個性の大切さをゆるやかに考へるのは、かまひません。
むしろ、それこそが大切なことです。
しかし、個性尊重を言ひすぎるなら、そこに問題が生まれてきます。

いまの社会のありかたと、はやってゐる言葉と。
どちらか片方ではなく、ふたつをともに調べることにより、みえてくるものがあります。

惑はされないやうに、お気をつけくださいね。
(終)



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