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怪獣使いとノンマルト

 

 

 

 

戦いぬいた戦士に捧げるレクイエム

 

 

テレビの仕事にも怪獣映画にも興味のなかった沖縄出身の上原正三さん。同郷の金城哲夫さんの縁で円谷プロに入ります。沖縄がまだ外国領土だった頃でした。テレビ業界も激動の時代です。空想特撮シリーズの大成功。新企画の視聴率的な失敗。成功しても失敗しても累積する赤字。局プロデューサーとの軋轢。沖縄返還と海洋博。空想特撮シリーズの大黒柱であった金城さんは沖縄に帰ってしまいます。

フリーになった上原さんは、金城さんの後を継ぐ形で『帰ってきたウルトラマン』のメインライターに抜擢されます。初めてのメインライターでした。

それはとてもむつかしい仕事だったでしょう。なぜなら最初のウルトラマンのテイストは金城さんにしか描けないものだったからです。

夢のあるおおらかな寓話。近未来的な感覚。どこまでもやさしくあたたかな眼差し。理想を描く崇高な世界。そしてそれが描ける自由でエネルギッシュな時代背景や環境がありました。まとめ役の金城さんがいてくれたから、他のライターさんも自由に書くことができたはずです。わたしは金城さんのウルトラマンの大ファンですから、上原さん以降のウルトラマンにはずっと違和感を感じていたのも確かです。それなのに大好きなのが『帰ってきたウルトラマン』という作品でもあります。そして好ききらいをこえて、どうしても引きつけられてしまう何かがそこにはあるのです。

それが何なのか還暦をすぎた年になってようやくわかりかけてきたのです。

 

まつろわぬ民の語り部たち  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

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上原さんは子ども番組だけにその生涯を捧げた方でした。

天に帰っていった上原さんの描いてきたものを感謝をこめて振りかえることは、自分に影響を与えたものを確認することでもあります。

テレビで空想特撮シリーズの洗礼を受けた少年のわたしは怪獣ごっこに明け暮れる日々をおくっておりました。たいていの男子はそんな感じだったでしょう。戦争の悲惨さも戦後の貧しい混乱期とも無縁な戦争をしらない世代です。個人的には差別もいじめもほぼ縁がありません。一度だけ銭湯で朝鮮人の二人組の子どもにからまれそうになった事があるだけです。平凡な日常の中でテレビに熱中し野を駆け廻る何も知らない何も知る必要のないような環境で育ちました。幸福なのかそうではないのか無知な子ども時代をおくったのです。

成人してから気づいたのは大切なことの多くをテレビから教わっていたという事実です。大好きな怪獣に対しても子どもの頃と今とではその認識が根本的に違っています。

怪獣というのは大人の目線で見ますと<まつろわぬ民>の代弁者なのです。

まつろわぬとは、神々や体制に抵抗するもの、従わぬものを意味するようです。歴史の表舞台から去って、存在を抹消されているもの。

それは平和に暮らしていた心優しきものたちが虐げられて鬼になっていくような心の煉獄です。

大きな秩序に滅ぼされ淘汰されていく存在たちの声であり化身が本来の怪獣というものだと思うのです。

また人間の想念だけではなく、人の営みに破壊される大自然も自然災害という形の怪獣に変わるかもしれません。

そういった諸々の無念や嘆きや自然界の聖なる怒りが人間の集合無意識に蓄積されていく。

それはいつか人間の手によって光を当てられ、解消され浄化されるのを待っているカオスのエネルギーでもあります。

それらを形にした象徴が怪獣の本質であり、それを色濃く反映していたのが空想特撮シリーズでした。
空想特撮シリーズに関わった初期の優れたクリエイターたちが、

沖縄や東北といったまつろわぬ民ゆかりの地出身だったのもおそらくは偶然ではなく、その気質や資質から、

時代に選ばれた形の方々なのでしょう。

初期のすばらしい作品を生みだしたのちに沖縄返還を前にして不思議と現場を離れたり、鬼籍に入られたりしております。

上原さんはそうした初期のメンバーの中でずっと変わらずに長い間、まつろわぬ民の声を語り続けてくれた方でありました。

 

 

 

弱肉強食の人間社会はまつろわぬ民の無念の想いの上に構築されていきます。

大和朝廷に滅ぼされた原日本民族もまつろわぬ民でしょう。世界中どこでも時代と地域を問わずおこっている人間の哀しき営みです。

それは平凡な日常で起きる終わることのない虐めの現実の中にも現れてきます。
上原正三さんの数多い作品の中で、強烈な印象を残しているのが「怪獣使いと少年」というお話です。

当初、納品を拒否された『帰ってきたウルトラマン』の中のこの作品は一部シーンを撮り直して放送にこぎ着けたそうです。

しかも脚本の上原さんと監督を番組から追放するという条件付きです。

いじめをリアルに描いていること。部落・同和問題を想起させることだけでも問題を抱えているわけですが、

なぜメインライターであった上原さんが、その立場でありながら、そのような題材の脚本を書いたのか?

それはやはり金城さんとの関わりにその答えがあるようなのです。

 

闘う神マルスの否定形ノンマルト  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

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金城哲夫さんが『ウルトラセブン』の時に書いた問題作に「ノンマルトの使者」があります。
なにが問題なのかというと、

実は人類こそ侵略者であった(かもしれない)という設定だからなのです。

かつて侵略者であった人類によって海底に追いやられたノンマルトという民族が現れる。ノンマルトは地球土着の争いを好まぬ民族です。

それは大和朝廷に滅ぼされた原日本民族の末裔が登場するというのと同じ構図なのです。

落ち延びた海底からも住む場所を奪われようとする平和主義者のノンマルトが人類の兵器をうばって報復に現れるというお話なのです。

ウルトラセブンが人類を守るためにノンマルトを退治するならば、侵略者を倒すはずのウルトラセブンが侵略者に手を貸す存在となってしまう。ウルトラセブンという番組の基本構造を根底からひっくり返してしまう問題作なわけです。
実は金城さんのこの「ノンマルトの使者」以前に、上原さんが<島津の琉球侵略>を題材とした「三百年の復讐」という物語を書いているそうです。この映像化されなかった作品が、金城さんを刺激してメインライターの立場を忘れたかのようなノンマルトの物語を書かせたとも考えられます。

同郷のこのお二方は互いに触発される形で交互に問題作を書いているように見えるのです。
上原さんがメインライターを務めた『帰ってきたウルトラマン』に帰郷した金城さんが1本だけ脚本を書いております。

それが<沖縄に配置されていた毒ガス>を題材にした毒ガス怪獣のお話でした。

そしておそらく上原さんが、金城さんのノンマルトと毒ガス怪獣という問題作のアンサーとして書いた、

いえ書かずにいられなかった作品が「怪獣使いと少年」という物語だと思うのです。

 

「怪獣使いと少年」のあらすじ

 

メイツ星(友の意)から密かに気候風土の調査に訪れた宇宙人が、偶然その場に居合わせたみなしごの少年を救うことになります。

少年に襲いかかる怪獣を地底に封印し、飢えと寒さに震えて、死にかけている少年を介抱して一緒の暮らしが始まります。
しかし宇宙人は地球の気候に馴染めずに身体は次第に衰弱していくのです。

河原のバラックで暮らすこの得体の知れぬ二人に危険な宇宙人の嫌疑がかけられて、少年はことある毎に虐めを受けるようになっていきます。そして老人の姿の病んでいる宇宙人は、無抵抗のまま、街の暴徒たちによって惨殺されてしまうのです。

ふたたびひとりぼっちになった少年は、老人が埋めた宇宙船をさがすために今日も河原を掘り返すのでした。

いつかそれに乗って地球にさよならをするために。
教訓めいたメッセージなどが描かれることもなく、

ただただやりきれない現実を提示したまま物語は幕を閉じます。

 

 

  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

ウルトラマンを滅ぼす物語 

 

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注目したのはこの宇宙人の設定でした。

上原さんはかつてウルトラセブンを観測のため地球に立ち寄った存在として描きました。

そして帰ってきたウルトラマンの設定は、少年を助けた主人公に感動して一心同体となることでした。
つまり気象観測にやってきて、少年を助け、怪獣を封印する能力を持つこのメイツ星人は、これまで上原さんが描いてきたウルトラセブン、帰ってきたウルトラマンそのものの性格と設定が与えられているのです。

姿こそ醜いメイツ星人ですが、かれはウルトラマンと同じ救世主的存在として描かれています。

そして劇中でこの宇宙人を一般市民たちによって殺してしまっている。

上原さんはメインライターでありながら、そのような超人をある意味では否定しているわけです。
このお話は番組の主人公である理想世界の超人ウルトラマンの否定でもあります。

メイツ星人という宇宙人に置き換えて殺してしまっているわけですから。

 


 

ではなぜそのようにしてしまったのでしょうか?
現実世界はこの物語のように偏見と差別に満ちた時に暴力の支配する世界である。この世界で生き抜いていくためには、救世主に頼ることなく、ひとりでたくましてあってほしい。そう描いているのではないでしょうか。

金城さんがふたつの最終回で描いた人類の平和は人類自らの手でというメッセージともリンクしています。

この「怪獣使いと少年」はウルトラマンと怪獣がいなくても成立してしまうお話です。

怪獣使いというサブタイトルなので、いかにも使役されている怪獣のように思いますが、

メイツ星人とは関わりのない、ただそこにいただけの怪獣にしかすぎません。

ウルトラマンは性格の与えられていない暴れるだけの怪獣を役割通りに倒すだけなのです。

上原さんが訴えたい、許すことの出来ない暴力は、善良なはずの一般市民の心の中にありました。

疑心暗鬼・自己保身・集団心理が救世主の性格を与えられた存在を滅ぼす物語。

ここには人間が怪獣(=悪役)化するという逆転と、

救世主(=メイツ星人に置き換えたウルトラマン)が怪獣(=まつろわぬ民)に移行するというふたつの逆転があります。

同じく逆転劇だった金城さんの「ノンマルトの使者」へのアンサーなのでしょう。

上原さんがメインライターの座を脅かされる危険を冒してでも描きたかった物語なのです。

 

 

 

忘れてはいけないこと  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

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金城さんの晩年のエピソードですが、海洋博時期の創作ノートにウルトラマンタロウのシールが貼ってあったそうです。

(※特撮秘宝vol.8/続・金城哲夫をさがして/P.241)

残していったシリーズに対して、自分が関わらなかったウルトラマンタロウに対してどんな気持ちを抱いていたのでしょうか。
沖縄と本土の架け橋になろうという尊い志。空想特撮シリーズで積み上げた実績と栄光。そこでの挫折や障害。沖縄劇を書こうにも沖縄人としての資質に欠けているという自覚。海洋博での地元民との不協和音。そしてアルコール中毒症という哀しい現実。身も心も引き裂かれてしまった金城さん自身が、まつろわぬ民に呼ばれてしまったかのような最後でした。

けれど金城さんが考えていたのとは別の形ですが、すでに沖縄と本土との架け橋になってくれておりました。

光の国とウルトラマン・ウルトラセブンという永遠の理想像を残してくれたからです。
上原さんは沖縄人として金城さんとは別の選択をします。
架け橋という理想を掲げずに、沖縄人として本土で生きていく道。それは現実世界で人のチカラを頼りにしないで逞しく生きていく誓いでした。

しかしそれが結果的に沖縄と本土との架け橋になったのではないでしょうか。
そして金城さんの「ノンマルトの使者」と上原さんの「怪獣使いと少年」は特に<まつろわぬ民の声>を色濃くすくい上げている作品でした。

それは子ども達の無意識レベルに大切なことを植えつけてくれました。

現実世界はまつろわぬ民の亡骸の上に建てられていることをメッセージしてくれていたのです。

生きていく中でけっして忘れてはいけないやりきれない現実があるということを。

 

パン屋のおねえさんという救い  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

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「怪獣使いと少年」に登場する街の人々の中でひとりだけ少年にやさしくした人がおりました。

それがパン屋のおねえさんです。120円でパンを売ってあげる。ただそれだけのことでした。

ただそれだけのことが人間には中々できないのです。

自分のいる場所をそっと静かに照らすような、そんなおねえさんの行為でした。

 

 

天涯孤独。独りぼっちになった少年がずっとあきらめずに掘り続けているものがあります。

それは少年にとっての理想の国メイツ星へ行くための宇宙船でした。

でもその姿は骨を拾っているようにも見えます。

怒りや嘆きや無念の想いを抱いて歴史の表舞台から消えてしまった人々の骨を。

まつろわぬ民を生み出してしまう哀しき人間の営みはこれからも変わらないかもしれない。

でもだからこそ人間は光の国という理想のビジョンを追い求めてしまうのでしょう。

愚かだからこそノンマルトや怪獣使いのようなまつろわぬ民のことを忘れてはならないと思うのです。

 

 

 

絶対自力のウルトラ五つの誓い

 

 

 

 

沖縄の反骨精神のひと  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

脚本家の上原正三さんが2020年1月2日、地上を離れられました。82歳でした。それを知ったのが1月9日のわたしの誕生日。それもなにかの巡り合わせなのでしょうか。本当におつかれさまでした。特撮番組、そしてアニメにと子ども番組だけに生涯を捧げた方でありました。すべての人の子供心に寄り添ってくれた生涯でした。

1966年『ウルトラQ』「宇宙指令M774」がデビュー作。年末の4K放送でたまたまその回を観ていました。それもなにか不思議です。とっても長い旅でありました。
昨年12月の円谷コンベンションで生ライブの合間に挿入された石坂浩二氏によるナレーション。その原稿を書かれてもいました。なぜかウルトラシリーズは初期から中期まで沖縄の人がメインになって物語がつづられます。その出自ゆえなのでしょうか、差別が生まれてくる社会の在り方に差別される側から向き合う姿勢を崩さぬ方でした。

子どもや弱者に寄りそうこと。許せないものと闘うこと。そして約束はどんな小さなこともいのちをかけて果たす。守る。そんなメッセージを発信し続けてくれた孤高の精神の方でありました。

手がけた作品は、ウルトラシリーズ、ロボコンやゴレンジャーやキャプテン・ハーロック等々。また上層部に猛反対されていた時期の仮面ライダーの企画にも説得する立場で関わっております。

逸話をひとつ挙げるなら『帰ってきたウルトラマン』ではメインライターという立場なのに差別問題を題材にした作品を書いて問題となり、その結果、それを放送する事と引き換えに番組から追放処分されてもおります。その作品が製作放送もされて未だに観賞できることも奇跡なのですが、そもそも同和問題に通じる作品をしかも子ども番組で書こうとする時点で、たいへんな反骨精神の持ち主であることがわかります。それは現在よりも規制が緩かった当時であっても当然タブーの領域だったのですから。

 

 

 

 

 

天涯孤独な次郎少年とあの頃の自分  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

昭和四六年四月、第二次怪獣ブームと呼ばれるさなか、私は小学六年でした。両親は不仲で会話もなく、暗い家庭環境のなかで、このままだと近いうちに離婚になるだろうと、不安に押しつぶされそうな時期でありました。そんなときに始まったのが、上原正三さんが始めてメインライターを務めた『帰ってきたウルトラマン』でした。

父に買ってもらった英語学習用の録音機で今録音したばかりの番組を何度も何度もリピートしながら、なんかこれまでのウルトラマンとはちがうという漠然とした違和感をかんじながらも、最初から両親不在の主人公の郷秀樹や坂田兄弟にどんどん感情移入していきました。この番組においてはウルトラマンや怪獣よりも人間側に自分を投影していたのは、製作者の目論み通りだったかもしれませんね。

番組後半になるにつれクオリティが落ちていくのですけれども、あきるどころか、ついにはたった二人の兄弟さえ失って天涯孤独となってしまう次郎少年の境遇と心情におそろしいまでにシンクロしていく自分がそこにおりました。ちょうどその頃に両親はついに離婚。わたしは父と離れて母と弟と住むことになります。それは一緒に暮らしていても意思疎通がほぼ不可能な生活の始まりでした。

ちなみに諸事情で番組を降板したヒロイン坂田あきにかわって登場するルミ子という女性も大好きでした。気の毒なことにあまり内面の性格が作品で描かれる機会が少なく類型的な存在感しかないのですが、それがかえって神秘性を与えているのか、身寄りのなくなった次郎少年にいつも寄りそうこの女子大生に対して聖母やシスターのようなイメージをもっておりました。

 

 

帰ってきた別世界のウルトラマン  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

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上原正三さんは先輩格で同じ沖縄出身の金城哲夫さんがつくった前作までの神秘的なウルトラマンとは、あきらかに別のものにしてウルトラマンを登場させました。上原さんのウルトラマンは地球の平和と人類の自由のために「派遣された戦士」になっておりました。金城さんの時代のウルトラマンもウルトラセブンも、超越者が人類に干渉することから生まれる問題に配慮しております。超越者がやってきて人類が他力本願に陥る危険という問題です。だからどちらの最終回も人類の平和は人類自らの手によってとはっきりとセリフにして提示し、その問題に対処する結末にしておりました。

またそれまで名前がなかった扱いになっていて、地球人が外来者に名前を付けていた形にしていたものを、上原さんのウルトラマンは自らウルトラマンと名乗ります。

そしてもうひとつの決定的な違いは、前作のウルトラマンは超越者と人間が、一心同体になっている状態から、ふたたび分離して地球を去っています。それぞれ別の個体として。

ウルトラセブンははじめから人間と合体しておりません。

それに対して上原さんのウルトラマンは、超越者と人間が融合したまま、地球を去ります。かつてのウルトラマンを踏襲しなかったのです。なぜなのでしょうか。

それは精神がひとつになったということなのか。それはもう超越者ではなく、人間ウルトラマンになったということなのでしょうか。それとも人間が超越者になったのでしょうか。

そこにそれぞれが色んな思いを投影できると思いますけれども、この金城さんとは違うウルトラマンはそれ自体が子どもたちに向けたひとつのメッセージだと感じます。もうかつてのウルトラマンとは違うのだというメッセージです。

 

 

 

 

 

 

 

 

ウルトラ五つの誓いの意味するもの  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

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『帰ってきたウルトラマン』の最終回のサブタイトルは「ウルトラ五つの誓い」です。

その誓いがなんであれ、上原さんのウルトラマンは「人類の自由と幸福を脅かすあらゆる敵と戦うこと」という決意表明で始まり、「いやなもの、許せないものとたたかえる勇気ある男になるといい」と次郎少年に決意をうながして結末を迎えます。

絶対自力の決意と誓いのウルトラマンなのです。

そしてどういうわけか次郎少年に決意を促すこの言葉はウルトラ五つの誓いには入っていないのです。

 

一つ、腹ペコのまま学校に行かぬこと
一つ、天気の良い日に布団をほすこと
一つ、道を歩く時には車に気をつけること
一つ、他人の力を頼りにしないこと
一つ、土の上を裸足で走り回って遊ぶこと

 

この五つというのは次回作に導入されるウルトラ五兄弟という設定にかけていて、そういう要請があったのかもしれません。他人の力を頼りにしないことというくだりが唯一、自力の決意に繋がりますけれども、この誓いとされる言葉の出典がなんであれ、当時テレビの前でずっこけたのはたしかです。これはウルトラと名付けるほど大層なものではないし、そもそも誓いというほど重いものでもない。生活上の約束事みたいなものでしかない。でもこれは上原さんが確信犯的にかかげているのであって、当時のウルトラQからみている子どもたちに向かって、もう卒業するときが来たのだよと促していたんじゃないかと、今にして思うとそう感じるのです。

だから最終回にかつてウルトラマンを倒した最強怪獣を登場させ、しかもむかしの映像を挿入することによって、かつてと現在の製作現場の落差を意識させるのも確信犯。君たちが望むような、もうあの頃のようなクオリティや気高い理想は維持できない。これが君たちの怪獣卒業式なんだよというメッセージを内側に込めているのかもしれないと思うようになりました。

 

光の国とウルトラの国  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

金城さんのウルトラマンは人間の上位者・超越者であり、その故郷は光の国でした。

そこはアンバランスゾーンとは対極にある光にみたされた理想郷といったイメージが漠然とありました。すべてが一体化したワンネスの世界でそれゆえに名前がないのでしょうか。

上原さんのウルトラマンは自ら名乗ります。誓いを立て決意し、証しを立てて初めてパワーを発揮するヒーローです。金城さんのウルトラマンの逆をやっているようです。人間の想像をこえた得体の知れないヒーローではなく、限りなく人間に近いウルトラマン像に翻訳し直しています。ウルトラマンの故郷はそれ以降、ウルトラの星とかウルトラの国と呼ばれるようになりました。

そして帰ってきたウルトラマンの最終回では、そのウルトラの星が戦争に巻き込まれ、その手助けをするために人間と一体になったウルトラマンは地球を去ることになります。科学文明は地球より発達しているかもしれませんが、もはや混乱した地球の情勢とさほど変わらぬイメージとなりました。そこには理想郷のイメージはかつてほどありません。人間と分離しないのは、やはり超越者から人間に近い存在へと変わったからだと解釈できそうです。

超越者から人間的な存在へとイメージの縮小がそこにありますが、わたしは『帰ってきたウルトラマン』の最終回を忘れることができません。ラストの別れのシーンは、次郎少年に自分を重ねていたあの頃を何度でも思い出させてくれます。

人間と一体となったまま帰っていくウルトラマンは、これからもここで闘っていくという上原さんの決意表明でもあるのでしょう。

沖縄と本土との架け橋にならんという理想を持つが故に葛藤された金城さんと、沖縄人のまま本土で闘い暮らしていく誓いを立てた上原さんの人生がそのままウルトラマン像に投影されているのかもしれません。

ニライカナイとは沖縄県や鹿児島県奄美群島の各地に伝わる理想郷のことです。わたしはそれを光の国だと思っています。

金城さんが描いていたであろう調和された永遠が支配する理想の世界です。

上原正三さんの熱い闘いの決意表明はゾフィのバラードの作詞のなかにも込められました。

本当に最後まで子どもたちのために差別と向かい合い、弱きものによりそい闘い抜いた方でした。

どうか闘いの矛と盾をおさめて光の国というニライカナイでやすらかにと祈るばかりです。

 

 

 

 

 

ケロヨンのあたらしいぼうけん

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


いつのまにやらケロヨン

 

 

なつかしきケロヨンとの再会がTwitterであるとこがなんとも時代です。ケロヨン【ほんもの】というアカウントでの活動。はじめはほんものかなって思いました。ありえないけれども幼なじみに当時とかわらぬ姿で出逢ったようなおどろきです。しかもコメントしたらその御本人から返信がかえってきて2度びっくり。オフィシャルなキャラから返信つくのはそうそうない。
しかし不思議なのはあれだけ一世を風靡したはずのケロヨンがなぜなんだろうという疑問。
ケロヨン【ほんもの】とするくらい薬局のキャラと間違えられていたり、昭和後半生まれですと何となく名前くらいしか知らないらしいのです。それもそのはず番組ごととつぜんのように消えてしまったのですから。調べてみますとテレビで大活躍していたのは4年ほどだったようです。万博でもりあがった高度経済成長期の真っ只中です。熱狂と同時に空気みたいな存在でもありました。でも気がついたらいなかった。かつてのTVシリーズのネガは行方不明だそうです。映画版の2本のみソフト化されています。
番組ごといきなり消えてしまった理由を2019年の読売新聞の連載からしることができました。

 

 

こどもたちのアイドル/ケロヨン基礎知識  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

●「木馬座アワー」1966年11月21日~1979年3月18日/日本テレビ系
・月~金/11:00~11:20・再放送:同日17:00~17:30
●「木馬座と遊ぼう」1967年10月5日〜1969年9月/日本テレビ系
・木曜/19:30~20:00/1967年10月〜1968年3月
・土曜/18:00~18:30/1968年4月〜1969年9月
●「ケロヨンと遊ぼう」1971年4月〜9月/TBS系
・月〜金/17:35~17:45 

●「ケロヨンと三人組」1971年10月〜12月31日/ 日本テレビ系
月〜土/8:05 - 8:20

 

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ケロヨンとはぬいぐるみテレビショー「木馬座アワー」のワンコーナー

「カエルのぼうけん」の主人公です

原作はケネス・グレアムが1908年に発表した「たのしい川べ」という児童文学

・ ・ ・ ・

それを元に A.A.ミルン(くまのプーさんの作者)が戯曲を書いた

「かえる屋敷のトード」のお話なのだそうです

ウィキペディアでは「ヒキガエル館のヒキガエル」

 ディズニーでも「イカボードとトード氏(1949年)」としてアニメ化されています

 

 

    

 

    

 

ケロちゃん風と共に去りぬ  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

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テレビだけでもものすごい展開ですね。しかも劇場でショーをやったり、団地や遊園地で興業もしていましたからケロヨンを見ない日はなかったと思われます。しかも原作があるとはしりませんでした。ビジュアル的にもほとんどオリジナルではないでしょうか。空想特撮シリーズでいうとウルトラQからウルトラファイトくらいまでの時期です。なにかここにも、種が蒔かれて役割をおえると去ってゆく時代の神意のようなものも感じます。
生みの親は影絵作家として著名な藤城清治さんです。読売新聞の記事によれば、

信頼していた仲間のクーデターというご本人の言葉が出てきます。人気絶頂のころになにがあったのでしょうか。

 

◎ケロヨンの生みの親/藤城清治さん主な年表

●1964年/藤城清治さんが中心となり人形劇場「ジュヌ・パントル」結成
●1952年/テレビ放映を機に「木馬座」と改名
●1961年/「木馬座ファミリー劇場」としてぬいぐるみ人形劇となる
●1967年/「木馬座と遊ぼう」という番組としてテレビ放送開始
●1971年/武道館公演での二重発券問題により経営不振。同年12月倒産
●1972年/藤城清治さんが木馬座を離れる

 


 

◎二重発券問題とは・・・
1971年(昭和46年)日本武道館5月3日~5日公演において。
4日の2回目分の切符が売れ残る。それで招待券を配ることにした。招待券を出しても10人にひとりしか来ないと踏んで定員数を越えた枚数を配る。実際に会場に来たのは、招待券を持った人とその同伴の人々。加えて3日と5日の切符を買えなかった人々が4日の2回目の当日券を買いに殺到。約1万5000人が武道館に入れずに長蛇の列となって会場を取り囲む。
これが誤解されマスコミに叩かれる原因となります。子どもを金儲けのだしにしたという類いのバッシングだったようです。またその頃、テレビでは大ヒットしていましたので電波料の値上げがあります。それもあって次第に経営が苦しくなっていき木馬座は倒産します。そしてテレビ放送もなくなったようです。

 

 

ケロヨンの活躍は木馬座の舞台公演をふくめると8年くらいの期間だったようです。

ケロヨンの残した楽曲を現在もCDで聴くことができます。

そこで描かれているのは世界中みんななかよくという世界平和のイデアの世界です。

藤城清治さんが人形劇に取り組んでいた約10年間は影絵制作をしていなかったそうです。

巨額の借金を抱えてしまった藤城清治さんは、ふたたび雑誌「暮らしの手帖」で影絵連載をすることになります。

興味深いのはそれまではモノクロのみであった作品がカラーとして連載を再開したことです。

わたしたちが知っている影絵はおもにそれ以降の作品のようですね。

藤城清治さんの人生にやってきたおおきな転機は光と影の煌びやかな世界を世に贈りだすことになります。

藤城清治さんにとってきびしい苦難であり喜びでもあったでしょう。

そしてわたしたちにとってはただただ素晴らしい贈りものとなりました。

それは云われなき迫害を受け、

それでも赦すこころの種を蒔くために十字架にかかったイエスさまの生涯ともかさなってみえます。

その作品はまるで教会のステンドグラスのような荘厳さです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ケロヨンのうまれた時代とシフトする時代  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

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木馬座の運営をめぐって内部の行き違いがあったようです。芸術家としての感性と経営者としての判断の両立のむつかしさがそこにあったでしょうし、人気絶頂期での暗転はこの世に働いている崩壊の定めでもあります。おどろくのは負債を抱え、打ち込んでいた人形劇の夢なかばでそれを手放しているのに決してあきらめていないことです。それでもなお精力的な創作活動を今も続けておられます。

まさにおおきな夢をつむぐために生まれてきたような不屈の精神の方であります。

あのころは時代そのものがおおきな夢を描いておりました。

蒔かれた夢の種もたくさんありました。そして大阪万博が開かれます。

そのテーマは人類の進歩と調和」でした。 そこで描かれた未来は・・・

●テレビ放送での教育●4時間労働●高速通勤列車● ガンの克服。等々でした。

すばらしい着眼点ですが残念ながらどれも実現されておりませんね。

 

そしてかつて昭和の時代までは日本はこういう国でした・・・
●国民1人当たりGDP世界第2位
●定期預金金利5%=2000万円を2年満期で年間250万円の利息

●年金は60歳から
●年金支給月々30万円超
●国保は現在の約半額
●高齢者の外来窓口負担は800円
●消費税なし

 

 

そしてこれが時代のおおまかな世界規模での変化になります。

●狩猟時代に求められるスキル=狩りの腕・強靱な肉体

●農耕時代に求められるスキル=自然現象についての経験値・観察眼

●工場時代に求められるスキル=識学力・生産管理能力

●事務時代に求められるスキル=さらなる高等教育・分析力・営業企画力

 

それぞれの時代において求められるものが違ってきました。

その時代の変化についていけないものは社会の最下層で生きるか淘汰されるしかありませんでした。

そしてさらなるテクノロジーの進化によって、それまで人が担ってきた仕事AIに置き換えられていくようになっていきます。

終身雇用・年功序列賃金の崩壊・終焉はそれを背景にうまれているようです。

高等教育を受けて大企業に入って終身雇用で退職という時代ではなくなります。

ではその先にあるものですけれども、これを引用したサイトでは思考の時代と呼んでいました。

市場が何を求めているのか。価値があるものはなにか。それを自ら考え働き方を生みだす時代ということです。

その通りだと思いますけれども何か足りないような気もします。

考えること以上に人工知能ではできないこと。それは魂の次元でネットワークを構築することだと思われます。

もっと正しく表現するならば、すでに張り巡らされてつながっている、いのちのネットワークを観つけだしていく時代です。

すべてがつながっていることを自覚して、生きる方向と方法を定めていく時代に入ったのでしょう。

それは求められるスキルという次元をさらに越えた、いのちの次元に働き方をつなげるというこれまでにない転換です。

現在の資本主義は人間性を根本から無視した在りかたでしかありません。だから当然に疲弊していくのです。

頂点の一部の人間しか潤いませんからそうなります。

資本主義から魂主義へ。

時代の呼びかけに耳をかたむけていけるかどうかが肝心なことです。

じつはその<種>があの時代に子ども番組をつうじても様々に蒔かれていたと思うのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

メルヘンにやどる光と影  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

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なかまのどうぶつたちがなかよく暮らすケロヨンの世界。そのメルヘンの世界はつねに和を願いとするメッセージを発信しておりました。その運営組織の木馬座が内部分裂による活動休止においこまれてしまったのは皮肉なできごとかもしれません。

けれども大事なことは挫折からまたあきらめずに復活してきたということだと思うのです。

藤城清治さんはとてもおおきな転機をのりこえて偉業を為し続けております。真の芸術家の魂です。

ケロヨンはその芸術の申し子です。倒れてもあきらめない不屈の精神のケロヨンです。

ですからケロヨンの復活そのものがあきらめるなという応援メッセージだと思いました、

幸運だったのはあの時代にすでにこころに種が蒔かれているということです。

それはどんなときも和をわすれない希望の種でありました。

それをわすれずに育てていけばよいと思うのです。

あの時に蒔かれた種がちゃんと育っているかどうかケロヨンがたしかめにきているのかなって思いました。

メルヘンの影とは現実逃避です。そんな危険もあります。

これからの日本の高齢化社会は人類史上類を見ない現象だそうです。

きびしい現実がそこまで来ております。同時にそれは生涯現役で働く時代。こころの在りかたが大切にされる社会。変化の試練と希望の時代。そんな時代だからこそメルヘンの希望といやしが必要なのかなと感じます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

たかが映画されどスター・ウォーズ

 

戦争はおわったのか?

旧作のラストシーンの意味  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

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新シリーズの良いところは旧シリーズを実によく研究しているということです。2作目からシリーズ化することになったスター・ウォーズはストーリーが再編成されダース・ベイダーとルークが関連づけられます。物語の定型のひとつである父親殺しのストーリーとなりました。主人公は父をころすことによってのりこえ成長するというイニシエーションのことです。EP6でルークはベイダーという悪の父を倒しアナキンという善の父をとりもどしました。その大団円は父親殺しの見事な変形でした。どうじにそれはテクノロジーと管理社会の牢獄からの解放でもありました。ベイダーの仮面はそれを象徴していました。とても見事な人間賛歌がそこにあったのです。ジョージ・ルーカスの見識と最大の功績は希代の悪役ダース・ベイダーにアナキンという葛藤する人間性をもたせたことです。スター・ウォーズが世代や国境をこえていつまでもあたたかな故郷のように感じるもっともおおきな要因はそこにあるのだと思われます。闇と光の葛藤は古今東西人類共通のテーマだからです。

悪に対し暴力を用いずに解決する。フォースにバランスをもたらすラストに観客は惜しみない拍手をおくったはずです。当初9部作といっていたものを6部作でやめていたのは、もうそれ以上のフォースのテーマを活劇としてつむぐ必要がなかったのもおおきな要因ではないでしょうか。

EP6以降の物語をつむぐとしたならば、はじめに考えなければならないことがあります。フォースのさらなら深化をどうするのかです。設定もストーリーはあくまでそれにそって組み立てるべきです。

EP4ではじめて語られたフォースの概念は生命の根源のエネルギーでありジェダイやシスだけが扱う超能力のことではありませんでした。生命はフォースによって結びつけられフォースによって万物がいかされていると説明されておりました。しかし旧作ではフォース感応力のつよい血統の親子が悪をたおしたという勧善懲悪な構図です。冒険活劇であればいたしかたない設定でした。

フォースにバランスをもたらすものと預言されていたアナキンとその息子のルークの英雄的行為によって悪は駆逐された。けれども銀河に本当に平和がもたらされるためには、名もないひとりひとりがフォースに目覚めなければならないはずなのです。なぜならひとりひとりの心の闇から悪はいくらでも生まれてくるからです。そのさきの物語をつくるならそこに鉱脈があります。実際、新シリーズはそこによく応えた設定になっております。

 

名もなき人々の物語  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

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新シリーズで主人公と旅をする仲間のフィンは名を与えられていない逃亡兵です。番号で呼ばれておりました。例外をのぞいてこれまでライトセーバーを使うのはジェダイかシスだけでしたが、フィンに光剣をにぎらせる場面がつくられました。さらにEP8ではやはり名もなき整備士が仲間に加わりました。そして無力なはずの奴隷少年がさりげなくフォースをあやつるシーンをわざわざラストシーンでみせています。そして主人公のレイの親はスカイウォーカー家とは関係がないと明言されておりました。旧シリーズの延長線上のフォースサラブレッドの物語ではないということが随所でさりげなく盛り込まれている。物語的にいえばアナキンとルークによってもたらされた功績とバランスで名もないひとたちにフォースの感応の道が開いたのかもしれませんね。潜在意識はつながっておりますから。フォースの覚醒というタイトルは主人公のレイだけでなく、名もないひとたちにも覚醒がはじまるという意味なのかもしれません。

新シリーズの製作者たちはフォースの物語をどうすすめたらよいのかきちんと理解していると思われます。フォースの物語の土台になっているのが比較神話学者ジョーゼフ・キャンベルの著書であり、プロのシナリオライターの世界ではキャンベルが教科書になっておりますからプロなら当然なことでしょう。

それだけ理解しているだろう製作者が新シリーズにおいて旧作の主人公たちをひとりづつ劇中でおとしめつつころしていることに

違和感を感じおおきな疑問符がつくわけです。背後にクライアントがいるからそうなっているのでしょう。EP8ではわざわざメッセンジャーを登場させ、関わるな気楽にいきろと語らせております。

さてそしてクライアントからの要求の総仕上げとして製作者がどのような結末を用意したか?たいへん興味ぶかくみました。喧噪のなかに静かに訪れた魂の解放のラストシーンは、善の勝利を謳歌するダイナミックなラストになっておりました。なにかがすり替えられたような気がとてもしました。それでいて全体としてはよいエンディングでもありますので本当に絶妙でした。

 

静かな名曲「Happy Xmas (War Is Over)」をうたったジョン・レノンは「世界は偏執狂者によって支配されている」という意味のことを生前かたっておりました。当時はなんのことなのかわかりませんでした。様々な有名人。ケネディ大統領もジョンもマイケル・ジャクソンもそしてキャリー・フィッシャーもわたしにとっては不可解ななくなり方をしております。「Star Wars」と名付けられた映画の結末はたたかいをこえて、それを終えることを願いとしたラストシーンを描いていたのですけれども、クライアントとしては気にいらないのでしょう。

 

それでもおいしい

新シリーズのゆがんだ楽しみかた  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

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EP7をはじめてみたときルークとレイアをひとりにしたような主人公のレイは本当にすばらしいと思いました。それと現場でも劇中のように稼働するBB8も大好きになりました。けれどもあたらしい要素がほかになにもないビジュアルに心底がっかりしたのもたしかです。超巨大兵器の登場とその破壊と大団円。それはEP4でやったことの単純なくりかえしてしかなく、宇宙船の逃走劇とフォースの修行で展開するEP8もEP5の展開と同じことでした。ヨーダであるとかイウォークであるとかそのエピソードを象徴する印象的なキャラクターの登場もないと。新シリーズを超古代か近未来に設定したものがみたかったというのもありますが、それでもやっぱり新シリーズはつくってよかったと思います。オリジナルキャストの面々がぎりぎりのタイミングで映画に登場できましたから。それがどんな姿で描かれているにしても。そしてCGの進化はまちがいなくあり、そういう見方をしますとEP8の宇宙船は個性的で単純に好きですね。それとジョン・ウィリアムズの音楽だけはいつもうらぎることはありません。またどんなに設定がひどくても登場人物に罪はありません。演者は例外なくすばらしい演技をしていますので、気にいらないところは脳内補完して別の物語を想像しながらみると楽しめます。(こんなゆがんだファンにだれがした。)さらにクライアントが映画のなかでさりげなくメッセージしているところがありますので、そんな箇所をさがすのも楽しみかもしれません。

レイとベン・ソロは旧作を研究して生み出されたすばらしいキャラクターです。ベンはEP7・EP8とさえない青年でしたがEP9において覚醒します。使命に目覚めた人間はうつくしい。旧作のキャラとテーマは足蹴にしている新シリーズですが主人公たちはすばらしいメッセージを発信しておりました。(同時にそこにはいじわるい仕掛けがありますが)

なにはともあれ。こうして今年のクリスマスはスター・ウォーズの新作をみて語ることができました。わたしにとっては他になにもいらないクリスマスでもあります。クリスマスありがとう。そして皆さまにメリークリスマス!

 

 

追記:12月26日深夜

破壊とイデアの黙示録  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

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EP9の吹き替え版を追加でみて、うちでEP8をくり返しみていてつくづく思う。じつにおしい。これだけの優秀なスタッフなのだからきちんとつくれば少なくとも旧作にならぶ傑作がうまれていたものを。いやもしかしたら旧作をこえる物語がみられたかもしれない。

EP9をみるとEP8の確信犯的作業がより浮き彫りになってくる。まず冒頭ルークはライトセーバーをほうり投げる。これはEP6でルークがしたことのあからさまな否定であり冒涜になっている。そしてEP9での行動と合わせてみるとまったく支離滅裂である。しかしルークとR2D2、ルークとレイアの再会シーンは胸があつくなる。マーク・ハミルのウィットにとんだそれでいて深い演技は絶品だ。それだけでも登場してくれた価値はある。EP8はそもそも構成からしておかしい。EP9につなげるべき伏線消化はほとんどなにもせず意味のない逃亡劇に時間を費やしているだけ。そしてラストシーンでやっとレイとポーの初対面のシーンをつくっている。当然これはもっとはやい段階で会わせておかないといけない。やるべきことをやっておけば次回まで俄然きたいがもりあがっていたものを。また何もかも心の動きがみえておると余裕をかました隙をつかれてあっけなく絶命するスノークはEP6の皇帝の姿を皮肉りつつ貶めている。そして今となっては最高にわらえるのがホルドのハイパードライブ特攻とライトセーバーがくだけるシーンをたたみかけてくるところだ。レイとカイロ・レンがフォースで空中のセーバーを奪い合う。それが破裂すると同時にホルドがやってはいけない特攻をやらかして大爆発。これ以上わかりやすいクライアントのメッセージもないだろう。なんでこのふたつのシーンを連続させる必要があるだろう。そこに意味がこめられているからだろう。ほんとうに恐れ入る。シリーズの輝かしい象徴であるセーバーの破壊と艦隊の大爆発のモンタージュ。どうだこれで終わらしてやったぞという感じだ。なにもかも朕(ちん)の思い描いている通りにすすんでおるという皇帝の高笑いがきこえてきそうではないか。ローズも動物好きの心やさしい娘なのに容姿もふくめて観客の反感をかうために設計されていて気のどくすぎる。でも名もなき整備兵に陽をあてるなんていい着眼点だ。しかしよりによってのあのラブシーン。ローズがこの映画の悪行を一身に背負わされている感じだけれども、フォースの導きにもっとも行動で応えているのがこのローズでもあるのです。世間ではゴミ映画といわれるEP8だが、シリーズ破壊のための仕掛けとより良きものを追求するイデアと両極をもつ興味深い映画でもある。人類の夜明けがいよいよ近くなった時代にこのシリーズも最も暗くそして葛藤している。シスの暗黒卿はみずからの悪行によって身を滅ぼす。

 

いつもいつも至福と共にありますように

瓦礫の中からの夜明け

それはStar Wars: Episode VII The Force Awakensからはじまった

過去作の意味を改編する作業   ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

スター・ウォーズ/エピソード9を新宿のバトル9でさっそく観てきましたよ。いやあ映画ってほんとにいいものですね。そんなふうにいえた時代がほんとに古き善き時代になりました。現在の活劇映画の企画というのはおもに70年代までに公開された作品かあるいは既存キャラクターの企画が多いのですかね。続編ばやりですね。良しあしは別として過去のキャラを使用する企画ばかりが目につきます。ディズニー制作のスター・ウォーズ新シリーズもそんな流れの作品になるでしょうか。しかしことこのシリーズに関して云えば興行成績を競う通常の映画とはちがっております。信じがたいことに過去シリーズをおとしめることを目的に製作されているという異色の企画になっております。うそのようなほんとうのお話です。
エピソード7ではもっとも人気のあったハン・ソロや主人公だったルークの扱いに問題がありました。基本プロットはエピソード4のほぼ焼き直しの物語。見ための華やかさに隠される形で物語の価値が意図的に下げられておりました。ディープなファンはかつての楽しいスター・ウォーズが帰ってきたと喜んだ反面なんとなく違和感を感じたのではないでしょうか。

 

名作をうみだしてはいるけれども

解体のための巧妙な伏線企画  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

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エピソード7のあとにスピンオフ作品としてスター・ウォーズ/ローグ・ワンをディズニーは製作しております。エピ4に登場したデス・スターの弱点を秘密裏に仕込んだ設計図データを命を賭して手に入れる反乱者たちの勇気ある物語です。そのかれらは反乱軍の中でもさらに汚れ仕事担当の異端児たちでした。それだからこそ自らに問いかけ、アイデンティティと使命とを見出しそれに応える行動に命を賭けた。そんな胸があつくなる映画になりました。彼らの行動に命をかけるだけの動機があることを映画はきちんと描いてみせたのです。自分ひとりの利益のためではなく全体の利益に貢献する。ジェダイはでてきませんがそういうフォースの概念に気配りしたスター・ウォーズらしい物語になりました。冒頭は眠かったのですがこのいっけん地味な展開の物語が予想をはるかにこえる感動を与えてくれる作品となりました。しかもこの作品に登場するダース・ベイダーはこれまでのどの作品よりもかっこよく力強く、この作品においてダース・ベイダーは初めて世界最高峰のビランとしての魅力を放ったんだとそこまで思うほど素晴らしかった。この作品単独でみればディズニーはすばらしい作品を世におくりだしくれました。

 

やってしまったStar Wars : Episode Ⅷ The Last Jedi

すべてをなかったことにする禁じ手とは  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

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敵の究極兵器には弱点がありそれを知りそこを責めれば劣勢でも勝機がある。それがこれまでの物語上のお約束になっていたはずです。そこに犠牲的精神もあったからクライマックスの決戦場面も盛り上がる。だからこそローグワンの英雄たちの物語も感動がありました。ところがエピソード8においてホルドという司令官が仲間を守り助けるために敵艦に宇宙艇をワープ(=ハイパー航法)特攻するという場面がつくられました。それ自体は感動を誘う英雄的行為なのですが、これによってそれまでの反乱軍の勇気と犠牲の英雄的行動は意味のないものとして葬り去られることになってしまいました。

デス・スターの設計図は必要ないということになります。小型機でもハイパー航法できる技術は以前からある世界ですから、無人の小型機を自動操縦にして敵兵機の中枢部・原子炉を目標にして飛ばせば破壊できるからです。逆にいうとなんで今までそれをしないで多大な犠牲をだしてきたのかということになります。これからはそういう有効な戦法があるのにそれをしないとしたら不自然です。敵も味方もそれをやればいいので宇宙船の決戦場面を描く物語がもう成立しなくなったのです。最大の問題はそのシーンが意図的に入れられているということです。プロの現場でそんな初歩的な(=暗黙の了解)ことをだれも気づかないはずはなく意図的に入れるしかそこにあることが考えられません。こうしてエピソード8でシリーズにおいて致命的な解体作業はなされておりあとはのこりのレジェンドとエピソードの存在意義をおとしめる仕上げ作業を残すのみとなっていました。

 

神話映画解体作業完了  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
スター・ウォーズ/スカイウォーカーの夜明け観賞記   ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
たしかにサービス満載でテンポもよく馴染みの素材のあれこれがつかわれた豪華なディナーでした。しかし調理法に難ありです。素材の旨みが生かされてないばかりではなく意図的に別の味にされている違和感をかんじながらの食事になるからです。過去作のリフレインもよいものです。そこにリスペクトがありまた掘り下げられ新たな解釈がそこにあるのならば。しかし今作でも過去作のテーマにかかわる重要なシークエンスが改変されて描かれておりました。公開中の映画なため具体的にはいっさいふれられないのが残念です。前作の映画解体作業があからさますぎたため不評になり予定されていた監督がかわって製作された最新作でありシリーズ最終章になる映画です。基本的にはエピ7や8と同じでレジェンドキャラたちはあの人もこの人もとくにまたあの人が、そしてドロイドさんたちまでもがさりげなく貶められておりました。またなぜにそこにいらっしゃるのか?なぜそうする必要があるのか、なぜそうなっているのか、いつのまにそうなっていたのか?説明がないため観客が想像するしかありません。説明をはぐらかすことによってキャラクターやエピソードの物語上のリアリティもうすれてしまいます。さらにそこにパワーのインフレーションがあればあるほど空しい気分にさせられます。それをご都合主義といいます。よくできた作品ではキャラクターとエピソードとテーマの関連が有機的にリンクしていて納得できるバランスがあるものです。過去と同じセリフ・過去と同じシーンがモチーフとして度々登場しますが重要なものほどその意味が低められている印象です。シスとジェダイの決着の付け方もエピ6でのルークの映画史上特別な選択をなかったことにするかのような残念なシチュエーションになってしまったようです。見た目はすごく派手にできているのでこれを由とする観客も多いかもしれませんが。そして暗黒卿のダークパワーには腰をぬかします。単純にすごいです。シスへの転向希望者が殺到するかもしれません。ダークサイドの誘惑とライトサイドを選択する至福の意味を考えさせてくれる深遠な物語から手が込んでいてパワフルではあるけれどもふつうの冒険物語に格下げされてしまったという感じがとてもしました。

エピ9はクリーチャー造形に愛情があり凝っていてエピソードもエピ7に散りばめられたものが多く登場するのでレイがフォースの達人になっていることをのぞけば8をなかったことにして、7の続きのように違和感なく観られます。ただエピ8の監督のほうが人物の内面描写だったり戦闘シーンでも印象的でメリハリのある見せ方をしています。7と9はすごいことをやっているけれどもそこに何が描かれているかよくわからない。よく見えないのはないのと一緒なのです。色彩設定がひじょうにクールでダークです。平たくいうと暗すぎます。前作エピ8のライアン監督が製作会社に重宝されるのもわかります。あらためてすごい才能だと思いました。
平均点以上は稼いでいる映画ではありますね。前作のハイパー特攻にあえてふれていてそして軽くスルーする場面もいれてます。当然でしょうね。そしてあいかわらずの8と同じ別の禁じ手もつかっておりました。スター・ウォーズのパッケージでくるまれてはおりますが過去のものとは本質的にちがうのです。

第一作になるエピソード4は観るカットのほとんどすべてがはじめて観るおどろきのビジュアルの連続体でした。さらにそこにフォースとはなんだ?という謎がありました。それは神話という宇宙の智恵の扉をひらく鍵でもありました。そして最新のテクノロジーのかたまりのような映画なのに人間賛歌がそこにありました。物語にも映画製作そのものにも。そして新作のたびに新しいビジュアルとキャラクターが投入され新技術が更新される革命と挑戦の場でもありました。新シリーズではそういったほぼすべてが失われてしまい過去をリフレインするイベント映画になっています。それがわるいのではなくてキャラやエピソードの意味の劣化的改編が行われてしまったのが問題なのです。

 

ファミリーネーム不在の意味するもの
それでもフォースの魂は不滅   ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

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しかし同時にこれまたエピ8と同様なのですが、とてもうつくしくやさしい眼差しにあふれている映画でもありました。とてもおおきな愛情につつまれて製作された映画であることは間違いありません。物語が語っていることだけに注目すればとてもあたたかな映画になっていると思います。主人公レイについては宿命をどう受けとめ使命に目覚めていくのかそこに大切なメッセージがこめられ映画全体のテーマに結ばれました。カイロ・レンことベン・ソロが闇と光に葛藤している運命からやるべきことに目覚めていく展開も今回とてもよかったところでした。親子の愛情が通い合う心あたたまる場面がはじめて盛り込まれベン・ソロについてはすばらしい結末が描かれました。

 

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金曜日の初日、会場は若干の空席をのこす状態でした。8時30分の回ではエンディングのあとまばらな拍手がおこりました。エピソード6の時は会場が賞賛の拍手で包まれたことをなつかしく思い出します。11時25分の回では拍手はなく、そうそうに立ち去る人も多かった。世界中で多くのひとがこの映画シリーズを心のふるさと・心の拠りどころにしているのです。現実に。それを構造的に破壊・解体してしまいましたね。瓦礫にされてしまいました。残ったのは劇中のベイダーのマスクのような哀しい残骸です。あれはそういう象徴的だったのですね。かつてスター・ウォーズは公開までカウントダウンされるほどの社会現象を巻き起こす映画シリーズでした(過去形)。それがなにか平凡な映画に成り下がってしまった。けしてよくない映画ではありません。語っていることに関してだけでいえば。レイもベンもこめられた設定はわるくありません。実際によい着地をしました。

でももしファンのだれかがエピソード9の予告編からわかっているだけの題材と過去に未消化の設定をつかって新シリーズを最初から構成するとしても今の7や8のようにはしないですよ。もっと面白く納得できるものをつくれると思います。でもスター・ウォーズはもうその役目をとうに終えているということなのかもしれません。エピソード6のルークの選択以降のシスとジェダイの在りかたを深めていくとおそらく戦いを否定するしかなく、それを主人公が担うとすると冒険活劇が成立しなくなるのかもしれませんから。新シリーズの主人公たちはとても素晴らしいメッセージをたくされました。最終作で全9作をつうじての大切なものをファンに届けてくれています。それは現実の闇と光とにおいてもですが。制作者たちがベストを尽くしたという思いは伝わりました。そして映画をのっとりこわすことは出来ても、人のこころの中にあるものまでは壊せないのですよ。いつの日かこの瓦礫の中から新たなる希望・新たなる夜明けがあらわれることがあるかもしれない。それをたのしみに信じてまちたいと思います。

 

 

 

このシーンこそ背後にいるクライアントが新シリーズでやらせたことなの象徴なのです

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