神戸・元町の神戸ラッセホールへ
に行ってきました。講演会です。
会員ではないので1000円払いました。
出席者は150人くらい。
札止めの大入でした。
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1 日時 2025年3月15日(土) 13時30分~
2 場所 ラッセホール神戸2F ブランシュ
3 内容 第1部 講演「現代詩の宿命」 蜂飼耳
第2部 対談 蜂飼耳 & 時里二郎
日本現代詩人会会員による自作詩朗読
4 参加費 一般・兵庫県現代詩協会会員1,000円(2025年2月15日申込締切)
日本現代詩人会会員は無料
5 懇親会費 7,000円(希望者のみ)
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メモ
興味深い講演でしたが、これを聞いて、たとえば『現代詩手帖』に載っているような現代詩が読めるわけではないとも思いました。
現代詩、特に戦後の現代詩、どうしてあんなに難しいんでしょうね。
新しさを求めて行った結果、かえって能や文楽のような伝統芸能みたいになっていると、以前から感じていました。玄人にしか分からない詩ばかりになっているようなーー作品や詩人の評論なり解説なり読まないと理解できない、ひどいときは解説を読んでも理解できない。
で、現代詩を理解できないんだけれど、そう言ってしまうと、手に負えないばか者かその地位にふさわしくないひとだと思われてしまうから、「独創的なお作ですね」と褒めちぎったり「詩は理解するものではなくて感じるものだ、好きか嫌いかなんだ」と開き直ったりしてきた、その結果が今ではないのか。
言葉と自分との「違和感」「ためらい」「逡巡」「迷い」を大事に、と何度も繰り返されていました。
ところで、詩人の「違和感」「ためらい」「逡巡」「迷い」に付き合わされる読者のことは考えているのでしょうか。
「分からなければ分からなくていいですよ、分かるひとだけ来てください」と閉じこもってはいないでしょうか。
自分の感性に忠実であることによって他人に行動変容を促すという芸術の「効能」(あえて「効能」と書きますが)を放棄しているのではないでしょうか。
不十分な己のエクスキューズとして難解にしているところはないでしょうか。
詩人が言葉と己との「違和感」「ためらい」「逡巡」を見つめた結果生まれた作品が、よほど寛容な人か、詩人と似たような感性の持ち主でないと理解・受容されないとすれば(例えば、高校までの国語の教科書にゴリゴリの現代詩が載ることはないと思う。田村隆一や野村喜和夫や管啓次郎や吉増剛造が義務教育・中等教育の国語の教科書に載ることはないと思う。載るのは谷川俊太郎、石垣りん、茨木のり子、黒田三郎といった、平明に書かれた、多くのひとに理解され音読されそうな詩人の作品か、人気アーティストの歌詞でしょう)、現代詩というメディアはもはや、かなり人を選ぶアナログなマッチングアプリになってしまっているのかもしれません。
……という感想しか抱けないくらい、わたしの感性が鈍いということなんでしょう。
精進します。
※いろいろ質問したかったのですが、会員でもないし、時間が押していたこともあって、結局お一人質問されただけでしたーー僭越ながら、その方の質問が一番、現代詩とその受容のあり方をめぐる問題の核心をついていたような気がします。岡山から来られた方でした。