Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

旦那のコンセプト

2022-12-07 | 文化一般
承前)新聞評等が出揃ってきている。未だ演出に関しては敢えて目を通していない。しかし音楽的にはほぼ定まってきているだろう。様々な表現があるが肝心主役アスミク・グリゴーリアンがどうであったか。その芝居に続いて歌唱となっているように、又その短いアリエッタ以外の独唱がないことからも、又旦那の演出家が語る様に実は伯爵のキャラクターがこのオペラでにおいてチャイコフスキーで唯一無二の存在である。だからタイトルロールをその狂言回しの中心人物とする評もある一方、自立した女性の自由を体現するアトリエを営んでいる役柄ともなる。

よって、ドイツ語訳の「魔女」は誤解を引き起こしロシア語で「チャロデイカ」即ち「魅了する女」となる。要するに魔性の女ではなく、ボヘミアンなアウトサイダーで、皆に優しく、自由なクラブを営んでいる未亡人なのである。だから教会権力の伯爵の側近の敵の立場となっていて、演出家はこれをして二分化された世界としている。

つまり、グリゴーリアンの今回のこの役作りは、否それ以前に企画から特別な様相を呈していた筈だ。新聞が伝えるところによるとプログラム紹介の記者会見において、支配人はこの企画が彼女からもたされたと語ったようである。

そして今更既にベルリンで大成功している「オネーギン」を彼女がまた歌っても仕方がないということだったらしい。当然の事ながら彼女の提案には若い旦那さんがいたわけだ。そのことが一貫して、その演出のコンセプトの実現化という意味ではそこに彼女がいた。そしてまさしく主人公のそうしたキャラクターを体現する彼女がいた。

第一印象からして、彼女が新たな境地で演じたこの役は、まだこの後の成功の度合いにもよるがとても重要な舞台になることも間違いない。舞台とはそうしたものである。

この作品は最初から聴衆に受け入れられなかった理由は幾つか。チャイコフスキー本人も語っているようだが、その芝居の在り方にも起因しているのだろう。

そして旦那さんがプログラムで語っているのだが、上述したような伯爵が最初は軍人として聞く耳をもたない存在であったのが、彼女への愛を以て学んで変わっていくというのだ。しかし三幕においてセクシャルハラスメントへと進むことで、瓶を割って首に突きつける彼女にたじろぎ逃げる。しかし彼女はその様子を見て伯爵を恨む。些か矛盾する場面だったと思われる。偶々隣に前半に座っていて色々なお話しをしたお母さんの娘さんが入れ替わって座った。娘さんは休憩中に私のことを母親から聞いていたのだろう、態々耳に近づいて話しかけてきたのだが、この場面をどのように観ていたのだろうと関心を持っていたのは事実である。旦那さんは意外にプログラムでも全てを語り切ってはいない。

またこの物語の原作の舞台は15世紀なのだ。いつものようにチャイコフスキーは自らの時代をそこに投影させることで舞台としている。芝居とはオペラとはそういうもので、ト書きがその創作の真実などでは決してない。そもそもチャイコフスキーの音楽を15世紀の舞台に流すような馬鹿者は今日の舞台芸術の世界には存在しない。つまり舞台の時を今日にしても何ら読み替えでも何でもないという事である。劇場とはそういうものなのである。(続く



参照:
賞味期限を早める試み 2022-11-03 | 文化一般
みんなみんな狼だか 2022-12-01 | 文化一般

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