別れのくちづけ
くちびるにきみが残り香まとひつつ笑みいつはりて往くがかなしさ
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お忙しいところわがブログにお越しくださり、いつもありがたうございます。
この長い記事をわざわざ読んでくださる御厚意、けっして忘れません。
恋の歌をよんでゐるときが、もっとも生き生きする私でございます。
なぜかはわからないのですが、燃えるんですよね。
色好みさんたちなら、わかっていただけるかも(笑)。
さういふ刹那を表現したいとき、歌はもってこいです。
短いからこそ、瞬間を表現できます。
世界でも、そんなことが当たり前のやうにできるのは、わが日本だけでせう。
それと、これは好みの問題かもしれませんが、歌は“ちょっとしたエロス”の表現をめざすのがよいと思ひます。
あまり露骨なやつは、かへって興ざめするのではないでせうか?
それに、そもそも日本的つつしみを欠いてゐます。
わざわざ短歌にしないでも、別な世界でやっていただいた方がよいと思ふのですが・・・・・・。
まあ、けふの歌がそもそも露骨だと言ふ人があるかもしれませんしね。
そのあたり、線引きはあいまいです。
いまの歌をみると、感情をすなほに表現する歌のすくなさに、驚かされます。
こころの奥を表現するかはりに、外側をきらびやかなしゃれた言葉でかざらうとしてゐるやうに見えるのです。
なんでもありなのが歌だから、それはそれでよいとは思ひます。
ただし、“こころの癒しとしての歌よみ”から見た場合、さういふ詠ひかたはおススメできません。
いまの人は、ただでさへうはべをつくり飾って生きてゐます。
それが心の病のもとであることも知らず・・・・・・。
知ってゐても、さうせざるをえない人もゐるかもしれません。
だから、せめて歌よみに向きあふ時くらゐは、おもてを飾りたてるのはやめませんか、と言ひたいのです。
かはりに、こころの内側の表現をみがいていただきたいのです。
「やまとうたは、人のこころを種として、よろづの言の葉とぞなれりける。」
たびたび引用してゐますが、『古今和歌集』仮名序のはじめのふみです。
そのふみからわかるのは、やまとうたは内側から生まれ出づるものだ、といふこと。
お日さまの光や雨水や土のこやしは要るにせよ、それはあくまで“こころの種”があってこそ。
なにより大切にすべきは、“こころの種”なのです。
歌よみにおいては、それを忘れるべきでないと思ひます。
いまの歌は、外側を飾ることにばかりとらはれてゐる気がしてなりません。
もちろん、作品としての形の整へるのは大切ですよ。
でも、そちらに気を取られすぎると、はてわたしは何を表現したかったのだらう、と分らなくなってしまひます。
或る人は、おのれを偽りに偽って生きてきたため、本当は何がしたいのかわからなくなってしまひました。
いまの世に、さういふ人は意外と多いのではないでせうか?
おのれをすなほに表現することをゆるしてもらへない環境にある人は、かならずいらっしゃいます。
それはどうしようもないことですから、そこから脱け出すことを祈りつつ生きるしかありません。
そんなかたでも、せめて歌をよむときだけでもすなほに心を表現するなら、おのれを見失ふことはないと思ふのです。
“こころの切替”の大切さでございます。
オンとオフ、公と私、緊張と弛緩、戦ひと安らぎ。
私は、歌よみを“こころのオアシス”だと思ってゐます。
いつもは砂漠をさまよってゐても、疲れたらそのオアシスに立ち寄って、ひとやすみ。
で、また砂漠に戻ってゆく。
砂だらけの砂漠のなかにある、緑と水のいこひの園。
そのふたつにギャップがあるからこそ、こころの切替ができるのです。
しかし、いまの多くの歌よみがやってゐるのは、そとの砂漠の砂をせっせとオアシスに運びこんでゐること。
泉を埋めたて、緑に砂をかぶせてゐます。
外を飾らねばならぬ浮世のならひを、歌よみにまで持ちこんでゐるのです。
それはやめませんか、と言ひたい。
すくなくも、私がみなさんにオススメしたい“うたよみセラピー”は、さういふものではないのです。
それは“現代文学”としては価値があっても、生きてゆくための癒しにはなりえません。
終りに、けふの歌の言葉について。
第5句「往くがかなしさ」といふ表現は、『万葉集』でよく使はれてゐました。
“・・・が~さ”といふ表現のことです。
「見るが貴さ」とか、「見るがうれしさ」とか、「来るがかなしさ」とか。
歌の終りを感情表現でしめくくるので、それをつよく示すことができます。
さういふ、こころを表現する言葉をたくさん憶えてゆかれると、その時々のこころを正しくとらへられます。
なほ、あへて感情表現の言葉をつかはないで、歌全体の雰囲気でそれをあらはすといふテクニックも、たしかにあります。
が、それは高等テクであって、癒しのための歌よみには必須でないと思ふのです。
すくなくも、初めにめざすものではありません。
嬉しいときは「嬉しい」。
かなしいときは「かなしい」。
すなほに認めて言葉にすることは、癒しの基本です。
こころをあらはす言葉は、奥が深うございますよ。
たとへば“かなし”といふ言葉。
それを古語辞典(岩波)でひくと、初めにかう書いてあります。
かなし【愛し・悲し】
《自分の力ではとても及ばないと感じる切なさを言う語。・・・・・・》
そして意味として、
1、どうしようもないほど切なく、いとしい。かわいくてならぬ。
2、痛切である。何とも切ない。
3、ひどくつらい。
4、貧苦である。貧しい。
5、どうにも恐ろしい。こわい。
2以降の意味は、現代人からみても頷けますね。
問題は、1です。
どうして“かなし”に「いとしい・かわいい」の意味があるのか?
みなさんは納得できますか?
ちょっと考へてみてください。
ちなみに私は、それこそ痛いほどわかるのです。
想像してみませう。
たとへば、恋人とふたりきりでゐる時。
愛しくて愛しくて、どうしようもなくなる時がありませんか?
愛しさがつのって、胸がせつなくつらくなってしまったりしませんか?
或いは、ちいさなわが子を前にして。
すやすや眠る顔をみてゐると、可愛くてしかたがなくなったりしませんか?
胸がつらくなるほど、愛しくなりませんか?
私は経験こそすくないものの、さういふ気持をよ~く知ってゐます。
だから、むかしの日本人が“かなし”を【愛し・悲し】の2通りに書いたわけを、しみじみと実感できます。
やまと言葉は、とても感覚的な言葉なのです。
哲学的な思考から生まれてきたのではなく、感じるこころから生まれてきたのが、やまと言葉であります。
恋人やわが子を切なくも愛しくおもふ気持は、文字の無い時代を生きた先祖も、いまを生きる現代人も、みな等しく持ってゐるこころなのです。
切なくなるほど愛しいこころは、“かなし”といふやまと言葉によって、古代から現代にまで橋渡しされます。
やまと言葉といふと、なんだか洒落た言ひ回しばかりが想像されますが、それは狭く考へすぎ。
やまと言葉をまとめた本に頼らずとも、やまと言葉に通ずることはできます。
古歌を読み、みづから歌を詠むといふ行ひによって。
宇多田ヒカルの「幸せになろう」といふ曲が好き、とどこかに書きました。
もの悲しい雰囲気が、むしろ幸せの本質をつかんでゐる、とも。
幸せには、或る種のせつなさを伴ふのです。
愛しさつのって胸がつらくなることからも、それはわかります。
幸せと聞いて「ハッピー!」としか思はないのは、ちょっと違ふ気がする。
私は、いまどきの流行歌の多くに虚偽のにほひをかぎとってゐます。
歌詞にせよ、音にせよ、うすっぺらな感じがしてなりません。
すくなくも、私のこころには響いてこないのです。
ああいふ歌を、たとへばカラオケで歌って、癒されるのだらうか?
試してみる気もおきない。
世のなかに「癒し! 癒し!」の言葉があふれてゐるところから思ふに、たいして癒されてゐないのです。
せいぜい、大声を出したことによるスッキリ感があるのみでせう。
おのが心をつねに見つめてみると、さまざまな発見があります。
こころの癒しはまづ、おのがこころを見つめるところから始まります。
そして、それはセラピストにやってもらはなければできないことではありません。
やる気さへあれば、どんな人にでもできることです。
歌よみを、こころを見つめる営みとしても、オススメいたします。
日々うたよみをするのは、“こころの日記”をつけるやうなもの。
具体的な事実の描写がなくても、読みかへせばそのころの心持を思ひだせますから、歴とした日記なのです。
どんなに忙しい時であってもスキマ時間でできる、うた日記。
ぜひ、やってみてください。
(終)
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