「神様からの贈り物」

~扁平上皮癌との闘い~

まだ数年は続くと思っていた、愛猫「ぺい」との平凡な日常。
しかし、その後の誤診と突然の癌宣告...。
それでも、再び元気になれる奇跡を一緒に夢見た記録です。

寿命が不平等である理由

しかし、なぜ、よりによって、ぺいの寿命が平均寿命よりも短くなければならなかったのか?私は、その理由について考え続けていた。しかし、そうは言っても、世の中には、もっと寿命の短い猫だっている。そして、そういった事までを踏まえて考えると、結局、平均寿命と比べてしまえば悲しいと思える事でも、より短命の猫と比べれば、少なからず逆に喜ぶべき事になってしまう。そもそも、相対的な寿命の長短で悲しむこと自体、本当に正しいことなのだろうか?もし、無意識であったとしても、誤った感覚や価値観に囚われていて、悲しみそのものを増幅させてしまっていたとしたら、それは、本来、不要であるはずの悲しみさえも背負っている事を意味してしまう。もちろん、感情そのものに接する機会が永遠に失われたという悲しみそのものは仕方がない。しかし、もし、悲しみの中に何か相対的な損得勘定のような感覚が少しでも含まれていたとしたら、それは、周囲の不幸が結果的とはいえ、自分にとっての得(幸福)に繋がってしまうという事を意味する。さらに、この事実は、平均寿命というものを意識した時点で生じてしまうのである。そして、このような感覚は、結果的に自分自身を余計に悲しみの淵に追い込んでしまうものになる。

 

それでは、どのように寿命について捉えておけば、余計に悲しまずに済むのだろうか?きちんとした正しい捉え方を、自分自身のものに出来ていれば、もっと、寿命というものの存在を、素直に天命として受け入れられるようになるのではないだろうか?でも、その答えに簡単に辿り着けるようなら最初から苦労なんてしていない。簡単に辿り着けないから悲しくて辛い思いをしているのだ。

 

そこで、まずは、もし、寿命が最初から平等に決まっていたとしたら、どうなのかという事について考えてみようと思った。そもそも世の中は不平等だ。だから、せめて寿命ぐらいは、平等でも良いのではと思ったりもした。それと、最初から寿命が分かっていた方が、毎日を大切に過ごせるような気もした。ただ、その一方で、逆に、寿命なんて分かっていない方が、毎日を大切に過ごせるような気もした。結局、一体、どちらの方が良いのか?しかし、この結論を幾ら得ようとしても、漠然と考えているだけでは、いつまで経っても答えなんて出ないと思うに至った。答えを得るためには、答えを得る為の糸口というものが必要で、それには、何か判断基準が不可欠だと思ったのである。では、糸口を得るための判断基準とは、一体、何だろうか?直ぐに思いついたのは、どちらの方が、より多くの事を経験したり成し遂げたり出来るのか?という基準だ。でも、その基準自体、本当に正しいのか?正しい答えを得るための糸口である以上、慎重にならなければならない。

 

そういえば、ぺいとの闘病生活の時の心境を思い起こしてみると、ぺいが癌になってから旅立つまでの間、ぺいと同じ空間で同じ空気を吸って、同じ時間を過ごせるという事が、本当に心の底から嬉しかった。でも、それは、余命僅かという時期であるので、本来なら本当に辛くて悲しいことばかりのはずなのに、とめどもなく幸せに感じられるものだったのだ。その感覚は、幸福感だけで満ち溢れた時空世界で過ごしているような感覚だった。もちろん、これほどの幸福感は、過去の人生の中で一番とも言えるもので、これから先の人生、これ以上の幸福感を味わう事は、もう二度とないだろうとさえ思った。そして、もう一つ思った事がある。それは、幸福感というものは、本当に物事の捉え方次第で生まれてくるものなんだな、というものだった。なぜなら、悲しみとは正反対の幸福感という状況に、自分自身、正直、驚きを感じたからだ。そして、この感覚、捉え方が常に出来たなら、人生、最高に幸福な気持ちで過ごせるし、もし、幸福感を無限大に出来るのだとしたら、これはきっと、唯一無二の捉え方に違いないと思えた。そして、それとは別に、もし本当に神様というものが存在するのなら、神様は、我々が幸福感を少しでも多く感じられるように、あえて寿命というものを、不平等で、いつ終わるのか分からないものにしてくれているのではないだろうか?そんな事を逆説的に考えてみたりもした。自然の摂理ほど良く出来たものはないからだ。

 

ところで、そもそも、どうして不幸の渦中に、これほどの幸福感を味わう事が出来たのか?その理由を、掘り下げて考えてゆくと、それは、余命を具体的に宣告されたことによって、一日一日という時間が過ぎゆく中、五感で感じられる事の全てが本当にかけがえのない事で、そのどれもが凄く大切に思えたからだ。では、そうすると、やはり寿命は、平等で最初から分かっていた方が良いのか?

 

私は、ぺいが癌に蝕まれてゆく様子を目の当たりにしながらも、奇跡が起きてほしい、世の中に絶対はないのだから、もしかしたら、何らかの奇跡で癌の進行が止まることもあり得るかもしれない?そのような可能性を、本当に最後の最後まで信じ続けた。でも、もし、最初から寿命が平等に決まっていたらどうだろうか?そこには、全く希望なんて生まれない。生まれる余地さえない。そうすると、寿命というものに、もし選択肢があるのだとすれば、一つは、生まれた時から寿命が平等に決まっていて、寿命に対して全く希望を抱けない状況で生きるのと、もう一つは、寿命を知る由はなく平等でもないけれど、自由に希望を抱けることの出来る状況で生きるのと、どちらが良いのかという事になってくる。あなたは、どちらの方が良いだろう?ちなみに、私の場合は、悩んだが後者という結論に至った。それは、知らぬが仏という言葉もあるように、例え寿命が分からなくて寿命そのものが不平等であっても、そんな人生の方が、心が安定した状態で過ごせるように思えたからだ。私は、この心の安定こそが、我々人間が最も大切にしたい本能であるように思う。そして、これこそが、寿命が平等で最初からに決まっていた方が良いか否かを判断するに最も相応しい判断基準であるように思えたのです。

 

さて、それでは、ここで話を最初の話に戻して、そうすると、結局、寿命の長短で余計に悲しまないようにする為には、どのように寿命というものを捉えておけば良いのか?そこで、私が思うのは、心の安定を得るために、最も望ましい状態で、今、寿命という天命を全うしている、と捉えておくというものです。結果的であっても、寿命が不平等で分からないからこそ、その裏返しで、心の安定が得られているからです。そして、もう一つ、裏返しで得られているものがあります。これは、最も大切にしなければならないものだと思います。それは、希望を抱けるという権利です。もし、平等な寿命であったとしたら、そこに希望を抱く事は出来ません。希望とは、寿命が不平等で分からないものだからこそ得られている大切な権利なのです。だから、何があっても最後の最後まで、本当に命が尽きる直前まで、希望を抱き続ける。希望とは良くなる事の想像です。人間は、頭が良いから未来を想像する力があります。我々は、この能力を有意義に本当に大切に活かして、日々を送るべきだと思うのです。

 

私は、ぺいの最期を看取って以降、深く長い悲しみを経験しました。しかし、だからこそ、このような事を真剣に考える機会に恵まれたのだと思っています。そして、このような機会を得られた事こそが、本当の「神様からの贈り物」であったように思えたのです。本当にぺいと神様には、心から感謝しています。

 

 

神様、そして、ぺいちゃん。本当にありがとう。