浅くとも | 江戸端唄はじめました。

江戸端唄はじめました。

漫画で出逢った『江戸端唄』 オモシロそうだと通ってみれば 粋に唄うにゃどうすりゃいいの?
唄いつづけて頑張って「こいつぁ粋だ!」といわせたい~♪

浅くとも 清き流れの かきつばた 
飛んで行ききの 編み笠を 覗いて来たか 
濡れつばめ 顔が見とうは ないかいな

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浅い川であろうとも、澄んだ美しい流れの中、鮮やかな燕子花(カキツバタ)が咲いている。

雨の中であろうとも、自由に空を行き交う小さなツバメ…編笠被って顔隠し、行き交う人のその間、行きつ帰りつ飛び回り、顔を覗いて来たのかい?

ほらさ、編笠の下のあの顔を、みてみたいとは思わないかい?

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春の深くなり、日も長くなった初夏。
吉原の格子の隙間から自由にならない遊女たちが、行き交う人を眺めている。

ようやく雪解けの水の流れたような、浅くて淀んでしまうような履き溜まりの吉原。

そんなところに身をおいていようが、心はきれいに澄んでいる。しかし出ることは叶わず何年もそこで咲き続ける…カキツバタのように美しい女がひとり。

遊女町の入口の編笠茶屋。焼印編笠を被って顔を隠した遊客が、大門をくぐって次々と入ってくる。

もしかしたら、もしかしたら。あの編笠の人こそが心待ちにしている、愛しい人じゃぁないかしら。

とはいえ囚われの遊女じゃぁ、その顔を覗くのさえ叶わない。

ああ、雨が降ろうとも、雨に翼を濡らしてでも自由に飛び交う燕が羨ましい。

(雨に濡れても働かなきゃならなかったとしても、自由な燕に憧れる)

ねぇ、ちょいと。行きつ帰りつしてるなら、ほら、あの編笠の下をちょっと覗いてみたいと思わない?

(私は覗いてみたいのよ…お願いだから、覗いてきておくれ)

ちょいと覗いた編笠の、あの下にある顔は、もしやあの人ではないのかしら…

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江戸時代から歌われている端唄。

浅く…は、もう行き着く先になりきっていることを指しているのだろう。けれどそんな浅い流れでもなんとか心の清さを保っているのか。

清き流れのかきつばた。「いずれあやめか かきつばた」見てくれなのか、心なのか…美しいことに相違ない。

編笠をかぶっていたのは当時はほとんどが武士。江戸の太平が長く続き、武家も家を存続させるのが難しくなると、どうにもならなくなり、娘を吉原に売ることすらあったという。

もしかしたらこんな場所に見を置きながらも心清いのは、そうした出自のなせる技か。

見慣れた編笠姿とはいえ、吉原大門の入り口では編笠茶屋の客なのだ。こうした入り口の茶屋で、客の印である焼印のある編笠を被って、今日行く遊廓への案内を待つ人が大勢いたという。

そして揃いも揃って遊びに来たのがバレないように、顔が見えないよう編笠を被ったのだ。だから編笠茶屋。いつの間にかこのご案内、待ち合わせの茶屋は、そう呼ばれるようになったという。

だから…たとえ見慣れた編笠姿でも、待ちわびたその人であることはほとんどといっていい、叶わない。

それでも清い心の娘は待つ。次の春、次の春こそはようやく、もしかしたら…迎えに来てくれたんじゃぁないかと、儚く待つ。そしてその編笠の下の顔を、燕に覗いて来てくれないかと願う。

燕が飛び交う軒先は商売繁盛の印。だからどの遊廓も、こぞって軒下に巣棚をかけて燕を招いたのだという。

ここでの商売繁盛とは…すなわち女を買う男のいる、この遊廓の商売繁盛を示している。

雨にぬれてつばめが飛んでいるというのは、実は雨の日も働かなきゃならないとか、雨が降ったからといってこもっていられないような、忙しく働かなきゃならない状況をもさしてるという。

働く程に、男に身を任せることになろうとも、清い心で女は待つ。

それとも待っているのは若い間夫のツバメなのか。燕の夫婦は仲が良い。ピッタリ翼を寄せてふたりで並ぶ。そんな日を夢見ているのか。

雨の日も働く…とはいえ、雨の日に外に出れるというのは、自由だということにほかならない。雨の中でも遠くまで、ひらりひらりと飛んでいける燕たち。

だけれども、吉原を出るなんて夢のまた夢。

そこで何年も何年も同じ場で咲き続ける燕子花のように…ひたすら浅い清い流れにしがみついて、美しく咲き続けるしかない。

そうして燕に頼むのだ。

『ねぇ、ほら。編笠の下のあの顔を…照れているのやら、ギラつくのやら…ちょいと覗いてみたいと思わないかい?』