Wein, Weib und Gesang

ワイン、女 そして歌、此れを愛しまない輩は、一生涯馬鹿者であり続ける。マルティン・ルター(1483-1546)

そろそろの潮目時

2021-10-21 | 
SNSの交流は他愛のないものも多い。しかしおかしなことの回答を貰うことにもなる。何でもないフォンカラヤン時代の所謂サーカスサウンドがドイツの響きだという言及が最近日本では通っているのを不思議に思っていた。そのことに関しては、カラヤンがベルリナーフィルハーモニカーに就任したころの左派雑誌「シュピーゲル」でのインタヴューを挙げれば容易に反論となる。そこでは、南欧気質について言及されると、フォンカラヤンの名前には誇りを持っていると語っている。要するに、ズビン・メータが最初に指揮した時にもドイツ人しかいなかったような楽団で、その十年程前にはカラヤンこそ非ドイツ人だったのだ ― コンツェルトマイスターのシュヴァルべはスイス人と誤魔化されていたとメータが語る。同じような現象はここ二十年でも更に変わってきていて、そもそも残っていた血統主義がもはや意味を成さなくなってきた。

実はそのことと上の殆ど流言と思われるような「カラヤンサウンドがドイツの響き」とする主張の出所が見えてきたような気がした。そのことを暗に示したのはその語り手が日本の教育学の西尾幹二の信奉者のようだったからだ。恐らく彼らネトウヨの世界ではカラヤンもフルトヴェングラーと同じようにゲルマンだったのだろう。それどころかフルトヴェングラーも帝政ドイツではなくヴァイマール文化の典型だと示唆すると尻尾を撒いて逃げて行った。

どうもあの手の歴史修正主義の連中には第三帝国から神聖ドイツへと繋がる何かを軸にして、おかしな妄想に浸るような傾向があるようだ。そもそも一体ドイツとはと、その歴史には触れないが、その「ライトクルテュアー」として緑の党などの推進していたムルティクルテュアーの対抗軸としておかれたのは今世紀の始まり頃だったと思う。その論争も消してしまうだけのこの間の世界の流れは大きかった。現在日本でもネトウヨと言われると心外とする人が殆どになってきたのとよく似ている。

さてカラヤンの音楽に言及しておくと、なるほどそれは決してギリシャ系人のものではなかったのだが、嘗ての楽器や奏法とは離れてインターナショナルへと向かう丁度西ドイツの文化的シューウィンドーの役割も果たしていた。それが、同時に主要輸出品と並ぶことで、象徴的な意味を成していたのである。要するにまさしくドイツの音楽文化ではあったのだが、メディア販売される複製芸術の代表格でもあり、その意味では英国のビートルズに負けないほどの文化出品の意味をも成していた。

我々は今もっと自由にドイツ文化というものを認識することが出来る。ドイツ音楽というものも歴と存在する。我々はそれが正しいのかどうかということにいつも絶えず目を配っている。それはイデオロギーではなく芸術表現の根幹に係わるからである。

窓掃除が一通り済んだ。これで最大限の日の光を室内に招き入れる準備が済んだ。これから年末までは僅かな時間でも部屋の奥へと日差しが差し込んで呉れるのがなによりも嬉しい。そしてエネルギーを節約できる。

金曜日に漸く車の試乗を申し込んだ。今の車の車検が切れるので、先ずはアクションを起こしておかないと、発注も何もできない。つまりもし新車を半年待つとしても、その間の車の都合を手伝って貰えない。新車を注文すれば幾らかは面倒見てくれるだろう。



参照:
一期一会の時を迎える 2021-02-21 | アウトドーア・環境
高いアヴェレージ 2019-11-07 | 暦


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