2016/08/15

激戦タラワ環礁その5

この戦いが始まる前、守備隊の司令官、柴崎少将から貰った言葉を、日本兵たちは思い出していた。
「いいか、お前たち、バンザイ突撃なんてするなよ。お国のために死ぬことなんてない。生きて、日本へ帰るんだ」

生き残った日本兵は、全員が知っていた。
少将が死んだのは、彼が居た堅牢な司令部を戦傷者の治療のために明け渡したためであったことを。
日本海軍少将柴崎恵次は、その温厚な人柄でもって、部下たちから篤く慕われていたという。

「申し訳ありません少将。あの言葉、お受けすることができません」
日本兵は銃剣を手に、覚悟を決めた。

タラワ島の戦いが開始してから2日が経過して、依然としてアメリカ軍へ猛然と抵抗を続けるものの、一方で日本軍側は確実に損耗していた。
初めは4,700名ほど居た日本兵も、2日目終了の時点で生き残りは1,000名を切り、さらに東西へ分断されている。
3日目からはさらに大量のアメリカ軍の増援が来ることが予想されており、これから後に続くのは、抵抗すればただの殺戮だ。
もし降伏すれば、捕虜として命だけは確実に助かる。

しかし、日本兵の脳裏によぎったのは、戦争に負けた国の末路であった。
戦争に負ければ、敗戦国は例外なく戦勝国の占領下におかれ、植民地への道を免れない。
国に残してきた妻や子供、家族たちが全てを奪われていく。
もし生きながらえたとしても、そんな未来は決して受け入れられるものではない。

俺たちは、国のために死ぬんじゃない。
守るべき、家族のために死ぬんだ。

降伏、という二文字は、彼らの頭の中には存在しなかった。

11月23日朝、アメリカ軍は最後の一個大隊を援軍として、Green Beachから投入する。
予定されていた上陸兵の全てを投入したアメリカ軍は、しかし未だに日本軍からの抵抗を受けていた。
Red Beach 1などに残っていた日本兵も徐々に押され、海岸から後退しながら抵抗を続けたが、下がったとしてももはや東西南北をアメリカ兵に囲まれ、逃げ場はどこにもない。
死ぬか捕まるかの2択を迫られることになった彼らの中には、自害する者も居たという。

逆に、西側から分断され東側へ退くことになった日本兵は、東へ移動しながら目を疑った。
ベシオ島の東、バイリキ島を占拠するアメリカ軍の姿が見えたからだ。
もはや、東にも逃げ場はない。
飛行場の東端付近に集結した東側日本軍は、最期の時を迎えようとしていた。

時間が経つにつれ、死傷者は比例するように増えていく。
これ以上引き延ばしても、きっともう日本海軍の増援艦隊は間に合わない。
23日の夜までに生き残った東側約110名は、とうとうバンザイ突撃に踏み切る。
突撃は3回に分けて行われ、1回目2,30名、2回目2,30名、3回目50名という内訳にて実施。
弾薬や手榴弾など、もう残ってはいない。
空の銃剣を手に、アメリカ軍へ向けて走る。
放たれるアメリカ軍からの機銃掃射。
なすすべもなく倒れる日本兵たち。
同じ頃、西側で生き残った日本兵50名も、東側と同じようにバンザイ突撃を敢行した。
銃弾を持たぬ突撃に意味などなく、ほとんどアメリカ軍へダメージを与えることができず、最期の特攻は終了する。

こうして、たった3日間で日米合わせて5,700名を超える死者を出したタラワ島の戦いは、幕を閉じたのである。

たった3日で終わってしまった戦闘ではあるが、しかしそれでも、両国が被った損害は甚大なものであった。
日本側は4,700名のうち、生き残って捕虜となった日本人はわずか17名で、全員が意識不明の状態で搬送された。
それ以外の140名ほどは朝鮮人労働者であった。

アメリカ軍は、戦死した日本人兵に敬意を表し、彼らを丁重に葬ることにする。
ベシオ島の滑走路の端っこに穴を掘り、日本兵を埋葬していく。
アメリカ人なりのやり方ではあるが、日本兵たちはこの地にて弔われることになった。

アメリカ側においても戦死者は1,000人を上回り、太平洋戦争始まってから白兵戦においては最も悲惨な被害を出した地の一つとして、1945年に一つのドキュメンタリー映画が作成された。
その映画の名前は「With the marines at Tarawa」。
凄惨を極める内容のその映画は、その年のアカデミー賞の短編ドキュメンタリー賞を受賞する。
そのあまりの内容の壮絶さに、志願兵の数が一時的に減少したとさえ言われている。

「タラワ」という名前は、アメリカに強烈に記憶されることになった。

そしてこのタラワでの大苦戦は、アメリカ海軍において水陸両用作戦の改良をするきっかけとなったという。

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