探 三州街道 

伊奈備前守、高遠保科家、信濃国など室町時代・戦国期の歴史。とりわけ諏訪湖と天竜川流域の歴史の探索。探索者 押田庄次郎。

匝瑳の善龍寺?(茂林寺 4) (転記4)

2019-08-19 14:29:17 | 歴史

匝瑳の善龍寺?

 

「正則の法名祥雲院殿は正則が下総で創建したという祥雲山善龍寺に拠るのであろう」---・実は、この文章に惑わされた。

 

 匝瑳に、「祥雲山善龍寺」は、いまあるのか?あるいは過去にはあったのか?

実は、今回の匝瑳での調査はこれが目的であった。「今あるのか?」は、ネット社会なっており調査は容易であり、結論は「なし」である。
問題は、過去には、匝瑳という土地及び周辺に「善龍寺」という寺院が存在したかどうかであるのだが、付近を聞き及んだ限りにおいて、存在した事実は確認できなかった。


さらに深堀する・・
寺院の創設には、開山と開基を必要とする。開山は「僧侶」で、開基は仏閣設立の費用を賄うスポンサーがいることが前提となる。まれに、開山の僧侶が仏閣創設の費用を捻出場合もあることはあるが極めて稀である。
この場合の開山は、寺の名前が「善龍寺」であることから、「廣琳荊室」であることに疑問を挟む余地はほとんどない。


しかして、開基であるが、・・・
ここで、多胡時代の「保科家」の履歴を時系列に羅列してみる・


~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
・1590年(天正18年):徳川家康の関東入封に従い、信濃:高遠城主保科正直が下総国多胡へ1万石で移籍。
・1591年(天正19年):正直、九戸政実の乱鎮圧に出兵・
          :(保科正則(天正19年9月3日)死去
・1592年(天正20年:文禄元年):正直、正光、秀吉の朝鮮出兵の後詰として肥後名護屋城へ出陣(--・文禄の役)。
・同年、正直病気のため「正光」へ相続。保科正光が保科家の当主となる。
・1593年(文禄2年):朝鮮出兵・休戦
          :京極高知信濃飯田城城主・箕輪(高遠城管理)
          :保科正俊( 文禄2年8月6日(1593年9月1日))死去
・1595年(文禄4年):豊臣秀次切腹事件・
          :木曽義昌が下総網戸において死去・
          :小笠原貞慶が下総古河において死去・
・1597年(慶長2年):再び朝鮮出兵が開始(慶長の役)・
・1598年(慶長3年):豊臣秀吉死去・
          :慶長の役終結・
・1600年(慶長5年):家康・上杉景勝の会津征伐へ進軍・正光も参加
          :関ケ原の合戦」へと続く・
          :保科正光 関ケ原の戦いの時、遠江浜松城を守備・
          :保科正光 越前北之庄城に城番・
          :保科正光 高遠城に復帰(2万5千石
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

香取:樹林寺


さて、保科の多胡藩時代の城主は天正18年から数年「正直」であったが、相続以後の多胡藩はほとんど「正光」であったことがわかる。
しかもである、騒乱の最中・激動の10年間のほとんどを、「正光」は、家康の忠臣として、城主は領国を留守にしていたわけである。

この時留守を預かり多古の民政をおこなった保科家臣は、家老北原采女佐(光次)、篠田半左衛門(隆吉)、一ノ瀬勘兵衛らだったようだ。
病身で隠居した「保科正直」は、香取の「樹林寺」を祈願寺としていた記録が残り、高遠帰還の時は兄弟寺として樹林寺も連れ帰った。

臨済宗妙心寺派の宗派は高遠戻った時、同じ宗派の「建福寺」が保科家の菩提寺になり、「保科一族」の依る「樹林寺」につながったことから、筋書きは合理的とみられる。


多胡時代の1593年までに、一切の身上の露出をしない「保科正俊」はどうしたのであろうか。この件は、「保科正則」も同じであり、保科家多胡統治時代以後の、それも墓(供養塔)のみの露出である。そもそも保科正俊・父の保科正則は、確か「赤羽記」によれば、小笠原家三家の内訌に松尾系に与して駒場で戦死しているというこの疑問は、不思議として残る。

保科正則夫婦の供養塔(墓)?


諏訪神族の「名跡」は、諏訪祝一族も高遠諏訪家も保科一族も同じ名跡が間隔を置いて繰り返し継承されるという法則性がある。まるで歌舞伎や落語界や老舗商家の「名跡」継承の如くであり、故に歴史を紐解くときに解明を困難させる例が多い。
保科家では、正利から隔世で正俊へ、正信、正則など、高遠諏訪家では頼継などが例である。


こうして検証してみると、匝瑳地区における善龍寺の過去と現在の「存在」の有無に影すら見せないと同時に、開基は「正直」「正光」ではありえず、わずかの可能性の「正俊」も文禄2年に亡くなっているのが事実とすれば、開基の存在しない寺の創設は幻であったと結論せざるを得ない。


つまり ---
--- 正則の法名祥雲院殿は正則が下総で創建したという祥雲山善龍寺」は嘘であると結論する。


ここで「廣琳荊室」のこの時代の履歴を掲示して確認しておく。

龍澤山桂泉院


出典は【木の下蔭】---・
・廣琳荊室・・信玄家臣内藤修理信量の次男・
・天正十年(1582年)正月上州善龍寺丈室に於て宗脈を傳え則善龍寺に住職・(1582年:箕郷:善龍寺住職)
・的雄和尚の遺命によつて補陀寺に轉院す大壇大道寺駿河守政繁に逢つて厚くもてなさる(1582年:松井田・補陀寺12代住職
・天正十八(1590年)七月落城・大道寺政繁討死す・・遺骸を葬つて石牌を寺の西の岡に立つ。翌年(1591年)松井田の・・・本院殿閣を新城に移す。政繁の爲に新に塔院を記す。(大道寺政繁戒名=來炫院殿光淨清大居士:廣琳荊室が弔った」ということ)
・文禄元(1592年)二月亨寅長老に補陀寺を護りて當城(高遠城)の法堂院に退去す。
・其頃の城主内藤昌月兄弟なるに依つて・・・他邦の客貴賤城扉に入るをゆるさねば・・依て城内を出ていた町村龍ヶ澤に移る。
・則城主と邑民と力を合せて法堂院の殿閣不日に今の所に移す内藤昌月中興の開基となつて山を龍澤と改め寺を桂泉と號く。
・其後慶長九(1604年)・・五鴈遷寂す。門弟子師の遺骨樹塔を補陀(寺)善龍(寺)當寺(桂泉院)三ヶ所に分る。
-----
【木の下蔭】によれば、「廣琳荊室」と保科多胡藩との関係は一切出てこない。時系列から見ても、多胡・匝瑳に善龍寺を建立する隙間は一切見つからない。
ここで奇妙な事実は、まず箕郷に善龍寺を再建した後、松井田・補陀寺12代住職になった廣琳荊室は、戦死した大檀那:大道寺政繁を弔って墓碑と供養塔を建立し、焼けた補陀寺を再建した後高遠城に来ているということ。その時期は、家康が江戸入府し家臣がこぞって関東に移り住む時期と重なるのだ。保科正直が高遠城からいなくなる時期に、内藤昌月が城主であったという。内藤昌月が高遠城主であれば、弟の廣琳荊室を自分の城下に招くことは不合理ではない。


こんなことは起こりえるのか?
天正壬午の乱以後の整理の時期に、小田原北条翼下にあった内藤昌月は、真田vs北条の戦いの後「真田」に与したという事例が残る。このに秀吉が加わり、北条亡き後、上杉vs徳川vs秀吉の構図ができ、真田は、沼田を割譲する代わりに、代替えとして、信濃:箕輪(高崎の箕輪ではない)を宛がわれたようだ。その時の真田の命で執行官(代官)が内藤昌月だったら、高遠城主が「昌月」だった可能性があるかもしれない。
そして、高遠城の法堂院から、竜沢の桂泉院に移ったのは、京極高知が飯田城主になり、高遠城の管理も兼ね、管理が厳しくなったので桂泉院に移ったのだろう。


ここには、記載された年号と数年の単位の誤差があるのだが、調整のにおいを感じる。


「なんで”保科の供養塔”がこの寺にあるのか?」 茂林寺:3 (転記3)

2019-08-08 11:19:13 | 歴史

「なんで”保科の供養塔”がこの寺にあるのか?」 茂林寺:3 (転記3)

 

「保科御事歴」によれば、

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 >・保科正俊:永正8年(1511)- 文禄2年8月6日(1593/9/1)
     :異説・生:1509-没: 1593年
     :正俊:保科正則の子:法名・月眞
 >・保科正則:法名 祥雲院殿**榮壽***
   ・:祥雲院殿は正則が下総で創建したという祥雲山善龍寺に拠る
   ・:法華寺:大乗山法華寺:千葉県匝瑳市飯高571
    (祥雲山善龍寺の跡地/寺名改名?)に墓/供養塔あり
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
・茂林寺の供養塔は「保科正則」ということになる。「保科正俊」ではありません。

保科正則:法名 祥雲院殿**榮壽***(大乗山法華寺:千葉県匝瑳市飯高571)
「天正十九年辛卯年九月六日薨去(卯年九月参日との差異?)1591年9月3日に死去」とあるが、千葉:匝瑳市:法華寺にある供養塔(/墓)と比隠してみると、千葉:法華寺にある方は、「天正十九年辛卯年九月六日薨去」です。「奉再建元禄三庚午年海音比丘之」は保科家関係者の「海音」という尼さんが元禄三年に再建」したとあります。
この3日間の差異の意味することは何でしょうか。また供養塔の所在地の違いは、一体何を意味するのでしょうか?実際の死去は、9月3日で館林・茂林寺付近、、葬儀の場所は、匝瑳市/多古町辺り、祥雲がかかわる善龍寺?とか、が素直に読める。

 


では、戻って「法妙 祥雲院殿椿叟栄寿大居士」を見てみましょう。先述では、法名」と書いてあることから「祥雲院殿椿叟栄寿大居士」を法名としましたが、禅宗では「戒名」とするのが一般的のようです。現在違いを意識して使う場合は、宗派僧侶を除いてはないようですが、つまりほとんど同義で使われているが、死後の世界観に差があり、法華宗では「戒」を行わないのが流儀といわれているので、前述を訂正し、以後曹洞宗に倣って「戒名」とします。
戒名・・
戒名は、上から「院殿号・院号」「道号」「戒名」「位号」といった順番で漢字のみの列挙で構成されます。中国伝来のようです。
 1:「院殿号・院号」 ・祥雲院殿 ショウインインドノ
 2:「道号」 ・椿叟  チンソウ
 3:「戒名」 ・栄寿  エイジュ
 4:「位号」 ・大居士 ダイコジ

  ---・私の貧しい読解力からすれば、生前の業績をたたえるよりも、長寿を讃えているような戒名である。


祥雲院殿」はおそらく曹洞宗の寺院の建立にかかわっていると思われます。正則の法名祥雲院殿は正則が下総で創建したという祥雲山善龍寺に拠るのであろうということです。つまり「善龍寺」の開基が「保科正則」ということです。
では、開山は誰でしょうか。寺院創建の時の僧侶は誰か?ということです。
荊室広琳」という名前が浮かんできます。内藤昌月」の実弟とあります。保科正俊」の子供との記述がどこにもありません。内藤昌豊の子の記述はあります。


荊室広琳」アラカルト・
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
内藤昌月」の弟、上州:長生寺にて剃髪、その後松井田の「補陀寺」12代住職になる。時に、弟「内藤昌豊・昌月」は武田信玄に上州箕郷・箕輪城城代を任され、焼失した箕郷・善竜寺の再建を命じられる。善竜寺再興の際招じられたのが、昌月の弟「荊室広琳」。再興した時に、善竜寺は「満行山」と山号が改められた。
「木の下蔭」---
---・文禄元壬辰年二月九日亨寅長老に補陀寺を護りて當城の法堂院に退去す其頃の城主内藤昌月兄弟なるに依つてや住院幾ほどならずして緇白其徳を仰ぐ事厚し然れども城内の事なれば他邦の客貴賤城扉に入るをゆるさねば廣く法化をなすこと能はず依て城内を出ていた町村龍ヶ澤に移る或る夜一人の老叟來て戒法を請むことを乞ふこれを授く須叟にして老人忽ち失せて桂の池の邊りに恍惚として白龍現じ謝して岩窟に清泉を出して法施に酬むと清泉出づ貴賤手に拍つて稱す禪師を信仰す則城主と邑民と力を合せて法堂院の殿閣不日に今の所に移す内藤昌月中興の開基となつて山を龍澤と改め寺を桂泉と號くーーー・
文禄元壬辰年二月九日は、1592/02/09のことである。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


「その頃(1592)の城主内藤昌月兄弟=(保科正直)なるに依つて」とあるのだが、この城は明らかに高遠城であり、いつもお世話になっております。一般的には、保科家が、房総:多胡から高遠に帰還するのは、「関ケ原の合戦」以後としている歴史書が多い中、保科家の伝手で「荊室広琳」が高遠城内:法堂院の住職になり、その後、板町:桂泉院( 高遠町東高遠 2322)にを移したとあります。
これは不思議なことです。謎??
内藤昌月の没年は1588年(天正17年)で、小田原北条が、秀吉に攻められて落城した年号に一致していますから、この戦いの一連のどこかで戦死したものと思われますが、詳細の記録をいまだに読みません。
内藤昌月が戦死した後のことですから、「荊室広琳」を、まだ正式には保科家に戻っていない高遠の地へ招くことができるのは、保科正直が病身であることを考えれば、保科正俊以外考えられません。その保科正俊も翌文禄二年に死去します。
「保科正俊」は、歴史署の多くに記載されているように、本当に多胡で死んだのでしょうか?多くの歴史家は、存在を危うくした記録を点検照合することは当然できませんが、存在している古書の時代照合をサボタージュしなかったのでしょうか。


松井田:補陀寺 写真

 

補陀寺:開基・大道寺某の墓・北条側にあった松井田城主は、小田原北条敗北で散ったようです。

墓を作ったのは、補陀寺12代住職:「荊室広琳」だそうです。


「荊室広琳」という文字を眺めています。
「荊室広琳」は内藤昌月(保科正俊の三男から内藤家に養子)の弟といわれています。内藤昌月は、内藤昌豊の実子という説もかなり強く残っています。
板町:桂泉院の近く、芝平辺りを水源とする山室川が流れています。山室川の下流に近く、三峰川と合流する手前のほうに、「荊口」というところがあります。この「荊」と「室」が「荊室広琳」に使われています。このことはあるいは偶然かもしれまん。あるいは何かを暗示しているのかものしれません。


高崎・箕郷:満行山善龍寺 写真

 

 


内藤昌豊のこと・
参照:「探 三州街道」より
1:研究ノート「工藤昌祐・昌豊兄弟の”放浪”の足跡」

https://blog.goo.ne.jp/shochanshochan_7/s/%E7%A0%94%E7%A9%B6%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%88%E3%80%8C%E5%B7%A5%E8%97%A4%E6%98%8C%E7%A5%90%E3%83%BB%E6%98%8C%E8%B1%8A%E5%85%84%E5%BC%9F%E3%81%AE%E2%80%9D%E6%94%BE%E6%B5%AA%E2%80%9D%E3%81%AE%E8%B6%B3%E8%B7%A1%E3%80%8D

2:伊那の工藤氏について 

https://blog.goo.ne.jp/shochanshochan_7/e/0a8381a2698bd4b0159acdced0202646

 

結論は急ぎません。
「法名 祥雲院殿**榮壽***」(=保科正則)と「荊室広琳」と「内藤昌月」は、事歴を確認すると深い関係性を見出すことができます。
しかし、ここには保科正俊、保科正直、保科正光との関係性を見つけることはできません。そして、多胡時代の「保科正則」と「保科正俊」も行状も確認できていません・(保科正則」は夫婦の供養塔(墓?)のみを残しています。「会津へ移設」されてしまった故か?今では房総・祥雲山善龍寺の跡さえ多胡周辺で見つけることができません。
さらに言えば、高遠でも会津でも、藩主保科家の菩提寺は、臨済宗の建福寺になり、曹洞宗:善竜寺系統の昌月、広琳、正則と血統が違うのではないかと思えてきます。
さて、茂林寺の「法名 祥雲院殿**榮壽***」の供養塔に話を戻します。つまり、茂林寺のこの供養塔の誰が建立したかということですが・・上州に一番関係が深い身内の「内藤昌月」は、天正十五(1588)年に亡くなっています。保科正直は、病気で保科家を「正光」に譲って療養中のようです。保科正光は、天正18年(1590年)の小田原征伐にも参加し、天正19年(1591年)の九戸政実の乱の鎮圧にも参加しており、多忙な日を過ごしていたようです。可能性が高いのは、残り保科正俊と荊室広琳のようです。古文書がないので断定できませんが、この「二りながら」の作業ではなかったjかと・・・。そして本流の正俊は、しばらくして死去し、本流の宗派・臨済宗・妙心寺派の寺に埋葬されたのではないかと・・・
荊室広琳は、松井田の補陀寺の第12代住職でもあったわけで、天正18年(1590年)の小田原征伐に関連して、北条側の「大道寺政繁」の松井田城が攻められて落ちており、補陀寺の大檀那の大道寺の供養で忙しかったようです。ちなみに、曹洞宗寺院の最初は、松井田・補陀寺であり、茂林寺は、補陀寺と兄弟寺(古川和尚談)だと思っていいようです。


でも、なんで「茂林寺」なのか?がいっこうにわからない。


(今回・・松井田:補陀寺と高崎・箕郷:善立寺へ行ってきました。「保科正俊」の墓は見つけられませんでした)
参考文献:平山優・真田三代 ・・保科正光は真田昌幸の婿に当たります。この書により、上野・信濃の「天正壬午の乱」を再確認・


・保科正直:天文11年(1542)- 慶長6年9月29日:(1601/10/24)
・    :保科正俊の子:法名・長元院:埋葬寺・長元院:
・    ;長元院:東京都港区虎ノ門3-15-6:浄土宗

・内藤昌豊(「内藤昌秀」)生:1522年 - 没: 1575/6/29
・内藤昌月:生・天文19年(1550)- 没・天正16年5月25日)(1588/6月/18)
・    :戒名:陽光院南雲宗英
・    :埋葬時・箕郷・陽光山善竜寺(満行山善竜寺)
・保科正則:      :法名。榮壽 榮壽
・    :祥雲院殿は正則が下総で創建したという祥雲山善龍寺に拠る
・法華寺:大乗山法華寺:千葉県匝瑳市飯高571(祥雲山善龍寺の跡地/改名)


「消えた槍弾正の墓の行方探し?」  茂林寺 :2 (転記2)

2019-08-08 11:17:30 | 歴史

「消えた槍弾正の墓の行方探し?」  茂林寺 :2 (転記2)


さて、本願・
ここに来た理由は、下記の文を目にしたからに他ならない。


参照:---- ・天正19年(1591)9月6日に正則、文禄2年(1593)8月6日に子の正俊が亡くなる。
それぞれ上州館林の茂林寺や内藤昌月父子墓のある箕郷善竜寺に墓があるとも伝わって ・ ----・保科正則夫妻の墓 飯高法華寺:▲大乗山法華寺の保科正則夫妻の墓・----(to KAZUSA)
本当に、保科正俊」の墓が、茂林寺にあるのだろうか?と来てみたわけである。内藤昌月父子は、厩橋(高崎)の箕郷、--・箕輪城からも、保渡田城からも、案外遠い館林の地・・

 ここで、歴史好きにはある程度メジャーだが、普通は「知る人ぞ知る」ぐらいの「保科正俊」について概要を説明しておく。興味の薄い人は、・・ままに。

保科正俊は -----・戦国時代の武将。保科正直、内藤昌月などの父。はじめ、高遠頼継の家老。後に武田信玄の家臣となった。信玄の戦役に務め、「槍弾正」の功名を挙げる。子息:保科正直は家康の家臣、家康の養女を妻に迎えた。正直の子の保科正光の妻は真田正幸の娘、子ができなかったので三代将軍:家光の弟:正之を養子に迎え、やがて保科正之は会津松平藩の祖となり、家光の幕政を助ける。内藤昌月は、正俊:息から内藤昌秀(昌豊)の養子になる。内藤昌豊は、戦国時武将。信玄の家臣で武田四天王の一人。戦上手と言われ、敵城を自分の軍も相手の軍も損なうことなく幾つも落としたという伝承の持ち主。小笠原亡き後の松本城の城代を務めた後、厩橋(今の高崎)の城代を務める。厩橋時代の居城は、保渡田城か箕輪城。・-----
-----・保科正俊は、織田信長の「武田攻め」で高遠を追われ、息子のいる厩橋(高崎)に落ちる。隠棲先は保渡田城と思われる。信長横死のあと内藤昌月の兵を借りて、息:正直とともに高遠城を奪還し、すぐに家康の家臣になる。秀吉の世に、後北条攻めがあり、家康は、五国太守から関東:江戸へ入封される。家臣も随伴。保科正直は、房総:多胡へ1万石で入封される。この多胡時代に、正直病気のため、息:正光に相続。正俊は、正光が多胡城主時代に没。・-----


茂林寺・門前風景


門前の土産物屋の店は寂しく、うどん屋は店を閉めている。寺が、格式が高そうなのに比して、これである。
それはさておいて、寺門をくぐると、茶釜の狸が参道の両脇に並列して迎えてくれる。壮観である。

 

 

左手が墓地のようである。左手の墓地に足を踏み込むと、手前の墓は真新しいが、奥へ行くにしたがって、古びて苔むしたような墓石が散見できる。あればあの付近だろうと当たりを付けて寄ってみる。古いのの大方が、居士:大姉の二つながらを刻印した夫婦募石であり、対象から除外・・それに墓石が古いのは、刻印が崩れて、天正や文禄の文字が読み取れない。中には宝篋印塔らしきもあるが、供養塔の場合が多く、たまに墓塔としても扱われるという。文字の判読が能わず・・


半ばあきらめ、御朱印を記帳してくれるご婦人のところへ行き、「ここに戦国時代の保科正俊の墓があると噂できてみたが、知らないか」と尋ねてみた。
暫くして、ご婦人は、この寺に住職を連れてきてくれた。

 


茂林寺の住職によると、どうもそれらしき塔があるという。この塔を訪ねて、高遠から人が調査に訪れ、「保科」に関連がありそうだから塔を高頭に持っていくといったらしい。かなり乱暴な話である。
住職は、その塔に案内してくれた。


その塔は、「宝篋印塔」に近いが「宝篋印塔」というには不足物があるようで・・住職に言わせると、長年の歳月で、塔基下方部が損壊したのかもしれないという。「宝篋印塔」が墓でないとは言い切れないが、供養塔である場合が圧倒的に多い。

 

刻印された文字は、私には・・ところどころ・・しか判読できないが、さすが和尚・・は、なんとか判読してくれた。
それが以下である。

             

・「祥雲院殿椿叟榮壽大居士」は保科正則の法名である。正俊ではない。

でも、なんで、「保科」の供養塔(墓?)が茂林寺にあるのか?

  -----・次回に解析を試みます。また、茂林寺住職・古川正道氏の丁寧な応対、協力と判読に感謝いたします。


茂林寺 :1  (転記1)

2019-08-08 11:15:00 | 歴史

茂林寺 :1  (転記1)


「蝶々の 婦ハリととん多 茶釜哉」 一茶


 ・・・> 「蝶々の ふわりと飛んだ 茶釜哉」



茂林寺は「狸」が出迎えてくれる「面白い」寺です。


室町時代中期の応永33年(1426年)に開山。山号「青竜山」

寺院開創の創立者を「開基」、開創僧侶のことを「開山」というが、茂林寺は開基」開山」が同じで「大林正通禅師」というらしい。「開基」と似た言葉で、別当」とか大檀那」というのもあるが、これは経済的な協力、つまり「スポンサー」と理解したほうがよい。


この寺の周辺は沼が多く、館林駅近くは「城沼」がありそこの「躑躅ヶ丘公園」は躑躅の名所であり、この寺の裏側の「茂林寺沼」は自然の宝庫である。さらに、白鳥が飛来するという「多々良沼」もあり、利根と渡良瀬に挟まれたこの地は、この両川の洪水が乱流し「沼」を残したという説が残っている。おそらく本当だろう。


今は「花」の季節でもないし「花」を見に来たわけでもない。だが、この沼の多き付近は、つつじ」を始めとする花の名所が多い。季節には多くの見学者を集める。


「狸」見学も副業である。

 

目的ではないが、折角なので馴染んでいくつもり・。ちなみに、ここの「狸の置物」由来は、童話:「分福茶釜」の発祥の地に因するとされている。

 

(「分福茶釜」割愛)


雑記:保科正則と正俊 覚書:Ⅰ

2016-09-30 03:07:54 | 歴史

雑記:保科正則と正俊 覚書1

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しばらく、命題のテーマを休んでおりました。
新たなる”史実の発見”がなかったこともあり、その時代の、「荒川家、保科家の周辺」の諏訪家や小笠原家の理解を深める作業を少し続けていましたが、違う方面が忙しくなり、忙しさにかまけて、”命題”の方は休んでおりました。
ある時、北信濃・長野・若穂保科に”延命寺”という寺があることを知り、この開祖のことを知る機会があり、開祖保正の遠祖は、諏訪・長久保から北信濃・保科の里へ流れた、と記載されています。しかし諏訪には長久保という地籍は、調べたが、昔も今も存在しません。しかし、伊那・箕輪の北限の小河内の隣に久保という地籍は存在します。小河内は、おそらく保科正俊の室・小河内美作守女の出身地。保科正直、内藤昌月の母でもあります。こうなってくると、武田信虎の配下に、保科七騎あり・・はがぜん真実味を帯びてきます。さらに、信虎の時代、保科正則は甘利虎泰の娘を室に迎えております・・甲陽軍鑑。甘利虎泰は武田信虎の腹心とくれば、同時代の高遠・諏訪頼継の家老の保科正則と別人格が浮かび上がってきます。
この複雑な部分を、年代や活動地域や姻戚関係を整理しながら、解明しようと思います。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

保科家系譜(to kazusa)引用

◇保科正則の項

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●保科正則(まさのり。弾正忠、築後守)
  ……信濃国高井郡保科に生まれ、これにより保科(ほしな)を称号とした説もある。
  ・長亨年間(1487-88)に村上顕国に攻められ、父・正利(永正3年/1506没)と共に一時伊那郡高遠の別邑に退く。
  ・藤沢城を居とし、高遠氏(保科氏と同じく諏訪祝系)に従い藤沢の代官となる。天正19年(1591)9月6日没、法華寺に墓。
 ├──[女子] 畑(野)伯耆守室 ⇒山田伯耆守室?
 ├──[女子] 上林但馬守室
 ├──[正俊]→嫡子:
 ├──[甚右衛門] ※上杉家臣保科略系譜の権左衛門「保科弾正忠ニ男 豊後守正信 天正十年没」と同一か?
 ├──[女子] 小原美濃守室
 ├──[女子] 秋山備後守室
 ├──[新右衛門] 兄甚右衛門と同母
 └──[女子] 春日河内室
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 
 
 研究:各書に記載された事象を箇条書き列記・
 1:畑野伯耆守、畑(・)伯耆守 波多野、秦野、幡野、波田野、畠野 ・・・不明
  ・赤羽記付録に、畑(山田)源左衛門=山田伯耆守は婿という
  ・畑 は”火”と”田”を分解して眺めれば、”山”の崩し字が小さくて”火”とも読め、隣接していたため誤読されたのであろう。そうとすれば、畑伯耆/畑野伯耆は誤読で、不明なのは頷ける。山田伯耆・正。
  ・ ・・・山田氏は高遠頼継とともに、天文14年(1545年)に武田信玄に降ったとみられるが、天文18年(1518年)伊那衆が武田氏に叛き金沢峠で戦ったとき、山田新左衛門が武田氏と戦って討死している。新左衛門の子山田弥介は武田氏に従って二十騎の将となった。・・・ 説明:山田城は三峰川の南岸、下山田集落の南側の山にあり、南の山塊から北東へ張り出した尾根の先端頂部に築かれている。・・・源左衛門?新左衛門?伯耆守?
 2:上林但馬守
  ・一瀬城近く、円通寺境内。伊那市長谷市野瀬1139。
  ・墓の主は「上林但馬守女」とあり、一瀬城三代目城主「一瀬勘兵衛直重」の母にあたる人
  ・・・・>頼次の家臣は上林上野入道と保科筑前守殿両人也・・・
  ・・・・高遠頼継や保科・神林両氏ように、所領を新たに宛行い、高遠の代官として ・・・
  ・上林上野入道と上林但馬守が同族かどうか不明・上林と>神林が同一かどうか不明・
  ・ ・・・高遠頼継の老臣に「上林上野入道」があり、殿島の地頭・・・
  ・上記から、上林上野入道は、高遠・殿島の地頭で殿島に住んでいた
 3:甚右衛門:保科弾正忠正則ニ男 豊後守正信 天正十年没?保科正信?
  ・保科正信 北信濃に在か?保科正俊の弟/兄?
  ・上杉の家臣・上杉方・稲荷山城城代(天正壬午の乱の時期):>保科豊後守正信:1584(天正12)
  ・保科豊後守佐左衛門(すけざえもん/権左衛門とも?/保科左近将監?
  ・正俊(武田)と正信(上杉)は敵として対峙したのか?異母兄弟なのか?父・正則は同一人物なのか?
 4:小原美濃守:>小原美濃守・武田家臣の小原広勝は小原丹後?美濃ではない。高遠・小原城城主(鉾持神社三峰川挟んだ対面)の係累か?「朝寝朝酒朝湯が大好き」な小原庄助さんの六代前の祖
 5:秋山備後守:春近衆の秋山だと思うが不明?
 6:新右衛門 兄甚右衛門と同母
  ・保科正則の次男の与次郎が、春近から藤沢台に移住し北村家の祖になった。
  ・新右衛門と与次郎は同一人物か?
 7:春日河内 伊那部左衛門尉重親か:この場合、個人の生没からの年齢が不明なので特定できず・
  ・磔になったのは春日河内守、または伊那部新左衛門か
  ・春日城主には春日河内守昌吉が就いた。・昌(正)の字から推測すれば、正則の娘の子・孫の可能性高。
 ・正則の子、正俊の兄弟姉妹を分類すると、異母兄弟の可能性と、異質の正則の2つの像が浮かび上がる。
 ・恐らく、前期正則と後期正則の継承であろう。
 ・前期正則の子は、甚右衛門と新右衛門。
 ・証は、状況証拠だが、長亨年間(1487-88)に青年だった正則が、1591年に没というのは、齢100歳を超えてしまい、常識的に合理性がない。家名としての”名跡”を継承する形で”正則”は引き継がれたのであろうと推測する。
 8:甘利虎泰の子に(信益、信忠、信康、女(坂西左衛門室)、女(坂西左衛門室)、女(保科正則室)、女(鎮目惟真室):虎泰の生没?
 ・> 甘利虎泰は戦国時代の武将:武田氏の譜代家老:武田二十四将、信虎時代の武田四天王。
 ・>女(坂西左衛門室):>坂西左衛門は、飯田城城代
  ・甘利虎泰の子信益、信忠、信康、
     ・・・娘 ・女(安中景繁室[2])、女(坂西左衛門室)、女(保科正則室)、女(鎮目惟真室)
 9:赤羽記付録の解析・
 ・保科正則は、小笠原の内訌に松尾小笠原家の援軍で参戦し、松本小笠原家との戦いで、1533年に、駒場において戦死したとの記載がある・
 ・高遠治乱記では、永正年中(1504-1520)諏訪信定が天神山に城を構え・・・”通説”では、高遠満継の時代・・・この時代に、信定(=満継)に反旗を翻した貝沼氏(富県)、春日氏(伊那部)を治め、・・・これらの反乱を治めるのに・・・功績のあった保科正則に、報償として彼らの領地が与えられて、ついには高遠一揆衆の中で一番の大身になった、と記載され・・・
 10:保科正則を筆頭として、玉井甚市、堀内土佐、山崎刀悦、轟玄蕃、海谷与五右、久保保正・・・保科七騎
 ・武田信虎の軍の中に、保科正則七騎あり

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◇本文・1:
武田信虎の臣・保科正則

「武田信虎の軍の中に、保科正則七騎あり」という記録があり、”保科七騎”もしくは”保科村七騎”は、保科正則を首領に、「玉井甚市、堀内土佐、山崎刀悦、轟玄蕃、海谷与五右、久保保正」の七名であったと記録されている。このうち、「玉井甚市、堀内土佐、山崎刀悦、轟玄蕃、海谷与五右」の五名は、他所に記録見つからないが、保科正則と久保安正は、幾つかの記録が残っている。
まず、久保安正だが、
 1:『長野市誌 第4巻』に「保科の郷士久保伯耆守保正の嫡子、保国が豊臣秀吉の家臣になっていたが、文禄4(1595)年7月関白秀次のあとを慕って高野山の奥山寺で自刃。保正は子保国の菩提を弔うために現保科小学校地籍に延命寺を創建。・・・『長野県町村誌 北信篇』の延命寺の項と久保伯耆守保正(以後久保保正)の名前あり。・・・文禄四年七月本村久保伯耆守保正開基、開山僧乗伯宗。・・・久保保正其子左京大夫保国と共に、諏訪郡長久保より来り、字引澤(比定できず)に住す。保科七騎の一なり。弘治(1555-1558)、永禄(1558-1570)中保科氏と共に武田氏に降り、後保国豊臣に仕へ、秀次自刃の時殉死す。)家傳の一刀を父保正に送る。保正其子保国の為に當寺を開基す。」
 2:『保科氏八〇〇年史』に久保保正の名前あり。・・・「永禄四年九月の第四回目の合戦は・・・、この戦いに加わって軍功を挙げた正俊が「保科村七騎」の一騎として信玄から感状を与えられているらしい・・・。(この中の久保但馬保正の子保国は後に豊臣秀吉に仕え、秀次自刃の時に殉死したと伝えられている)。
 3:久保保正(久保但馬保正)の名は確認できる・・・(『保科氏八〇〇年史』正則・正俊の生没年に関して、二人の同一人物説もある・・・という記録。)
 
さて、上記の記録の1:)~3:)までの真偽だが、まず武田信虎の活躍時期を確認したい。
 1:信虎生誕(1494/1498)~没年(1574)。
 2:守護・家督就任・永正4(1507)年~晴信からの追放天文10(1541)年。
 ・この期間に、保科七騎が信虎家臣であったことは確認されている。
さらに、武田信虎の重臣(家宰的存在)に甘利虎奏がある。この甘利虎奏の女(三女)が保科正則の室(妻女)になったという記録が残る。この記録も『系図纂要』『甲陽軍鑑』『保科御事歴』と複数の古書で、検証を担保されている。おそらく事実と認証してよいと思う。
 ・甘利虎奏の生没は、生誕:明応7(1498)年~死没:天文17(1548)年。確認できる子女は、男子2名女子4名であり、正則室(妻女)は三女である。
 ・ここで、精度の高くない仮説で虎奏三女の生年を想定してみると、三女は虎奏四子と仮設したら、虎奏十八の時婚姻として翌年一子、あと二年ごとに生まれたとして七年後に生まれた、となる。二年毎もかなり無理があるが、余裕をみても、7から10年後であろう。当時の結婚適齢期が15歳から20歳とするならば、また待たねばならない。これを条件に、三女の生年を想定すると<1528~1538>、適齢期は<1538~1558>になる。
 ・この時、虎奏三女の婚姻相手の保科正則の年齢を想定すれば、虎奏より若く、三女より年長であると考えるのが合理的である。あくまで常識の範囲での仮設の想定であるが、保科正則は、甘利虎奏より10前後若く、生誕は1510年前後(誤差±7)というところでしょうか。
 ・信虎追放のあと、信玄(晴信)家臣団の中に、保科正則の名前を見出すことはできない。
 ・代わりに、保科正俊の名前を、信玄家臣の中に見るが、この時期や経緯は明確であり、高遠頼継が、信玄に敗れた後の後年になる。
 ・上記の検証を証左にすると、『長野市誌 第4巻』の記述は、1:)は前半は信頼に足るもので、2:)と3:)は極めて怪しいと言わざるを得ない。1:)の後半の、「武田氏に降り」は保科正俊のことで、同一化の無理がある。
 ・この記事の前の保科正則は、記述が乏しく、遡って長享年間の北信濃・保科御厨までほぼない。
 ・したがって、なぜに武田信虎の家臣になったのかは、想像力を豊かにした仮説でしかなく信頼を欠くが、あえて私見を述べると、諏訪大社の内訌の時、下社・金刺氏と遠戚であった縁で与力を依頼された保科御厨の神官・荘官の保科氏が合力し、やがて敗れて金刺氏とともに流れて、甲斐の武田信虎を頼った。時は、永正十五年(1518)のことである。この仮説の流れが事実だとすれば、この時の保科氏が誰かは特定できないが(保科易正?)、信虎に仕えた保科正則は、下社に合力した保科何某の子息であろう。
 ・保科正則は、信玄の、信虎追放のあと、いづれの時にか、高遠・藤沢の保科正俊を頼った。以後、正俊と行動を共にし、最後に、千葉の多胡で生涯を終える。
 ・保科正則が、高遠近在に移り住んだ時期と場所の比定は、詳らかではない。密かに高遠近在・北林を思うが定かではない。
 ・・・保科正則は1591年に多古城で死んだ ・・・「ひっそりと立つ保科正則(左側)夫婦の墓・・・飯高寺化主日潮が供養塔・・・法華寺;[寺院];千葉県八日市場市飯高571;正則夫婦の墓 ・・・
 ・これと同じ戒名の位牌が、会津松平藩(保科氏)の菩提寺にあるという。あるいは西郷家(保科)の祖は、正則に通じているのかもしれない。
 ・・・久保保正は、信虎追放の時、信虎に随行していたと読むと合理的である。信虎は、まず駿河・今川のもとへ行き、やがて京に流れた。そして久保保正は、信虎と別れて、まず秀吉に仕えた後、秀次に仕え、子の保国は秀次の側近になり、秀次自決の時に殉死を選んだ、とすれば話のつじつまが合う。仔細は詳らかではないが、話の筋は大きくズレてはいないだろうと思われる。この部分は、資料の考証の担保がないところである。
 
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 
◇本文・2:
高遠満継の臣・保科正則
 

続く:本文未完・

 


豊丘村「神稲」と「佐原諏訪神社」について

2016-08-24 14:55:30 | 歴史

豊丘村「神稲」と「佐原諏訪神社」について

 参照:「再び、伊奈忠次の出自を追う。易次を熊城(蔵)の里へ。神稲。」 押すとコーナーが参照できます


佐原諏訪神社(借用)

以下の文章は、頂いたコメントに対しての私の考え方です。
長くなったので、ブログ本文に掲載します。

 
くましろ=神稲代、神稲の意味は、どこかで読んだ覚えがあります。
明治五年、付近の数村が合併し、「神稲」の村名が選ばれたときの由来が気になっていました。
 ・田村,林,伴野,福島,壬生沢の5つの村が合併してできた村名です。
 ・しかしその中にもともとに江戸以前から使われていた「神稲」の名前はありませんでした。
 ・「神稲」という意味深な名前が突然出てくるとは思えません。
 ・なにか、その地方に伝わる呼び名があるのではないかと疑っておりましたのですが・
 
 ・その一つが、神社の神領(荘園)です。ただこの場合は小さな疑問が残ります。
  >神社自体が大きな社格をもち、かつ神官が常駐していること。
  >この場合は、官製の意味があり、通常は記録が残っている場合が多い。
  >神社の神領は、神社の”神聖”から、当時の習わし・”まかない”・”経営”を直接自ら行うという例が少ないこと。つまり領主とか地頭とかの役割を自らは行わない。
  ・そこは、付属する寺に経営を任せる・別当寺ないし神宮寺がある場合とか。
  ・上記がない場合は、別当ないしは代官が経営する場合。
   --(伊勢神宮の荘園(御厨)代官)(諏訪上社の神領の代官)など。
  ・「佐原諏訪神社」は、それらの条件を充足する規模だったのでしょうか?
 ・「神稲」の神領の規模が大きくなくても、公に認められていなくても、その地域の内々で神領としてそう呼んでいた可能性も否定するつもりはありません。
 ・豊丘村の郷土史「豊丘村誌」を借りて読んだことがあります。しかし、「手形」の記載はあるものの詳しい記述はなかったと記憶しております。(見落としていることがあったらごめんなさい)。
 
 ・今一つが、壬生沢あたりに、いくつか古城がありますが、
 ・その一つを俗称で”熊城”・・・呼び名が”くまじょう”とも”くましろ”とも呼ばれており、
 ・地域名を”熊城”とするにはあまりに直接的なので、
 ・博識の古老がひねって”神稲”としたのではないかと・・・
  ・・・そうすれば、壬生沢に残る”逸話”とつながりストーリーができる、
  と勝手な想像を掻き立てたのは事実であります。
   
  ・可能性はありますが、証拠立てる史実を見つけることはできませんでした。
  
 ・三つめは、この地域には”垣外(=ガイト)”という地名が散在します。たぶん”柿外土”も垣外の文字崩れ、別名と読めます。
 ・中宮という地名も見えます。
 ・垣内と垣外は、”聖なる地”の内部と外部の区分の場合が多い。”聖なる地”は通例は、仏閣よりも社格(神社)の方が多いそうです。一般人は、垣外にしか住めません。
 ・それと、中宮との関係も見えてこない、のですが、かつて、この地方の何処かに、信仰を集めた規模の大きい神社(あるいはそれに類するもの)が存在したのではないか、と暗示させます。
 ・これについての、歴史的考察を目にした覚えがありませんので、歴史研究されなかったのでしょう。 ・・・地名に残るということは、”かって存在した可能性”は、かなり高いと思えます。
 ・歴史から消えたのは、武田・知久の戦乱以前の、戦乱で焼失(消失)したのかもしれません。
 ・「武田・知久の戦乱」は、記録がかなり残っているので、古文書の焼失は否定できませんが、建物の焼失の中にはそれらしきはありません。
  
・とにかく、「神稲」という意味深な名前が突然出てくるとは思えません。
・ここらへんの事情は、地元の古老はご存知かも、と思いましたが、なにやと忙しく過ごし、失念しておりました。
・もしご存知なら、あるいはご存知の方とお知り合いなら、是非に教えて、と願うものです。

 ・・・いただいたコメントに対して


小笠原家と六波羅探題

2016-06-05 14:12:54 | 歴史

 

笠原家と六波羅探題


 

六波羅探題の成立

六波羅探題の成立は、「承久の乱の戦後処理」の必要から生まれた。したがって、時期は承久三年(1221)のことである。
背景は、「承久の乱で、「後鳥羽上皇方に加担した公家・武士などの所領が没収され、御家人に恩賞として再分配された。これらは、それまで幕府の支配下になかった荘園で、幕府の権限が及び難い西国に多くあった。再分配の結果、これらの荘園にも地頭が置かれることになった」。とはいえ、西国の豪族の勢力が、完全に削がれた訳ではなかった。何か事あらば、西国の豪族が、朝廷側と連絡を取りながら反抗に出ないとも限らない。承久の乱の戦後は、混乱のさなか、このような気運がかなり残った状況であった。
そこで、「幕府側は朝廷方の動きを常に監視し、これを制御する必要が出てきた。朝廷の動きをいち早く掴める白河南の六波羅にあった旧平清盛邸を改築して役所にし、北条泰時・北条時房の二人が六波羅の北と南に駐留してこの作業にあたり、西国の御家人を組織し直して京の警備・朝廷の監視・軍事行動などを行わせた。これが六波羅探題の始まり」である。

六波羅探題の目的
 1:「幕府側は朝廷方の動きを常に監視し、これを制御」する
 2:「西国の御家人を組織」して六波羅探題に組み込む
 3:「京の警備・朝廷の監視・軍事行動」
 おしなべて、六波羅探題は、鎌倉幕府の京都・西国への治安政策とみてよいと思う。
 
六波羅探題の組織
六波羅探題は、警察・軍事機構の役所であり、役職であった。後に建物自体も六波羅探題と呼ばれるようになる。
・この「探題」という役職はは執権・連署に次ぐ重職とされた。
・「探題」は、伝統的に北条氏から北方・南方の各一名が選ばれて政務に当たった。
・「探題」には北条氏一族でも将来有望な若い人材が選ばれる事が多かった。
・「探題」の任務を終えて、鎌倉に帰還後には執権・連署にまで昇進する者が多かった。
・「探題の」の下部組織には、引付頭人、評定衆、引付衆、奉行人などがあった。
・---「探題」は、鎌倉の組織に準じた下部組織などと同様。

 *引付衆 ・・・領地訴訟の窓口役人。
 *引付頭人 ・・・引付衆のヘッド。
 *評定衆 ・・・六波羅探題内での裁判官兼行政機関の長。
 *奉行人 ・・・右筆方とも呼ばれ、室町幕府の法曹官僚。
 ・---時代の変遷とともに、引付衆の役割が有名無実になり廃止される。
 ・---時代の変遷とともに、右筆方の知識レベルの高いもの、実務能力の高いものは、裁判の判決文の原案や奉書・御教書などの作成にかかわり、政権・政策の作成に関与し、将軍側近になるものも多かった。

この組織形態は、鎌倉幕府の組織形態で、「六波羅探題」も同じ形態で作られたようです。東国と西国との地域分割とみることができそうです。ただし「六波羅探題」の下級官吏は西国出身者が多く、しかしその上官に位置するヘッドは、東国の有力な鎌倉御家人が占めていたことが微証ながらあったと記載されています。

*脱線・・・時代が変わって室町時代になると、この奉行人の一人に「諏訪円忠」が居ます。前北条側の諏訪一族の人です。面白いのは、室町幕府に反抗する旧体制派の牙城の諏訪神族の一員で、なおかつ南朝の強力なサポーターの諏訪上社の神党の一員です。にもかかわらず、諏訪円忠は室町幕府の優秀な官僚の「奉行人」であり、末は右筆にもなります。・・・この諏訪円忠が、南朝側に立って、幕府から目の敵にされて、崩壊寸前になった諏訪上社を、幕府の側から立て直していきます。・・・このパラドクスは非常に面白いストーリーだと思います。

以上が、「六波羅探題」成立の時期と組織の概要であるが、この時期の京都における「六波羅探題」を構成する鎌倉御家人の内容はどのようであったかが、京都に拠点を築いた「松尾小笠原家」の成立と多くかかわる。

小笠原書院(現・小笠原資料館)

論文「探題・評定衆・在京人」より -・「六波羅探題の研究」森幸夫

この論文によれば、承久の乱で勝利した鎌倉幕府は、京都に駐留したにもかかわらず、長井、藤原、小笠原家を「鎌倉中」として「在京」の上位に置いたようである。この「在京」中の御家人は畿内・西国の豪族も混じり、ランクがやや落ちて上官が「鎌倉中」御家人であったと指摘されている・個別検証では、「鎌倉時代の信濃御家人」(「長野」p185、1993)

・小笠原氏は、承久の乱後しばらくは畿内の有力守護として存在し、小笠原入道跡(長清)は畿内と東海道数国(豆・相・甲・遠・淡)の軍事的統治下を意味する管領の地位として、東山道軍大将としての存在を誇示したものと思われる。
以後、1250年代になると「六波羅探題・在京人」の中に小笠原の名前が見えるという。
・小笠原長径:宝治元年(1247)5月9日条・在京人(六波羅評定衆)・・「葉黄記」
・小笠原十郎入道・同孫二郎入道(小笠原長政)在京人(六波羅評定衆)・・「建治三年記」(1277) 
 が確認されている。
 *孫二郎は小笠原長忠の別名でもある。*小笠原十郎は小笠原行長(藤崎行長?)この場合、十郎・孫二郎が併記なので同時代と考察すれば、長政は行長の在京人(六波羅評定衆)を引き継いだとも推定できる。
・この時期に、小笠原長径は阿波国守護ともなっている。(有力御家人の長井氏は備前備後周防、藤原氏は安芸周防の守護になっている)

・・・森幸夫「六波羅探題の研究」は「群書類従」研究を論拠にしています。「群書類従」は江戸時代に編纂された・古文書や資料散逸を惜しむことから集められた資料集です。「伝聞」や「語り継ぎ」があるにしても、恣意的な婉曲は意図されていないこと、権力への諂いも感じられないことから、資料としては信頼できると判断しています。

上記の論文を是として参考すれば、承久の乱の平定で多大の功績あった小笠原長清・長径が、それ以後も京都に在住して京都、畿内、西国に睨みを利かして、軍事的に貢献があったことが検出できそうである。
それで、六波羅探題の創立の時、初期から関わり、すでに松尾小笠原長径から「六波羅探題評定衆」という位置づけであり、以後「松尾小笠原」一族が一貫として「六波羅探題」にかかわり続けたという痕跡の証であろうと思う。

「六波羅探題」は当初の目的は、西国の豪族の反抗の監視があり、朝廷の幕府への反目の監視と調停があり、京都の治安維持があり、あと豪族の不満の訴訟の裁判が役目であったが、時が経つにつれ、西国への監視が薄れ、領地問題の訴訟が多くなったようである。
そうすると、必然的に文官への依存度が増していく。
小笠原家は、歴代「右馬介」の職務を継承して、治安・警察機構を独占的に継承していく。ここを足場にして、「検非違使機構」を阿波小笠原家が、「右馬介」の職務と小笠原長清から始められた「小笠原流武家礼法」とで武家本流の底流に位置するようになっていく。---もう少し平たく言えば、京都治安維持の軍馬を管理し、独占的に「軍事・警察の機動力」に影響を及ぼし、さらに「礼法」は武家の棟梁たる「格式・儀礼」を定式化するのを助けた。武家の棟梁を「弓取り」というが、小笠原流礼法は、まさに「馬乗りと弓取り」において象徴的な意味を付与した。

以上を把握したうえで、質問の「小笠原長政は六波羅探題の評定衆であったことから、霜月騒動後に長政の子で在京御家人であった長氏が惣領に選ばれたという見解」については、特に否定もしませんが、すでに一族としての「松尾小笠原家」が京都「六波羅探題」に大きな流れから比重を占めていたから、というほうが筋道の精度が高いと思います。

足利高氏(尊氏の前)が、鎌倉幕府に反旗を翻す決心をしたとき、勝敗のポイントを「六波羅探題」の味方化が必須と考えて協力を依頼したのは、小笠原貞宗よりはむしろ貞宗の父・宗長の方だった、と何かで読んだ記憶があります。さもありなん、と思っています。

最後に、ここで注目したいのは、小笠原長径の復権です。
頼朝のあとの二代将軍の頼家の近習・五人衆の一人・小笠原長径は、「比企の乱」に連座して、公職追放・遠島・領地没収・・・(公的な罪状・吾妻鑑・実際は公職追放だけ・市川文書から類推)。これが、承久の乱で、東山道軍の大将・小笠原長清とともに親子で京都へ攻め上り戦功をあげます。
それだけでも、功績で名誉回復と公職復帰になったわけですが、・・・
この時,京都には「近習・五人衆」の一人・北条時房が戦後処理できていました。そして、「六波羅探題」の創設です。・・・「朝廷の動きをいち早く掴める白河南の六波羅にあった旧平清盛邸を改築して役所にし、北条泰時・北条時房の二人が六波羅の北と南に駐留してこの作業にあたり、西国の御家人を組織し直して京の警備・朝廷の監視・軍事行動などを行わせた。これが六波羅探題の始まり」である。
小笠原長径と北条時房は、血気盛んな若いとき、遊び仲間であり、政治的な議論をもした気心が知れた仲間です。北条時房の南・「六波羅探題」に、おそらくは頻繁に出入りしたのでしょう。当然「六波羅探題」の基盤・基礎つくりに協力を惜しまなかっただろうことが想像できます。小笠原長径が「六波羅探題」評定衆に名前が載っていることからも、時房との関係が悪かったなどとは到底考えられません。おそらく、松尾小笠原家と「六波羅探題」の関係はここから始まったと思われます。ただ、北条時房と小笠原長径との京都での関係を示す資料が見つかりません。状況証拠のみです。したがって、この部分は論文としては成立しません。

小笠原長清が承久の乱で、東山道軍の大将として京都に攻め上がり、複数の戦功をあげ、褒賞を受けて同行した子息を各地の地頭にしました。伴野家、大井家、阿波小笠原家、松尾小笠原家、そして甲斐の長清の出身地にも子息を宛がいました。この中で、阿波小笠原家が一番の大身です。ここに名前が刻まれているのは、公には小笠原長房ですが、その過程はかなり複雑に変遷しています。阿波小笠原家成立時点では、長房は元服前の幼少(8歳)です。長房は、小笠原長清の孫で、長忠の弟です。そして「承久の乱の東山道軍」には、長忠は参軍したが、長房は幼少のため参軍しておりません。まず、阿波国守護には、まず長清がなり、長径に引き継がれ、長忠がなるという筋書きが出来上がっていたものと思われます。しかし長忠が信濃・松尾へ帰ることを希望したため、時を稼ぎながら長忠の弟の長房を急遽、長清の養子に仕立てて、阿波国守護にしたという経緯が見えてきます。この経緯とその後の長清の子息の配置を読むと、小笠原長清は、長男・長径を一番信頼しており、長清⇒松尾・小笠原長径以下の系流が長清の後継(本流)だろうとという痕跡が見え隠れしています。・・・ということを、付け加えておきます。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
上記については、質問に対しての回答として書きました。
前後して、図書館に頼んでおいいた{中世関東武士の研究18巻の「信濃小笠原氏」」が届いていました。ざっと目を通した段階では、記述のように、拙論の方が詳しいだけでほぼ差異がないと思えます。
ただ違う部分、長径から貞宗までの小笠原の拠点が”甲斐”だとしているところは納得がいきません。小笠原長忠が松尾長忠と呼ばれていたことや、貞宗が松尾生まれだとするような、群書類従や吾妻鑑を否定することになります。このことの方が通説ですから、否定するなら否定するだけの根拠が必要と思われます。荒読みなので見落としがあったなら謝りますが、「木を見て森を見ず」ではないでしょうか。


松尾小笠原宗家の創立まで  第九話

2016-04-18 20:26:40 | 歴史

松尾小笠原宗家の創立まで  第九話

:だいぶ休んでいましたが再開します。ただし、このシリーズは今回で終了になります。:

ここでは、小笠原家の初期の信濃における、とりわけ南信濃での”ポジショニング”を明確にする作業をしてみたいと思う。
 ・まず初期の定義だが、七代貞宗は「信濃守護」として各種古書に記述が多いことから、曖昧な期間、長径(初代長清の子)長忠、長政、長氏、長宗(貞宗の前代・父)までとする。
 ・1:この間の経済的基盤の地頭などの背景、
 ・2:この間の地方自治としての税務・警察機能、
 ・3:この間の隣接国への治安軍事の機能、
 ・4:この間の幕府との関係性、
    ・・・特に、幕府との関係性は、長宗・貞宗をもって鎌倉幕府との関係を清算し、貞宗をもって、室町幕府との関係を創出する。この関係は、足利尊氏との”盟友”の関係として特筆される。
 ・5:その他。この間が”曖昧”なのは、記述されている事跡がかなり乏しいからで研究がされなかったわけではない。
 
小笠原家の南信濃への痕跡の最初は、小笠原長清の”伴野荘園”地頭ととしての登場である。この件については、一部に、佐久伴野庄の説があるが、前述で、伊那・伴野庄(現・豊丘村)と断定している。繰り返すが、佐久伴野庄と小笠原家との関係は、承久の乱の以後の”褒賞”によって、小笠原家の別家・伴野家が佐久・伴野庄に移り住んだことから始まる。

次に、南信濃に小笠原家が痕跡を残しているのは、小笠原長径と長忠である。小笠原長忠(長径の長子)は、南信濃・伊那松尾館で生まれたという記録が残る。

・・・「・嫡男。母武田大膳太夫朝信女。
 ・土御門院御宇建仁二壬戌四月二十六生於信州伊那松尾館。童名豊松丸。」・・・
   *・武田大膳太夫朝信は、鎌倉期初期の甲斐武田家の当主・武田信政の弟と見られる
   *・武田大膳太夫朝信女は、小笠原長径の室。長忠の母。
   *・・小笠原長義は、母・武田朝信女。長忠の弟。号下条四郎。修理亮。下條家の祖。・・・
 ・建仁二年(1202)鎌倉幕府将軍は源頼家。

ここから読み取れるのは、小笠原長径が、既に南信濃・松尾付近に地頭として存在し、併せて南信濃の伴野庄の地頭としてあった事実とそこから鎌倉幕府に出仕して奉公し、源頼家の側近として仕えていたと言うことである。この場合、松尾館には室・武田朝信女がおり、奉公先・鎌倉府には家女房(=妾)がいたという事実があり、それぞれ子をもうけていたということである。
小笠原長径が、「比企の乱」に連座して、源頼家の側近から放逐されたとき、当然隠棲した場所は、南信濃・松尾館であった。

小笠原長径が、「比企の乱」に連座して公職追放等の「お咎め」とは一体どんな内容であったか、気になるところである。源頼家の近習五人衆は、「小笠原長経、比企宗員、比企時員、中野能成、北条時房」の五人である。当然、比企一族の「比企宗員、比企時員」は誅されている。北条時房は、「比企の乱」に勝利した北条時政の子。「小笠原長経、中野能成」は、甲斐・信濃源氏の有力武将。そして、北条時房と小笠原長経は蹴鞠仲間で仲がいい。

後日、それも最近になって、『市河文書』が解明されて面白い事実が分った。
『吾妻鏡』では能成は頼家に連座して所領を没収され、遠流とされた事になっている
頼家の近習・五人衆の一人・中野能成は、「比企氏滅亡直後の建仁三(1203)年九月四日の日付で、時政から所領安堵を受けており、「比企能員の非法のため、所領を奪い取られたそうだが、とくに特別待遇を与える」という書状が残っており、幕府公式発表の『吾妻鏡』とは、実際の処遇が違うことが明らかにされた。
・類推すれば、小笠原長経への「お咎め」も同様であっただろうと思われる。
・北条時政・政子の甲斐・信濃源氏に対する配慮からなのか、小笠原長径の友人である北条時房が影で動いて助命したのかは定かではないが、比企一族に対するものとは明らかに違いが見られる。
・この部分については、あえて「類推すれば」、と断っているのは、この件に関する小笠原長径にかかわる資料が欠落しているからである。

頼家が病床についた際に、日本国総守護職と関東28か国の地頭職を頼家の長子一幡に下され、その後北条時政に委ねられた。
伊賀良荘は平安期には「尊勝寺領」となっていたが、鎌倉幕府の成立とともに、幕府のもとへ、そして北条時政が地頭になった。信濃国は、その関東御領国になったわけである。(*尊勝寺はへ平安末期の京都の祈願寺であるが現存しない。)
関東御領国・伊賀良荘の地頭ならびに信濃守護は、鎌倉幕府の執権・北条時政がなったわけだが、この鎌倉幕府の経済的地盤は当然ながら北条時政は名目であり、直接に統治した形跡は見つからない。当時の習慣であろうが代行が行われたのであろう。

ここであらためて「群書類従」の松尾小笠原一族の当主の役職を確認してみると、
 小笠原長径
 小笠原長忠
 小笠原長政
 小笠原長氏
 小笠原長宗
 小笠原貞宗
いずれも、「信濃守。信濃国守護。」の役職がある。「参州之管領」はあったりなかったり。
「信濃守」の役職の役割は、特定ができないが、「信濃国守護」は、本来は「信濃国守護代」ではななっただろうか、と推定する。
現地に赴かない名目の「信濃守護」の北条時政に代わり、税金の取立てと治安維持の警察機能を、小笠原長径以下貞宗の時代まで続けて、南信濃に君臨したのではないか。
「参州之管領。」については、参州(=三河)に”治安波乱”が起こった場合の平定責任の限定範囲を管領という役職で規定していたのではないか。
これらの軍事力の環境的裏づけは、大規模荘園の地頭でもないのに,南信濃ならびに信濃国で軍事的に優位に立ち、さらに京都の治安維持に、六波羅探題の信濃武士を束ねていたという「優位性」は、幕府からの警察権力の付与がなかったら考えにくいのである。(*・【一分地頭】鎌倉時代、地頭職の分割相続によってその一部分を持つ地頭。)
伊賀良庄の歴史を追っかけてみると、「吾妻鏡の文治4年によれば、最初は北条時政が地頭と推定され、弘安年間(1278~1288)には江馬光時が地頭代として四条金吾頼基を派遣し、四条頼基は殿岡に住んでいた。嘉暦4年(1329)には江馬遠江前司、江馬越前前司が見え、貞和2年(1346)には江間尼浄元が伊賀良中村を開善寺に寄進している。」建武の新政で北条氏が滅びて、ようやく伊賀良荘園の全域が、小笠原貞宗の手に渡った。開善寺もやがて「小笠原家」の菩提寺になる。
江間氏と小笠原氏の関係は、小笠原氏が軍事力を背景に、強奪や侵略をしたという記録はない。それどころか、小笠原一族の一部は、江間氏と婚姻関係を結んでいるところを見ると良好である。
それまでは、小笠原長径から長宗までの経済的基盤は、伊賀良庄の一分地頭として”松尾(島田)”に存在し、伊賀良庄から上がる税収入の一部も自由に使える立場だったのではないだろうか。
・南信濃・伴野荘園については、承久の乱まで、小笠原長清が所有していたが、承久の乱で、長清・長径の東山道軍に参軍した知久氏が戦功を挙げたので、褒賞として伴野庄を与えられ、その後伊具氏
(北条一族)が地頭として登場したとみるのが合理的である。

小笠原長径以下貞宗の時代までの松尾小笠原家の動向を探ってみる。
松尾小笠原家の当主の室・正妻だが、
 小笠原長径 武田大膳太夫朝信女 武田朝信・甲斐武田家の当主の弟
 小笠原長忠 片桐蔵人太夫為基女 片桐為基・伊那片桐郷の豪族
 小笠原長政 村上兵部国忠女 村上国忠・信濃・東信の豪族
 小笠原長氏 伴野出羽守長房女 伴野長房・信濃・佐久の豪族
 小笠原長宗 中原経行女 不詳:京在住か?一族の赤沢氏女説もある
 小笠原貞宗 藤原光義女 不詳:京在住か?
と、長氏以降が信濃国と関係性を見出せなくなり、京都の女性と思しきが室として登場する。

これは、霜月騒動で、小笠原宗家が、佐久・伴野家の没落により、小笠原長氏の時松尾・小笠原家に移り、幕府から「領土安堵と権限・役職」の確実なものをもらい、代わりに”奉公”の義務を負ったと考えられる。奉公の内容だが、長忠の弟・長房が阿波国守護で、京都検非違使を兼ねていたが手薄だったため、その補強の任が長氏以降に回ってきたと思われる。
このようにして、松尾小笠原家は、京都にも居館をもち、「礼法的伝」の儀礼の祖としても伝播して影響力を拡大したものと思われる。いわゆる二重生活。

以上は、傍証、役職からの関係性、その後との論理性などから”浮き上がらせた”松尾小笠原宗家の存立時期にかかわるポジショニングでした。前述でも繰り返したように、直接の裏づけの文献等があるわけではありませんが論理矛盾はほぼない、筋道であろうかと思っています。
異論・反論などがある場合は、具体的に資料などを指摘していただき、ご意見をお寄せください。

小笠原家中興の祖、貞宗以降は記述されたものも多く、本筋について異論はありません。
従って、今のところ書く予定はありません。
 


松尾小笠原宗家の創立まで  第八話

2016-02-06 16:17:30 | 歴史

松尾小笠原宗家の創立まで  第八話
  
松尾館と松尾城

小笠原家の松尾館は、小笠原長径が隠棲して住み、以後松尾小笠原家の当主が住んだ館である。
 従って、松尾小笠原館の当主は、
 小笠原長径
 小笠原長忠
 小笠原長政
 小笠原長氏
 小笠原長宗
 小笠原貞宗へ続く。
  ・小笠原長氏の時、佐久・伴野家が「霜月騒動」で没落し、小笠原宗家が松尾小笠原家へ移る。以後、松尾小笠原家が、小笠原宗家になる。
  ・小笠原長宗の時、「建武の新政」で足利尊氏が鎌倉幕府を倒す。小笠原長宗、貞宗親子は、六波羅探題の信濃武士を束ねており、尊氏の要請で六波羅探題を、鎌倉幕府側から尊氏・後醍醐天皇の側につけて京都を制する。以後、小笠原長宗、貞宗親子は足利尊氏の盟友ととして活躍。
  ・小笠原貞宗は信濃国守護になり、北条得宗家の味方が多い北信の鎮撫として府中(深志・現松本)に戦陣・陣屋を置く。これを、府中小笠原家の創立と見る書を見かけるが、貞宗は戦役が多く、戦役以外は松尾と京都在住が多く、住居としていたかどうかは疑わしい。
 小笠原貞宗の子息たちは、小笠原家の知行地となった府中と松尾にそれぞれ配されて、それぞれの当主として並立するようになる。
 小笠原政長 信濃国守護 ?
 小笠原長基       ?
 小笠原長将 信濃国守護 ?
 小笠原政康 信濃国守護 松尾小笠原
 小笠原光康 信濃国守護 松尾小笠原
  ・小笠原光康の時代以後に、松尾小笠原家は分離して、鈴岡小笠原家が創立する。
  府中、松尾、鈴岡はそれぞれの地方の知行者として独立し宗家を争うようになる。
  ・このとき、松尾小笠原家は、城郭として存立した鈴岡小笠原家に対抗して、「松尾館」から「松尾城」を作り、移ったものと思われる。
  

・松尾館は、いみじくも、飯田氏松尾”城”という「字」名で痕跡を残し、伝承されているが、場所を比定できる証拠は残っていない。清見寺がその痕跡跡?
・北西に位置する”代田”は、元は”北”を意味し、”きた”は、始は”城田”と書き、やがて”しろた”と呼ぶようになり、”代田”と書くようになった。定かではない。
・舌状扇状地と河岸段丘の台地の織り成す地形は、古くは諏訪神社の神域であったようである。名残の地名は”御射山”であり、残存する諏訪神社が証拠である。かっては、ここにも鹿がいたのであろうか。
・鳩ケ峯八幡宮は、松尾小笠原家の”於祖神社”(氏神)であろうか。
・南の原は、”御射山”の南と解釈したが、果たして?


松尾小笠原宗家の創立まで  第七話 

2016-01-21 16:28:19 | 歴史

松尾小笠原宗家の創立まで  第七話 

小笠原長政:長忠の子
・小笠原長政のことも、小笠原家の家系図に載っているだけで、ほとんど判りません。

小笠原長氏:長政の子:生没:安貞元~延慶三(1227-1310)年 
・長氏の時に、松尾小笠原家は劇的に変化して行きます。

小笠原長忠、小笠原長政のことは資料が乏しく、考証しようにも手立てが思いつきません。確認してきたのは、小笠原に残る家系図と小笠原家から幕府に提出されて作成された寛政譜のみです。真偽のほども小笠原家系図だけで、小笠原家の当主として”名前”だけの記載になります。

群書類従にも、小笠原家の系譜の記載があります。こちらを確認してみましょう。

長忠の項:長径の子
 ・嫡男。母武田大膳太夫朝信女。
 ・土御門院御宇建仁二壬戌四月二十六生於信州伊那松尾館。童名豊松丸。
 ・建保二甲戌二月十二於祖神社壇元服。十三歳。号又次郎。従五位上。右馬介。兵庫介。民太。信濃守。参州之管領。信濃国守護。
 ・嘉禄二戌三月五礼法的伝。師範祖父長清・父長径。
 ・安貞二戌子五月日為平泰時師範。
 ・文永元甲子十一月三卒。法名号乗連。
 ・・・母が家女房ではなく、武田朝信女。元服の式を、祖神社としているが何処か?
 ・・・民太とは、民部太夫のことか?官名は少し怪しい。
 ・・・礼法的伝の正式な継承者。当時の執権・北条泰時の師範(先生)でもあったという。
 兄弟
  ・清径 長忠の次男になっている。長径の弟。理由があって長忠の養子?に。
  ・長時 母・家女房・号小笠原小次郎。 ・・・腹違いの弟?
  ・長義 母・武田朝信女。号下条四郎。修理亮。下條家の祖。
  ・尊重 母・家女房。
  ・長實 母・武田朝信女。小笠原五郎。
  ・観照 母・家女房。 ・・・出家して法名か?
  ・盛長 母・家女房。号・上野六郎 養子先か?
  ・長村 母・家女房。号・米田七郎 養子先か?
  ・・・長房の記載がないが、長忠の弟・長房は、長清の養子となり、阿波国守護へ

長政の項:長忠の子
 ・嫡男。母片桐蔵人太夫為基女。
 ・後堀河院娯宇貞応元壬午七月十九生於信州伊那松尾館。童名豊光丸。
 ・嘉禎二丙午正月十三於祖神社壇元服・十五歳。号孫次郎。従四位下。右馬介。大膳太夫。信濃守。参州之管領。信濃国守護。
 ・寛元四丙午二月五礼法的伝。師範長忠。
 ・建長四壬子六月三日為時頼師範。号最明寺。
 ・弘安十丁亥二月十五出家。六十六歳。法号長阿弥陀仏。
 ・永仁二甲午八月四卒。七十三歳。
 ・・・長政の母が片桐蔵人太夫為基女ということは、長忠の室ということになる。
 ・・・祖神社の可能性は、鳩ケ峯八幡宮のことか。
 ・・・官名は、やはり怪しい。
 兄弟
  ・長冬 母同じ。蔵人。太郎兵衛尉
  ・忠綏 母同じ。小笠原彦三郎。
  ・顕雲 母同じ。出家。
  ・・・長忠の子供の数をみると、側室は置かず、かなりストイックな人柄が想像される。
  ・・・長忠、長政と見ると、事跡など少なく、かなり地味な生活であったのだろう。
  ・・・幕府御家人としての、活動がほぼ見えてこない。
 
長氏の項:長政の子
 ・嫡男。母村上兵部国忠女。
 ・後嵯峨院御宇寛元四丙午八月十七生於信州松尾館。童名豊松丸。
 ・正嘉二戌午十一月十三元服。十三歳。加冠祖父長忠。号彦三郎。従五位上。右馬介。治太。弾正少。信濃守。信州守護。
 ・文永五戌辰三月十五成道。礼法的伝。師範父長政。
 ・正安三丑二月十五出家。五十六歳。法名号長連。
 ・延慶三庚戌八月十三卒。六十五歳。
 ・・・治太・治部太夫、弾正など、御家人とし出仕、京都の治安・六波羅探題か?
 ・・・長氏の頃、、霜月騒動の責任で連座して没落した佐久・伴野家から、長清の正嫡流の小笠原宗家が長氏に引き継がれる。長清の長男。長径から三代後のことである。
 ・ここに松尾小笠原宗家がようやく誕生する。
 兄弟
  ・長朝 母同じ。助二郎。民部少。
  ・長直 母同じ。小笠原三郎。号勅使河原。受譲住参州之所領。
  ・長廉 母家女房。四郎。
  ・長義 母同じ。号弥五郎。蔵人。
  ・長敷 母同じ。号小笠原六郎。
  ・泰清 母同じ。号小笠原十郎。
  ・・・長政の正室は村上兵部国忠女ということになります。
  ・・・次男・長朝も京都に出仕し、民部少輔。三男・長直は三河に所領とあります。
  ・・・長氏の兄弟、子供の養子先などをみると、美濃や三河など、範囲が広がって居ます。立場の違いが行動半径を広げたようです。また三河に小笠原庶流が拠点を作ったことは、後々三河・家康の時代に、家康の家臣・東三河衆(旗頭:酒井忠次)と、西三河衆(旗頭:石川家成)と伊那と三河で交流を持つ源流になって行きます。
  
ここで、松尾小笠原家が宗家(小笠原家惣領)に戻った原因になった「霜月騒動」を少し見てみます。

霜月騒動
霜月騒動とは、鎌倉後期の弘安八(1285)年十一月(霜月)に鎌倉で起こった鎌倉幕府の政変。執権北条時宗の死後、有力御家人・安達泰盛と、内管領・平頼綱の対立が激化し、頼綱方の先制攻撃を受けた泰盛とその一族・与党が滅ぼされた事件です。・・・弘安合戦、安達泰盛の乱、秋田城介の乱ともいう。
源頼朝没後の北条氏(と若手実務官僚(小豪族))と有力御家人との間の抗争であり、この騒動の結果、幕府創設以来の有力御家人の政治勢力は壊滅し、平頼綱率いる得宗家被官(実務官僚=御内人)勢力の覇権が確立した。
背景・・・安達泰盛は幕府創設以来の有力御家人安達氏の一族で、執権北条時宗を支え重職を歴任した幕政の中心人物であった。平頼綱は時宗の子・貞時の乳母父で、北条氏得宗家の執事内管領であり、得宗権力の立場にあった。御家人を支持勢力とする泰盛と、頼綱を筆頭とする得宗被官勢力が拮抗していた。執権時宗が死去し貞時が執権となると、幕政運営を巡って両者の対立は激化して衝突して安達一族が滅ぼされた。
この時、安達泰盛と姻戚関係にあった伴野長泰が連座して、所領を没収されて没落した。伴野時長の娘が安達氏に嫁いで安達泰盛の母となっており、時長の孫で泰盛の従兄弟にあたる伴野長泰は泰盛与党として霜月騒動で討たれ、伴野一族の多くが犠牲となり伴野荘も北条氏に没収されている。

松尾小笠原家、京都に橋頭堡を築く

惣領家が松尾小笠原家に移ると、御家人として幕府への出仕が多くなります。場所は、鎌倉ではなく京都です。既に阿波国守護の小笠原家は、六波羅探題を通して、京都町内の治安維持の目的に加えて、幕府が朝廷に、不穏の動きが起きないようにすると京都治安の役目があり、加えて長清が「弓馬の礼法」(=礼法的伝)の宗家を確立したところです。京都の六波羅探題に武力を送り込みながら、京都に拠点のひとつを創っていきます。松尾小笠原の子息たちは、朝廷に治部太夫、兵部太夫、民部少輔として出仕します。小笠原長氏のころからこのことは活発化します。松尾小笠原家が、京都と関係を深めて、京都に橋頭堡を築く始めの頃のことです。

京都六波羅探題は、阿波守護職小笠原の系統で、その小笠原長経系は六波羅探題の奉行人など鎌倉幕府の京行政府の枢要な官人を輩出する吏僚一族となっています。六波羅探題(北方)に勤務した家名の中に、布施.知久.平賀.中野.仁科.中沢等々の諸氏の名前がみえます。布施.平賀.中野.仁科は小笠原の家臣ではありませんが、知久.中沢は、おそらく松尾小笠原家臣団としても機能していたのでしょう。小笠原家は、京都六波羅の地に南鎌倉幕府の役職も兼任しています。小笠原家の惣領職の継承については、「小笠原系図」では長清?長経?長忠?は甲斐と信濃にあり、次第に北条氏との関係を強め、信濃に勢力を拡大していく、とあります。

官名の確認
群書類従の中の小笠原氏の経歴の中の官名の詳細を確認してみます。
右馬介、大膳太夫、信濃守、参州之管領、信濃守護、蔵人、治太(治部太夫)、弾正少、信州守護、民部少などです。
小笠原家は、幕府にも朝廷にも近く、実際に出仕して奉公していますから、官名詐称する氏族とは考えぬくいので、ほぼ実態に近いと思われます。
 ・右馬介(助) ・・諸国の牧から貢上された朝廷保有の馬の飼育・調教の役職。馬寮という役所があり左馬と右馬とがあった。介(助)は階級を表し正六位下。そして軍事や儀式において必要なときに牽進させて必要部署に供給した。「弓馬の礼式」の宗家としては必然の部署と思われる。
  ・大膳太夫 ・・大膳職は副食・調味料などの調達・製造・調理・供給の部分を担当。これが本来の意味であるが、やがて各地方から奉納される食材に対し、貧乏になった朝廷は、金品の対価を支払えなくなり、代わりに褒美として官名を与えるようになる。太夫は正四位の階級。
  ・信濃守の守 ・・その地方の行政官で四等官(正四位)。室町時代以降はこの”守”の官名詐称が多くなったが、鎌倉時代はまだ実態と適合しているといわれる。
  ・参州之管領 ・・参州は三河のこと。鎌倉時代の管領は、室町時代の管領とは違って、ほぼ権限が見当たらない。その地方の担当官とか執事とかの意味か?不正確。
  ・信濃守護、信州守護 ・・本来は、国(県に該当?)の警察権力を持った行政官(知事)の意味だが、鎌倉後期は信濃国の守護は北条氏が歴任していたので、ここは意味不明。
関東御分国では守護は北条氏だが、代行の守護代か目代のことを守護と呼んだのかもしれない。不正確。
  ・蔵人 ・・天皇家の家政機関。天皇の秘書。
  ・治太(治部太夫) ・・外事・戸籍・儀礼全般を管轄し姓氏に関する訴訟や、結婚、戸籍関係の管理および訴訟、僧尼、仏事に対する監督、雅楽の監督、山陵の監督、および外国からの使節の接待などを職掌。小笠原家は、儀礼全般を管轄。太夫は正四位で、実務官より階級が上。この頃より、正式に”弓馬の礼””流鏑馬”等が正式儀礼として定着していく。
  ・弾正少 ・・弾正台は監察・警察機構。主な職務は中央行政の監察、京内の風俗の取り締まりで、左大臣以下の非違を摘発し、奏聞できた。少は少弼で四等官。
  ・民部少 ・・民部は、財政・租税一般を管轄し諸国の戸口、田畑、山川、道路、租税のことを司る。財政官庁として他に大蔵省があったが租税や租税関係の戸籍はこちらが取り扱ったため大蔵省よりも重視された。少は少輔(従五位下相当)のこと、階級。
  ・六波羅探題 ・・六波羅は京都の地名。今の五条から七条まで。六原とも。鎌倉期までは建物が少なく原であった。この地に探題(警察機構)を建て、付近に地方から奉公で出仕してくる地方武士の宿舎も建てた。室町時代に、別所に警察機構を移すと、この地に寺院が乱立して建ち、寺が集積するようになった。

小笠原家は長氏の時代に、政治活動の場を京都に、経済活動の本貫を信濃に、両方に館を持つようになります。その活動を支える本貫地の経済的地盤が気にかかります。