憂国のZ旗

日本の優れた事を様々話したい。

産経新聞、地方部編集委員 渡辺浩氏の2016年の記事紹介。

2020-08-04 06:10:06 | 政治
米中経済戦争は、中身は、米中の情報戦争だとも、
米中の覇権争いが具象化したとも言われている。

いずれにしても、一方の国が奇襲攻撃したからと、
言う単純な話では無くて、そこに至るまでの経過を省略しては
事実は掴めない。

米中に熱戦が繰り広げられれば、日本も一方の側として臨む
必要性があるであろう。中国が、日本と韓国とは、どちら側か
と、問うのは、奇矯な話で、、韓国の態度が焦点であろう。

プライムニュースで、元防衛大臣に聞く、と言う報道があった。
敵基地攻撃能力について、ネットでは取得が当然と考えられる。
70有余年も議論を重ねて、今の実態を見れば、政治家とは、
国会議員とは、最近でも、もりかけ、さくら、時間が余ったら
コロナと嘯いた馬鹿政党があったように思う。

頭の上をミサイルが飛んで、敵基地攻撃能力は突然の話と
報道するメデイアや、「専守防衛を逸脱」と否定するメデイアは
とても工作員としか見えない。憲法改正を経て、と言うには、
石破茂理論の信奉者には、都合の良い話であるが、
日本国民の命を守ると言う点では、効果のほどは保証できない。

今頃、日本防衛戦略をメデイアが真剣に論じるとも思えない。
それほど、米中には切迫した状況が持ち上がっている。
米国大統領選挙で、トランプが再任されようが、バイデンが替わるとしても
中国制裁の基本は、米国議会が承認している。
コロナ対策について、特定野党は国会の開催を求めているが、
もりかけ、さくらで審議拒否、途中退場などは、御免こうむる。

実際、国会論議はもっと真剣にやる必要がある。
国権の最高機関を、「罵倒の場」にする輩に、制裁を与えるべきだと
痛感している。



2016.12.4 01:00更新
【入門・日米戦争どっちが悪い(1)】
片手に十字架、片手に鉄砲 侵略と虐殺繰り返した西欧白人国家

https://www.sankei.com/premium/news/161204/prm1612040011-n1.html

1941(昭和16)年にわが国と米国などとの戦争が始まってから8日で75周年を迎えます。戦争の原因は何だったのか、どちらに責任があるのか-。前史としての西欧白人国家による侵略から、アメリカ合衆国建国、日米開戦への道、原爆投下、日本国憲法制定…の歴史を分かりやすく振り返ります。
 インカ文明を滅ぼしたスペイン人
 11世紀末から13世紀にかけて、西欧のキリスト教国は、聖地エルサレムを奪回する十字軍と称してイスラム教国を侵略し、多くの人々を殺しました。異教徒を「裁く」という思想です。
 15世紀半ばからは大航海時代という名の大侵略時代が始まります。スペインの遠征隊を率いたクリストファー・コロンブスが1492年にアメリカ大陸を「発見」したと言われていますが、発見も何も、そこには先住民が独自の文化を築き上げていました。
 コロンブスは着いた場所をアジアだと思っていたので、現地の人をインディアス(インド人)と呼んだことがインディアン(北米の先住民)やインディオ(中南米の先住民)という呼称の始まりです。カリブ海の島々が西インド諸島と呼ばれているのはそのためです。コロンブスたちはここでインディオ虐殺を繰り返しました。
アメリカ大陸「発見」から2年後の1494年、大西洋の真ん中に境界線が引かれ、東で発見されるものはポルトガル王に属し、西で発見されるものはスペイン王に属すというトルデシリャス条約がローマ法王の仲立ちで成立しました。1529年には彼らにとって「裏側」のアジアにも分割線を引き、地球を2つに割るように縄張りを決めたのです。
 例えばこのころ、エルナン・コルテスというスペイン人がアステカ帝国(今のメキシコ中央部)を滅ぼし、莫大な財宝を手に入れました。それを聞いた同じスペイン人のフランシスコ・ピサロが目をつけたのがインカ帝国(今のペルー、ボリビア、エクアドルなど)でした。インカの人々は精巧な石積みの建物、灌漑設備を伴った段々畑、インカ道と呼ばれる道路整備など高度な文明を作り上げていました。
 そこにピサロは180人の兵とともにやってきました。インカの王アタワルパは、ピサロに付いていった神父ビセンテ・デ・バルベルデからキリスト教に改宗するよう求められました。王が拒否すると、バルベルデがピサロに「こいつらを殺しても神は許すだろう」と告げ、ピサロの兵士たちは非武装の王の家来たちを殺し、王は人質にされました。インカの人々は身代金として莫大な黄金を差し出しましたが、ピサロはそれを受け取ると王を「裁判」にかけ、殺してしまいました。
 その後、ピサロは手先の王を即位させたり、反乱を鎮圧してインカ文明を滅し、金を奪いました。
 このような「片手に十字架、片手に鉄砲」の白人国家の手口はその後、何百年も繰り返されていったのです。
先住民を殺し黒人奴隷を輸入
 16世紀にスペインとポルトガル、17世紀にオランダ、18、19世紀に英国が主に支配を広げ、先住民は殺されたり白人が持ってきた伝染病にかかったりして人口が減りました。中南米のほかアジアやアフリカのほとんどの国が白人国家が支配する植民地になりました。
 かつて世界地図には、あらゆる場所に(ア)とか(イ)とか(ポ)(フ)という記号がありました。米国や英国、ポルトガル、フランスのものという意味です。アフリカ大陸などはほとんど白人国家の植民地でした。
 そこでどのようなことが行われたのか、作家の深田祐介さんがベルギーによるアフリカ・コンゴ支配とオランダによるインドネシア支配について書いた文章を紹介します。
       ◇
 ベルギーのレオポルド国王は天然ゴムの収穫にほとんど狂い、コンゴ川川上の先住民に、天然ゴムの樹液採取のノルマを課した。そしてノルマを果たせなかった先住民については、監督の先住民に手首から先を罰として切断させた。
 このため、天然ゴムの樹液を運んで下ってくる船はそれぞれ船首に戦利品のように、大小さまざまの手首を吊り下げ、無数の手袋のように手のひらをはためかせて通過して行った、といわれる。
 そして川上の森のなかでは、手を失った多数の先住民が何の薬も手当ても受けられず、のたうちまわって苦しんでいたのだ。そしてオランダがインドネシアで行った人権無視の圧制もこのベルギーのレオポルド国王といい勝負である。
オランダが東インド諸島において行ったのは「強制栽培法」と呼ばれた悪法で、1830年、ベルギーの分離独立に伴う紛争で、財政上、大きな負担を背負い込んだオランダは、植民地経営による国際収支の改善を意図した。新総督をインドネシアに送り込み、全ジャワの住民の耕地に対し、稲作等の農作物の栽培を全面的に禁止した。農作物に代え強制的にサトウキビ、コーヒー、藍(インディゴ)など、欧州へ輸出すれば巨大な利益をもたらす熱帯の「商品作物」の栽培を命じた。これがすなわち「強制栽培法」と呼ばれた悪法である。
 これは予定どおり巨大な利益を生み、本国は莫大な負債を解消するとともに余剰金で、鉄道業を賄い、産業革命を達成する。つまりオランダはインドネシアの犠牲において近代化に成功したわけである。
 しかし強制栽培法を命ぜられたジャワ一帯はどうなったか。
 水田耕作を禁じられたジャワ農民は、1843年から48年にかけて大飢饉に苦しみ続ける。
 あまりの悲惨な状況に一時中止されるが、その後も再び輸出用作物の栽培は強行され、ジャワ農村の疲弊はつい近年まで続いたのだ。(平成12年2月11日付産経新聞「正論」欄)
          ◇
 欧州人はカリブ海の島々などでインディオを殺し過ぎて鉱山や農場の労働力が足りなくなり、アフリカから黒人奴隷を連れてくる奴隷貿易を行いました。売買された奴隷は約1500万人にも上りますが、その数倍の人々がすし詰め状態の奴隷船で死亡し、海に捨てられたと推計されています。100トンの船に414人を詰め込んだという記録も残されています。
 カリブ海のジャマイカはウサイン・ボルト選手で知られる陸上競技王国ですが、皆、黒人選手です。日本の子供たちはジャマイカに昔から住んでいたと思っていますが、先住民はインディオです。インディオは今、ジャマイカにいません。スペイン人が皆殺しにしたからです。
奴隷の存在を前提として書かれた聖書
 「愛」を説く宗教であるキリスト教を信じる白人たちが、先住民を殺したり、黒人を奴隷にすることに心の痛みを感じなかったのはなぜでしょうか。
 旧約聖書に有名な「ノアの箱舟」という物語があります。そのノアにはセム、ヤペテ、ハムの3人の息子がいました。ある日、ノアは酔っぱらって素っ裸で寝込んでいるのをハムに見られました。するとノアはハムの子供カナンについて「カナンは呪われよ/奴隷の奴隷となり、兄たちに仕えよ」と告げました(創世記9章25節)。セムはユダヤ人とアラブ人の祖、ヤペテは白人の祖、ハムは黒人の祖と解釈され、黒人を奴隷とすることを正当化する根拠となったのです。
 どうして裸を見たら子供が呪われなければならないのか、さっぱり分かりませんし、この記述で黒人奴隷を正当化するのは理解できませんが、とにかく「黒人を奴隷にすることを神は許している」と解釈したのです。旧約聖書も新約聖書も、奴隷を容認しているかどうかはともかく、その存在を前提として書かれています。
 有名なフランスの啓蒙思想家、シャルル・モンテスキューでさえ、『法の精神』で黒人奴隷のことをこう記しています。
 「現に問題となっている連中は、足の先から頭の先まで真黒である。そして、彼らは、同情してやるのもほとんど不可能なほどぺしゃんこの鼻の持主である。極めて英明なる存在である神が、こんなにも真黒な肉体のうちに、魂を、それも善良なる魂を宿らせた、という考えに同調することはできない」「黒人が常識をもっていないことの証明は、文明化された諸国民のもとであんなに大きな重要性をもっている金よりも、ガラス製の首飾りを珍重するところに示されている。われわれがこうした連中を人間であると想定するようなことは不可能である。なぜなら、われわれが彼らを人間だと想定するようなことをすれば、人はだんだんわれわれ自身もキリスト教徒でないと思うようになってくるであろうから」
=つづく
(地方部編集委員 渡辺浩)


2016.12.11 01:00更新
【入門・日米戦争どっちが悪い(2)】
先住民追い出し太平洋に出た米国 「明白な運命」と略奪正当化

https://www.sankei.com/premium/news/161211/prm1612110014-n1.html

 北米大陸では英国人によるバージニア植民地樹立に続き、1620年にメイフラワー号で渡った清教徒(英国国教会と対立するキリスト教原理主義者)たちをはじめ、英国で食い詰めた人たちなどが次々と移り住みました。過酷な環境が待っていましたが、元から住んでいたインディアンたちから食べ物や衣服をもらったり、トウモロコシの栽培を教わったりして生き延びました。しかし、インディアンは恩をあだで返されることになります。
 マニフェストデスティニーとは何か
 1776年のアメリカ独立宣言は「すべての人間は平等につくられている」などとうたっていますが、インディアンや黒人は適用外というご都合主義でした。
 米国人は無数の黒人奴隷を「輸入」してこき使うとともに、「西部開拓」の名のもとに、インディアンを追い出したり殺したりして西へ西へと拡張を続けました。米国人が建国以来、インディアンの部族と結んだ条約は370に上りますが、それをことごとく破りました。インディアンの衣食住の糧であり、信仰の対象だったバファローをレジャーとして殺していきました。
 1830年にはインディアン強制移住法を作り、約10万人のインディアンを強制的に徒歩で移住させました。チェロキー族の移住は1900キロの道のりの途中、1万5000人のうち4000人が亡くなり、「涙の道」と呼ばれています。
 インディアンから奪う土地を米国人は「フロンティア」(新天地)と呼びました。そして、こうした拡張を「マニフェストデスティニー」(神から与えられた明白な運命)という言葉で正当化しました。旧約聖書に「神は彼らを祝福して言われた。『産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這(は)う生き物をすべて支配せよ。』」(創世記1章28節)などとあるのが根拠だというのです。前回、黒人奴隷を正当化するために聖書が使われた話を紹介しましたが、ここでも聖書を持ち出しています。
 米国人は、神がイスラエルの民に与えると約束した地域カナン(パレスチナ)になぞらえて、北米大陸を「約束の地」と思っていました。旧約聖書には、異教徒と戦うときの心構えがこう書かれています。
 「ある町を攻撃しようとして、そこに近づくならば、まず、降伏を勧告しなさい。もしその町がそれを受諾し、城門を開くならば、その全住民を強制労働に服させ、あなたに仕えさせねばならない。しかし、もしも降伏せず、抗戦するならば、町を包囲しなさい。あなたの神、主はその町をあなたの手に渡されるから、あなたは男子をことごとく剣にかけて撃たねばならない。ただし、女、子供、家畜、および町にあるものはすべてあなたの分捕り品として奪い取ることができる。あなたは、あなたの神、主が与えられた敵の分捕り品を自由に用いることができる」(申命記20章10~14節)
 隣国の領土も奪いました。1836年、当時メキシコ領だった今のテキサス州サンアントニオのアラモ砦(とりで)に立てこもった独立派(米国人入植者)の軍勢約200人が、メキシコ軍と戦って全滅しました。このとき米国軍は砦の近くにいて助けようと思えば助けられたといわれています。
 そして「リメンバー・アラモ」(アラモを忘れるな)を合言葉にメキシコに対する戦意を盛り上げてテキサスを併合した後、米墨戦争の結果、ネバダ、ユタなどのほかカリフォルニアを領土とし、米国はついに太平洋に達したのです。
 脅しによって開国させられた日本
 このころアジアでは、英国が中国の清国にアヘンを持ち込んでもうけ、清がアヘンを取り締まると攻撃するという恥知らずな戦争を1840年から42年にかけて行い、香港を奪いました(アヘン戦争)。
 徳川幕府がアヘン戦争に衝撃を受ける中、1853(嘉永6)年、米国東インド艦隊司令長官マシュー・ペリーの艦隊がやってきました(黒船来航)。
 ペリーは大統領ミラード・フィルモアから琉球(沖縄)を占領することもやむを得ないと言われて送り出されていました。大西洋のマデイラ島から海軍長官ジョン・ケネディに宛てた手紙でペリーはこんなことを書いています。
 「日本政府がもし港の提供を拒否し、軍隊と流血に頼らなくてはならなくなれば、わが艦隊はまず、日本の一、二の島にいい港を手に入れる」「英国は既に東洋の重要な地点を占有しているが、日本とその付近の島々についてはまだ手付かずだ」
 実際、浦賀に来る前にペリーたちは琉球に上陸して王宮を無理やり訪問。その後、小笠原に上陸して一時領有を宣言しています。
 浦賀沖ではアメリカ独立記念日の祝砲などと称して数十発の空砲を発射し、砲門を陸地に向けて威嚇。勝手に江戸湾の測量を行いました。まさに「砲艦外交」です。
ペリーは大統領の国書とは別に、2枚の白旗に手紙を添えて幕府に渡していました。手紙には「通商を認めないなら天理(万物に通じる天の道理)に反する大きな罪なので、武力でその罪をただす。われわれは必ず勝つ。和睦(降伏)したいなら、この白旗を示せ」と書かれていました。「天理」とはマニフェストデスティニーのことです。
 ペリーたちは翌年再び来航し、わが国は日米和親条約を締結。4年後には日米修好通商条約という不平等条約を結ばされました。開国に応じていなければインディアンのように征服されていたでしょう。
 もちろん、わが国はいつかは開国しなければいけなかったのですが、ペリーの脅しによって国を開かされたのです。
 ハワイやフィリピンも征服
 米国では、最後のインディアン虐殺「ウンデット・ニーの虐殺」があった1890年、国勢調査局が「フロンティアの消滅」を宣言しました。北米大陸にはもう奪う土地はなくなったのです。
 すると1893年、米国はハワイのリリウオカラニ女王を武力で退位させ、臨時政府を樹立しました。
 わが国は在留邦人を保護するため、巡洋艦の「浪速」(艦長・東郷平八郎大佐)と「金剛」をホノルル港に派遣して牽制しました。東郷らはいったん帰国し、再びホノルル港に入りました。そのとき臨時政府は東郷に臨時政府の「建国1周年」の祝砲21発を要請しましたが、東郷は「その必要なし」と断りました。
 東郷の毅然とした行動を見た米国海軍次官セオドア・ルーズベルトは、1897年5日5日付で友人の海洋戦略理論家アルフレッド・マハンに宛てた手紙でこう書いています。
 「もし私が思い通りにやるなら、あすそれらの島々(ハワイ)を併合したい」「すぐにニカラグアに運河を造り、新型の戦艦を1ダース建造して、半分は太平洋に配備しなければならない」「私は日本からの危険にしっかりと気付いている」「ただちに行動しなければならない。戦艦『オレゴン』を、必要なら『モントレー』を送って島にわれわれの旗を掲げる」
 日本に脅威を感じたルーズベルトはこの年、海軍の対日作戦計画を作りました。そして翌1898年、米国はハワイを自国の領土にしてしまいました(ハワイ併合)。
 同じ年、スペインの植民地だったカリブ海のキューバに停泊していた米国の軍艦メイン号が爆発して約260人の乗組員が犠牲になる事故が起きました。米国はこれをスペインの仕業と決め付け、「リメンバー・ザ・メイン」を叫んでスペインに戦争を仕掛けました(米西戦争)。その結果、スペインからカリブ海のプエルトリコのほか太平洋のフィリピン、グアム島を奪いました。「リメンバー○○」で戦意を高揚させるのが米国の常套手段です。
 フィリピンを攻めるとき、米国は独立運動のリーダー、エミリオ・アギナルドに「スペインを追い出すから協力してほしい。追い出したら独立させる」と言って協力させましたが、約束を破って併合を宣言し、20万人とも60万人ともいわれるフィリピン人を殺しました(米比戦争)。
 太平洋の次に狙ったのは中国大陸でした。
=つづく
(地方部編集委員 渡辺浩)

2016.12.18 01:00更新
【入門・日米戦争どっちが悪い(3)】
日露戦争機に対日戦を想定した米国 日本人移民排斥の動き激化

https://www.sankei.com/premium/news/161218/prm1612180009-n1.html

 米国がハワイやフィリピンを奪っているころ、わが国は日清戦争に勝ち、1895(明治28)年の下関条約で満州の玄関口である遼東半島を割譲されました。ところが清は約束に従わず、ロシアに泣きつきました。ロシア、フランス、ドイツはわが国に対して「東洋平和のため遼東半島を清に返せ」と迫り、ロシアの軍事的脅威を感じたわが国は屈服しました(三国干渉)。
 その後、「東洋平和」どころか、三国に英国も加わって清に群がり、相次いで領土を奪っていったのです。清はわが国から取り戻した遼東半島をロシアに貸し与え、満州はロシアの支配下になりました。このときはまだ米国の姿はありません。
 T・ルーズベルトは親日ではない
 1904(明治37)年から翌年にかけての日露戦争でわが国はロシアを破りました。世界制覇を目指す白人国家を押しとどめたわが国の勝利は、白人に支配されている人々に独立への勇気と希望を与えましたが、米国はわが国を恐れました。
 日露戦争の講和を仲介したのは前回紹介したセオドア・ルーズベルト(共和党)でした。海軍次官からニューヨーク州知事、副大統領を経て大統領になっていました。ルーズベルトを親日家と言う人がいますが全くの間違いです。彼はわが国が国力をつけることを警戒し、講和条約のポーツマス条約でわが国はロシアから賠償金を得ることはできませんでした。
 中南米に武力をちらつかせる「棍棒(こんぼう)外交」で有名なルーズベルトですが、アジアでも、中国大陸を狙っていた米国にとって、ロシアに代わって南満州に進出した日本は邪魔な存在となりました。
 ルーズベルトは自身が日露戦争前に作った海軍の対日作戦計画を発展させ、日本との戦争を想定したオレンジ計画という長期戦略をつくり始め、海軍力の増強に乗り出しました。
 米国は、英国への「レッド計画」、ドイツへの「ブラック計画」など、他の国との戦争も想定したカラーコード戦争計画を作っていましたが、オレンジ計画は本格的でした。計画は何度も更新され、日本の艦隊を撃破して、本土の都市を爆撃することなどが企てられていきました(これは後に現実のものとなります)。
 日本側には敵対感情なかったのに…
 欧米では、白人による支配が黄色人種によって脅かされるのではないかという黄禍論が広がりました。
 日露戦争直後、日本人には米国人への敵対感情などありませんでした。1906年に起きたサンフランシスコ地震でわが国は24万ドル(今のお金で数十億円とも数百億円ともいわれます)の義援金を送りました。
 米国は1908(明治41)年、戦艦16隻などからなる艦隊、グレート・ホワイト・フリートを世界一周させ、横浜にも寄港させました。軍事力を誇示するのが目的でしたが、わが国は大歓迎で応じました。
 ワシントンのポトマック河畔に咲き競う桜の苗木が日米友好の印として東京市から贈られたのも、ちょうどこのころでした。
 ところが日本人は排斥されていきます。米国には19世紀末から日本人移民が増えていましたが、サンフランシスコ地震があった1906年にカリフォルニア市は日本人移民の子供を公立学校から締め出しました。
 翌年にはサンフランシスコで反日暴動が起こります。その翌年には日米紳士協定が結ばれてわが国は移民を自主的に制限する代わり米国は日本人移民を排斥しないと取り決め、事態は収まるかに見えました。
 しかし米国は約束を破って1913年、カリフォルニア州で市民権獲得資格のない外国人(つまり日本人移民)の土地の所有や3年以上の賃借を禁ずる法律(排日土地法)が可決されました。
 葬り去られた人種差別撤廃条項
 こうした中、1914年に第一次世界大戦が始まり、17年には米国が参戦しました。同じころに起きたロシア革命に米国大統領ウッドロー・ウィルソン(民主党)は同情的で、「素晴らしい、心を沸き立たせるような事態は、将来の世界平和に対するわれわれの希望を、さらに確かなものとしたと、全ての米国人は感じないであろうか」「専制政治は排除され、それに代わって偉大にして寛大なロシア国民が世界の自由、正義、平和のための戦列に加わったのである」と議会で演説しました。
 側近が共産党シンパだったといわれています。ロシア革命を支援する資金が米国から流れていました。共産主義に対する警戒心を持っていたわが国と対照的でした。
 ロシア革命干渉戦争として1918年から始まったシベリア出兵にウィルソンはもともと反対で、英国やフランスから説得されてわが国を誘いました。わが国は慎重な判断の末、参加しましたが、米国は突如撤兵するなどわが国を振り回しました。ロシア革命よりもわが国の大陸での動きを警戒したのです。
 ウィルソンは共産主義に甘いだけではなく、人種差別主義者でした。第一次大戦が終わって1919年にパリ講和会議が開かれ、ウィルソンの提唱で国際連盟ができることが決まりました。ウィルソンは「民族自決」(それぞれの民族が自分たちで政府をつくる権利)を唱えましたが、それは敗戦国のオーストリア=ハンガリー帝国を弱体化させるための方便に過ぎず、フィリピンなどには適用されませんでした。
 わが国は国際連盟の規約に人種差別撤廃条項を入れるよう提案しました。アジアやアフリカの人々や米国の黒人たちは感激し、例えば全米黒人新聞協会は「われわれ黒人は講和会議の席上で『人種問題』について激しい議論を戦わせている日本に、最大の敬意を払うものである」「全米1200万人の黒人が息をのんで、会議の成り行きを見守っている」というコメントを発表しました。
 しかし、先住民を虐殺してきた「白豪主義」の人種差別国家オーストラリアなどが強硬に抵抗しました。そこで、わが国は譲歩して、規約前文に「国家平等の原則と国民の公正な処遇」を盛り込むよう提案しました。
 採決は11対5の賛成多数。ところが議長を務めていたウィルソンは「こういう重要な問題は全会一致でなければならない」と、一方的に否決したのです。自分たちが黒人を差別しているからでしょう。
 米国はわが国の提案を妨害しておきながら、議会の反対で国際連盟に加盟しませんでした。
 1920年、カリフォルニア州で第二次排日土地法が成立し、米国国籍を持つ日系2世、3世の名義で土地を取得することも禁じられ、日本人移民は農業から締め出されました。
 1923年、連邦最高裁は、黄色人種である日本人は帰化不能外国人との判決を下しました。
 そして1924年には州法ではなく米国全土の法律として排日移民法が成立し、日本人の移民は禁止されたのです。既に米国にいる日本人移民が親や妻子を日本から呼び寄せることも禁止されたため、日本人移民の家庭を崩壊させるものとなりました。
 日本人は米国からこんな仕打ちを受けるとは夢にも思っていませんでした。
=つづく
(地方部編集委員 渡辺浩)

2016.12.25 01:00更新
【入門・日米戦争どっちが悪い(4)】
満州を狙い嫌がらせした米国 支那事変拡大の影にコミンテルン

https://www.sankei.com/premium/news/161221/prm1612210010-n1.html

 北米大陸の中で侵略を行っていた米国は、欧州諸国に比べ遅れて現れた帝国主義国家でした。太平洋に達し、中国大陸を狙ったときには、わが国やフランス、ドイツ、英国が入っていて、米国の割り込む場所はありませんでした。
 「門戸開放」言いながらブロック経済
 米国務長官ジョン・ヘイは1899年と翌年、関係各国に中国の「門戸開放」と「機会均等」を要求しました(門戸開放通牒)。つまりは自分も入れろということです。
 第一次世界大戦後の軍縮を話し合うとして、1921年に米国が提唱してワシントン会議が開かれました。ここで主力艦の比率が米国5、英国5、日本3と決められました(ワシントン海軍軍縮条約)。わが国にとって不利な内容でしたが、国際協調を期待して受け入れたのです。ところがその後、米国はハワイで、英国はシンガポールで海軍力を増強していきました。
 このとき米国、英国、日本、中国の国民政府などで結ばれた九カ国条約に中国の「門戸開放」「機会均等」「領土保全」が盛り込まれました。その結果、わが国の中国での権益を認めた石井・ランシング協定は破棄されました。わが国は第一次大戦で中国の山東省の権益を得ていましたが、米国の干渉で中国に返還しました。
 1929年、米国の上院議員リード・スムートと下院議員ウィリス・ホーリーが輸入品に極端に高い関税をかける法案を議会に提出しました。スムート・ホーリー法と呼ばれます。2人は実業家で、外国製品を追い出して自分の企業を守ろうと考えたのです。10月24日にニューヨーク証券取引所で株価が大暴落(「暗黒の木曜日」)。世界恐慌に突入しました。翌年、この法律は成立し、恐慌は深刻化しました。
 英国は1932年のオタワ会議で、英国とその植民地の間で関税を優遇し、それ以外の国との間では高い関税をかけるというブロック経済に突入しました。米国も1934年に互恵通商法を成立させ、南北アメリカを経済ブロック化しました。中国の「門戸開放」を言いながら、自分たちは自由貿易を捨てたのです。
 そうなると、米国や英国のように広い領土や植民地がある国は有利ですが、わが国のように貿易に頼る国にとっては死活問題になっていきました。
 F・ルーズベルトが大統領に
 オタワ会議と同じ年に中国の北側に建国された満州国はわが国にとってますます重要な存在となりました。しかし米国にとっても、自国の中西部に似た資源豊かな満州の大地が欲しかったのです。米国は満州国を承認しませんでした。「有色人種にもかかわらず」ここを手にしたわが国に対して嫉妬心を募らせ、異常な敵意を持って妨害を始めたのです。
 第一次大戦後の米国外交について、米国の有名な外交官ジョージ・ケナンは「われわれは十年一日のごとく、アジア大陸における他の列強、とりわけ日本の立場に向かっていやがらせをした」(『アメリカ外交50年』)と述べています。
 このころの米国大統領は共和党のハーバート・フーバーでした。1922年に建国された共産主義国家ソ連に対して根強い警戒感を持っていましたが、世界恐慌に有効な対策を打てずに大統領選に大敗しました。
 1933年に大統領に就任した民主党のフランクリン・ルーズベルトは、わが国との戦争を想定したオレンジ計画の策定に着手したセオドア・ルーズベルトの五(いつ)いとこ(五代前が兄弟)で、義理のおい(妻の叔父がセオドア)にもあたります。
 フランクリン・ルーズベルトはニューディール政策などの社会主義的政策を進めるとともに、共和党の反対を押し切ってソ連を国家承認しました。このころから、米国内で国際共産主義運動の指導組織コミンテルンの工作が浸透し始めました。
 支那事変はソ連、中国共産党に好都合
 中国では蒋介石の国民政府軍と毛沢東の共産党軍が争っていました。1936年12月、中部の西安で蒋介石が部下のはずの張学良に監禁される西安事件が起きました。毛沢東は蒋介石を殺そうとしましたが、ソ連の独裁者ヨシフ・スターリンは殺さず利用するよう指令しました。蒋介石は共産党軍への攻撃をやめ、一致して日本に抵抗するよう約束させられました。
 米国は国民政府軍を支援するため1937年5月、陸軍航空隊を43歳で退役したクレア・シェンノートを軍事顧問として送り込み、てこ入れを図りました。
 7月7日、北京郊外の盧溝橋で国民政府軍に潜んでいた共産党軍の工作員が日本軍に発砲しました(盧溝橋事件)。双方を戦わせるための共産党の謀略でした。事件発生を受けて、コミンテルンは中国共産党に対し(1)あくまで局地解決を避け、日中の全面的衝突に導かなければならない(2)下層民衆階層に工作して行動を起こさせ、国民政府に戦争開始がやむを得ないと思わせる-などと指令しました。
 中国側が非を認めて現地停戦協定が結ばれましたが、周辺ではわが国に対する挑発が相次ぎ、日本人260人が虐殺される通州事件も起きました。
 それでも現地の軍は不拡大を目指しましたが、最初の和平案が話し合われる日に、遠く離れた上海で大山勇夫海軍中尉が惨殺される大山中尉殺害事件が起きた上、日本人が住む地域を守っていた海軍陸戦隊を国民政府軍が攻撃したことから、わが国は全面的な戦いに引きずり込まれました(支那事変、日中戦争)。
 支那事変はわが国にとって、やる必要のない戦争でした。
 中国共産党の背後にはスターリンとコミンテルンがいました。ソ連にとって、わが国が攻めてこないよう国民政府軍と戦わせることは都合がよかったのです。
 砕氷船理論という言葉があります。ソ連がわが国を「砕氷船」にして国民政府軍と戦わせ、氷がなくなると、漁夫の利としてその地域を共産主義陣営にいただく-という戦略のことです。実際にスターリンがそういう演説をしたという説もあります。
 中国出身の著述家、ユン・チアン氏らの『マオ-誰も知らなかった毛沢東』によると、大山中尉殺害事件を仕組んだのは国民政府軍に潜んでいた張治中という共産党の工作員でした。
 張治中は回想録で、共産党入党を周恩来に申し出たが、国民党の中にとどまってひそかに共産党と合作してほしいと要請された-と書いています。張はわが国を挑発して戦いに引きずり込む工作をしたのです。
 コミンテルンの工作は米国や中国国民政府だけでなく、わが国にも及んでいました。「国民政府を対手とせず」という声明で交渉の道を閉ざして支那事変を泥沼化させ、わが国に統制経済(つまり社会主義経済)を導入した首相の近衛文麿は、コミンテルンの影響を受けていました。
 近衛のブレーン集団、昭和研究会は社会主義者で占められ、メンバーの元朝日新聞記者、尾崎秀実(ほつみ)は支那事変を言論を通じてあおりました。後にリヒャルト・ゾルゲの下でソ連のスパイとして活動していたとして逮捕されました(ゾルゲ事件)。
 尾崎は検事に対し、わが国が社会主義国に転換するために「特にソ連の援助を必要とするでありましょうが、さらに中国共産党が完全なヘゲモニーを握った上での支那と、資本主義機構を脱却した日本とソ連との三者が、綿密な提携を遂げることが理想的な形と思われます」と持論を供述しました。
 ルーズベルトは盧溝橋事件から3カ月後の10月5日の演説で、名指しは避けながらもわが国を「疫病」にたとえて非難し、「隔離」せよと訴えて挑発しました(隔離演説)。
 支那事変に中立でなければならない米国や英国は、仏印(フランス領インドシナ。今のベトナムなど)や英領ビルマ(今はミャンマーと呼ばれています)を通じて中国の国民政府に援助物資を運び込みました(援蒋ルート)。
 わが国に対する経済的締め付けも始まりました。米国務長官コーデル・ハルの特別顧問で親中反日のスタンレー・ホーンベックは1938年12月、ハルに「米国国民は今や思い切った行動を歓迎している」として日米通商航海条約廃棄を提案。翌1939年7月、米国はわが国に条約廃棄を通告してきました。
 この年の12月にはモラルエンバーゴ(道義的輸出禁止)として航空機ガソリン製造設備、製造技術に関する権利の輸出を停止すると通知。翌1940年8月に航空機用燃料の西半球以外への全面禁輸、9月にはくず鉄の対日全面禁輸を発表するなど、真綿で首を絞めるようにわが国を圧迫していきました。
=つづく
(地方部編集委員 渡辺浩)



2017.1.1 01:00更新
【入門・日米戦争どっちが悪い(5)】
日本を追い込んだルーズベルト 背景に人種偏見とソ連のスパイ

https://www.sankei.com/premium/news/170101/prm1701010007-n1.html

米大統領フランクリン・ルーズベルトは、1939年9月に欧州で始まった第二次世界大戦でドイツに追い詰められていた英国を助けるためにも、参戦したいと考えていました。しかし米国民の圧倒的多数は第一次大戦に懲りて戦争を望んでおらず、ルーズベルトは1940年11月に3選を果たした際に「あなた方の子供はいかなる外国の戦争にも送られることはない」と、戦争しないことを公約にしていました。
 選挙公約に反して戦争たくらむ
 参戦するにはよほどの口実が必要です。米軍はドイツの潜水艦を挑発して、ドイツ側から攻撃させようとしましたがドイツは引っ掛かりませんでした。そのためルーズベルトは、ドイツ、イタリアと三国同盟を結んだわが国を挑発するという「裏口」からの参戦をたくらんだのです。
 12月、米国議会は中国国民政府への1億ドルの借款供与案を可決。ルーズベルトは「われわれは民主主義の兵器廠とならなければならない」との談話を発表しました。翌1941年3月には、大統領の権限で他国に武器や軍需品を売却、譲渡、貸与することができる武器貸与法を成立させました。これによって英国や中国国民政府、ソ連に軍事援助を行いました。「戦争しない」と言って選挙に勝った、わずか半年後のことです。
ルーズベルトの側近中の側近である財務長官ヘンリー・モーゲンソーは1940年、宣戦布告せずに国民政府軍を装ってわが国を先制爆撃する計画を政権内部で提案しました。「日本の家屋は木と紙でできているのだから焼夷(しょうい)弾で焼き払おう」と目を輝かせたといいます。米国は早くから関東大震災の被害を分析し、焼夷弾による空襲がわが国に対して最も効果的だと認識していました。
 モーゲンソーの案はそのときは採用されませんでしたが、米国はフライングタイガースと称して戦闘機100機と空軍兵士200人を中国に派遣し、前回紹介した退役軍人クレア・シェンノートの指揮下に置きました。戦闘機は国民政府軍のマークを付けていましたが、米国は実質的に支那事変に参加していました。日米戦争は始まっていたのです。ルーズベルトは有権者への公約を破っていました。
 国民政府軍を装ったわが国への先制爆撃計画は翌1941年、息を吹き返します。7月23日、ルーズベルトはJB355と呼ばれる文書に署名しました。その文書は150機の長距離爆撃機を国民政府軍に供与して、東京、横浜、京都、大阪、神戸を焼夷弾で空襲するという計画書でした。真珠湾攻撃の5カ月前にルーズベルトはわが国への攻撃を命令していたのです。
 しかも、この計画を推進した大統領補佐官ロークリン・カリーはソ連のスパイだったことが明らかになっています。
 JB355への署名から2日後の7月25日、米国は国内の日本資産を凍結。28日にわが国が南部仏印進駐に踏み切ると、米国は8月1日、わが国への石油輸出を全面的に禁止しました。そして英国、中国、オランダをそそのかして封じ込めを強めました(ABCD包囲網)。石油がなければ国は成り立ちませんから、「死ね」と言っているのと同じです。
 第一次世界大戦の後、侵略戦争を放棄しようとパリ不戦条約がわが国や米国、英国、フランスなどの間で結ばれていました。米国務長官フランク・ケロッグとフランス外相アリスティード・ブリアンの協議から始まったことからケロッグ・ブリアン条約とも呼ばれています。
 ケロッグは条約批准を審議する議会で、経済封鎖は戦争行為ではないかと質問されてこう答弁していました。「断然戦争行為です」。つまり米国はわが国に戦争を仕掛けたのです。
 戦争準備のため時間稼ぎ
 わが国は米国との対立を平和的に解決しようと交渉していました(日米交渉)。石油全面禁輸から1週間後の8日、首相の近衛文麿はハワイでの日米首脳会談を駐米大使の野村吉三郎を通じて米国務長官コーデル・ハルに提案しました。しかしルーズベルトはそのころ、大西洋上の軍艦で英国首相ウィンストン・チャーチルと謀議を行っていました(大西洋会談)。
 ここで発表されたのが有名な大西洋憲章で、「領土不拡大」「国民の政体選択権の尊重」「強奪された主権・自治の返還」がうたわれました。さんざん植民地を増やしてきた米国と英国に言われても説得力はありません。
 実際「政体選択権の尊重」はドイツ占領下の東欧のことを言っていて、アジアの有色人種に適用するつもりはありませんでした。ウィルソンの「民族自決」、ヘイの「門戸開放」などと同様、美辞麗句と行動が一致しないのが米国です。
 大西洋会談でルーズベルトは、参戦を求めるチャーチルに対して「3カ月はやつら(日本)を子供のようにあやすつもりだ」と述べました。戦争準備のため時間稼ぎをするのでしばらく待ってくれという意味です。ルーズベルトはわが国に対して「ハワイは無理だが、アラスカのジュノーでなら会談してもいい」などと回答して気を持たせましたが、初めから首脳会談を行うつもりなどありませんでした。
 実は前年の1940年10月、米海軍情報部極東課長アーサー・マッカラムが、日本を追い詰めて先制攻撃させる方法として8項目の覚書を書いています(マッカラム覚書)。そこには「在米日本資産の凍結」や「オランダとともに日本への石油輸出を禁止する」といった内容がありました。それがほぼ実行に移されたのです。
 1941年11月15日、米陸軍参謀総長ジョージ・マーシャルは非公式の記者会見で「紙でできた日本の都市を燃やす」「市民を爆撃することに何の躊躇も感じない」と言い放ちました。
 26日、米国はわが国に中国大陸からの撤退などを求めるハル・ノートと呼ばれる最後通告を突き付けてきました。
ハル・ノート起草したのはソ連のスパイ
 ルーズベルトは極端な人種差別主義者で、日本人を病的に蔑視していました。「日本人は頭蓋骨の発達が白人より2000年遅れているから凶悪なのだ」と大真面目に信じていたのです。駐米英公使ロバート・キャンベルはルーズベルトとの会談内容を本国に報告した手紙で、ルーズベルトがアジアで白人との人種交配を進めることが重要と考え、「インド-アジア系、あるいはユーラシア系、さらにいえばヨーロッパ-インド-アジア系人種なるものを作り出し、それによって立派な文明と極東『社会』を生み出していく」、ただし「日本人は除外し、元の島々に隔離してしだいに衰えさせる」と語ったと書いています。
 「元の島々に隔離してしだいに衰えさせる」という妄想を言葉に出して、わが国に通告したのがハル・ノートなのです。
 もし米国が他国から「建国当初の東部13州に戻れ」と言われたらどう思うでしょうか。戦後の東京裁判でインド代表判事のラダビノード・パールは「同じような通牒を受け取った場合、モナコ王国やルクセンブルク大公国でさえも合衆国に対して戈(ほこ)を取って起ち上がったであろう」という歴史家の言葉を引用しています。
 ハル・ノートは国務長官のハルが手渡したためそう呼ばれていますが、原案を書いたのは財務次官補ハリー・ホワイトでした。ホワイトはJB355を推進したカリーと同様、ソ連のスパイでした。米国とわが国を戦わせるため、とても受け入れられない強硬な内容にしたのです(ホワイトがソ連のスパイだったことは戦後明らかになり、下院に喚問された3日後に自殺しています)。
 ハル・ノートを出す前に米国は暫定協定案を作っていました。わが国が受け入れ可能な内容でしたが、中国国民政府の蒋介石が強硬に反対しました。カリーの推薦で蒋介石の顧問になっていたオーエン・ラティモアが暗躍していたのです。米国のシンクタンク、太平洋問題調査会(IPR)にはラティモアら共産主義シンパが入り込んでいました。わが国の昭和研究会と同じような役割を果たしたといえます。
 ルーズベルト政権には300人ものソ連への協力者が入り込んでいました。ソ連の浸透は、ソ連のスパイが本国とやり取りした暗号電報を米軍が解読したヴェノナ文書が1995年になって公開されて明らかになりました。
 前に述べた通り、ルーズベルトは共産主義への警戒感はなく、ソ連の独裁者ヨシフ・スターリンについて「共産主義者ではなく、ただロシアの愛国者であるだけだ」と言っていました。妻のエレノアも共産主義に共鳴していました。ルーズベルトはわが国と米国を戦わせようというスターリンの謀略に影響されていたのです。
 こうしてわが国は追い詰められていきました。
=つづく
(地方部編集委員 渡辺浩)


2017.1.8 15:00更新
【入門・日米戦争どっちが悪い(6)】
「真珠湾」事前に知っていたルーズベルト 現地に教えず見殺し

https://www.sankei.com/premium/news/170108/prm1701080006-n1.html

 わが国はやむなく、1941(昭和16)年12月8日(現地時間7日)、ハワイの米海軍基地を攻撃(真珠湾攻撃)。米国、英国など連合国を相手に戦争に突入しました。平和を願ってぎりぎりまで努力を続けた昭和天皇は、開戦の詔書に「豈(あに)朕(ちん)カ志ナラムヤ」(このような事態は私の本意ではない)と書き加えるようご下命になりました。12日の閣議で戦争の名称を、進行中の支那事変も含めて大東亜戦争と決めました。
 「日本に1発目を撃たせろ」
 米大統領フランクリン・ルーズベルトは1940年10月8日の段階で、海軍大将ジェームズ・リチャードソンに対し「遅かれ早かれ、やつら(日本)は過ちを犯し、そしてわれわれは戦争に突入することになる」と語っていました。
 陸軍長官ヘンリー・スチムソンの日記によると、ハル・ノートがわが国に通告される前日の1941年11月25日、関係閣僚と軍幹部による戦争閣議でルーズベルトは「米国はたぶん次の月曜日(12月1日)に攻撃を受ける可能性がある」と発言。「われわれ自身が過大な危険にさらされないで、最初の一弾を撃たせるような立場に、日本をいかにして誘導していくべきか」が話し合われました。
 わが国の命運を左右する謀議を行ったその夜、ルーズベルトは浮かれていました。ホワイトハウスにノルウェーのマッタ皇太子妃を招き、夕食を共にしました。マッタ妃はナチス・ドイツの侵攻から逃れて米国に滞在し、英国にいたオーラブ皇太子とは離れて暮らしていたのです。
 当時40歳で美貌のマッタ妃に59歳のルーズベルトは恋愛感情を抱いていました。ルーズベルトの妻エレノアはこの日、ニューヨークに出掛けて留守。ホワイトハウスの記録によると、マッタ妃は午後7時半から翌日午前0時15分までホワイトハウスにいました。
 27日、国務長官コーデル・ハルはスチムソンに対して「私はそれ(日本との交渉)から手を引いた。今やそれは君とノックス(海軍長官)の手中にある」と述べました。外交交渉は打ち切ったので後は軍の出番だというわけです。
 筒抜けだった日本外務省の暗号
 わが国が真珠湾を攻撃するのではないかという噂は早くから米国に伝わっていました。攻撃11カ月前の1941年1月27日、駐日ペルー公使のリカルド・シュライバーは在日米国大使館に「日本軍は真珠湾を攻撃する準備をしている」という情報を伝え、直ちに駐日米大使ジョセフ・グルーから国務長官ハルに打電されました。これはグルーの日記にもハルの回顧録にもはっきり記されています。
 米国はわが国の外務省が使っていた暗号機の模造に成功し、解読に必要な句読点コードはニューヨークの日本総領事館に深夜侵入して盗撮していました。外交電文は筒抜けだったのです。暗号は「パープル」(紫)と呼ばれ、解読文は「マジック」という名前が付けられていました。
 例えば、外務省は在外公館に対して暗号で、日米関係が危機になれば「東の風、雨」、日ソ関係が危機になれば「北の風、曇り」、日英関係が危機になれば「西の風、晴れ」という偽の天気予報をNHKの海外向け短波放送に紛れ込ませるので、放送を聞いたら暗号関係の書類を破棄せよ-と打電していました。米国はこれを解読し、真珠湾攻撃3日前の12月4日に「東の風、雨」が放送されたことを確認しています。
 わが国外務省は12月1日に在英大使館などに暗号機の破壊を命じ、2日には在米大使館にも1台を残して暗号機を破壊するよう命ずる外交電文を発信しましたが、これも米国は解読していました。わが国が交渉による解決を断念し、開戦を決意したと、米国は分かっていたのです。
 また、ホノルルの日本総領事館員、吉川猛夫が諜報活動を行っていたことを知りながら泳がせて行動を監視し、真珠湾の米艦船の停泊位置などを報告する電文が増えていたことを把握していました。わが国が真珠湾の様子に重大な関心を抱いていたことを、米国は知っていました。
 オーストラリアはわが国海軍機動部隊がハワイに向かっていることを偵察機が確認し、米政府に報告していました。米国の参戦を待つ英国も機動部隊の動きを知っていたとされています。
 前回紹介したマッカラム覚書を発掘した元米海軍軍人のロバート・スティネットは膨大な史料を基に、米国がわが国海軍の作戦暗号を一部解読していたと論じています。海軍機動部隊が無線封止の命令を破って不用意に発信する微弱な電波を太平洋の監視網で方位測定し、択捉島・単冠(ひとかっぷ)湾に集結してから真珠湾に向かう動きをつかんでいたというのです。戦史研究家の原勝洋氏も、真珠湾攻撃前に米国が海軍の暗号を解読していたとする米海軍の報告書を発見しています。
 米国がわが国海軍の作戦指示をどの程度解読できていたのかはさらに検証が必要ですが、ルーズベルトが自国が攻撃されることを事前に知っていたことは間違いありません。
 「戦争はあした始まるよ」
 当時、ハワイの米太平洋艦隊には「エンタープライズ」「レキシントン」「サラトガ」の3隻の空母が配備されていましたが、サラトガは西海岸のサンディエゴで整備中でした。ハル・ノート通告と同じ11月26日、米海軍首脳部は太平洋艦隊司令長官ハズバンド・キンメルに対して、海兵隊の戦闘機などを運ぶためエンタープライズをウェーク島に、レキシントンをミッドウェー島に派遣するよう指示しました。キンメルは疑問に思いましたが従い、エンタープライズは28日に3隻の巡洋艦と9隻の駆逐艦を連れて、レキシントンは12月5日に3隻の巡洋艦と5隻の駆逐艦を連れて出港しました。真珠湾には戦艦アリゾナなど旧型艦ばかりが残ったのです。真珠湾攻撃に備えて空母などを避難させた可能性があります。
 交渉を打ち切るというわが国の最後通告は在米大使館員たちの怠慢によって真珠湾攻撃の55分後に米側に手渡されました(宣戦布告遅延問題)。もちろん大使館員たちのやったことは万死に値します。しかし、そもそも米国は東京から在米大使館に送られた最後通告の電文を直ちに解読し、いち早く知っていたのです。在米大使館の残り1台の暗号機の破壊を命じる電文も読んでいました。
 真珠湾攻撃前日の6日、海軍幹部から渡された解読文を読み終えたルーズベルトはこう言いました。「This means war」(これは戦争を意味する)。ルーズベルトの長女の夫だったジョン・ベティジャーによると、この日、ルーズベルト家は全員が集まってディナーをとりました。ルーズベルトは中座し、やがて戻ってきて、こう言いました。「戦争はあした始まるよ」
 米軍首脳は、最後通告がワシントン時間の7日午後1時、ハワイ時間の午前7時半に手渡される予定で、直後に攻撃が始まる恐れがあると知りながら、この情報をすぐにハワイに知らせようとしませんでした。軍の通信網ではなくあえて商用電報で送り、陸軍ハワイ司令官ウォルター・ショートと海軍太平洋艦隊司令長官キンメルがそれを受け取ったのは攻撃を受けた何時間も後でした。米国は味方を欺き、見殺しにしたのです。
 国務長官ハルは、遅れた最後通告を手渡しにきた駐米大使の野村吉三郎らに対して、初めて見たように驚いてみせ、「私はこれほどの虚偽と歪曲に満ちた恥知らずの文書を見たことがない」と芝居を演じました。
 陸軍長官スチムソンはその日の日記に「日本が直接ハワイを攻撃したことによって、全問題は解決された」「第一報にはじめて接したとき、私の最初の印象は、未決定状態が終わって救われたという気持ちであり、また危機は到来したが、これで米国国民は全て団結するという感じであった」と書いています。ルーズベルトのもくろみ通り、わが国を追い詰めて先制攻撃させ、参戦の口実にしたのです。
 真珠湾攻撃による米国側の死者は2338人。ルーズベルトは攻撃を事前に知っていたとはいえ、被害がここまで大きくなるとは思っていなかったとみられます。
 ハワイの陸海軍トップであるショートとキンメルは被害を防げなかった責任を問われて、軍法会議も開かれずに解任されました。しかし真珠湾攻撃の責任者は米大統領ルーズベルトその人なのです。
 わが国にハル・ノートを突き付けたことを、ルーズベルトは自国民に公表しませんでした。開戦権限がある議会にさえ知らせませんでした。戦争に直結する強硬な通告だと知れると、海外での戦争に反対する米国世論が反発するからです。
 事情を知らない米国民は「和平交渉中の卑怯なだまし討ち」とわが国を非難しました。そもそもハワイは米国が武力で奪った土地ですが、「リメンバー・アラモ」「リメンバー・ザ・メイン」と同じ手口で「リメンバー・パールハーバー」を叫んで戦意を盛り上げたのです。
=つづく
(地方部編集委員 渡辺浩)


2017.1.15 01:00更新
【入門・日米戦争どっちが悪い(7)】
最初から落とすつもりだった原爆 相手が日本人だから大量虐殺

https://www.sankei.com/premium/news/170115/prm1701150012-n1.html

 戦争が始まると、米国内では12万人以上の日系人が全財産を没収されて強制連行され、鉄条網が張り巡らされた収容所に入れられました(日系人強制収容)。収容所ができるまでの間、臭気が漂う厩舎に入れられた人もいました。7割が米国生まれの2世で米国籍を持っており、残り3割の1世も永住権を持ち20~40年も米国で暮らしていました。なんと、米大統領フランクリン・ルーズベルトは開戦5年前の1936年にハワイの日系人を強制収容する計画を検討していたことが明らかになっています。
 インディアン虐殺の延長
 太平洋の戦場では米兵による残虐行為が行われました。初の大西洋単独無着陸飛行に成功した米国人チャールズ・リンドバーグは開戦後、民間人技術顧問として南太平洋の前線に派遣され、そのときの米兵の振る舞いを著書『リンドバーグ第二次大戦日記』に書きました。
 「わが軍の将兵は日本軍の捕虜や投降者を射殺することしか念頭にない。日本人を動物以下に取り扱い、それらの行為が大方から大目に見られているのである。われわれは文明のために戦っているのだと主張されている。ところが南太平洋における戦争をこの目で見れば見るほど、われわれには文明人を主張せねばならぬ理由がいよいよ無くなるように思う」とした上で、米兵が日本兵の遺体から金歯を盗んだり、耳や鼻、さらには頭蓋骨を「お土産」として持ち帰った事実を紹介しています。
 日本兵の遺体の一部を持ち帰る行為は広く行われていて、米国の雑誌「ライフ」の1944年5月22日号には、若い米国人女性が前線のボーイフレンドから送られてきた日本兵の頭蓋骨をうっとり見つめながら礼状を書いている写真が掲載されています。
 ジョン・ダワーという米国の反日的な歴史学者でさえ、こうした実態を紹介した上で「もしも歯や耳や頭皮がドイツやイタリアの兵士から収集され、それが英米国内に報道されたならば、騒然たる状況を引き起こしたに違いない」と指摘しています。
 ドイツ人やイタリア人は同じ白人であり、人種的蔑視の対象ではありませんでした。ナチスの政治体制とドイツ人は分けて考えられていました。しかし日本人については国全体を人間ではない野蛮な存在とみなしていたのです。
 ルーズベルトが「日本人は頭蓋骨の発達が白人より2000年遅れているから邪悪なのだ」と大真面目に信じていたという話を連載の5回目で紹介しましたが、海軍提督ウィリアム・ハルゼーは「日本人は雌猿どもと、慈悲深い皇帝によって中国から追放された極悪の罪人たちとの交尾による産物であった」という「ことわざ」を信じていました。部下に対して「下等な猿ども」をもっと殺して「猿肉」をたくさん作れと督励しました。
 「良いジャップは死んだジャップ」とも公言しました。これは米国がインディアンを虐殺していたころの軍人フィリップ・シェリダンの有名な暴言「良いインディアンとは、死んだインディアンのことだ」をもじっています。米国人は対日開戦の半世紀前の1890年までインディアンの虐殺を行っていましたから、太平洋戦線の兵士たちは父や祖父から虐殺の武勇伝を聞かされていたのです。彼らにとって太平洋の島々は「開拓」すべき「フロンティア」であり、日本人はインディアンと同様、絶滅の対象だったのです。
 黙殺させたポツダム宣言
 米国による残虐行為の最たるものが東京大空襲や広島、長崎への原爆投下など非戦闘員の大量虐殺です。
 米国は戦争が始まるとユタ州の砂漠に東京・下町の街並みを再現する日本家屋群を作り、ちゃぶ台の上にはしと茶碗まで置いて、焼夷弾の効果を確かめる実験を行いました。そうして完成したのがM69という、わが国を焼き尽くすための新型焼夷弾でした。江戸時代の大火が春に集中していたことを調べ上げ、1945(昭和20)年3月10日を東京大空襲決行の日に選びました。
 東京大空襲の約1カ月後の4月12日、わが国を戦争に追い込んだ米大統領ルーズベルトが死去し、後任に副大統領のハリー・トルーマンが就任しました。このトルーマンが8月6日に広島に、9日に長崎に原爆を投下した大統領になります。
 わが国の一部には「日本が侵略戦争を行い、ポツダム宣言を黙殺したから原爆を落とされた」という原爆容認論があります。広島の原爆死没者慰霊碑には「過ちは繰返しませぬから」と刻まれ、修学旅行でやってきた児童・生徒が「自分たちの祖先が悪かったから原爆を落とされたんだ」と反省しています。
 米国民の多くは「原爆投下によって終戦を早め、本土決戦で犠牲になるはずの100万人の米兵の命が救われた」という根拠のない「原爆神話」「早期終戦・人命救済説」を信じています。2007年には核不拡散問題担当特使のロバート・ジョゼフが「文字通り何百万もの日本人の命がさらに犠牲になるかもしれなかった戦争を終わらせたということに、ほとんどの歴史家は同意すると思う」と、米兵だけではなく日本人のためだったと恩着せがましく語りました。
 わが国の原爆容認論、米国の原爆正当化論は、どちらもとんでもない話です。ルーズベルトは真珠湾攻撃2カ月前の1941年10月に原爆の開発を決断。翌年、原爆開発のマンハッタン計画に発展します。1944年9月、ルーズベルトと英首相ウィンストン・チャーチルは、原爆が完成したら「日本人に対して使う」という秘密の合意を行いました(ハイドパーク協定)。
 ポツダム宣言が発表されたのは1945年7月26日ですが、トルーマンはその前日の25日に「広島、小倉、新潟、長崎のいずれかの都市に8月3日ごろ以降の目視爆撃可能な天候の日に特殊爆弾を投下する。追加分も準備が整い次第、前記目標に投下せよ」と2発の投下を命令していたのです。
 トルーマンはこの日の日記に「ジャップに対し、降伏し、命を無駄にしないよう警告の宣言を発するつもりだ。彼らが降伏しないことは分かっている」と書きました。ポツダム宣言とは関係なく原爆を落とすつもりだったのです。
 日記には「われわれは世界の歴史で最も恐ろしい爆弾を発見した」とした上で「ノアの箱船の後のユーフラテス渓谷時代に予言された火による破壊とは、このことかもしれない」との記述があります。これは、旧約聖書の「創世記」に登場する都市「ソドムとゴモラ」を指しているとみられます。
 ソドムとゴモラは同性愛などの退廃が神の怒りをかい、天からの激しい火によって滅ぼされたとされています。トルーマンは原爆投下を天罰と考えていたのでしょう。
 トルーマンは8月の2発に続いて、9、10、11月に3発ずつ、必要なら12月にも7発と、最大18発の原爆を投下するという軍部の計画を承認していました(1995年7月16日付ワシントン・ポストの報道)。
 現代史研究家の鳥居民氏は、ポツダム宣言はわが国が「黙殺」するように作られていたと論じました。ポツダム宣言の草案には、共同署名国としてソ連が書かれていましたが、トルーマンと原爆投下を強硬に主張する国務長官ジェームズ・バーンズはそれを削り、中国国民政府に差し替えました。わが国がソ連に和平の仲介を依頼していることを知っていたため、ソ連への期待を持ち続けさせようとたくらんだのです。
 草案には天皇の地位保全(国体護持)を認める条項もありましたが、それも削除しました。国体護持こそがわが国がこだわっていた降伏条件だったからです。
 そして、最後通告の公式文書だと思わせない形式にし、ホワイトハウスや国務省からではなく宣伝機関の戦時情報局から発表しました。
 広島と長崎に原爆を落とすまでわが国を降伏させないように、ポツダム宣言はできていたのです。米国は開戦前にわが国の戦争回避の努力を知りながら時間稼ぎをして追い込みましたが、戦争が終わるときも和平意図を知りながら引き延ばして原爆を落としたのです。
 もしドイツの降伏が遅くても、原爆はドイツに対して使われることはなかったでしょう。日本人に対する人種偏見があったからこそ恐るべき人体実験が行われたのです。
 「日本人は獣として扱う」
 トルーマンは広島に原爆が投下されたとき、ポツダム会談を終えて巡洋艦オーガスタで帰国する途中でした。将校から「原爆投下成功」のメモを見せられると飛び上がって喜び、「歴史上、最も大きな出来事だ」と言いました。
トルーマンはルーズベルトに負けず劣らずの人種差別主義者でした。27歳だった1911年、後に妻になるベスに宛てた手紙にこう書きました。
 「叔父のウィルが言うには、神は砂で白人を作り、泥でニガー(黒人の蔑称)を作り、残ったものを投げたら、それが落ちて中国人になったそうです。叔父は中国人とジャップが嫌いです。私も嫌いです。たぶん人種的偏見でしょう。しかし私は、ニガーはアフリカに、黄色人種はアジアに、白人はヨーロッパと米国にいるべきだと強く信じています」
 原爆投下を受けて、全米キリスト教会連邦協議会のサミュエル・カバート事務総長はトルーマンに「多くのキリスト教徒が動揺している。それが無差別破壊だからだ」と電報を送りましたが、トルーマンはこう返信しました。「獣を相手にするとき、あなたはそれを獣として扱わなければならない。大変残念だが、それでも真実だ」
 戦後も「後悔していない」「全く心が痛まない」と繰り返し語りました。1958年のCBSの番組で、道義上の問題があるので決定は難しかったのではないかと問われると、「とんでもない。こんな調子で決めたよ」と、ボーイを呼ぶように指をパチンと鳴らしました。
=つづく
(地方部編集委員 渡辺浩)


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