中学校3年生から暗い話が多くなります。しかし、発達障害者が今までどのような人生を歩んできたのかそのままお伝えする為に、省略したり曖昧な表現で誤魔化すつもりはありません。なので、フラッシュバックが起こる可能性が非常に高くなります。もし読んでいて気分が悪くなった時は速やかに読むのをやめてください。



私が中学校3年生の時に就いていた役職の一覧です。

・学級委員長
・吹奏楽部 部長
・応援委員会 副団長

・体育祭 紅軍団長
・文化祭 課題曲指揮者



・転落の始まり

私の中の何かが坂を転げ始めたきっかけは、恐らく体育祭の応援団のメンバー決めからではないかと思います。軍の団長が私に決定し、あとは応援団のメンバーを決めるのみ。しかし、応援団に立候補する人は誰もいませんでした。このままでは決まらずじまいなので、担任の先生が活発だったりまじめだったりする男女を選びました。正直、選ばれたメンバーは私が苦手な人達でした。しかし、1,2年生の時も苦手な人とチームを組む機会はありましたが特に問題はありませんでした。私は少し引っかかりながらも、団長としてしっかりみんなを引っ張って行こうと意気込んでいました。

応援歌やふりつけ決めは主に夏休みに行われました。私は吹奏楽部の地区大会の練習や部長としての仕事をやりながら応援団の方にも参加していました。しかし、男子の中には応援団の集まりを知ってか知らずか顔を出さない人もいました。それが何回も続くので、男子への連絡は副団長の男子に頼みました。ところが、次の応援団の集まりにもその男子は来なかったのです。副団長はちゃんと連絡したのか、情報は正確に伝わったのかと色々な心配が浮かびます。私は人任せにするより自分で連絡を取る方を選びました。私が連絡した後、その男子はちゃんと来てくれました。

2学期に入ると、昼休みに自軍の生徒が集まり応援練習が始まります。また、一部の体育祭の団体競技のメンバー選抜や人の配置は、団長の私が決めることになっていました。私は綱引きで女子を綱の中心寄り、男子を綱の端寄りに配置しました。結果を言えば物理学を無視した配置なので当然本番では負けました。一番力が入るのは力のある男子を中心寄りにする配置です。私は何を勘違いしたのか、井戸の滑車を引く時の力のイメージで配置をしてしまいました。勿論それは支点があればの話です。単純に2人の人間が綱を両方から引っ張るのなら、相手に近ければ近いほど相手の体をそのまま引っ張れます。

この頃、私の中に漠然とあった不安が少しずつ確信へと変わっていきました。応援団の団結が弱く、みんなどこかバラバラでした。一部の男子が2学期に入っても応援団の集まりに参加しないことがしばしばあったり、私と私が苦手な人との間に気まずい空気が流れていたり。それが伝染して応援団自体の団結力が弱まってしまったのかは分かりません。しかし、少なからず影響はあったと思います。しまいには、私が苦手な応援団の女子2人が昼休みに私のいないところで泣いていたと同じクラスの友達から聞きました。この辺りから私は、チームをどうやってまとめていたのかがさっぱり分からなくなっていきました。


体育祭本番ははっきり言うと最悪でした。緊張でお腹から声が出ず、喉から潰れたような大声しか出ませんでした。上記のように綱引きは惨敗、体育祭の結果も自軍の敗退で終わりました。

体育祭終了後、自軍の解散式で私は先生たちから一言もらう時に1~3年生の先生を一人ひとり順番に呼んでいきましたが、なぜか自分のクラスの担任をトリにせず副担任を最後に呼びました。私のクラスの担任は、金八先生にあこがれて教師になったと言うくらい熱血で若い先生でした。そんな先生をトリにしたらどれだけ盛り上がったことでしょう。しかし、私はその時にふさわしい演出なんて少しも思い浮かばず、「担任の先生たち+それ以外」というイメージのまま先生を呼びました。勿論、最後に副担任を呼んだ瞬間「えっ」「えっ」という声があちこちから聞こえました。その声を聞いた瞬間、私は単純に担任の先生とそれ以外の順番で呼んでしまったことに気付いて血の気が少し引きました。

解散式が終わった後、中学校3年間の体育祭で全部負けてしまった同じクラスの男子は泣いていました。応援団の私の苦手な女子は、私と離れて他の女子達と泣いていたと思います。私は仲の良い友達数人と泣いていました。もしかしたら、最初からずっとその女子達とは溝があって、決して埋まることはなかったのかもしれません。どこからか「だから綱引きは男子を前にしろって言ったのに」と聞こえたような気がしました。私は負けたことに泣いていたのかそれ以外のことで泣いていたのか分かりませんでした。




・疫病神再び?

体育祭以降、私がリーダーを務めたことは負けるという印象があります。吹奏楽の地区大会では、1,2年生と銀賞続きでした。そして、私が部長を務めた3年生の時、表彰式で自分の学校の順番が来て賞状を読み上げるのを待っている間、舞台のライトに照らされた目の前の賞状に書いてある文字が透けて見えた時、私は一瞬周りの音が一切聞こえなくなったような感じがしました。結果は銅賞。今まで金賞は取れなくても銀賞続きだったのに、私が部長になった年だけ銅賞。顧問の先生に泣きつくのが申し訳なくて副部長の友達に抱き着いて泣きました。”私の時だけ銅賞”。この思いがずっと頭から離れませんでした。


文化祭の合唱コンクールに向けて課題曲・自由曲の指揮者決めることになり、勿論私は自由曲の指揮者に立候補しました。もう一人、生徒会長を務める男子も名乗り出ました。多数決の結果、自由曲の指揮者はその男子に決定しました。正直、吹奏楽部の部長を務めた私ではなく、部活も運動部で音楽関係の経験がほとんどない男子が選ばれたことにとても不満を感じていました。しかし、合唱コンクールの結果は私のクラスが最優秀賞でした。団長を務めた体育祭=敗北、部長を務めた吹奏楽の地区大会=銅賞、自由曲の指揮者にならなかった合唱コンクール=最優秀賞。見事に私がリーダーを務めた時だけ結果が悪く、そうなると今までの負けは私のせいなのではないかという思いにさいなまれました。リーダーを務めても今まで特に問題がなかった私にとって初めてのつまづきでした。



・自信喪失

メインの行事が終わりあとは受験に集中するのみかと思いきや、私には中学校を卒業するまで逃れられない学級委員長という職務が残っていました。生徒同士の話し合いで、みんなから案を出して欲しいのに全然案が出て来ず話し合いが進まないということはよくありますね。1,2年生の時でもそういう場面にはよく出遭いました。そして、その場面を今まで乗り切ってきたはずでした。

ある日の学級委員主導の話し合いでも、同じような場面に遭遇しました。何のことはありません、今まで通りやればいいのです。なかなか案が出て来ないので、私は端から一人ひとり「何かありませんか?」と聞いていきました。クラスは20人以上います。一人ひとり聞いていったら50分ある時間が勿体ないですし私もそう思います。しかし、その時の私はこれしか方法がないかのように順番に聞いていきました。どこからか「時間かからね?」というような話が聞こえてきました。まぬけなことに「あ、確かに」と司会を務める私自身がその言葉で自分の無駄な行為に気付いたのです。

私はこの時既に、今まで自分がどうやってみんなをまとめてきたのかそこだけ記憶をすっぽりと抜かれてしまったかのように分からなくなっていました。今までの経験から上手い方法を考えようと思っても、まるで記憶が部分的に抜けているような感じで頭の中が真っ白になりました。たまらず副学級委員長か担任の先生に司会を頼んだ気がします。

恐らく、私のリーダーに対する自信は3年時の行事の失敗で粉々に砕けたのだと思います。リーダーを務める私かっこいいと思っていました。私のファンクラブを作る後輩までいました。しかし、この時の私は「もうリーダーなんてやりたくない」「高校はリーダー関係絶対やらない」と見る影もなくらい自信を喪失していました。卒業式の合唱の指揮者に誰も立候補しないからと音楽の先生から「あなたやらない?」と催促されたこともありました。私はすぐさま断りました。卒業後に、お世話になった先生の結婚式で合唱を披露することになり急きょ私が指揮者をすることになりました。勿論断りましたが無理でした。こんなに緊張していたかなと自分でも思うくらい緊張しながら指揮をしていたと思います。

「高校からは平凡に生きる」、そう誓って私の中学校生活は終わりを告げました。





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