野口晴哉先生の語録を読み返していたら、
こんな言葉が綴ってある
★「“食わない”と“食えない”の
[わ]と[え]の境が、生と死を分ける」
知識というものは、
人間が自由に使いこなすもの、
それに受け身になったときから、
生(命)の萎縮が始まるのかもしれない。
☆「熱も、痛みも、嘔吐も下痢も、
また風邪も、
すべて人体の抵抗作用であり、
蛇が皮を脱ぐのと
同じ更新作用であり、
古びた組織を改造し、
鈍った機能を旺盛ならしむ
作用である。
それを妨げれば(防衛反応を損なえば)、
自律作用が鈍り、
麻痺を亢進させることは、
自明の理である」
・熱がまだ下がらないと焦っている人に、
「お墓の下に行けば、嫌でも下がりますよ」
と言ってあげる
・盲腸炎になると心配だから、
今のうちに切っておきたいという人に、
「ついでに首を切れば。万病にならない」
と言えば慄かれる
・もしも病院へ行く途中で
産まれたら大変だという妊婦に、
「大便だって我慢できるでしょう。
出来なきゃ往来は大便だらけだ」
と言えば、成程と頷く
・胃が下がるからと、
バンドで押さえているという人に、
「君、下を向くと目玉が落ちるよ」
そんな訳はないが先の未来を心配しすぎる人は
そういうことがあるかもね
★いくらレントゲンで写しても、
切り開いても、借金も、失意も、
嫉妬も見つからない。
誰だって興味を持って、
一人一人丁寧に観ていれば、
分かること。
幸いなことに、
背骨は外から指で触るだけで、
みんな喋っている。
口は嘘をつくけれども、
背骨は嘘をつかない。
人間は背骨が表で、顔が裏なんだ。
☆「その力を失ったものは、
どんなことをしても死ぬ、
その力のあるうちは生きると、
僕は簡単に結論を出していたんだ」
↓
「人は生きんが為に生くる也
生くること 即ち人の目的也 使命也
人の生 人にあるにあらず
自然にある也
されど 人なくして なんの自然ぞ
自然 人によりて生くる也
人あるが故に自然あり
人 生くるに信なかるべからず
人に自然の力具(そな)わる
自然の力 人を通じて作用する也
人 これを自覚して活用すべし」
野口先生のいう[自然]とは、
余計な手出しをせず、ありのままの状態を指します
真理であり、的を得ている
野口先生の理想が、
死を見つめることから出発している
からこそ
このような思考が生まれたのではないでしょうか
また、
★猫はある時期は食べないで、
存分に寝て体を休ませている。
確かに寝ていれば、
起きて動いているときのよう
に消耗しないから、
食べない方が自然なのだ。
それなのに
人間はまず食べなければ弱ると考える。
食欲がないと心配し、
栄養、栄養と、はては点滴までやる。
(西洋医学は、どこまでも体を怠けさせることに長けている)
「欠乏するから
満たそうとする意欲が起こり、
それを果たすべく体中の力が
動員される」
↓
消耗もしないで満たされた
という飽和状態は、
生きる意欲まで失わさせる
↓
外から与えることだけしか考えない
今の養生法は、
人間を動かす原動力を見失っている。
この世の中の本来働くべき作用を蔑ろにし
身体の中のホルモン(分泌)や神経(知覚)を麻痺させ
身体の鈍りを増やしているように感じます
誰かが[これは良い!!]といえば
猫も杓子も同じ方法でこれが真の健康法だというが
皆、違う体をし 違う心を持ち
観念も環境も 年齢も性別も様々であり
それをすべて一緒くたにしては
良くなるものも良くならない
その一例が
予防接種であり、病院で処方される薬であったり、
手軽に買える薬やサプリメントだったりする
どれ程の効果が見込まれるのかは、
どれ程の暗示に掛かりやすいかに比例する?
そんなことを思う日々です