探 三州街道 

伊奈備前守、高遠保科家、信濃国など室町時代・戦国期の歴史。とりわけ諏訪湖と天竜川流域の歴史の探索。探索者 押田庄次郎。

匝瑳の善龍寺?(茂林寺 4) (転記4)

2019-08-19 14:29:17 | 歴史

匝瑳の善龍寺?

 

「正則の法名祥雲院殿は正則が下総で創建したという祥雲山善龍寺に拠るのであろう」---・実は、この文章に惑わされた。

 

 匝瑳に、「祥雲山善龍寺」は、いまあるのか?あるいは過去にはあったのか?

実は、今回の匝瑳での調査はこれが目的であった。「今あるのか?」は、ネット社会なっており調査は容易であり、結論は「なし」である。
問題は、過去には、匝瑳という土地及び周辺に「善龍寺」という寺院が存在したかどうかであるのだが、付近を聞き及んだ限りにおいて、存在した事実は確認できなかった。


さらに深堀する・・
寺院の創設には、開山と開基を必要とする。開山は「僧侶」で、開基は仏閣設立の費用を賄うスポンサーがいることが前提となる。まれに、開山の僧侶が仏閣創設の費用を捻出場合もあることはあるが極めて稀である。
この場合の開山は、寺の名前が「善龍寺」であることから、「廣琳荊室」であることに疑問を挟む余地はほとんどない。


しかして、開基であるが、・・・
ここで、多胡時代の「保科家」の履歴を時系列に羅列してみる・


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・1590年(天正18年):徳川家康の関東入封に従い、信濃:高遠城主保科正直が下総国多胡へ1万石で移籍。
・1591年(天正19年):正直、九戸政実の乱鎮圧に出兵・
          :(保科正則(天正19年9月3日)死去
・1592年(天正20年:文禄元年):正直、正光、秀吉の朝鮮出兵の後詰として肥後名護屋城へ出陣(--・文禄の役)。
・同年、正直病気のため「正光」へ相続。保科正光が保科家の当主となる。
・1593年(文禄2年):朝鮮出兵・休戦
          :京極高知信濃飯田城城主・箕輪(高遠城管理)
          :保科正俊( 文禄2年8月6日(1593年9月1日))死去
・1595年(文禄4年):豊臣秀次切腹事件・
          :木曽義昌が下総網戸において死去・
          :小笠原貞慶が下総古河において死去・
・1597年(慶長2年):再び朝鮮出兵が開始(慶長の役)・
・1598年(慶長3年):豊臣秀吉死去・
          :慶長の役終結・
・1600年(慶長5年):家康・上杉景勝の会津征伐へ進軍・正光も参加
          :関ケ原の合戦」へと続く・
          :保科正光 関ケ原の戦いの時、遠江浜松城を守備・
          :保科正光 越前北之庄城に城番・
          :保科正光 高遠城に復帰(2万5千石
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香取:樹林寺


さて、保科の多胡藩時代の城主は天正18年から数年「正直」であったが、相続以後の多胡藩はほとんど「正光」であったことがわかる。
しかもである、騒乱の最中・激動の10年間のほとんどを、「正光」は、家康の忠臣として、城主は領国を留守にしていたわけである。

この時留守を預かり多古の民政をおこなった保科家臣は、家老北原采女佐(光次)、篠田半左衛門(隆吉)、一ノ瀬勘兵衛らだったようだ。
病身で隠居した「保科正直」は、香取の「樹林寺」を祈願寺としていた記録が残り、高遠帰還の時は兄弟寺として樹林寺も連れ帰った。

臨済宗妙心寺派の宗派は高遠戻った時、同じ宗派の「建福寺」が保科家の菩提寺になり、「保科一族」の依る「樹林寺」につながったことから、筋書きは合理的とみられる。


多胡時代の1593年までに、一切の身上の露出をしない「保科正俊」はどうしたのであろうか。この件は、「保科正則」も同じであり、保科家多胡統治時代以後の、それも墓(供養塔)のみの露出である。そもそも保科正俊・父の保科正則は、確か「赤羽記」によれば、小笠原家三家の内訌に松尾系に与して駒場で戦死しているというこの疑問は、不思議として残る。

保科正則夫婦の供養塔(墓)?


諏訪神族の「名跡」は、諏訪祝一族も高遠諏訪家も保科一族も同じ名跡が間隔を置いて繰り返し継承されるという法則性がある。まるで歌舞伎や落語界や老舗商家の「名跡」継承の如くであり、故に歴史を紐解くときに解明を困難させる例が多い。
保科家では、正利から隔世で正俊へ、正信、正則など、高遠諏訪家では頼継などが例である。


こうして検証してみると、匝瑳地区における善龍寺の過去と現在の「存在」の有無に影すら見せないと同時に、開基は「正直」「正光」ではありえず、わずかの可能性の「正俊」も文禄2年に亡くなっているのが事実とすれば、開基の存在しない寺の創設は幻であったと結論せざるを得ない。


つまり ---
--- 正則の法名祥雲院殿は正則が下総で創建したという祥雲山善龍寺」は嘘であると結論する。


ここで「廣琳荊室」のこの時代の履歴を掲示して確認しておく。

龍澤山桂泉院


出典は【木の下蔭】---・
・廣琳荊室・・信玄家臣内藤修理信量の次男・
・天正十年(1582年)正月上州善龍寺丈室に於て宗脈を傳え則善龍寺に住職・(1582年:箕郷:善龍寺住職)
・的雄和尚の遺命によつて補陀寺に轉院す大壇大道寺駿河守政繁に逢つて厚くもてなさる(1582年:松井田・補陀寺12代住職
・天正十八(1590年)七月落城・大道寺政繁討死す・・遺骸を葬つて石牌を寺の西の岡に立つ。翌年(1591年)松井田の・・・本院殿閣を新城に移す。政繁の爲に新に塔院を記す。(大道寺政繁戒名=來炫院殿光淨清大居士:廣琳荊室が弔った」ということ)
・文禄元(1592年)二月亨寅長老に補陀寺を護りて當城(高遠城)の法堂院に退去す。
・其頃の城主内藤昌月兄弟なるに依つて・・・他邦の客貴賤城扉に入るをゆるさねば・・依て城内を出ていた町村龍ヶ澤に移る。
・則城主と邑民と力を合せて法堂院の殿閣不日に今の所に移す内藤昌月中興の開基となつて山を龍澤と改め寺を桂泉と號く。
・其後慶長九(1604年)・・五鴈遷寂す。門弟子師の遺骨樹塔を補陀(寺)善龍(寺)當寺(桂泉院)三ヶ所に分る。
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【木の下蔭】によれば、「廣琳荊室」と保科多胡藩との関係は一切出てこない。時系列から見ても、多胡・匝瑳に善龍寺を建立する隙間は一切見つからない。
ここで奇妙な事実は、まず箕郷に善龍寺を再建した後、松井田・補陀寺12代住職になった廣琳荊室は、戦死した大檀那:大道寺政繁を弔って墓碑と供養塔を建立し、焼けた補陀寺を再建した後高遠城に来ているということ。その時期は、家康が江戸入府し家臣がこぞって関東に移り住む時期と重なるのだ。保科正直が高遠城からいなくなる時期に、内藤昌月が城主であったという。内藤昌月が高遠城主であれば、弟の廣琳荊室を自分の城下に招くことは不合理ではない。


こんなことは起こりえるのか?
天正壬午の乱以後の整理の時期に、小田原北条翼下にあった内藤昌月は、真田vs北条の戦いの後「真田」に与したという事例が残る。このに秀吉が加わり、北条亡き後、上杉vs徳川vs秀吉の構図ができ、真田は、沼田を割譲する代わりに、代替えとして、信濃:箕輪(高崎の箕輪ではない)を宛がわれたようだ。その時の真田の命で執行官(代官)が内藤昌月だったら、高遠城主が「昌月」だった可能性があるかもしれない。
そして、高遠城の法堂院から、竜沢の桂泉院に移ったのは、京極高知が飯田城主になり、高遠城の管理も兼ね、管理が厳しくなったので桂泉院に移ったのだろう。


ここには、記載された年号と数年の単位の誤差があるのだが、調整のにおいを感じる。


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