Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

再訪問は未定の「魔女」

2022-12-06 | 文化一般
フランクルトの新制作「魔女」、再訪問は未定である。演出家がアスミク・グリゴーリアンの現在の旦那ということで恐らく彼女も最後まで舞台を務めるだろう。だから新年も最終公演までは出る可能性は高い。歌手陣も、演出も悪くはなかったのだが、指揮には最終的に失望した。

その指揮者ウリューピンはショルティ指揮コンクール優勝で、上の演出家とも「死の都」なども振っていて、左手の使い方はキュー出しから小まめであり、劇場指揮に慣れている様子だった。同時にゴリゴリと奈落の楽団を鳴らすのでこれは楽しみだと思った。

なるほど、フランクフルトの座付き楽団の鳴り方としては、昨年のエンゲル指揮以来の鳴りであり、流石に身体も大きく力のある指揮らしかった。しかしそれも一幕の終わりの合唱あたりから舞台と奈落の統制が今一つでキューを出しているほどには精妙ではなかった。

二幕が終わっての休憩ではいつものロシア音楽で退屈で仕方ないという声も聞こえて、その責任は一本調子の指揮にあるのは確実だった。そしてあまりにも大味過ぎるというのである。まさしくこの指揮者の仕事はアインザッツを合わせて、バスの上に重ねる事での音響を作ることにしか意識がないのがよく分かった。

なるほど最初の序曲からして悠々とした音の運び方は悪くはなく、それはそれで魅力的なのだが、音楽的な瀟洒さも全くなく、ピアノからフォルテ迄三種類のダイナミックスを様々な楽器編成で描いているの過ぎなかった。

リズム的な精査も恐らくロシア系の指揮者としては標準的であって、キリル・ペトレンコの様にグルーヴさせることもできないようで、指揮者コンクールはただただ音を鳴らすことだけで優勝したのだろうと思わせた。

経験もムジカアテルナなどで十分にありそうなので、この指揮は今後とも変わらないだろう。ロシアものを得意としていると紹介もあったのだが、こんなロシアものは誰も喜んで聴かないと思われる。

さて作品の紹介と制作のアイデアに関しての話しは興味深かった。来年九月に初めて校訂版が出る様に、この作品がロシアでも国外でもあまり演奏されずに真面な版もなく取捨選択されていたというのは、二つの録音を聴いていても分かっていたのだが、まさかそこ迄とは考えなかった。

その原因には、今回の制作で歌詞に手を入れたとされていたように、元々のテキストが文学的な価値が無く酷いものであったというのはテロップを読んでも分かった。だからチャイコフスキーがその芝居のディアローグによって制作動機になったというのは、勿論物語のプーシキンなどの全体性や文学性とは異なるということを示している。

このことは実は、今回の演出のコンセプトにチャイコフスキー独自の同性愛などを中心においていないという事に通じていて、この制作の評価にも大きく影響すると考える。(続く



参照:
みんなみんな狼だか 2022-12-01 | 文化一般
金持ちのチャイコフスキー 2022-11-29 | 文化一般

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